(3) 訳文
487. 私は、このような狂気が決して何らかのキリスト教徒の教令より、まして口から広まることができなかった、また公けの光の中で発表されることはないと考えたので(それでも、オランダでのドルト会議の中で聖職者からのこのように多くの選ばれたものにより行なわれ、またその後、きちんと書かれ、また公けの中に送り出された)、それゆえ、私が疑わないように、その会議の教令からであった者のある者が、私に呼び出された。
私の近くで立っていることが見られた時、私は、「だれが何らかの健全な理性から予定を結論することができるのか? 神についての残酷な観念が、そして宗教について言語道断のものここから流れ出るしかありえないのではないか? 予定を自分の確信した心によって彫り込んだ者は、教会のものについて、同様にみことばについて、すべてのものについて空虚なものしか、また、神について、このように多くの無数の人間が地獄へと予定されたのでは、暴君についてのようにしか、何も考えることができないのではないか?」と言った。
[2] これらが言われて、サタンの顔つきで私を眺め、「私たちはドルト会議の中で選ばれた者からである。そしてその時、またさらにその後も今でも、私たちは多くのものの中で、神について、みことばについて、また宗教について確信したが、それらを公けにすることを私たちはあえてしなかった。しかし、それらについて私たちが話し、教えたとき、私たちはいろいろな色の糸から織物を編み、またねじり、またその上に、クジャクの翼から借用した羽毛を撒き散らした」と言った。
しかし、同様に今や(その時)行なうことを欲したので、天使たちは、主から自分自身に与えられた力から、彼らの外なる心を閉ざし、またこれらから〔彼らは〕話すことが強いられた。
またその時、彼らは言った、「私たちの信仰は、それを、他のものから一つのものへ続いたものの結論によって形成した、〔それらは〕これらであった、また今でもある――
[3] (1) 神エホバの何らかのみことばはない、しかし、預言者の口から吐き出された何かすきま風〔がある〕こと。このことを私たちは、みことばはすべての者を天界へ予定し、またそこへ向かう道を歩かないなら、ただ人間だけに責任がある、と考えた。
(2) 存在することが妥当であるので、宗教があること。しかし、大衆のために芳ばしい香りをもたらす突風のように存在すること。それゆえ、それらは大小の聖職者により、またそれはみことばから、教えられなければならない、みことばは受け入れられているからである。このことを私たちが考えたのは、予定があるところに、宗教は無意味であるからである。
(3) 市民の公正の法律が宗教であること。しかし、予定はそれらからの生活にしたがっていない、しかし、絶対的な力の王のもとに〔ある〕ような、単に顔で見られたものからの☆神の純粋な意向から〔のものである〕。
(4) 「神が存在すること」を除いて、教会が教えるすべてのものは、むだ話して反対され、そしてがらくたとして捨てられなければならないこと。
(5) 見せびらかされる霊的なものは、太陽の下のエーテル以上のものではない、それがもし人間の中に深く浸透するなら、彼にめまいと麻痺をひき起こし、また彼を神の前に忌まわしい怪物とする。
(6) その予定から導き出された信仰について、それが霊的なものであるかどうか質問されて、彼らは、「それ〔信仰〕はそれ〔予定〕にしたがって生じる、しかし、それは与えられるとき、幹のようであり、それらから確かに生かされる、しかし、霊的〔なもの〕ではない」と言った。
[4] これらの恐ろしい発言の後、彼らは去ることを欲した、しかし、私は彼らに、「依然として幾分、とどまれ。私はあなたがたの前で「イザヤ書」から読みたい」と言った。
また、私はこれを読んだ――
「あなたがたは喜ぶな、全ペリシテよ、あなたを打っている杖が折られたこと、なぜなら、ヘビの根からバジリスクが出たから、その実は飛ぶ火ヘビ〔となる〕」(14:29)。
また、私はそれを霊的な意味によって、「ペリシテ」によって仁愛から分離した教会が意味されることを、ヘビの根から出た「バジリスク」によって、三つの神について、またそれぞれの個々のものに適合させて帰することの信仰についてのその教えが意味されることを、また飛ぶ火ヘビである「その実」によって、善と真理の何もない転嫁が、しかし、あるいは人間が善く、あるいは悪く生きても、直接の慈悲が意味されることを説明した。
[5] これらを聞いて、彼らは言った、「これがあるかもしれない。しかし、あなたが「聖なるみことば」と呼ぶその本から、予定について何らかのものを取り出せ」。
また、私は開き、同じ預言者の〔この要求と〕一致しているものを差し出した――
「彼らはエジプトコブラの卵を産み、クモの巣を織った。それらの卵から食べる者は、死ぬ。だれかが押しつぶす時、マムシが孵化される」(59:5)。
これらを聞いて、彼らは説明を受けなかった、しかし、呼び出された(五人いた)彼らからのある者は、周囲に火がうす暗く見えた洞穴の中に突進した、〔その火は〕彼らに信仰も仁愛もないことのしるし〔であった〕。
これらから、予定についてその会議の教令が、狂った異端だけでなく、残酷な異端であることが明らかである。それゆえ、その〔文字の〕一つの小点も決して住まないように、これほど脳から、根絶されなければならない。
☆ 「顔つき」が(くるくる)変わるように、気持が変えわる、すなわち、「移り気」から。
(1) 原文
488. Immanis fides, quod Deus praedestinet homines ad infernum, comparari potest cum immanitate patrum apud quasdam barbaras gentes, qui [1]lactentes et infantes suos ejiciunt in plateas: et cum immanitate quorundam hostium, qui homines interfectos projiciunt in silvas a belluis devorandos. Comparari etiam potest cum crudelitate tyranni, qui populum sibi subditum dividit in turmas, et ex his quasdam tradit carnificibus, quasdam projicit in profundum maris, et quasdam in ignem. Comparari etiam potest cum rabie quarundam ferarum, quae devorant suos pullos; et quoque comparari potest cum insania canum, qui involant in imagines suas visas in speculo.
@1 lactentes pro “lactantes”
(2) 直訳
488. Immanis fides, quod Deus praedestinet homines ad infernum, comparari potest cum immanitate patrum apud quasdam barbaras gentes, qui [1]lactentes et infantes suos ejiciunt in plateas: 残酷な信仰は、それは神が人間を地獄へと予定する、たとえられることができる、ある野蛮な国民の残酷な行為の父親に、その者は自分の乳児や幼児を街路の中に投げ出す。
et cum immanitate quorundam hostium, qui homines interfectos projiciunt in silvas a belluis devorandos. またある敵の残酷な行為に、その者は殺した人間を森の中に投げ捨てる、野獣によりむさぼり食われるようにと。
Comparari etiam potest cum crudelitate tyranni, qui populum sibi subditum dividit in turmas, et ex his quasdam tradit carnificibus, quasdam projicit in profundum maris, et quasdam in ignem. さらにまたたとえられることができる、残酷な専制君主(暴君)に、その者は自分自身に権威の下にいる者を、人民を集団に分ける、またこれらの者からある者を死刑執行人に渡す、ある者を海の深みの中へ投げ捨てる、またある者を火の中へ。
Comparari etiam potest cum rabie quarundam ferarum, quae devorant suos pullos; さらにまたたとえられることができる、ある獣の凶暴さに、それは自分の子をむさぼり食う。
et quoque comparari potest cum insania canum, qui involant in imagines suas visas in speculo. そしてまたたとえられることができる、狂気の犬に、それは飛び入る、鏡の中の自分の見られた(ものの)像の中に。
@1 lactentes pro “lactantes” 注1 「lactantes」の代わりにlactentes
(3) 訳文
488. 神が人間を地獄へと予定しているという残酷な信仰は、乳児や幼児を街路の中に投げ出す残酷な行為をするある野蛮な国民の父親に、また、殺した人間を、野獣によりむさぼり食われるようにと森の中に投げ捨てるという残酷な行為をする敵にたとえられることができる。
さらにまた、自分の権威の下にいる人民を集団に分け、これらの者からある者を死刑執行人に渡し、ある者を海の深みの中へ、またある者を火の中へ投げ捨てるという、残酷な専制君主にたとえられることができる。
さらにまた、自分の子をむさぼり食う、凶暴なある獣にたとえられることができる。そしてまた、鏡の中の自分の像に飛び入る狂った犬にたとえられることができる。