[3.] Docet etiam idem Dominus in parabolis, quarum plures involvunt, quod qui bona faciunt, acceptentur, et qui mala, rejiciantur: [3] 主もまた同じことをたとえの中で教えた、それらの多くのものは含んでいる、善を行なう者は受け入れられること、また悪を〔行なう者は〕退けられる(追い払われる)――
Ut in parabola de Agricolis in Vinea (Matth. xxi. 33-44). たとえばブドウ畑の中の農夫についてのたとえの中で(マタイ21:33-34)。
De talentis et minis, cum quibus negotiarentur (Matth. xxv. 14-[6]31; Luc. xix. 13-[7]25. タラントとミナについて、それらとともに(で)商売をする(マタイ25:14-31、ルカ19:13-25)。
Simi]iter de Fide, Jesus dixit, 同様に、信仰について、イエスは言った、
"Qui credit in Me, non morietur in aeternum, sed vivet" (Joh. xi. 25, 26). 「わたしを信じる者は、永遠に死なない、しかし、生きる」(ヨハネ11:25, 26)。
"Haec..est voluntas Patris, ut omnis qui credit in Filium habeat vitam aeternam" (Joh. vi. [8]40). 「これである、父の意志(みこころ)は、すべての者が、その者は子を信じる、永遠のいのちを持つこと」(ヨハネ6:40)。
"Qui credit in Filium, habet vitam aeternam; 「子を信じる者は、永遠のいのちを持つ。
at vero qui non credit Filio, non videbit vitam, sed ira Dei manet super illo" (Joh. iii. 36). しかし、子を信じない者は、いのちを見ない、しかし、神の怒りが彼の上にとどまる」(ヨハネ3:36)。
"Adeo..dilexit Deus Mundum, ut Filium suum Unigenitum dederit, ut omnis qui credit in Ipsum, non pereat, sed habeat vitam aeternam" (Joh. iii. 15, 16). 「これほどに……神は世を愛した、自分のひとり子の息子を与えたように、すべての者が、その者はその方を信じる、滅びないために、しかし、永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3:15,16)。
Et porro, またさらに、
"Amabis Dominum Deum tuum ex toto corde tuo, et in tota anima tua, et in tota mente tua; 「あなたはあなたの神〔である〕主を愛さなければならない、あなたの全部の心から、またあなたの全部の霊魂の中で、またあなたの全部の心(精神)の中で。
….et amabis proximum sicut te ipsum: ……また、あなたは隣人を自分自身のように愛さなければならない――
ex his duobus mandatis lex et prophetae pendent" (Matth. xxii. [9]37-40). これら二つの命令(から)律法と預言者は依存する(~による、かかっている)。
Sed haec sunt perpauca ex Verbo, et sicut aliqui cyathi aquae ex mari. しかし、これらは、みことばからのごくわずかなものである、また海からの何らか(いくつか)の杯の水のように。
@1 21 (cum exemplo Auctoris,) pro “15” 注1 「15」の代わりに21(著者の写し(本)に)
@2 xii. 33 pro “xiii. 12” 注2 「xiii. 12」の代わりにxii. 33
@3 8 (cum exemplo Auctoris,) pro “12” 注3 「12」の代わりに8(著者の写し(本)に)
@4 xiv. 13 (cum exemplo Auctoris,) pro “xx. 12, 13” 注4 「xx. 12, 13」の代わりにxiv. 13(著者の写し(本)に)に)
@5 Jer. xxxii. 19 (cum exemplo Auctoris). 注5 Jer. xxxii. 19(著者の写し(本).
@6 31 (cum exemplo Auctoris,) pro “30” 注6 「30」の代わりに31(著者の写し(本)
@7 25 (cum exemplo Auctoris,) pro “27” 注7 「27」の代わりに25(著者の写し(本)
@8 40 (cum exemplo Auctoris,) pro “40, 16” 注8 「40, 16」の代わりに40(著者の写し(本)
@9 37-40 (cum exemplo Auctoris,) pro “35 ad 38” 注9 「35 ad 38」の代わりに37-40(著者の写し(本)
(3) 訳文
483. みことばは広い意味で律法、すなわち、律法の書であることは全キリスト教世界の中でよく知られている、それにしたがって人間は生きるべきであり、永遠のいのちを割り当てられる。また、そこにしばしば言われていることは、人間は善を行なうべきであること、また悪は〔行なってはなら〕ない、また神を信ずべきであること、また偶像を〔信じてはなら〕ないことではないのか?
またそれはそれらへの命令と勧告で、そして祝福で、そして行なう者のための報酬の約束で、そして行なわない者のための呪いと脅しで満ちている。
これらすべてのものは何のためなのか? もし人間に霊的なものの中で選択の自由がなかったなら、すなわち、救いと永遠のいのちに関係するこのようなものの中に、何も役立ちに仕えない空虚(むだ)なものがないなら。
また、もし、人間が、彼に霊的なものの中で力が何もないこと、また何も自由がない、そのようにそれら(霊的なもの)の中で何らかの意志の力に関係ないという観念にしがみつくなら、聖書はその時、彼に、文字のない白紙のように、またはペンとインクの全部が投げ込まれたような紙のように、または文字なしに小点またはイオタ(点)だけのように、そのように無意味なコーデックス(本)ようにしか見えないのではないか?
[2] このことを、みことばから確認することは、確かに必要なかったであろう。しかし、今日の教会は、霊的なものの中で、心の無意味の中にそれ自体を深く沈め、また確信(証明)のためにそれらを持ち出し、ここからの何らかのものに代わって、それらは誤まって解釈されている〔ので〕、人間に行ない、また信じるように命じられている何らかのものを加えるべきである――それらはこれらである、
「神の王国は、あなたがらから取り去られ、その実を結ぶ国民に与えられる」(マタイ21:43)。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。……すでに☆斧は木の根に置かれている。それで、善い実を結ばないすべての木は切り倒され、火の中に投げ込まれる」(ルカ3:8, 9)。
イエスは言われた、「わたしをあなたがたは主、主と呼ぶ、またわたしが言うそれらを行なわない……〔これは〕何なのか。
わたしにやって来る、またわたしの話を聞く、それを行なうすべての者は……岩の上に家を建てる人間にいている。けれども、聞かない、また行なわない者は、土の上に土台なしに家を建てる人間に似ている」(ルカ6:46-49)。
イエスは言われた、「わたしの母とわたしの兄弟は、神のことばを聞く、またそれを行なう者である」(ルカ8:21)。
「私たちは知っている……神は罪人〔の言うこと〕を聞かない、しかし、もしだれかが神を礼拝するなら、その方のみこころを行なうなら、この者〔の言うこと〕を聞く」(ヨハネ9:31)。
「もし、あなたがたがこれらを知り、それらを行なうなら、あなたがたは祝福である」(ヨハネ13:17)。
「わたしの戒めを持ち、それを行なう者は、わたしを愛する者である……またわたしは、彼を愛する」(ヨハネ14:21)。
「あなたがたが多くの実を結ぶこと、このことの中でわたしの父は栄光を受ける」(ヨハネ15:8)。
「もし、あなたがたがあなたがたに命令される〔ことを〕何でも行なうなら、あなたがたはわたしの友である。
わたしはあなたがたを選んだ……あなたがたが実を結び、あなたがたの実が残るために」(ヨハネ15:14, 16)。
「木を善いものとせよ……木は実から知られる」(マタイ12:33)。
「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:8)。
「善い地に種が蒔かれる者は、この者はみことばを聞く者である……実を結ぶ」(マタイ13:23)。
「刈る者は、報酬を受け、永遠のいのちの中へ〔入る〕実を集める」(ヨハネ4:36)。
「あなたがたを洗え、あなたがたを清めよ、あなたがたの悪の働きを取り除け……。善を行なうことを学べ」(イザヤ1:16, 17)。
「人の子は……自分の父の栄光の中にやって来る……またそのとき、それぞれの者を彼の行ないにしたがって報いる」(マタイ16:27)。
「善を行なった者は、いのちのよみがえりの中に出てくる」(ヨハネ5:29)。
「彼らの働きは彼らに従う」(黙示録14:13)。
「見よ、わたしはすぐに来る、またわたしに、わたしの報酬を、それぞれの者に、わたしは彼の働きにしたがって与えるために」(黙示録22:12)。
「エホバ、その目は開かれている……それぞれの者に与えるために、彼の道にしたがって。私たちの働きにしたがって私たちに行なう」(エレミヤ32:19、ゼカリヤ1:6)。
[3] 主もまた同じことをたとえの中で教え、それらの多くのものは、善を行なう者が受け入れられ、悪を〔行なう者は〕追い払われることを含んでいる――
たとえばブドウ畑の中の農夫についてのたとえの中で(マタイ21:33-34)。
タラントとミナについて、それらで商売をする(マタイ25:14-31、ルカ19:13-25)。
同様に、信仰について、イエスは言われた、
「わたしを信じる者は、永遠に死なない、しかし、生きる」(ヨハネ11:25, 26)。
「父のみこころはこれである、子を信じるすべての者が、永遠のいのちを持つこと」(ヨハネ6:40)。
「子を信じる者は、永遠のいのちを持つ。しかし、子を信じない者は、いのちを見ないで、神の怒りが彼の上にとどまる」(ヨハネ3:36)。
「自分のひとり子の息子を与えたように、これほどに神は世を愛した。その方を信じるすべての者が滅びないで、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:15,16)。
またさらに、
「あなたは、あなたの神〔である〕主を愛さなければならない、あなたの全心から、あなたの全霊で、またあなたの全精神で。……また、あなたは隣人を自分自身のように愛さなければならない――これら二つの命令に律法と預言者はかかっている。
しかし、これらは、みことばからのごくわずかなものである、海からの何杯かの水のように。
日: 2015年3月11日
原典講読『真のキリスト教』484
(1) 原文
484. Quis non videt inanitatem (non volo dicere fatuitatem), in illis, quae supra [1]n. 464, ex libro ecclesiastico Formula Concordiae vocato, adducta sunt, postquam legit illa, et insuper aliqua hinc et illinc in Verbo? Numne cogitaret secum, "Si foret sicut ibi docetur, quod homini nullum liberum arbitrium in spiritualibus sit, quid foret religio, quae est facere bonum, nisi vana vox? et quid ecclesia absque religione, nisi sicut cortex circum lignum, qui non inservit alii usui, quam ut comburatur?" Et insuper cogitaret, "Si non ecclesia, quia non religio, quid tunc caelum et infernum, nisi fabulae ministrorum et praesulum ecclesiae ad captandum plebem, et ad se elevandum ad honores superiores?" Inde est detestabile illud enuntiatum oris apud plures, Quis potest bonum facere a se, et quis potest fidem captare a se, et inde omittunt illa, et paganice vivunt.
At mi amice, fuge malum, et fac bonum, et crede in Dominum ex toto corde tuo, et in tota anima tua, et Dominus amabit te, et dabit amorem ad faciendum, et fidem ad credendum; et tunc ex amore facies bonum, et ex fide, quae est fiducia, credes; et si perseveras ita, fiet conjunctio reciproca, et haec perpetua, quae est ipsa salus et vita aeterna. Si homo ex datis viribus non faceret bonum et ex sua mente crederet in Dominum, quid foret homo nisi solitudo et desertum, et prorsus sicut terra sicca, quae pluviam non recipit, sed repercutit? aut sicut arenarius campus, ubi oves, quibus non pascuum. Ac foret sicut fons exsiccatus; aut ibi sicut aqua stagnata, obstructa vena: aut sicut habitatio, ubi nulla messis, nec ullus lacus; a quo loco nisi actutum fugeret, et quaereret sedem habitabilem alibi, fame et siti moreretur.
@1 n. 464 (cum exemplo Auctoris,) pro “462”
(2) 直訳
484. Quis non videt inanitatem (non volo dicere fatuitatem), in illis, quae supra [1]n. 464, ex libro ecclesiastico Formula Concordiae vocato, adducta sunt, postquam legit illa, et insuper aliqua hinc et illinc in Verbo? だれが無意味(空虚)を見ないか? (私は愚劣と言うことを欲しない)、それらの中に、それらは上の464番に、「一致信条」と呼ばれる教会の本から、提示されている、それらを読んだ後、またそのうえ、みことばの中のここかしこに、何らかのものを?
Numne cogitaret secum, "Si foret sicut ibi docetur, quod homini nullum liberum arbitrium in spiritualibus sit, quid foret religio, quae est facere bonum, nisi vana vox? 自分自身に考えないか? 「もし、そのようにそこに教えられている、であったなら、人間に霊的なものの中で選択の自由は何もないこと〔にならないか〕、宗教は何になった、それは善を行なうことである、空虚な(むだな)言葉でないなら?
et quid ecclesia absque religione, nisi sicut cortex circum lignum, qui non inservit alii usui, quam ut comburatur?" また宗教なしに教会とは何か? 木の周りの樹皮のようにでないなら、それは他の役に仕えない、燃やされるために以外に」。
Et insuper cogitaret, "Si non ecclesia, quia non religio, quid tunc caelum et infernum, nisi fabulae ministrorum et praesulum ecclesiae ad captandum plebem, et ad se elevandum ad honores superiores?" また、そのうえ、考えないか? 「もし、教会がないなら、宗教がないので、その時、天界と地獄とは何か、庶民を捕えるための教会の聖職者と長(指導者)の作り話でないなら、また自分自身をさらに高い名誉へ上げるための」
Inde est detestabile illud enuntiatum oris apud plures, Quis potest bonum facere a se, et quis potest fidem captare a se, et inde omittunt illa, et paganice vivunt. ここからである、多くの者のもとで、口の、その忌まわしい発言、「だれが自分自身から善を行なうことができるのか、まただれが自分自身から信仰を捕える(把握する)ことができるのか」、またここから彼らはそれらを放棄する、また異教徒のように生活する。
At mi amice, fuge malum, et fac bonum, et crede in Dominum ex toto corde tuo, et in tota anima tua, et Dominus amabit te, et dabit amorem ad faciendum, et fidem ad credendum; しかし、私の友よ、悪を避けよ、また善を行なえ、また主を信じよ、あなたの全部の心から、またあなたの全部の霊魂の中で、すると、主はあなたを愛する、また行なうために愛を、また信じるために信仰を与える。
et tunc ex amore facies bonum, et ex fide, quae est fiducia, credes; またその時、あなたは愛から善を行なう、また信仰から、それは信頼である、あなたは信じる。
et si perseveras ita, fiet conjunctio reciproca, et haec perpetua, quae est ipsa salus et vita aeterna. また、もし、あなたがそのようにやり通す(続ける)なら、相互の結合が、またこれが永続するものとなる、それは救いそのものである、また永遠のいのち。
Si homo ex datis viribus non faceret bonum et ex sua mente crederet in Dominum, quid foret homo nisi solitudo et desertum, et prorsus sicut terra sicca, quae pluviam non recipit, sed repercutit? もし、人間が与えられた力(vis)から善を行なわないなら、また自分の心から主を信じる、何に人間はなるか? さびしい場所(荒野)また荒野(砂漠)でないなら、またまったく乾いた地のように、それは雨を受けない、しかし、はじき返す。
aut sicut arenarius campus, ubi oves, quibus non pascuum. または、砂の平地のように、そこに羊、それらに牧草地がない。
Ac foret sicut fons exsiccatus; そして、干し上がった泉のようになる。
aut ibi sicut aqua stagnata, obstructa vena: またはそこによどんだ水のように、ふさがれた水脈――
aut sicut habitatio, ubi nulla messis, nec ullus lacus; または住む場所のように、そこに何も収穫がない、何も水たまり(池)がない。
a quo loco nisi actutum fugeret, et quaereret sedem habitabilem alibi, fame et siti moreretur. その場所から直ちに逃げ出した〔ので〕ないなら、またその場所を求めた、他の場所に住む場所を、飢えと渇きで死んだであろう。
@1 n. 464 (cum exemplo Auctoris,) pro “462” 注1 「462」の代わりにn. 464 (著者の写し(本)に)
(3) 訳文
484. 前の464番の「一致信条」と呼ばれる教会の本から提示されているものを、またそのうえ、みことばの中のここかしこにある何らかのものを読んだ後、だれが無意味(空虚)を見ないか? (私は愚劣と〔までは〕言いたくないが)
自分自身に、「もし、そこにそのように教えられているのであったなら、人間に霊的なものの中で選択の自由は何もないこと〔にならないか〕、善を行なうことである宗教は空虚な(むだな)言葉でないなら何なのか? また宗教のない教会とは何か? 木の周りの樹皮のようにでないなら〔何なのか〕、それは燃やされるためにしか役立たない」と考えないか?
また、そのうえ、「もし、宗教がないので、教会がないなら、その時、天界と地獄は、庶民を捕えるための教会の聖職者と長(指導者)の作り話でないなら、また自分自身をさらに高い名誉へ上げるためのものでないなら何なのか」と考えないか?
ここから、多くの者の口で、忌まわしい発言、「だれが自分自身から善を行なうことができるのか、だれが自分自身から信仰を把握することができるのか」があり、またここから彼らはそれらを放棄し、異教徒のように生活する。
しかし、私の友よ。あなたの全心から、あなたの全霊で、悪を避け、善を行い、主を信じよ、すると、主はあなたを愛し、行なうために愛を、信じるために信仰を与えられる。またその時、あなたは愛から善を行ない、信頼である信仰から、信じる。 また、もし、あなたがそのように続けるなら、〔主との〕相互の結合が、またこれが永続するものとなる、それは救いそのもの、また永遠のいのちである。
もし、人間が与えられた力から善を行なわず、自分の心から主を信じないなら、荒野や砂漠でないなら、また雨を受けず、しかし、はじき返すようなまったく乾いた地でないなら、人間は何になるのか? または、砂の平地のように〔なるのでないなら〕、そこに羊〔がいても〕、それらに牧草地がない。
そして、干し上がった泉のように、または水脈がふさがれて、そこのよどんだ水のようになる――
または何も収穫がなく、何も水たまりのない住む場所のようになる。その場所から直ちに逃げ出し、他の場所に住む場所を求めないなら、飢えと渇きで死ぬであろう。