私は61歳の(早くも)年金生活者である。この年齢だとまだ働いている人もいるだろうが、私は働く気がない。教員生活は60歳の定年退職までで私なりに「やるだけのことはやった」と思っているので、これ以上どこかで教える気になれない。「では心機一転、何か他の仕事は?」となるところだが、「翻訳」をしているので、そしてこれが性(しょう)に合っているので、このまま翻訳が続けられれば、他に何かしようとは思わない。当然、経済的には苦しい、しかし、本来の意味とは異なるが「武士は食わねど高楊枝」である。多少、金銭的余裕はなくても、やりたいことをやって過ごすのが私流の「老後の過ごし方」だと思う。
一見、表題と無関係な話題となっているようだが、関係ある。女房から「働かないでもよい」と許しを得たが、それでも「月3万円を家に入れてね」と言われてしまった。上の三人の息子たちは社会人となったが(内二人は結婚して家を出ている)、まだ学費のかかる末娘がいる。居候の身分としては部屋代を大家(女房)に入れなくてはならない。年金は最初から女房のもの、退職金すら将来のために女房に押さえられている、私には一銭の蓄えもない。丸裸の無職の人間がどうやって「下宿代」を払えばよいのだろうか?
ちょっとした「小遣い稼ぎ」をしているんです。その小遣いで下宿代や酒代(飲み代は全部自分持ち、安酒しか飲めません)を工面し、後述するが「京都」へ行ったりしている(するとそうとう稼いでいるように思われるかもしれなきが、たいしたことはない、月に均せば6,7万円であろうか)。
その自宅でできる小遣い稼ぎがこのところ集中し(秋が一番忙しくなります、見当つきますか?)、時間に追われ、あまり翻訳できない結果となっている。でも来週あたりから復活する。
日: 2008年11月18日
ヨン・ジン牧師ともに京都と東京
ヨン・ジン(陳龍振)牧師が4日~10日に来日された。同牧師はジェネラルチャーチの中国・韓国・日本の管轄牧師でもある。ヨン師との出会いは2000年のカナダ・ゲルフ大学で行なわれたジェネラル・アセンブリである。ほんとうはその数年前にブリン・アシンで韓国の人たちのコミュニティでのパーティに呼ばれたとき一緒だったが、そのときは話をしていない(集合写真から一緒だったとわかる)。
同牧師が、私たち日本人グループが食事をしているところに「同じ文化を共有している」と言って、話しかけてきたのである。そのとき「元気な人だな、おもしろそうだな」との印象を持った。
その後、私たち東京のジェネラルチャーチ礼拝グループが「だれか牧師を呼ぼう」という話になったとき、私が同牧師を推薦したのだった。初来日は2年前のやはりこの時期だった。
その後、ジェネラルチャーチが「ローカルミニスター」(例えば、日本なら日本国内だけに権限を限定した牧師)の養成を行なうこととなり、そのローカルミニスター養成のいわば「出張授業」に同師が来ることとなった。今回の来日も「礼拝」とともに、その「講義」に来られたのである。
最初、ソウル経由で関空に到着、京都駅前のホテルには4日の午後3時ちょっと前に到着された。私たち夫婦も京都駅でもたついた(「きものセンター」がなかなか見つからなかった)あと、やはり3時ごろ、そのホテルへ着いた。ほぼ同時である。私は2年前にもこの「京都集会」にHさんと参加した。妻の美恵子は約三十年ぶりの京都である。高校の修学旅行以来、新幹線に乗ったことがないので、新幹線を使っての今回の旅行を楽しみにしていた(我が家の旅行はほとんど車である)。
そのまま直ぐに伏見での集会となった。そこに今はJSAの代表であるOさんが来られた。久しぶりである、東京で会った記憶がないので、私が香川大学に訪問して以来の再会かもしれない。
その晩は「知る人ぞ知る家庭レストラン?」ですばらしい料理をいただいた。ご紹介のMさん、ありがとうございます。ヨン・ジン牧師の「支払い」とのことである、このようなことはこれまでの牧師にはなかった、やはり東洋の文化圏の人間である。
翌日5日、私たち夫妻は9時半にテレサ夫人を迎えに行った。ヨン牧師はOさん、東京から通訳として来られたSさんたちと銀閣寺へ、私たちは京都駅の「きものセンター」へ行く。テレサ夫人に妻の美恵子とともに「着物」になっていただくためである。名前はテレサであるが韓国人である、着物を着てもらう計画である、と事前にメールしたら、「すばらしい経験になるだろう」との返事をもらっていた。係りの人に着物を選んでもらい、さすが着付けがうまく、二人ともぴったり決まって、南禅寺へ。そこで、ヨン牧師たちと合流、当然、喜んでもらえた。その日の観光、平安神宮~大徳寺~嵐山は全部きものであった。美恵子は「履き物が意外と歩きやすかった」と言っていた。京都を歩くには女性の場合、和服できまりですね。
翌日6日は「礼拝」。洗礼式と聖餐式も行なった。授洗者はHさん。何と(驚き)、彼女とは91年にキング司教が相馬を訪問したとき、私も同行し、彼女も同行していた、その時以来の再会。17年ぶりとなるのか。二度と会うことはないと思っていたのに・・・。また、集会後の「語らい」のとき、このブログの読者H君に出会えた。彼は現在ギリシア語を勉強中である、もちろん、聖書を原典で読むためである。向学心に燃えた若者の出現を心強く思った。このブログの「固定客」がいることはわかっていたがその最初の一人がここにいた。これからも、この連載と続けるかぎり、このようなことがあるかもしれない。「まかぬ種は生えない」ですね。
集会と夕食の後、夜の見物に出る。行く先は30年前に女房と来たことのある「先斗(ぽんと)町」、独特な雰囲気にテレサ夫人は感激、後はOさんに連れられて、白川通り~花見小路~石塀小路~円徳院(私たちはここまで、ヨン・ジン牧師たちはその後、高台寺へ)。
7日は、別行動、牧師夫妻とOさんは9時ごろ発で東京へ、私たちは「二条城(すばらしい)」見て、「錦市場」をぶらついて、2時過ぎに東京へ。
長くなったので東京での様子(7日~10日)は次の機会にまわす。ヨン・ジン牧師は、日本での働きの後、韓国でさらに長い働きがある、今回は全部で20日の旅行であるとのこと(すなわち、今頃、韓国のどこかで語っている、大変だ、「日本は(スケジュールが)楽だ」と言っていた)。
原典講読『天界と地獄』no.295.
(1) 原文
295. Tales spiritus homini adjuncti sunt, qualis ipse est quoad affectionem vel quoad amorem, sed boni spiritus ei adjunguntur a Domino, at mali arcessuntur ab ipso homine. Verum mutantur spiritus apud hominem secundum mutationes ejus affectionum; inde alii ei spiritus sunt in infantia, alii in pueritia, alii in adolescentia et juventute, et alii in senectute: in infantia adsunt spiritus qui in innocentia sunt, ita qui communicant cum caelo innocentiae, quod est caelum intimum seu tertium; in pueritia adsunt spiritus qui in affectione sciendi sunt, ita qui communicant cum caelo ultimo seu primo; in adolescentia et juventute adsunt qui in affectione veri et boni sunt, et inde in intelligentia, ita qui communicant cum caelo secundo seu medio; in senectute autem adsunt spiritus qui in sapientia et innocentia sunt, ita qui communicant cum caelo intimo seu tertio. Sed haec adjunctio fit a Domino apud illos qui reformari ac regenerari possunt: aliter autem apud illos qui non reformari seu regenerari possunt; his quoque spiritus boni adjuncti sunt, ut per illos detineantur a malo quantum possibile est; sed immediata eorum conjunctio est cum malis spiritibus qui communicant cum inferno, unde eis tales sunt, quales ipsi homines sunt; si amantes sui, vel amantes lucri, vel amantes vindictae, vel amantes adulterii sunt, spiritus similes adsunt; et in eorum affectionibus malis quasi habitant; et illi, quantum homo non arceri potest a malo per bonos spiritus, tantum accendunt illum, et quantum affectio regnat tantum adhaerent nec recedunt. Ita homo malus conjunctus est inferno, et homo bonus conjunctus est caelo.
(2) 直訳
Tales spiritus homini adjuncti sunt, qualis ipse est quoad affectionem vel quoad amorem, sed boni spiritus ei adjunguntur a Domino, at mali arcessuntur ab ipso homine. このような霊たちが人間に結びついている、情愛に関してあるいは愛に関して彼自身であるような、しかし、善い霊たちが主により彼に結びつけられる、しかし、悪い〔霊〕が人間自身により呼び出される。
Verum mutantur spiritus apud hominem secundum mutationes ejus affectionum; しかし、人間のもとの霊たちは彼(人間)の情愛の変化にしたがって変化する。
inde alii ei spiritus sunt in infantia, alii in pueritia, alii in adolescentia et juventute, et alii in senectute: ここから、幼児期に彼に他の者である、少年期に他の者、青年期と壮年期に他の者、また老年期に他の者〔である〕。
in infantia adsunt spiritus qui in innocentia sunt, ita qui communicant cum caelo innocentiae, quod est caelum intimum seu tertium; 幼年期には無垢の中にいる霊たちが(そばに)いる、このように無垢の天界と伝達する者、それは最内部または第三の天界である。
in pueritia adsunt spiritus qui in affectione sciendi sunt, ita qui communicant cum caelo ultimo seu primo; 少年期には知ることの情愛の中にいる霊たちが(そばに)いる、このように最も低い、または第一の天界と伝達する者。
in adolescentia et juventute adsunt qui in affectione veri et boni sunt, et inde in intelligentia, ita qui communicant cum caelo secundo seu medio; 青年期と壮年期には真理と善の情愛の中にいる者がそばにいる、そしてここから知性の中に、このように第二の、または中間の天界と伝達する者。
in senectute autem adsunt spiritus qui in sapientia et innocentia sunt, ita qui communicant cum caelo intimo seu tertio. しかしながら老年期には知恵と無垢の中にいる霊たちが(そばに)いる、このように最内部の、または第三の天界と伝達する者。
Sed haec adjunctio fit a Domino apud illos qui reformari ac regenerari possunt: しかし、この接合は主によりなされる、彼らのもとで、改心され、再生されることのできる者たち。
aliter autem apud illos qui non reformari seu regenerari possunt; しかしながら、彼らのもとで異なる、改心され、再生されることのできない者ら。
his quoque spiritus boni adjuncti sunt, ut per illos detineantur a malo quantum possibile est; これらの者らにもまた善い霊が結びつく、彼らによって可能であるそれほど〔に〕悪から押しとどめられるようにと。
sed immediata eorum conjunctio est cum malis spiritibus qui communicant cum inferno, unde eis tales sunt, quales ipsi homines sunt; しかし、彼らの結合は地獄と伝達する悪い霊らと直接である、そこから彼らにこのような者らがいる、〔その〕人間自身のような者である。
si amantes sui, vel amantes lucri, vel amantes vindictae, vel amantes adulterii sunt, spiritus similes adsunt; もし、自分自身を愛する☆、あるいは利益を愛する、あるいは復讐を愛する、あるいは姦淫を愛する者であるなら、〔それに〕似た霊たちが(そばに)いる。
☆ amanntesは現在分詞の男女複数の主格です。
et in eorum affectionibus malis quasi habitant; そして彼ら(人間)の悪の情愛の中にいわば住んでいる。
et illi, quantum homo non arceri potest a malo per bonos spiritus, tantum accendunt illum, et quantum affectio regnat tantum adhaerent nec recedunt. そして彼らは、人間が善い霊によって悪から引き止められることができないほど、それだけ彼らを刺激し、また情愛を支配するほど、それだけ付着し、引き下がりもしない。
Ita homo malus conjunctus est inferno, et homo bonus conjunctus est caelo. このように悪い人間は地獄と結合し、また善い人間は天界と結合している。
(3) 訳文
人間に結びついている霊たちは、情愛に関してあるいは愛に関して、その人間自身であるような霊たちである、しかし、善い霊たちが主により人間に結びつけられ、悪い霊が人間自身により呼び出される。しかし、人間のもとにいる霊たちはその人間の情愛の変化にしたがって変化する。ここから、幼児期、少年期、青年期と壮年期、そして老年期で〔その霊は〕異なっている。幼年期には、無垢の中にいる霊たちがそばにいる、この霊たちは最内部の、または第三の天界である無垢の天界と伝達している。少年期には、知ることの情愛の中にいる霊たちがそばにいる、この霊たちは最も低い、または第一の天界と伝達している。青年期と壮年期には、真理と善の情愛の中に、そしてここから知性の中にいる者がそばにいる、この霊たちは第二の、または中間の天界と伝達している。しかし老年期には、知恵と無垢の中にいる霊たちがそばにいる、この霊たちは最内部の、または第三の天界と伝達している。この接合は、主により、改心し、再生することのできる者たちもとでなされる。しかし、改心せず、再生することのできない者らのもとでは異なる。これらの者らにもまた善い霊が結びつく、その霊たちによってできるかぎり悪から押しとどめられるためである。しかし、彼らは地獄と伝達する悪い霊らと直接に結合している、そこから彼らにはその人間自身のような霊らがいる。もし、自分自身を愛し、あるいは利益を愛し、あるいは復讐を愛し、あるいは姦淫を愛する者であるなら、〔それに〕似た霊たちが(そばに)いる。そしてその人間の悪の情愛の中に、いわば住みついている。そしてその霊らは、善い霊によって人間が悪から引き止められることができないほど、それほどに人間を刺激し、また情愛を支配するほどにまで、それほど付着し、引き下がることもない。このように悪い人間は地獄と結合し、また善い人間は天界と結合している。