(3) 訳文
24(第7節) 天の☆「雲とともにやって来る」は、主はご自分をみことばの文字どおりの意味の中で啓示され、教会の終わりの中でその霊的な意味を開くことを意味する――
みことばの内なる意味、すなわち、霊的な意味について何も知らない者は、、主により〔言われた〕「天の雲の中にやって来る」ことによって何が意味されるか知ることができない。というのは、神の子キリストであるかどうか言うように誓わせた大祭司に、「あなたは、『わたしである』ことを言った。また、あなたがたは、人の子が力の右手に座っているのを、また天の雲とともにやって来るのを見る」言われたから(マタイ26:63, 64、マルコ14:61, 62)。またそこでは主が世代の完了(=世の終わり)について弟子に話し、「その時、人の子のしるしが見られる、またその方が力と栄光とともに〝天の雲〟の中にやって来るのを〔人々は〕見る」と言われた(マタイ24:30、マルコ13:26)。その中にやって来る「天の雲」によって、文字どおりの意味の中のみことば以外に何らかのものは意味されない。またその中にその方が見られる「栄光」によって、霊的な意味の中のみことば〔が意味される〕。
そのようであることは、みことばの文字どおりの意味を超えて考えない者によりほとんど信じられることができない。彼らに「雲」は雲である、またここから、最後の審判が差し迫る時、主が天の雲の中に見られるであろう、との信念が〔ある〕。しかし、このことは、何が「雲」か、〔それが〕最終的なものの中での神的真理であること、そのように文字どおりの意味の中でのみことばでることが知られるとき、倒れる。
[2] 霊界の中で、自然界の中のように、等しく雲が見られる。しかし、天界の下に見られる霊界の中の雲は、みことばの文字どおりの意味の中にいる者のもとで、みことばの理解にしたがって、また同時に受け入れにしたがって、暗くまた輝いている。その理由は、そこに天界の光は神的真理であり、そして、そこに暗やみは虚偽であるからである。ここから、「輝く雲」は真理の外観におおわれた神的真理であり、真理の中にいる者のもとの文字の中のみことばはそのようなものである。そして「暗い雲」は確信の外観からの欺きに包まれた神的真理であり、虚偽の中にいる者のもとの文字の中のみことばはそのようなものである。
私はそれらの雲をしばしば見た、またどこからか、また何であるか明らかであった。
さて、主はご自分の人間性の栄化〔☆直訳部分でこれを抜かしてしまいました〕の後、神的真理に、すなわち、最終的なものの中でのみことばにされて、大祭司に「今から、人の子が天の雲の中にやって来るのを見る(であろう) 」と言われた。
[3] けれども、弟子たちには、世代の完了の中で「人の子のしるしが見られる、またその方が力と栄光とともに〝天の雲〟の中にやって来るのを見る」と言われ、このことは、教会の終わりの中で、最後の審判が行なわれる時、みことばの中に見られる、また霊的な意味が啓示されることを意味した。今日もまた行なわれている、近ごろ出版された小著から明らかにすることができるように、今や教会の終わりであり、そして最後の審判がなし遂げられるからである。そこでここに「黙示録」の中に、「見よ、雲とともにやって来る」、
なおまた続くものの中で、「見よ、わたしは白い雲を、また雲の上に座っている人の子に似た者を見た」(黙示録14:14)によって意味されているものはこのことで。
そのようにまた「ダニエル書」に。
「私は夜の幻の中で見ていた、また、見よ、人の子が雲とともにやって来る」(7:13)。
「人の子」によって、みことばに関する主が意味されることは、『新しいエルサレムの教え 主について』の中に見られる(19-28番)。
[4] みことばの他の箇所の「雲」によってもまた、最終的なものの中での神的真理が、またここから文字どおりの〔意味の〕中でのみことばもまた意味されることは、そこに雲が読まれるその箇所から見られることができる、例えば、これらの中に――
「天の中に、また雲の上の壮大さの中に乗っているエシュルンの神のような者はいない」(申命記33:26)。
「神に〔向かって〕歌え、その方の名前を称賛せよ、雲の上に乗る者をほめよ」(詩篇68:4)。〔☆直訳部分でこれを抜かしてしまいました〕
「エホバは、軽い雲の上に乗っている」(イザヤ19:1)。
「雲の上に乗ること」は、みことばの知恵の中にいることを意味する、というのは、「馬」は、みことばの理解力を意味するから。神が雲の上に乗らないことをだれが見ないか。
「神はケルブの上に乗った、また天の雲にご自分の天幕を据えた」(詩篇18:10, 11)。
同様に、「ケルブ」もまた、みことばを意味することは下に見られる(239, 672番)。「天幕」は住居を意味する。
[5] 「エホバは水にご自分の食堂を梁を備え付け、雲にご自分の戦車を置く」(詩篇104:3)。
「水」は真理を、「食堂」は教えの事柄、また「戦車」は教えを意味し、それらすべてのものは、みことばの文字どおりの意味からのものであるので、「雲」と言われる。
「ご自分の雲の下の水を結ばない、またそれらの下の雲は破られない。またご自分の雲の王座の上に広げる」(ヨブ記26:8, 9)。同様に。
「神はご自分の光の雲を輝かせる」(ヨブ記37:15)。
「神によって、力を与えよ、雲の上に力を」(詩篇68:34)。
「雲の光」は、みことばの神的真理を意味し、そして「力」は、そこの神的力を意味する。
[6] 「明けの明星(魔王)よ、あなたはあなたの心で、私はそびえ立つ雲の上に上る、私は至高者に似た者になる、と言った」(イザヤ14:14)。
「バビロンを捨て去れ、自分自身を雲までも上げたからである」(エレミヤ51:9)。
「明けの明星(魔王)」と「バビロン」によって、みことばの善と真理を冒涜する者が意味される。それゆえ、「雲」によってそこに、それら〔善と真理〕が意味されている。
「エホバは雲をおおいの中に広げる」(詩篇105:39)。
「エホバは、シオンのすべての住居の上に、昼間は、雲をつくる、なぜなら、すべての栄光の上におおい〔がある〕からである」(イザヤ4:5)。
「雲」によってここにもまた文字どおりの意味の中のみことばが意味され、その意味は霊的な意味を包み、またおおうので、「栄光の上のおおい」と呼ばれる。みことばの文字どおりの意味が、その霊的な意味が損なわないための「被覆(おおい)」であることは、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に見られる(33番)。また「保護(庇護)」であること〔も〕(97番)。
[7] 文字どおりの意味の中のみことばと似たものである最終的なものの中での神的真理は、さらにまたその中にシナイ山の上にエホバが降り、律法を布告した「雲」によって表象されている(出エジプト記19:9、第34章:5)。またさらにイエスが変容されたとき、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをおおい隠した「雲」によって〔表象されている〕、それについてこれら――
「ペテロが依然として話して〔いるとき〕、見よ、雲が彼らをおおった。また見よ、雲から声が言っている、これはわたしの愛する子である、その方を聞け」(マタイ17:5、マルコ9:7、ルカ9:34, 35)。
主はこの変容の中で、ご自分をみことばとして見られるようにされた、それゆえ、雲が彼らをおおい、また雲から、神の子である、との声が聞こえた。「雲からの声」は、みことばからの声である。
「雲」によって、正反対の意味の中で、文字どおりの意味に関した虚偽化されたみことばが意味されることは、他の箇所に見られる。
☆ 「天の」は「黙示録」の原文にはありません。