(1) 原文
297. Quod porro conjunctionem caeli cum humano genere concernit, sciendum est quod Ipse Dominus influat apud unumquemvis hominem secundum ordinem caeli, tam in intima ejus quam in ultima ejus, et disponat illum ad recipiendum caelum, et regat ultima ejus ab intimis ejus et simul intima ab ultimis ejus, et sic contineat omnia et singula apud illum in nexu. Hic influxus Domini vocatur influxus immediatus; alter vero influxus, qui fit per spiritus, vocatur influxus mediatus; hic subsistit per illum. Influxus immediatus, qui est Ipsius Domini, est ex Divino Humano Ipsius, et est in voluntatem hominis et per voluntatem in intellectum ejus, ita in bonum hominis, et per bonum in verum ejus; seu quod idem, in amorem et per amorem in fidem ejus, non autem vicissim, minus in fidem absque amore, aut in verum absque bono, aut in intellectum qui non est ex voluntate. Divinus ille influxus est perpetuus, et recipitur in bono apud bonos, non autem apud malos; apud hos vel rejicitur, vel suffocatur, vel pervertitur; inde his vita mala est quae in spirituali sensu est mors.{1}
(2) 直訳
Quod porro conjunctionem caeli cum humano genere concernit, sciendum est quod Ipse Dominus influat apud unumquemvis hominem secundum ordinem caeli, tam in intima ejus quam in ultima ejus, et disponat illum ad recipiendum caelum, et regat ultima ejus ab intimis ejus et simul intima ab ultimis ejus, et sic contineat omnia et singula apud illum in nexu. さらに人類との天界の結合に関しては☆、主ご自身が天界の秩序にしたがってそれぞれの人間のもとに流入されることを知らなければならない、彼の最内部の中と同様に彼の最外部の中に、そして彼を天界を受け入れるべきものへと整えられる、そして彼の最外部を彼の最内部からまた同時に最内部を彼の最外部から支配される、そしてこうして彼のものとすべてと個々のものを結びつき(関連)の中に保たれる。
☆ quod ~concernitで「~については、~に関しては」の意味になります。
Hic influxus Domini vocatur influxus immediatus; この主の流入は直接の流入と呼ばれる。
alter vero influxus, qui fit per spiritus, vocatur influxus mediatus; しかし、他の流入は、それは霊たちを通して起こる、間接の流入と呼ばれる。
hic subsistit per illum. これ(後者)はそれ(前者)によって存続する。
Influxus immediatus, qui est Ipsius Domini, est ex Divino Humano Ipsius, et est in voluntatem hominis et per voluntatem in intellectum ejus, ita in bonum hominis, et per bonum in verum ejus; 直接の流入は、それは主ご自身のものである、その方の神的人間性からである、そして人間の意志の中へである、また意志を通して彼の理解力の中へ、このように人間の善の中へ、また善を通して彼の真理の中へ〔である〕。
seu quod idem, in amorem et per amorem in fidem ejus, non autem vicissim, minus in fidem absque amore, aut in verum absque bono, aut in intellectum qui non est ex voluntate. または同じこと〔であるが〕、愛の中へそして愛を通して彼の信仰の中へ〔である〕、しかしながら逆ではない、まして愛なしの信仰の中へ、または善なしの真理の中へ、または意志からのものでない理解力の中へ〔ではない〕。
Divinus ille influxus est perpetuus, et recipitur in bono apud bonos, non autem apud malos; 神的なその流入は絶え間ないものである、そして善い者のもとで善の中に受け入れられる、しかしながら悪い者のもとで〔受け入れられ〕ない。
apud hos vel rejicitur, vel suffocatur, vel pervertitur; これらの者のもとで、あるいは追い払われる、あるいは窒息させられる、あるいは歪曲させられる。
inde his vita mala est quae in spirituali sensu est mors.{1} ここから、これらの者に悪のいのちがある、それは霊的な意味で死である{1}。
(3) 訳文
さらに人類との天界の結合に関しては、主ご自身が天界の秩序にしたがってそれぞれの人間のもとに、彼の最内部の中と同様に彼の最外部の中に流入され、そして天界を受け入れるべきものへと彼を整えられ、また彼の最外部を彼の最内部からまた同時に最内部を彼の最外部から支配され、こうして彼のものとすべてと個々のものを結びつきの中に保たれることを知らなければならない。主のこの流入は直接の流入と呼ばれる。しかし、霊たちを通して起こる他の流入は間接の流入と呼ばれる。後者は前者によって存続する。直接の流入は、主ご自身のもの、その方の神的人間性からのものであり、人間の意志の中へ、また意志を通して彼の理解力の中へ、このように人間の善の中へ、また善を通して彼の真理の中へのものである。または同じことであるが、愛の中へそして愛を通して彼の信仰の中へのものであるが、しかし逆ではない、まして愛のない信仰の中へ、または善のない真理の中へ、または意志からのものでない理解力の中へではない。神的な流入は絶え間ないものであり、善い者のもとで善の中に受け入れられる、しかし、悪い者のもとでは受け入れられない。悪い者のもとでは、追い払われるか、窒息させられるか、あるいは歪曲させられる。ここから、悪い者に悪のいのちがあり、それは霊的な意味では死である{1}。
(EX ARCANIS CAELESTIBUS.)
(1) 原文
@1 Quod influxus sit immediatus a Domino, et quoque mediatus per mundum spiritualem (n. 6063, 6307, 6472, 9682, 9683).
Quod influxus Domini immediatus sit in omnium singularissima (n. 6058, 6474-6478, 8717, 8728).
Quod Dominus influat in prima et simul ultima, quomodo (n. 5147, 5150, 6473, 7004, 7007, 7270).
Quod influxus Domini sit in bonum apud hominem, et per bonum in verum, et non vicissim (n. 5482, 5649, 6027, 8685, 8701, 10153).
Quod vita quae influit a Domino varietur secundum statum hominis, et secundum receptionem (n. 2069 [? 2888], 5986, 6472. 7343).
Quod apud malos, bonum, quod influit a Domino, vertatur in malum, et verum in falsum, ab experientia (n. 3643 [? 3642, 3743], 4632).
Quod tantum recipiatur bonum et inde verum, quod continue influit a Domino, quantum non obstat malum et inde falsum (n. 2411, 3142, 3147, 5828).
(2) 直訳
@1 Quod influxus sit immediatus a Domino, et quoque mediatus per mundum spiritualem. 主からの直接の流入がある、霊界を通しての間接の〔流入〕もまた〔ある〕。
Quod influxus Domini immediatus sit in omnium singularissima. 主の直接の流入は最も個々のすべてのものの中にある。
Quod Dominus influat in prima et simul ultima, quomodo. 主は最初のものと同時に最後のものの中へ流入される、どのように〔流入されるか〕。
Quod influxus Domini sit in bonum apud hominem, et per bonum in verum, et non vicissim. 主の流入は人間のもとの善の中へである、そして善を通して真理の中へ、そして逆ではない。
Quod vita quae influit a Domino varietur secundum statum hominis, et secundum receptionem. 主から流入するいのちは人間の状態にしたがって変化する、また受け入れにしたがって〔変化する〕。
Quod apud malos, bonum, quod influit a Domino, vertatur in malum, et verum in falsum, ab experientia. 悪い者のもとで、善は、それは主から流入する、悪に変えられる、そして真理は虚偽に〔変えられる〕、経験から。
Quod tantum recipiatur bonum et inde verum, quod continue influit a Domino, quantum non obstat malum et inde falsum. それだけ善とそこからの真理は受け入れられる、それは主から絶えず流入する、どれだけ悪とそこからの虚偽が妨げないか〔=妨げられなけば、それだけ受け入れられる〕。
日: 2008年11月20日
ヨン・ジン牧師とともに東京編
11月7日午前9時にヨン・ジン夫妻はSさんとともに東京へ発った。東京・小伝馬町(人形町の隣)のホテル・ギンモンド(京都にもこの姉妹ホテルがある)に到着後、私の推奨したすき焼き店「人形町・今半」に行ったとのこと。和風の雰囲気があり、美味しいから薦めておいた。いわゆる(?)「三味そろった店」である。ここで雑談しよう(もともと雑談であるが)。
味に三味ある、いわく、「前味、中味、後味」である。前味とは料理の「前」に味わう「味」であり、店の雰囲気・店員の接客態度などである。今半は仲居さんの態度がよく、これから出される料理に期待ができる。中味とは料理そのものの「味」である。さて、食べ終わった、勘定を払った、ところが思いのほか「安かった」、これが「後味がよろしい」ということ。高い支払いとなった時、「後味が悪い」となる。繰り返そう、この今半は「三味兼ね備えた」店である(ただし、ランチのみ。夕食は高いよ)。
5時過ぎ、私たちも東京着、妻は帰宅、私は新日本橋駅へ。ここから、ホテル・ギンモンドへ。地図を読むのはそうとう得意な私だが、道に迷って(ホテルが目立たない)、集合時間の6時ちょっと前にたどり着いた。K夫妻も交え、総勢6名で(後半には仕事を終えて駆けつけた東京集会のまとめ役松本さんも加わり7名)、人形町「松浪」で歓迎パーティ。「松浪」は私の推奨した店だが、このあたりで働くKさんが「鈴木さん、よくこの店を知っていますね」と言うくらいの「隠れ家」のような、路地をはいったところの目立たない、しかも見た目には古くてみすぼらしい店である。鉄板焼き・お好み焼きであり、K夫人が「私、こういう店好き」といって、鉄板焼きを取り仕切ってくださり、ありがたかった。一つの鉄板を囲んで(2×4の8人まで座れる)食べるのは楽しい、ゆっくりしたひと時を過ごし、大いに盛り上がった。ここには「松浪」という酒があり(うまいがやや高い)、松本さんも私も「飲んべえ」なので、やや酒代が高くついたかもしれない(勘定は松本さんがまとめて支払ったので、いくらだったか知らない)。
8日(土)、牧師養成講座(午後1時~5時)の日。参加者は牧師希望者の松本、K、H、途中からMの各氏と、その他7名。私は牧師希望でないが(その器でないことは私自身がよくわきまえている)、よい勉強の機会として参加。以前にこのブログに掲載した「日本の新教会の今後の育成について」に英訳を付けて発表した。ヨン牧師から「エクセレント」とほめられ、後から聴いた話では、「今後、どこかでこの内容をつかわせてもらう」とのこと(前記「三味」についても、この席で話した、喜んでいたので、これも使ってもらえるかもしれない)。
講義の後は、会場の青砥シンフォニー・ヒルズ近くの蕎麦屋で夕食、この店はちょっとした座敷があり、料理もうまいのでよく使う。翌日、受洗することになる金さん(67歳)の家族を交えてであった。金さんがスヴェーデンボリの教えを学んだのは古くて、ヨン・ジン牧師はアメリカに来るずっと以前に金さんを通してスヴェーデンボリを知ったのであった。そのヨン牧師から、今度は自分が洗礼を受ける、そのために、日本までやって来た。のではなく(洗礼なら韓国でも受けられる)、娘さんが日本語習得のために川崎に留学しており、それを尋ね、また東京に来る前に箱根に3日ほどいたように、観光もかねていたのである(職業は「電設会社」の社長、学校の放送設備の工事、もう隠退したいとのこと)。ここで奥さんとその娘さんもいっしょであった。私はこのところヒゲをはやしているのであるが、評判が悪い、この金さんがはじめて私のヒゲを気に入ってくれた。
9日(日)礼拝、金さんの洗礼式、お年寄りの受洗にはいつも感激してしまう。人生の終幕を迎えるころに洗礼を受けるとは、どのようなものなのだろうか? 人生を振り返り、改めてやはり主に向かおうとする、その気持ちである。清く、尊いものを感じる。
午後は、松本さんが仕事なので、古参の経験者である私が司会をまかされる。講演も無事に終わる。夕食は日本橋に出ることにしたが、もくろんだ三越デパートの中に手ごろな店がなかった、また、よさそうな店は日曜日休み。やや困って、目の前の「イタリア料理の店」に入った(本来は和食を目指していた)。よい雰囲気の店だったので、金さんの受洗を改めて祝うことができた(このようなとき仕切るのは私である)。総勢14名参加し、5万円ちょっとだった。なぜ、この数字を出すのかといえば、前日から、今日の夕食は自分持ち(金さんが支払う)から、みなさんに参加してほしい、という意向を聞いていた。半信半疑の私としては、司会者として「金さんが勘定を持つので、参加してください」とは言えなかった。そして勘定を支払う段になって、やはり金さんが負担したのだった。前から、韓国にはこのような風習があると聞いていたが、その通りだった。金さん、ごちそうさま。
10日(月)。今日はフリーである、午後8時ごろ、羽田から次の目的地ソウルへ行けばよい。すなわち、東京見物。案内役はいつものように私と林さん。急遽、妻の美恵子も加わることになった。すなわち総勢5名。9時半ホテルのロビー集合。銀座線「小伝馬町」から「東銀座」へ。ヨン師は銀座に興味があるらしく、以前しきりと「ギンジャ・ギンジャ」(こう発音する)と言っていた。その銀座見物である。最初にすぐさま「歌舞伎」。「東銀座」を降りる(地下鉄なので上がると)目の前が「歌舞伎座」。建物の前が入場待ちの観客でいっぱいだった。まともに見るなら、予約、それに料金もかかるが、うまいことに「一幕見席」というものがある。一幕だけ(それでも1時間半)を安く(たったの900円)見られる、予約なしの当日券のみであり、座席・立ち見を含めて定員になれば発券終了というものである。4階の最後列であるが、雰囲気だけは味わえる。11時から1時半まで観劇。音声ガイドがあるのでつけてもらう。日本文化を楽しんでいただけたと思う。銀座4丁目「鳩居堂」へ「お土産」を買うためによる。私はお土産を買い与えなくてはならなかった。前日の夜、(大)富豪Kさんから「明日、これを使ってください」とポンと金一封を頂いていたのだった。事情を説明し、「私はお土産を与えなくてはなくてはならない、何でも好きなものを選んでください」と言っても、テレサ夫人は遠慮して、あまり買わない。
ここで思った、「厚意は素直に受けるべきである、遠慮はかえってよくない」と。話はやや逸れる。電車で席を譲られたとする、「いえ、大丈夫です」とか「すぐ降りますから」などと遠慮しているのをよく見かける。一般的に遠慮は(特に日本、韓国も共通だろうか?)美徳とされるが、こうした遠慮はよくない。相手のせっかくの厚意を否定することになる。よく「人に善くしてやりなさい」と言われる。これは「善くされる者」がいて、成り立つ。すなわち、人に善くすることと、人から善くされることは同等である。そして、素直に「人の厚意に甘える」ことは意外とむずかしい。
話をもどそう。ヨン師から「鮨が食べたい」との希望を聞いていた。ずっと付き合っていると、このような要求が出る、すなわち、腹蔵なく物の言える間柄となっている。ここで女房の登場、妻の美恵子は以前、息子夫妻とともに銀座で鮨を食べている。うまかったので私にもいつか食べさせたい、と願っていた。そこで、急遽、参加したのだった、一緒に食べようと思って。妻のお勧めの「コリドー通り」の「美登利」に入る。行列のできる店である。うまい。しかも安い。雰囲気はたくさん人がいるのでやや騒々しいのはやむをえない。その後、銀座教会、教文館(ここには「聖書の図書館」がある、古い聖書が見られる、また教会関係の専門本や品々がある)を見て、アンパンの「木村屋」にも寄る。来た道をもどって築地に行ったが3時過ぎだと閑散としていた。ヨン師は事前「築地を訪れてみよ」と薦められていた(事前学習していますね)。築地本願寺をちょっと見て、預けてあった荷物を取りにいったんホテルへ戻り、その後、人形町から、品川経由で羽田空港まで見送り。
私はヨン夫妻が日本を天国だと思っているのではないかと思う。本国アメリカでは牧師である。そうとう緊張した生活をしなければならないだろう。テレサ夫人からは、日本に来る一週間前に「教会をやめようかと思った」という話を聞いた。また、布教先の中国では通訳に苦労されている、これから訪れる韓国では同国人の目がきびしいだろう。日本は外人に寛容である。私のようないい加減な人間もいる。おそらく、一番、気の休まる時を日本で過ごしているのではないかと想像する。そして、このことがヨン牧師にとってリフレッシュメントとなるなら、案内役の私もわずかばかりながら新教会に貢献していることになる。私にできることはこんなところだろう。