本書の最終文段番号は603番なので、302番のこのあたりで半分終了。6月19日開始なので、5ヶ月とちょっとかかった。この調子だと(後半のほうがやや分量多く、掲載量も減ってきたので)、全終了までの1年近くかかるかもしれない。
約1年かけて読む本があってよいと思う。1時間かけて5行しか読まなくても、50ページ読んだにしても「1時間読書した」ことは同じ。多くの知識を得るための読書なら、分量が多いことがまさるかもしれない。しかし、何のための読書だろうか?
私は知識を得ることにあまり興味がなくなってきた、思考を深めることに関心が移っている。そのための読書なら、ページ数は関係ない、どれだけ集中し、あれこれ思い巡らすことができるか、そのとき進度は問題とならない。
この原典翻訳も、このくらいのスローペースのほうが思索が深まるのではなかろうか。どうか読者には、些細なこと、どうでもよさそうなことに拘泥してもらいたい。
インターネットの危険性はクリック一つで、次から次へと知識が目の前に(容易に)展開されることである。そして、それを「眺めただけ」で、物知りになった気分になることである。これでは「思索は深まらない」。知識過剰の薄っぺらな人間ができてしまう気がする。
その危険から逃れるためにも、「一冊ぐらいは1年かけて読む本があってよいと思う」、スヴェーデンボリの著作ならこれに値するだろう。
話し変わって、私は「多い」、「少ない」についていつも考えている。いろいろな宗教団体に比べ、新教会の人間が圧倒的に「少ない」からである。私は「少ない」ことが欠点とは思わない。あくまでも「内容・質」であろう。そして「量」と「質」はともすれば、相反する存在ではなかろうか。すなわち「量」を追及するとき、「質」の低下を招かないかを危惧する。量の拡大の結果、質が低下するなら、そんな拡大はしないほうがよい。
しかし、努力の積み重ねである「量」は別物であり、これは重要でもある。たとえば、この連載を続けることによる自然と増大する「量」である、これは別の言葉で「継続は力なり」ともいえる。「量」に二種類あることがわかった(何と名づけるのか?)。