(1) 原文
Quod Ecclesia repraesentativa sit corpus Ecclesiae{1}
2259. Ecclesia se habet sicut homo cum anima et corpore, similiter ac coelum, Ecclesia repraesentativa, quae solum in externis constabat, retulit ejus corpus, quare etiam moritura, ut interior Ecclesia prodiret, et haec pariter ut intimior; se habuit Ecclesia successive in tempore, sicut coelum se habet simul, Dominus Qui est Solus Homo, Coelum et Ecclesia, debuit idcirco implere omnem Legem etiam externam, quia Ipsius repraesentatio fuerunt omnia, ac Ipsum spectant: de his cum coelestibus loquutus, et ab iis confirmatum, qui quoque, cum haec scribo, influunt in manum, sicut in cogitationem, nam cogitatio est quasi abstracta. 1748, 10{2} Junius.
@1 post titulum manu B. Chastanier scriptum v. 4394. ubi de Adventu Domini dicitur. 表題の後に B. シャスタニエールの手で4394参照と書かれている。そこに「主の来臨」について言われている。
@2 sic. ms. fortasse erronee pro 9
(2) 直訳
Quod Ecclesia repraesentativa sit corpus Ecclesiae{1} 表象的な教会は教会の身体であること
2259. Ecclesia se habet sicut homo cum anima et corpore, similiter ac coelum, 教会は人間のように振る舞う、霊魂と身体とともに、同様にそして天界、
Ecclesia repraesentativa, quae solum in externis constabat, retulit ejus corpus, 表象的な教会は、それは単に外なるものに存する(in)、その身体に似た(映し出た)(表わした)(refero)、
quare etiam moritura, ut interior Ecclesia prodiret, et haec pariter ut intimior; それゆえ、さらにまた死ぬことになる☆、内的な教会が進み出る(現われる)ために、またこれが同じくさらに内的なものが〔現われる〕ために。
☆このあたりを少し説明します。象徴的な教会とは(キリスト教会が発生する前の)ユダヤ教会です。そして「イエス」の(身体=教会での)死がユダヤ教会の終了を表象しています。そして新教会では「死」は再生でもあり、これは新しい教会(キリスト教会)が生まれること(再生)も表象しています。
se habuit Ecclesia successive in tempore, sicut coelum se habet simul, 教会は時間の中で連続的に振る舞う、そのように天界は同時に振る舞う、
Dominus Qui est Solus Homo, Coelum et Ecclesia, debuit idcirco implere omnem Legem etiam externam, 主は、その方おひとりが人間、天界また教会〔である〕、それゆえ、律法を、外なるものもまたすべて成就しなくてはならない、
quia Ipsius repraesentatio fuerunt omnia, ac Ipsum spectant: その方は、すべてのものは表象であったからである、そしてその方を眺める――
de his cum coelestibus loquutus, et ab iis confirmatum, これらについて天界的な者と話した、また彼らにより確証された、
qui quoque, cum haec scribo, influunt in manum, sicut in cogitationem, その者たちもまた、これらを私が書いているとき、〔私の〕手の中へ流入した、そのように思考の中へ、
nam cogitatio est quasi abstracta. なぜなら、〔私の〕思考はいわば抽象された(引き離された☆)からである。
☆このあたり他の者に説明されるために書かれていないので、著者の思考を補って解釈しなければ、わからなくなります。天界的な者(天界の者)と話した後に、そのことを書いているときその者が自分の手の中に入って来て〔書くのを助けた? すると自動書記となります〕、そこから、思考の中への入って来た、と読めます、する、混同が起こらないように「引き離された」のでしょう。それでここは「抽象された」でなく「引き離された」と訳すのがよいようです。ただ、先に「思考」の中へ流入し、そのように「手」の中に入った、とすれば「抽象された思考」が(手の中に入って、それが)書かれた、と解釈すれば「抽象された」でよいことになります。どちらでしょうか?(ほかの解釈もあるかな?)
1748, 10{2} Junius. 1748年6月10日。
(3) 訳文
表象的な教会は教会の身体であること
2259. 教会は、そして同様に天界は、霊魂と身体とともに人間のようである。単に外なるものである表象的な教会は、人間の身体に表わした。それゆえ、内的な教会が現われるために、またこれが同じくさらに内的な教会が現われるために死ぬことになる。教会は時間の中で連続的であり、そのように天界も同時である。主は、その方おひとりが人間、天界、教会であり、それゆえ、律法を外なるものもまたすべて成就しなくてはならない、その方のすべては表象であったからである、そしてその方を眺める――
これらについて天界的な者と話し、彼らにより確証された。その者たちもまた、これらを私が書いているとき、〔私の〕手の中へ、そのように思考の中へ流入した。なぜなら、〔私の〕思考はいわば引き離された(抽象された)からである。1748年6月10日。