「きょうダビデの町であなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あたながたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:11)
聖書の物語は全部、自分の心の中の世界です。私はそのように聖書を読みます。人が一番求めているものは何でしょうか? お金・地位・名誉? そのような人もいるでしょう。しかし、自分の中の罪を意識するようになるとき、それらでは救われません。「救い主」が必要です。
さて、救い主はどこにおられるのでしょうか? 教会などの宗教施設の中、と答える人はこのブログの読者にはいないでしょう。私たちの心の中に生まれるのです。
心の中の「ダビデの町」とはどこでしょうか? よくわかりません。2節に「ベツレヘムというダビデの町」とあります、ベツレヘムなら少しわかります。ヘブル語では「ベート・レヘム」で「パン(レヘム)の家(ベート)」です。内意でパンは善であり、家は心です。すなわち「善の心」に救い主は生まれます。さて、生まれるための基盤はわかりました。善良な心を持たなければ救いは生じません。
ではその「しるし」は? 人間は弱いもので証拠を求めたくなります。そして何とそのしるしが「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」です。
私たちは赤ん坊を見るときどのような気持ちになるでしょうか? これからどんな子供、そしておとなに成長するのだろう、という希望と期待を抱きませんか。救い主にもそのような希望を期待を抱きます。そしてその「救い主」を「布に包まった」「飼葉おけ」の中に見いだします。
内意で「布」は真理(産着なのでもっとも純粋な真理でしょう)、飼葉は理解力である「馬」を養います。簡単に言って、純粋な真理を理解した中に「救い主」を見るということでしょう。
心の中に「飼葉おけの中の布にくるまった赤ん坊」を見いだすとき、その人の救いが始まるでしょう。しかし、始まりであって、救い主を見たからといって、救われるわけではありません。でも、救いに近づいています。
私の心が、また皆様の心が、電飾されたクリスマスツリーに惑わされることなく、飼葉おけの中の「主」を見ることができますように。