ついに毎日の連載途切れる

 このブログへ「毎日掲載」することを日課としてきたが、11月2日分は途絶えてしまった。余計なことかもしれないが、経緯(いきさつ)を語ろう。大体は午前中に原稿作りをする(このところ翻訳)、できないときは午後にもする。無職の年金生活者である。すると、暇はあるが金(かね)はない。今回のように京都へ行くとなれば製品に甘んじているわけにもいかない。
 それで、ときどき「小遣い稼ぎ」をする。内容はここでは語らないが在宅でできる期限仕事である。その期限が11月2日昼であった。昼過ぎちょっとまで、あまり寝ないでやった。午後には近所のスイミングクラブへ水泳に行くのが日課である(このところ唯一の外出の機会となっている)。水泳の帰路でよく「サイゼリア」による。安くて飲めるのがありがたい。一仕事を終えた気の緩みと、睡眠不足もあって、家に帰って一眠りのつもりが、ぐっすり寝込んでしまい、起きたのが夜の11時半、「天界と地獄」の掲載量を少なくするつもりもあって、全然手をつけていなかった。「しまった」と思ったが遅い。やり出して1時間半ほどして出来上がって掲載。それで「11月2日分」は3日の午前1時となってしまった。
 毎日の連載を期待していた人たち(掲載すると直ぐに読んでくださる方が約70名いる)申し訳ない。しかし、こうしたことは「起こりうること」であった。
 明日からは京都に行くが、7日金曜日に帰ってくると(掲載再開か?)、翌日8日土曜日には「神学セミナー」がある。その討議課題が「日本新教会の今後の育成について」である。各自レジュメを(できれば英文で)用意しなければならない。「育成」についてアイディアが浮かばないので「成長」をここでやや考えてみた。この駄文に続いて、その草稿をここに掲載しよう。
 「日本の新教会の今後の成長について」
0.このようなことを考えるとき、私は比喩で考える。
 美味しい食べ物があったとする(霊的な食物でもある)。食べ物だけあってもどうしようもない。たとえば口に合うようにうまく料理をすることも必要なら、それを盛る器も必要である。(神のみことばも、聖書となって、人々のもとに届かなければ何にもならない)
 料理が「翻訳や解釈」かもしれない。器は出版物である「本」なのか。現在はインターネットもある。
 こう考えてくると、美味しいものを個人的に楽しむのは「家庭料理」に相当するかもしれない。そして「教会」は食堂やレストランなのかと思う。すなわち、一般の人が共通に味を楽しむところである。美味しい料理を食べさせる店がある。あなたがたは、その店についてどのように思いを抱くか?
 もちろん、気に入ったらなら、常連となって通うだろう。月に一度や二度は食べたくなる。さて、その美味しい店を、つぶれてほしくない、いつまでもこの味を保っていてほしい、と大切に思うのはあたりまえである。仲の良い友には「うまい店があるよ、ぜひ味わってみることを薦める」と紹介する。
 しかし、その店に「有名店」になってほしいだろうか? 有名になれば、大勢押しかける、すると、店内はざわつき、客あしらいはどうしても粗雑になる。いそがしくて手抜き料理を出すかもしれない、でも客は押しかける。
 こうして「悪化する」ような気がして、有名になってほしくない。このまま「知る人ぞ知る」の店でよい、と思わないだろうか。
1.このような「気持ち」を新教会の成長にあてはめれば?
 普通の人は「店の隆盛」を思えば、多くの客に来てもらい、拡大する(店舗を増やすなど)ことを考える。そのために「宣伝」なども大いにする。
 しかし、「よい店・よい教会」とは何だろう? まずは料理がうまくなくてならない。すなわち、内容の中心たる感激するような説教であろう、そして、その説教をする「料理人」にはきちっと修行を積んでもらいたい。すなわち、新教会の教えをよく身につけることである。手抜き料理を出してほしくない。
 他に店の雰囲気も重要だ。教会の建物があれば、花が飾ってあったり、掃除などきちっと手入れが行き届いていることかもしれない。礼拝堂を持たない現在の私たちにとっては「礼拝形式」の整備であろう(専任の聖職者を持たずに現在行なっている私たちの礼拝は結構すぐれたものなっていると思う)。
 そして以外に重要なのが「お客」そのものである。格調の高い店で「ネクタイ着用」、「サンダル履きでの入店ご遠慮ください」などとするのは、他の客のことを思い、店の雰囲気を乱したくないためのことであろう。自分のことを棚にあげて言えたことではないが、客種が悪ければ、行く気がしなくなる。
2.店を愛することは?
 いつ行っても、美味しい味と(上品な)雰囲気が楽しめれば嬉しい、そして、美味しい料理を「ありがとう、おしかったよ」として感謝して食べたい。さらに自分自身も「よいお客」でありたい。昔馴染みの常連でありたい。店にはよい味を保っていつまでも続いてもらいたい、その味にほれ込んで、ぜひ自分の店を持ちたいと言う人が出てくれば、「のれんわけ」もあるだろう。
 宣伝などは望まない、すると小さいままである、でも「小さいことにはそれなりによいことがいっぱいある」。(このことは別に論じたい)
 普通の「成長」の観点からは遠いものかもしれないが、「ちゃんと永続すること」でよいと思う。そして、存在しなくなることがあっても、必ず「他」がでてきて、引き継ぐ。それでよい。だんだんと「真の教え」が広まればよい。(しかし現状は、表面的には衰退しているように見える)。
 これまで(教会が)現われては消えてゆくようなことを繰り返してきたように思う。今後はいわゆる「積み重ね」が期待できると思う。
3.私の役割は?
 「よい店」の運営に加わりながらも、料理のためのよい素材を集め、準備していきたい。すなわち、「著作」のより忠実な訳書の作成である。味のわかる人なら、必ず来店し、常連となってくれる。
 (このあと、これを「セミナー」まで加筆かつ要約し、英訳しなければならない)

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