原典講読『啓示された黙示録』 17(訳文)

(3) 訳文

 17 「死から〔最初に〕生まれた者」は、神的善そのものであることを意味する――

 「死から最初に生まれた者」が何か、ある者にまだ知られていない。また、何を意味するか、古代人により論争された。彼らに、「最初に生まれた者」によって、最初のものと主要なものが意味され、それらから教会のすべてものがあることが知られていた。また多くの者により、教えの真理と信仰であったこと、しかし、わずかな者により、活動での真理と働きであり、それは生活の善であったことが信じられている。これが教会の最初のものと主要なものであることは、またここからほんとうの意味の中で「最初に生まれた者」によって意味されるものであることは〔この後に〕見られる。しかし、最初に、教えの真理と信仰が教会の最初のものと主要なものであること、そのように最初に生まれた者であることを信じている者の見解について言われる。そのことを信じているのは、それが最初に学ばれるから、また教会は真理によって教会であるからである、しかしそれでも真理が生活のものとなる時よりも前に教会ではない。それ以前には、単に理解力の思考と記憶の中にあり、活動での意志の中にない、そして、活動での、すなわち、働きでの真理でないその真理は生きていない。単に枝と葉が繁茂して、実のない木のようである。そして、役立ちへ適用されない知識のようである。また、土台の上に家が建てられ、その中に住む、その土台のようである。これらは時間で最初である、しかし、目的で最初ではない、また最初の目的が主要なものである。なぜなら、最初の目的は家の中に住むことであり、時間で最初のものは土台であるからである。さらにまた、最初の目的は役立ちであり、時間で最初のものは知識である。同じく、木が植えられる時、最初の目的は実である、しかし時間で最初のものは枝と葉である。

 [2] 最初に人間のもとに形成される理解力も同様である、しかし、人間が理解力で見る、という目的のために、〔理解力は〕行なう。そうでなければ、理解力は、よく教える、しかし悪く生きる説教者のようである。

 さらに、真理は人間の内なるものの中で〔種を〕蒔かれ、外なるものの中で根を張る。それゆえ、蒔かれた真理が人間の外なるものの中で根を張らないなら、〔根を張る〕そのことは行動することによって生じる、土の中でなくその上に置かれた木のようになる、しかし、それは太陽の熱が吹きかけられてすぐさま枯れる。〝真理〟を行なった人間は、死後、この根を自分自身にもっている。けれども、それらを信仰だけで知り、認めた人間はもたない。

 さて、古代人からの多くの者は、時間で最初のものであるものを、主要なものである目的で最初のものにしたので、それゆえ、彼らは、これが外観上、最初に生まれた者(長子)である、けれども、実際に〔はそうでは〕ないことを知らないで、最初に生まれた者(長子)が教会の中の教えの真理と信仰を意味することを言った。

 [3] しかし、教えの真理と信仰を主要なものにしたすべての者は断罪された、行動のまた働きのものを、すなわち、生活のものを何も行なわなかったからである、それに真理は内在しない。それゆえ、アダムとエバの最初に生まれた者(長子)であったカインは断罪された。彼によって教えの真理と信仰が意味されることは、『神の摂理』〔原題名『天使の知恵 神的な摂理について』〕の中に見られる(242番)。それゆえ、さらにまた、ヤコブの最初に生まれた者(長子)であったルベンは父により断罪された(創世記49:3, 4)。そして、長子の権利は彼に取り去られた(歴代誌5:1)。ルベンによって霊的な意味の中で教えの真理と信仰が意味されることは、続くものの中で見られる。

  断罪されたので打たれたすべての「エジプトの最初に生まれた者(長子)」によって、霊的な意味で、生活の善から分離した教えの真理と信仰以外のものも意味されない、〔その〕真理は本質的に死んだものである。

 「ダニエル書」と「マタイ福音書」の「ヤギ」によって、生活から分離した信仰の中にいる者以外の他の者も意味されない、その者について『新しいエルサレムの教え 信仰について』の中に見られる(61-68番)。

 生活から分離した信仰の中にいた者が「最後の審判」のころ、退けられ、断罪されたことが、『続 最後の審判について』の中に見られる(16番以降)。

 [4] これらのわずかなものから、教えの真理と信仰は教会の最初に生まれたものでないこと、しかし、活動での真理、すなわち、働き〔であること〕、それは生活の善である。明らかにすることができる。なぜなら、真理が生活のものになる時よりも前に教会は人間のもとになく、またそのとき真理が生活のものになり、その時、それは善であるからである。というのは、理解力の思考と記憶は意志の中に、また活動での意志を通して流入しない、しかし、意志は理解力の思考と記憶の中に流入し、行なうから。また意志から理解力によって発出するものは、愛のものである情愛から理解力のものである思考を通して発出する、またそのすべてのものは善と呼ばれ、そして生活へ入る。それゆえ、主は、「〝真理〟を行なう者は、神の中で〔それを〕行なう」と言われる(ヨハネ3:21)。

 [5] ヨハネは生活の善を、そしてペテロは信仰の真理を表象したので(前の5番に見られる)、それゆえ、ヨハネは主の胸にもたれ、イエスに従った、けれども、ペテロではない(ヨハネ21:18-23)。さらにまた、主はヨハネについて、〔わたしが〕やって来るときまで残る(とどまる)、と言われた(22, 23 節)。今日までもそのようであり、その日は「主の来臨」である。それゆえ、さらにまた、主により、今や、彼らのために生活の善が教えられ、その者は新しいエルサレムであるその方の新しい教会からの者である〔←この「ある(未来)」を直訳ではこれを「あった」と間違えました、訂正します〕。

 要するに、「最初に生まれた者(長子)」は、真理が善から最初に生み出す〔もの〕、そのようにそれは理解力が善から生み出すものである。真理は理解力のものであり、善は意志のものであるからである――この最初のものが、種のようであるので、主要なものであり、それから残りのもの(他のもの)が生まれる。

 [6] 主に関して、その方は「死から最初に生まれた者」である、その方もまたご自分の人間性に関して神的善に結合した真理そのものであり、「それ」から本質的に死んでいるすべての人間が生きるからである。

 同様のものがダビデの書に意味されている――

 

「わたしはその方を最初に生まれた者(長子)にする、地の王よりも高い者にする」(詩篇89:27)。

 

 このことは主の人間性に関して〔である〕。

 ここから、イスラエルは最初に生まれた者(長子)と言われた(出エジプト記4:22, 23)。「イスラエル」によって活動での真理が、「ヤコブ」によって教えの真理が意味され、またこれ〔後者〕だけから〔では〕何らかの教会は生じないので、それゆえ、ヤコブはイスラエルと名づけられた。けれども、最高の意味の中で「イスラエル」によって主が意味される。

 [7] 「最初に生まれた者(長子)」のこの表象のために、

 

 エホバの(ために)、最初に生まれたすべての者と最初に生まれたすべてのものは、聖別された(出エジプト記13:2, 12、第22章28, 29)。

 

「最初に生まれた者(長子)」のその表象のために、

 

 イスラエル教会の中ですべての長子に代わってレビ人が取られ、このようにエホバのものになったことが言われた(民数記3:12, 13、第18章40-46、第18章15-18)。

 

 というのは、「レビ」によって活動での真理が、生活の善が意味され、またそれゆえ、彼の子孫に祭司職が与えられたからである、それについては続くものの中に。

 さらにまたこのために、

 

 長子に二倍の相続財産が与えられ、「力強さの始まり」と呼ばれた(申命記21:15-17)。

 

 [8] 「最初に生まれた者(長子)」が教会の主要なものを意味することは、みことばの中で、自然的な出生(産物)によって霊的な出生(産物)が意味され、またその時、人間のもとに生じるその最初のものが、彼の「最初に生まれた者」によって意味されるからである。というのは、人間の内なるものの中で受胎した教えの真理が外なるののの中に生まれる時よりも前に教会は人間のもとにないからである。

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