[4.] Nunc quia dogmata in ecclesiis Christianis hodiernis non ex Verbo, sed ex propria intelligentia, et inde ex falsis, conflata sunt, et quoque per aliqua ex Verbo confirmata, ideo ex Divina Domini Providentia verbum apud Romano-Catholicos ademptum est laicis, et apud Protestantes illud apertum, sed usque occlusum per commune oris illorum effatum quod intellectus captandus sit sub obedientia fidei illorum. [4] 今や、キリスト教会の中の教義はみことばからでないので、しかし、プロプリウム(自己)の知性から、またここから虚偽から、つくり上げられている、そしてまたみことばから何らかのものによって確信された、それゆえ、主の神的な摂理からみことばはローマカトリック教徒のもとで取り上げられた、平信徒に、またプロテスタント(新教徒)のもとで開かれている、しかしそれでも、彼らの口での共通の(通常の)発言によって閉ざされている、理解力は彼らの信仰の従順の下に捕えられなければならないこと。
[5.] At in Nova Ecclesia fit inversum, in hac licitum est intellectu ingredi et penetrare in omnia ejus secreta, et quoque per Verbum confirmare illa; [5] しかし、新しい教会の中で正反対である、この中で理解力に許されている、そのすべての秘密の中に入ること、また洞察すること、そしてまたそれらをみことばによって確信すること。
causa est, quia doctrinalia ejus sunt continuae veritates a Domino per Verbum detectae, et confirmationes illarum per rationalia efficiunt, ut intellectus aperiatur supra plus et plus, et sic elevatur in lucem, in qua sunt angeli caeli; 理由がある、その教えの事柄はみことばによって明かされた主からの永遠の〝真理〟であるからである、またそれらの確信は理性によって遂行する、理解力の上方が、さらにまたさらにと開かれるために、またこのように光の中に上げられる、その中に天界の天使たちがいる。
et lux illa in sua essentia est veritas, et in hac luce agnitio Domini pro Deo caeli et terrae splendet in sua gloria. また、その光はその本質の中で〝真理〟である、またこの光の中で天地の神としての主の承認がその栄光の中で輝く。
Hoc intelligitur per scripturam super porta templi, Nunc licet; このことは神殿の入り口の上の書かれたものによって意味される、「今や、許されている」。
et quoque per quod velum adyti ante cherubum sublatum sit: そしてまた、内陣(至聖所)の垂れ幕がケルブの中に持ち上げられたことによって。
canon enim Novae Ecclesiae est, quod falsitates occludant intellectum, et quod veritates aperiant illum. というのは、新しい教会の規範であるからである、虚偽が理解力を閉ざすこと、また真理がそれを開くこと。
[6.] Post haec vidi sicut infantem supra caput, tenens in manu chartam. [6] この後、私は頭の上方に幼児のようなものを見た、手に紙を握って。
Ille sicut ad me appropinquavit, succrevit in staturam mediocris hominis. 彼は私に近づいたほど、人間の並みの身長の中に成長した。
Erat angelus e caelo tertio, ubi omnes e longinquo apparent sicut infantes. 第三の天界からの天使であった、そこにすべての者は遠方から幼児のように見られる。
Dum apud me erat, porrexit mihi chartam; 私のもとにいた時、私に紙を差し出した。
sed quia litteris circinnatis, qualibus in illo caelo, scripta erat, restitui, et petii, ut ipsi expromerent sensum verborum ibi vocibus adaequatis ideis cogitationis meae. しかし、カールして飾った文字で、その天界の中のような、書かれていたので、私は戻した、また私は懇願した(求めた)、自分自身で言葉の意味を明らかにするように、私の思考の観念に適当な(ふさわしい)言葉で。
Et retulit, "Hoc ibi scriptum est: また、話した、「これはそこに書かれている――
'Intrate posthac in mysteria Verbi hactenus occlusi; 『今後(今からは)、これまで閉ざされていたきことばの秘密(奥義)の中に入れ。
nam singulae veritates ejus sunt totidem specula Domini. '" なぜなら、その個々の〝真理〟はそれだけ多くの主の〔姿を映す〕鏡であるからである』」。
@* NOTA EDITORIS :― In principe editione hoc Memorabile inclusum est signis citations. 注1 編集者の注――初版の中でこのメモラビリアは引用のしるし〔“〕で囲まれている。
@1 Index Memorabilium habet “rotundum” 注2 メモラビリアの索引には「rotundum」とある。
@2 arcuatum pro “arcuarum” 注3 「arcuarum」の代わりにarcuatum
(3) 訳文
508.{*} 第六のメモラビリア――
かつて〔ある〕日、私に正方形の☆1形の荘厳な神殿が見られた、その屋根は、上部が丸天井造りで、まわりで持ち上げられた☆2冠に似ていた。
その壁は水晶でできた窓の連続であり、入り口(扉)は真珠の物質から〔であった〕。
内部に、西に向かう南の側に講壇があり、その上に右側に開かれたみことばが置かれていた。光のスフェアの帯で、その輝きが講壇全体を行き廻り、照らした。
神殿の真ん中に至聖所があり、その前に垂れ幕があった、しかし、その時は持ち上げられていた、そこに金からできたケルブが、剣とともに、こちら、あちらと、手の中でそれを振り回して立っていた。
[2] これらを私が眺めた時、それら個々のものが何を意味しているか、すなわち、その神殿は新しい教会を意味したことが、私の熟考の中に流入した。真珠の物質からの入り口(扉)はその中へ入ること、水晶からできた窓は、真理〔を意味した〕、それがそれらを照らした。講壇は聖職者と説教を、その上に開かれたみことばは、また〔その講壇の〕高い(上の)部分を照らして与えられた、霊的なものであるその内なる意味が、啓示された〔ことを意味した〕。神殿の真ん中の至聖所は、天界の天使とのその教会の結合を、そこに、金からできたケルブは、文字どおりの意味の中のみことばを、彼の手の中で振り回す剣は、この意味がある真理へ適用される間、こちら、あちらと変えられることができることを、ケルブの前の垂れ幕が持ち上げられていたことは、今や、みことばが明らかにされたことを意味した。
[3] その後、私がさらに近く近づいたとき、私は入り口(扉)の上の書かれたものを見た、それは、「今や、許されている」。これは、今や、信仰の秘義の中に知的に入ることが許されていることを意味した。
この書いたものを見て、信仰の教義の中に、プロプリウム(自己)の知性で、またここから虚偽から作り上げられた理解力(知力)で入ることは大いに危険であり、それをみことばから確信することはさらにいっそう危険であることが私の思考の中に生じた。 ここから、神学は拒絶されるだけでなく、しかし、さらにまた、書いたものが紙の虫で、また羊毛が布切れのイガで抹殺されるように、こんな程度に、上の理解力は、また徐々に下の〔理解力〕は閉ざされる。理解力を、自分の支配の中にある生活を眺める政治上の事柄の中にとどめ、それは、また彼の役目の中にある市民的な事柄の中に、また彼の家にある家庭の事柄の中にとどめ、そしてこれらやそれらの中で絶えず自然を歓迎し、またそれを彼の快楽の誘惑するものから、自分の胸の中の金の彫像の偶像のように崇拝して愛する。
[4] さて、キリスト教会の中の教義は、みことばからでなく、しかし、プロプリウム(自己)の知性から、またここから虚偽からつくり上げられており、そしてまたみことばから何らかのものによって確信されたので、それゆえ、主の神的な摂理から、みことばはローマカトリック教徒の平信徒にもとで取り上げられ、プロテスタント(新教徒)のもとで開かれているが、しかしそれでも、彼らの口先での共通の発言、「理解力は彼らの信仰の従順の下に捕えられなければならない」によって閉ざされている。
[5] しかし、新しい教会の中では正反対である、この中で理解力に、そのすべての秘密の中に入ること、また洞察すること、そしてまたそれらをみことばによって確信することが許されている。その理由は、その教えの事柄はみことばによって明かされた主からの永遠の〝真理〟であるからである、また理性によって遂行するそれらの確信は、理解力の上方がさらにまたさらにと開かれるために、またこのようにその中に天界の天使たちがいる光の中に上げられる。また、その光は、その本質の中で〝真理〟であり、この光の中で天地の神としての主の承認がその栄光の中で輝く。
このことは神殿の入り口の上の書かれたもの、「今や、許されている」によって、そしてまた、至聖所の垂れ幕がケルブの中に持ち上げられたことによって意味される。というのは、虚偽が理解力を閉ざすこと、また真理がそれを開くことが、新しい教会の規範であるからである。
[6] この後、私は頭の上方に手に紙を握っている幼児らしい者を見た。
彼は、私が近づくほど、並みの身長の人間に成長した。第三の天界からの天使であった、そこのべての者は遠方から幼児のように見られる。
私のもとにいた時、私に紙を差し出した。しかし、その天界の中のようなカールした飾った文字で書かれていたので、私は戻し、私の思考の観念に適当な言葉でその言葉の意味を明らかにするよう、懇願した。
話した、「そこにこれが書かれている――『今後、これまで閉ざされていたきことばの秘密(奥義)の中に入れ。なぜなら、その個々の〝真理〟はそれだけ多くの主の〔姿を映す〕鏡であるからである』」。
☆1 メモラビリアの索引「55」の記事には「円形の」とあるので、どう理解したらよいでしょうか?
☆2 丸天井が建物にそのまま付いているのではなく周囲から持ち上がった構造となっていることでしょう。
日: 2015年4月14日
原典講読『真のキリスト教』509
(1) 原文
509. Post transactiones de Fide, Charitate, et de Libero Arbitrio, in nexu sequitur de Paenitentia, quoniam vera fides et genuina charitas absque paenitentia non dabiles sunt, et paenitentiam agere absque libero arbitrio nemo potest. Quod hic de Paenitentia agatur, est quoque causa, quia sequitur de Regeneratione, et nemo potest regenerari priusquam graviora mala, quae hominem coram Deo detestabilem faciunt, remota sunt, et haec per paenitentiam removentur. Quid irregenitus nisi impaenitens? et quid impaenitens nisi sicut qui in lethargia est, et scit nihil de peccato, et ideo fovet illud in sinu suo, et illud cottidie osculatur sicut adulter scortum in lecto suo. Sed ut sciatur quid paenitentia, et quid efficit, transactio de illa dispertienda est in articulos.
(2) 直訳
509. Post transactiones de Fide, Charitate, et de Libero Arbitrio, in nexu sequitur de Paenitentia, quoniam vera fides et genuina charitas absque paenitentia non dabiles sunt, et paenitentiam agere absque libero arbitrio nemo potest. 「信仰」、「仁愛」について、また「選択の自由」の章の後、関連の中で「悔い改め」について続けられる、真の信仰と本物の仁愛は悔い改めなしにありえないからである、また悔い改めを行なうことは選択の自由なしに、だれもできない。
Quod hic de Paenitentia agatur, est quoque causa, quia sequitur de Regeneratione, et nemo potest regenerari priusquam graviora mala, quae hominem coram Deo detestabilem faciunt, remota sunt, et haec per paenitentiam removentur. ここに悔い改めについて扱われることは、さらにまた理由がある、「再生」について続けられるからである、まただれもさらに重苦しい(重荷となる)悪が~より前に、それらは神の前に人間を忌まわしいものとする、遠ざけられる、またこれらは悔い改めによって遠ざけられる(取り除かられる)。
Quid irregenitus nisi impaenitens? 再生しない者とは何か、悔い改めない者でないなら?
et quid impaenitens nisi sicut qui in lethargia est, et scit nihil de peccato, et ideo fovet illud in sinu suo, et illud cottidie osculatur sicut adulter scortum in lecto suo. また、悔い改めない者とは何か、嗜眠(しみん)(無気力)の中にいる者のようでないなら、また罪について何も知らない、またそれゆえそれを自分のふところの中で(内部で)心に抱く、またそれを毎日、キスする(歓迎する)、姦淫者が娼婦を自分の寝床の中でのように。
Sed ut sciatur quid paenitentia, et quid efficit, transactio de illa dispertienda est in articulos. しかし、何が悔い改めか、また何を引き起こす(遂行する)か知られるために、それについての章は節の中に分けられるべきである。
(3) 訳文
509. 「信仰」、「仁愛」について、また「選択の自由」の章の後、関連の中で「悔い改め」について続けられる、真の信仰と本物の仁愛は悔い改めなしにありえない、また悔い改めを行なうことは選択の自由なしに、だれもできないからである。
ここに悔い改めについて扱われることは、さらにまた理由がある、「再生」について続けられるからである、まただれもさらに重苦しい悪が神の前に人間を忌まわしいものとするより前に、それらは、遠ざけられ、またこれらは悔い改めによって取り除かられる〔からである〕。
悔い改めない者でないなら再生しない者とは何か、無気力の中にいる者のようでないなら、悔い改めない者とは何か? 罪について何も知らず、またそれゆえそれを自分の内部で心に抱く、また姦淫者が娼婦を自分の寝床の中でのように、それを毎日、キスする(歓迎する)ようなものである。
しかし、何が悔い改めか、また何を引き起こすか知られるために、それについて〔こ〕の章は〔次の〕節の中に分けらる。