(3) 訳文
504. 第二のメモラビリア――
私は霊的な内的な視覚の中にいた、その〔視覚〕中に高い天界の天使がいる。しかし、その時、霊界の中に〔私はいた〕。
また、私は、私から遠くない二人の霊を見た、それでも、彼ら自身から遠く離れていた。また、私は、彼らからの一人は善と真理を愛し、そのことによって天界と結ばれている、またもう一人の者は悪と虚偽を愛し、そのことによって地獄と結ばれていることを知覚した。
私は近づき、彼らを呼び集めた。また彼らの音声と答えから私は、一人の者がもう一人の者のように真理を知覚すること、知ることから知覚を、そのように理解力から考えること、そしてまた知的なものを気にいるように、また意志を気にいるように決定することができること、それゆえに、両方の者は理性的なものに関して似た選択の自由の中にいた、と推断した。
またそのうえ、私は、彼らの心の中のその自由から、知覚のものであった最初の視覚から、目のものであった近くの最後のものまで、〔彼らにとって〕照らされたものに見えたことに気づいた。
[2] しかし、悪と虚偽を愛した者が、自分自身に残されて、考えた時、私は、煙のように地獄からのぼり、そして記憶の上方にあった輝きを消したものに気づいた、ここからそれに真夜中のようなそこの暗黒が〔生じた〕。
さらにまた、その煙は火をつけられて炎のように燃え、それは記憶の下にあった心の領域を照らし、そこから自己愛からの憎むべき虚偽を考えた。
けれども、善と真理を愛したもう一人の者のもとで、彼が自分自身に残された時、私は天界から流れ下る温和な炎を見た、それは記憶の上の彼の心の領域を、そしてまたその下方の領域を、目まで照らし、またその炎からの光は、善の愛から真理を知覚し、考えるほど、さらにまたさらにと輝いた。
これらを見て〔そこ〕から私に、それぞれの人間に、悪い者も善い者も、霊的なものの中での選択の自由があったこと、しかし、地獄はときどきそれを悪い者のもとで消すこと、また天界はそれを善い者のもとで高める、また火をつけることが明らかとなった。
[3] この後、私は両方の者と話した。最初に、悪と虚偽を愛した者と。また彼の運命について何らかのものの後、選択の自由のことを言ったとき、彼は燃え上がり、言った、「ああ、人間に霊的なものの中で選択の自由がある、と信じること、それは狂気である。
人間のだれが、自分自身に信仰を受け入れること、また善を自分自身から行なうことができるのか?
今日の祭司職は、みことばから、天界から与えられるのでないならだれも何も受け取ることができないことを教えていないか?
また、主キリストは自分の弟子たちに言った、『わたしなしで何も行なうことができない』。
それらにこのことを私は加える、だれも何らかの善を行なうことへ向けて、足を、手も動かすことができない、善からの何らかの真理を話すことへ向けて舌も動かすことができない――それゆえ、教会はその賢明な者たちから結論した、人間は何らかの霊的なものを意志し、理解し、考えることができないこと、また決してそれを意志し、理解し、考えることへ向けて、像、幹また石よりもさらに、適合させることもできない。またそれゆえ、その方にだけ最大の自由と制限のない力がある神から、意のままに、信仰を吹き込まれる。それは、私たちのすべての働きと力なしに、すべてのものを生み出す聖霊の働きであり、それらを無学な者たちが人間に帰している」。
[4] その後、私は善と真理を愛したもう一人の者と話した。、また彼の運命について何らかのものの後、選択の自由のことを言ったとき、彼は言った、「霊的なものの中での選択の自由を否定することは狂気である。
だれが、善を意志し、行なうことが、そしてみことばにより、そのように、みことばである主により、自分自身から真理を考え、話すことができないか? というのは、「善の実を結べ」また「光を信じよ」、そしてまた「あなたがたはお互いに愛せ」また「神を愛せ」、なおまた、「わたしの戒めを聞く、また行なう者は、彼は私を愛する、またわたしは彼を愛する」。と言われたから。ほかに数千の同様のものが、みことば全部の中に〔ある〕。
そこで、もし人間がみことばに命令されていることを意志することと考えることが、またここから行なうことと話すことが何もできないなら、みことばとは何なのか?
人間のもとのその力なしに、宗教と教会は、難船の船のようでないなら何になったか? それは海の底に横たわり、船長がそのマスト(帆柱)の最先端に立ち、「私は何もできない」と叫び、また小舟(特に救命ボート)の中の残りの(他の)船員が帆をかけて帆走することを見る〔ようなものである〕。
アダムに、いのちの木から、そしてまた、善悪の知識の木から食べる自由が与えられていないか? また自分の自由からその木から食べたので、ヘビから、すなわち、地獄から煙が、彼の心を入り、それで、楽園から追い出され、呪われた。それでも、選択の自由を失わなかった。なぜなら、、ルブによりいのちの木への道が守られ、そのことが行なわれなかったなら、さらにそれから食べることを欲することができたことが読まれるからである」。
[5] これらが言い表わされて、悪と虚偽を愛したもう一人の者は、言った、「私が聞いたそれらを、私は〔後に〕残す。私は私が表明したものを保持する――しかし、神だけが生き、またここから能動的であること、また人間は自分自身から〔では〕死んだもの、またここから単に受動的であることをだれが知らないか?
どのように、本質的に死んだものまた単に受動的なものであるこのようなものが、自分自身に何らかの生きたものまた能動的を受け入れることができるのか?」
これに私は答えた、「人間はいのちの有機体(生命体)である、また神だけがいのちである。また神は自分のいのちを、太陽が自分の熱を木とその個々のもとに注ぎ込むように、有機体(生命体)とその個々のものに注ぎ込む。
また、神はそのいのちを人間が本質的に自分のもののように感じるように与える。そして、そのように感じることを、神は欲する、それは、人間が、みことばの中の戒めと同数のそれだけ多くある秩序の法則にしたがって、自分自身から生き、また自分自身を神の愛を受け入れるものへと整えるためにという理由のためである。
しかしそれでも、神は絶えず指で天秤の針を垂直に保ち、調整する、しかし、決して選択の自由を強制して踏みにじらない。
[6] 木は太陽の熱が光線によってもたらす何らかのものを受け入れることができない、その繊維に関して、暖かくなり、そして熱くならないなら。元素(要素=養分)も根を通って伸びる(=進む)ことができない、その繊維の個々のものが熱の受け入れから、さらにまた熱を発散しないなら、またこのように移行へ運び集め〔ないなら〕。
人間も、神からいのちの熱の受け入れることから、同様である。しかし、人間は木とは異なって、それを自分のものとして感じる、それでも彼の(もの)ではない。しかし、彼の〔もので〕あることを信じれば信じるほど、それだけいのちの光を受け入れる、けれども、神からの愛の熱を〔受け入れない〕、しかし、地獄からの愛の熱を〔受け入れる〕。その愛は重い(粗野な)ものであるので、不潔な血が身体の毛細管を〔ふさぎ、閉ざす〕ように有機体(生命体)の小枝の純粋なものをふさぎ、閉ざす。そのように、人間は自分自身を霊的なものから単に自然的なものにする。
[7] いのちを本質的に自分のものであるように感じ、また結合が生じるために、神が人間にそのように感じることにしておくのは、それは相互のものがないならありえない、そして相互のものは、人間が完全な自由から自分自身からのように行なう時、生じ、このために人間に選択の自由がある。
もし、神がそれを人間に残さなかったなら、人間は人間でなかった、彼に永遠のいのちはなかったであろう。なぜなら、神との相互の結合は、人間が獣でなく、人間であるように、そしてまた、死後、永遠に生きるようにするからである。
霊的なものの中での選択の自由はこのことを引き起こす」。
[8] これを聞いて、その悪い霊は、自分自身を距離へと遠ざけた。またその時、私は、ある木の上に、火ヘビと呼ばれる飛んでいるヘビを見た、そのヘビはそこから実を差し出した。
またその時、霊の中で私は〔その〕場所に近づいた、するとそこにヘビに変わって奇怪な人間が見られた、その顔は、鼻しか現われないようにも、あごひげでおおわれていた。そして木に代わって火の燃えさしがあった、そこに彼は立った、その心に最初、煙が入った、またその後、霊的なものの中での選択の自由を追い払った。
また、急に同じような煙が燃えさしから出た、また両方〔燃えさしと奇怪な人間〕を取り巻いた。またこのように私の視覚から引っ込められたので、私は立ち去った。
けれども、善と真理を愛し、人間に霊的なものの中で選択の自由があることを主張したもう一人の者は、私に〔とって〕家への随行員となった。