原典講読『結婚愛』82(直訳[4]と訳文)

[4] Postea dixit, "Demonstra etiam tertium et sequentia;" [4] その後、彼は言った、「第三のもの、また続くものもまた証明せよ」。

Et respondi, "Quid opus est demonstrare, quod fugienda sint mala, quia sunt diaboli et a diabolo? また、私は答えた、「何が必要とされるか☆? 証明すること、悪は避けられるべきであること、悪魔のもの、また悪魔からであるので。

opus estは「必要とされる」意味の非人称構文です。

quodque facienda sint bona, quia sunt Dei et a Deo? そして善は行なわれるべきであること、神のもの、また神からであるので?

tum quod haec facienda sint ab homine ut ab ipso, sed quod credendum sit, quod sint a Domino apud illum et per illum? なおまたこれらは人間により、自分自身からのように行なわれるべきであること、しかし、信じるべきであること、彼のもとの主から、また彼によって〔行なわれる〕ことを?

Quod haec tria vera sint, confirmat universa Scriptura Sacra a principio ad finem; これら三つのものが真理であることは、聖書全体が始めから終りまで確証している。

quid ibi aliud in summa, nisi quam fugere mala et facere bona, ac credere in Dominum Deum? 

et praeterea, absque his tribus non est aliqua religio: 何がそこに他のものが〔あるのか〕要約した形で、悪を避けることと善を行なうこと、そして主なる神を信じること以外でないなら?

estne religio vitae? 宗教は生活のものではないのか?

et quid vita nisi quam fugere mala et facere bona? また、何が生活か、悪を避けることと善を行なうこと以外でないなら?

Quomodo potest homo haec facere et illa credere nisi ut ab ipso? どのように人間はこれら〔善〕を行なうこと、またそれら〔悪〕を避けることができるのか、自分自身からのようにでないなら?

Quare si removes haec ab Ecclesia, removes ab illa Scripturam Sacram, et quoque removes religionem;  それゆえ、もし、あなたがこれらを教会から取り去るなら、あなたはそれ〔教会〕から聖書を取り去る、そしてまた、宗教を取り去る。

quibus remotis ecclesia non est ecclesia." それらで取り去られて、教会は教会でない」。

Vir ille his auditis recessit, et pensitavit; その男は、これらで聞いて引っ込んだ(たじろいだ)また熟考した。

at usque abivit in indignatione. しかし、それでも憤慨の中で去った。

 

(3)訳文

 82.この後、男が北の方位から猛烈に走り寄り、私を脅迫するような顔つきでにらみ、そして興奮した口調で話しかけて、言った、「あなたのか? 神から、天界を通して降る「新しいエルサレム」によって意味される新しい教会を教え、そして、主はその教会の教えの事柄を抱く者に、真の結婚愛が与えられ、あなたはその歓喜と幸福を天界へまで高めるであろうことを言って、世を惑わすことを欲する者は?

 これは作り事ではないのか、またこれをあなたは、あなたの新しいものへ近づけるための、わなや誘惑物として利用していないか?

 しかし、私に、要約して、それら新しい教会の教えの事柄が何であるか言え、私は一致しているかどうか、または一致していないか見よう」。

 私は答えた、「新しいエルサレム」によって意味される「教会の教えの事柄は、これらである、

 (1) 神は唯一であり、その中に神的三一性がある。その方は主イエス・キリストである。

 (2) 救う信仰はその方を信じることである。

 (3) 悪は避けられるべきである、悪魔のもの、悪魔からのものであるから。

 (4) 善は行なわれるべきである、神のもの、また神からものであるから。

(5) これらは人間により、自分自身からのように行なわれるべきである、しかし、、彼のもとの主から、また彼によって〔行なわれるべきである〕ことを信じるべきである。

 [2] これらを聞いて、いくらかの瞬間の間、彼の激怒は引っ込んだ。しかし、いくらかの熟慮の後、再び、私をいかめしい顔つきでにらみ、「新しい教会の信仰と仁愛の教えの事柄はこれら五つの戒め(教え)である〔のか〕?」と言った。

 私は答えた、「〔そう〕である」。

 また、その時、荒々しく質問した、「どのように、あなたは「最初のもの」である『神は唯一であり、その中に神的三一性がある。その方は主イエス・キリストである』ことを証明することができるのか?」

 私は言った、「私はこのように証明する。

 神は一つであり、分割できないのではないのか? 三一性がないか? もし、神が一つであり、分割できないなら、一つの位格(ペルソナ)はないのか? もし一つの位格(ペルソナ)なら、その中に三一性がないか?

 〔その方が〕主イエス・キリストであることは、これらから、

 父なる神からみごもられた(ルカ 1:34, 35)。このように霊魂に関して神である。

 またここから、その方が言われるように、

 父とその方は一つである(ヨハネ 10:30)

 その方は父の中に、父はその方の中に〔おられる〕(ヨハネ 14:10, 11)

 その方を見、その方を知る者は、父を見、知る(ヨハネ 14:7, 9)

父のふところにいる方でないなら、だれも父を見ないし、知らない(ヨハネ 1:18)

 父のすべてのものはその方のものである(ヨハネ 3:3516:15)

道、真理、いのちである。また、その方を通してでないならだれも父へやって来ない(ヨハネ 14:6)

 そのように、その方の中におられるので、その方からである。

 また、パウロにによれば

 その方の中にすべての神性の形をとって充満して住んでいる(コロサイ 2:9)

 そして、さらに、

 その方に、すべての肉の力がある(ヨハネ 17:2)

 その方に、天の中と地の中にすべての力があること(マタイ 28:18)

 それらから、天地の神であることがいえる」。

 [3] その後、「救う信仰はその方を信じることである」という「第二のもの」を私がどのように証明するか、質問した。

 私は言った、「私は、これらの主ご自身のことばによって証明する。

 「これが父の意志(みこころ)である、すべての者が……子を信じる者、永遠のいのちを持つこと」(ヨハネ 6:49)

 「ご自分のひとり子を与えたように、これほど神は世を愛した、その方を信じるすべての者が、滅びないで、永遠のいのちを持つために」(ヨハネ 3:15, 16)

 「子を信じる者は、永遠のいのちを持つ。けれども、子を信じない者は、いのちを見ない、しかし、神の怒りが彼の上にとどまる」(ヨハネ 3:36)

 [4] その後、彼は言った、「第三のもの、また続くものもまた証明せよ」。

 また、私は答えた、「悪は、悪魔のもの、悪魔からのものであるので、避けられるべきであること、そして善は、神のもの、また神からのものであるので行なわれるべきであることを証明するのに、何が必要とされるのか? なおまたこれらは人間により、自分自身からのように行なわれるべきであること、しかし、彼のもとの主から、また彼によって〔行なわれる〕ことを信じるべきであることを?

 これら三つのものが真理であることは、聖書全体が始めから終りまで確証している。何がそこに要約した形で他のものが〔あるのか〕、悪を避けることと善を行なうこと、そして主なる神を信じること以外でないなら? 宗教は生活のものではないのか? 悪を避けることと善を行なうこと以外でないなら何が生活か?

自分自身からのようにでないなら、人間はどのようにこれら〔善〕を行なうこと、またそれら〔悪〕を避けることができるのか?

それゆえ、もし、あなたがこれらを教会から取り去るなら、あなたはそれ〔教会〕から聖書を取り去る、そしてまた、宗教を取り去る。それらが取り去られた教会は教会でない」。

 その男は、これらを聞いてたじろぎ、熟考した。しかし、それでも憤慨の中で去った。

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