Inde patet, quid significatur per ここから明らかである、何が意味されるか~によって
“Plagas et Morbos Aegypti” (Deutr. vii. 15; cap. xxviii. 60); 「エジプトの災害と病気」(申命記7:15、第28章60)。
quid per 何が~によって
“Submergi flumine Aegypti” (Amos viii. 8: cap. ix, 5{8}); 「エジプトの川に沈められること」(アモス8:8、第11章5)。
et unde est, quod Aegyptus dicatur また、ここからである、エジプトが言われること
“Terra servitutis” (Mich. vi. 4); 「奴隷の地」(ミカ6:4)。
“Terra Chami” (Psalm. cvi. 22{9}): 「ハムの地」(詩篇106:22)。
Tum “Fornax ferri” (Deutr. iv. 20; 1 Reg. viii. 51{10}). なおまた「鉄の炉」(申命記4:20、列王記8:51)。
[5] Causa, quod “Aegyptus” significet tam intelligentiam quam insaniam in spiritualibus, erat, quia Ecclesia Antiqua, quae in plura regna Asiae extensa fuerat, etiam in Aegypto fuit, et tunc Aegyptii prae caeteris scientiam correspondentiarum inter spiritualia et naturalia excoluerunt, ut patet ex hieroglyphicis ibi; [5] 理由は、「エジプト」が霊的なものの中での知性も狂気も意味すること、~であった、古代教会は~からである、それはアジアの多くの王国の中に広がっていた、エジプトの中にもあった、またその時、エジプト人は他の者よりも霊的なものと自然的なものの間の対応の知識を発達させた、そこに象形文字から明らかであるように。
at vero cum apud illos scientia illa versa est in magicam, et facta idololatrica, tunc intelligentia illorum in spiritualibus facta est insania; しかし、彼らのもとでその知識は魔法の中に変えられたとき、また偶像崇拝になった、その時、霊的なものの中での彼らの知性は狂気になった。
inde “Aegyptus” hanc in opposito sensu significat. ここから「エジプト」はこれ〔狂気〕を正反対の意味の中で意味する。
Ex his videri potest, quid intelligitur per “urbem magnam, quae spiritualiter vocatur Sodoma et Aegyptus.” これらから見られることができる、「大きな都、それは霊的なソドムとエジプトと呼ばれる」によって、何が意味されるか。
@1 18-21 pro “17 ad 21″ 注1 「」の代わりに
@2 ii. pro “i.” 注2 「i.」の代わりに ii.
@3 xxvii. pro “xxvi.” 注3 「xxvi.」の代わりに xxvii.
@4 lxviii. pro “xlviii.” 注4 「xlviii.」の代わりに xlviii.
@5 8-11 pro “7, 8, 9″ 注5 「7, 8, 9」の代わりに 8-11
@6 2, 7 pro “1, 7″ 注6 「1, 7」の代わりに 2, 7
@7 xii. pro “xi.” 注7 「xi.」の代わりに xii.
@8 5 pro “15” 注8 「15」の代わりに 5
@9 cvi. 22 pro “cxxvi. 23″ 注9 「cxxvi. 23」の代わりに cvi. 22
@10 51 pro “5” 注10 「5」の代わりに 51
(3) 訳文
503 みことばの中で「エジプト」が何を意味するか、言われる。
「エジプト」は霊的な人間に結合した自然的な人間を、またその時、真理の情愛を、またここから知識と知性を意味する。そして、正反対の意味で、霊的な人間から分離した自然的な人間を、またその時、自己知性の高慢を、またここから霊的なものの中での狂気を意味する。
次の箇所で、「エジプト」は、霊的な人間に結合した自然的な人間を、またその時、真理の情愛を、またここから知識と知性を意味している――
「その日に、エジプトの地に万軍のエホバに誓う五つの都がある。その日に、エジプトと地の真ん中にエホバの祭壇がある。その時、エジプトでエホバが知られ、またその日にエジプト人はエホバを知る」(イザヤ19:18-21)。
「その日に、エジプトからアッシリアの中に小道がある、アッシリアがエジプトに、またエジプトがアッシリアの中にやって来る、そしてアッシリア人とともにエジプト人が仕えるために。その日に、イスラエルはエジプトとアッシリアと三つのものになり、地の真ん中で祝福〔される〕。万軍のエホバはその者に、わたしの民エジプトよ、またわたしの手の働きアッシリアよ、またわたしの相続イスラエルよ、祝福〔あれ〕と言って、祝福する」(イザヤ19:23-25)。
そこのエジプトは自然的なもの、アッシリアは理性的なもの、イスラエルは霊的なものである。これら三つのものは教会の人間をつくる。
ここからエジプトの王は「知恵のある子」、「古代の王の子」と呼ばれ、そしてエジプトは「部族の隅の石」と言われた(イザヤ19:11, 13)。また、ソロモンについて、「彼の知恵はエジプト人の知恵より多かった」こと(列王記Ⅰ4:30)、また「パロの娘を妻として受け入れ、彼女をダビデの都に連れて来た」こと(列王記Ⅰ3:1)、また「パロの娘(のため)に回廊の近くに家を建てた」こと(列王記Ⅰ7:8)が言われている。
[2] ほかにさらにまた、ヨセフはエジプトへ追い払われ、そこの全地の支配者になった(創世記40)。
「エジプト」は真理の情愛に関する自然的な人間を、またここから知識と知性を意味したので、それゆえ、マリヤの夫ヨセフは、主の天使の警告から、幼児をエジプトへ立ち去った(マタイ2:14, 15)。予言にしたがって、「イスラエルが少年のとき、その時、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの息子を呼んだ」(ホセア11:1)。「あなたは、ブドウの木をエジプトから出発させ、それを移植し、その根を張ることさせた」(詩篇80:8, 9)。というのは、人間は自然的なものに生まれており、理性的に、またその後、霊的なものになるからである。そのようにエジプトからのブドウの木は移植され、根を張る。
その表象のために、さらにまた、アブラハムはエジプトで異国人として滞在した(創世記12:10以降)。またヤコブは自分の息子とともにエジプトの中へ行くことを命じられ、そしてまたそこにとどまった(創世記46以降)。
ここからもまた、カナンの地は、それによって教会が意味され、その範囲に関して、エジプトの川まで〔としている〕(創世記15:18、列王記4:21、ミカ7:12)。また、エジプトは、エデンの園、神の園とたとえられている(エゼキエル30:2, 8、創世記13:10)。そして、自然的な人間の知識は、エジプトの好ましいもの(ダニエル11:43)、そしてエジプトからの刺繍されたものの中の亜麻布(エゼキエル27:7)と呼ばれる。
(ほかに他の箇所に、エジプトについてよく〔たとえられている〕、例えば、イザヤ27:12, 13、エゼキエル29:13-16、31:1-8、ホセア11:11、ゼカリヤ10:10, 11、14:16-18、詩篇69:31, 32、列王記19:23, 24)。
[3] けれども、「正反対の意味で「エジプト」は霊的な人間から分離した自然的な人間を意味し、またその時、自己知性に、またここから霊的なものの中で狂気になる、次の箇所で――
「パロの心がその高さの中で高められ、またいただきをもつれあったものの間に引き渡したので、彼を他の者(他国人)が切り倒し、彼を投げ捨てた。その日に、あなたは地獄の中に降る、わたしは彼の上を深淵をおおう、またあなたは無割礼者の真ん中で横たわる」(エゼキエル31:10-18)。
「エジプトの土台はひっくり返される。その力の誇りは下る、その都は見捨てられた都の真ん中で荒廃させられる。わたしはエジプトの中に火を置く、またエジプトを異教徒の間に追い散らす、また彼らを地で散らす」(エゼキエル30:1終わりまで)。
「わざわいだ、助けのためにエジプトの中に降る者に、イスラエルの聖なる方に目を向けない。なぜなら、エジプトは人間であり、神ではない、その馬は肉であり、霊ではないからである」(イザヤ31:1, 3)。
「エジプトは川のように上る。言う、私は上る、地をおおう、滅ぼす。馬よ、上れ。戦車よ、狂え。剣はあなたがたを食い尽し、血で酔わされる。あなたにいやしがない」(エレミヤ46:2, 8-11)。
「どのように、あなたパロに言うのか、私は知恵の子、また古代の王の子と。どこに、今、あなたの賢い者は〔いて〕、知るのか。ツォアンの君主たちは愚か者にされた。エジプトを、部族の隅の石を惑わした。エジプトに働きはない、それは頭と尾をつくる」(イザヤ19:1-17)。
[エジプトに対して預言せよ。大きなクジラ、それはあなたの川の真ん中で横たわる。言ったからである、川は私のもの、私が私をつくった。それゆえ、わたしはあなたのあごの中に釣り針を置く。また、わたしはあなたの川の魚をあなたのうろこにくっつけることをする、またあなたを荒野の中で見捨てる。たそれゆえ、エジプトの地は寂しい場所と廃墟になる」(エゼキエル29:1-12)。
(ほかに、他の箇所に、例えば、イザヤ30:2, 7、エレミヤ2:17, 18, 36、42:8、エゼキエル16:26, 28 , 29、23:2-33、ホセア7:11, 13, 16、9:1, 3, 6、11:5、12:1、ヨエル3:19、哀歌5:2, 4, 6, 8、申命記17:16、列王記Ⅰ14:25, 26、列王記Ⅱ18:21)。
[4] エジプト人はこのようなものになったので、それゆえ、教会のすべての善と真理に関して荒廃した。
彼らの荒廃がそこで行なわれた奇跡によって述べられており、それらは災害であった、また同じ数の、もっぱら自己知性とその高慢から働く霊的な人間から分離した自然的な人間の欲望が意味された。
表意する災害はその欲望であった、川の中の水が血に変えられた、そのように魚が死ぬように、また川は臭くなったこと(出エジプト記7)、川と池からエジプトの地の上にカエルが出現し、地のちりはシラミに変わり、有毒な飛ぶもののごちゃ混ぜの塊り〔☆新改訳聖書では「アブの群れ」〕が送られたこと(出エジプト記8)。吹き出ものを出す潰瘍が人間と獣の上にできたこと、火の混じった雹(ひょう)の雨が降った(出エジプト記9)。イナゴが送られた、エジプトの全地は暗黒になった(出エジプト記10)。エジプトの地のすべての長子は死んだこと(第12章)。また最後に、エジプト人はスフの海の中に沈められたこと(出エジプト記14)。そのことよって地獄が意味される。
これらすべてのものによって特定的に何が意味されるか、ロンドンで出版の『天界の秘義』の中に見られ、そこに説明されている。
ここから、「エジプトの災害と病気」(申命記7:15、28:60)によって何が、「エジプトの川に沈められること」(アモス8:8、11:5)によって何が意味されるか明らかである。また、ここから、エジプトは、「奴隷の地」(ミカ6:4)、「ハムの地」(詩篇106:22)、なおまた「鉄の炉」(申命記4:20、列王記8:51)と言われる。
[5]「エジプト」が霊的なものの中での知性も狂気も意味することの理由は、アジアの多くの王国の中に広がっていた古代教会が、エジプトの中にもあり、またその時、そこに象形文字から明らかであるように、エジプト人は他の者よりも霊的なものと自然的なものの間の対応の知識を発達させたからである。しかし、彼らのもとでその知識が魔法に変えられ、また偶像崇拝になったとき、その時、霊的なものの中での彼らの知性は狂気になった。ここから「エジプト」は正反対の意味でこの狂気を意味する。
これらから、「大きな都、それは霊的なソドムとエジプトと呼ばれる」によって、何が意味されるか見られることができる。