(3) 訳文
503. これらにこれらのメモラビリアが付加される。第一のもの――
私は、会議が布告され、その中で霊的な者の中での人間の選択の自由について熟考されることを聞いた。これは霊界の中で生じた。すべての地方から学識のある者が近づいた。その者は、以前に世の中で生き、それについて考え、そして彼らからの多くの者は、その者は、ニカイア前もその後も会議や集会の中にいた。
パンテオンと呼ばれるローマの神殿に似たある種の円形の神殿(教会)の中に集められた、それは以前にすべての神々の礼拝にささげられ、またその後、教皇の座によりすべての聖なる殉教者の礼拝に献納された。
この神殿の中も壁に、祭壇のようなものもまたあった。しかし、それぞれ別々に長椅子があり、その上に集団は座った、そして多く専念するかように肘で祭壇にもたれた。
彼らのもとでリーダー〔として〕果たす何らかの議長は指定されていなかった。しかし、各人が、自分の彼らの意向とともに息を吹きかけ、中央に勢いよく出てきた、また胸から自分の規定を発出し、発表した。また、私は驚いたことに、その会議の中にいたすべての者が、霊的なものの中での無力を完全に確信していた、そのようにそれらの中の選択の自由をあざける者〔であった〕。
[2] 集まった時、見よ、突然とある者が中央に勢いよく出た、また大きな声で次のことを吐き出した――
「霊的なものの中で、塩の柱に変えられた後のロトの妻にあったよりも何らかの選択の自由はない――というのは、もし、人間に選択の自由がさらにあったなら、実際に、自分自身から自分自身に私たちの教会の信仰を要求した、そのことは、父なる神はそれをただで、まったくの自由と意のままに、欲する者に、欲する時、与えたことである。
もし、人間がある種の自由または意向からそれを自分自身にもまた要求することができたなら、この意向とその無料(感謝のしるし)は決して神になかった。また私たちの信仰このようであるので、それは昼と夜に私たちの前に輝く星である、空中の流れ星のように消散させられる」。
[3] この後、他の者が自分の長椅子から勢いよく出て、また言った、「人間に霊的なものの中での選択の自由は、獣に、それどころか犬にあるよりもさらにない。もしそれが人間にあったなら、善を自分自身そのものから行なったからである、そのときそれでもすべての善は神からであり、人間は天界から与えられないものは何も自分自身に取ることができない」。
この後、ある者が自分の椅子から跳び上がり、また中央で声を上げて、言った、人間に霊的なものの中で選択の自由はさらにないこと、それらを見通す(鋭く見る)ことの中でもまた、日中のフクロウであるよりも、それどころか、依然として卵の中に隠れているひなであるよりも――「すべての点で、それらの中でモグラのように盲目である。なぜなら、もしそれを見通す(鋭く見る)ことの中でリュンケリウス☆(鋭い視力)になったなら、信仰、救い、また永遠のいのちのものであるそれらを信じてしまった(であろう)、自分自身そのものが再生することと救うことができることを、そしてまた、それを努力し、またこのように自分の功績の思考と行為で、また功績で冒涜した(であろう)」。
再び、他の者が中央に走り出て、そしてこの言辞を出した。アダムの堕落の後、霊的なものの中で自分自身に何らかものを欲することと理解することができる〔という〕信念を抱く者は、その時、神的な力の一部を所有して、自分自身をちっぽけな神または異教の神と信じるので、自分の権利の中に。狂う、また気違いになる。
[4] この後、もう一人の者が、中央へ〔出ることを〕熱望した、前腕の下に「本」を携えて、その中のものを、今日の福音主義者たちは「一致信条」と呼ばれる正教として誓い、呼んだ。
また、それを開いた、またここから続くものを読んだ――
「人間は善についてまったく害われ、また死んだものである、そのように、人間の中にのように堕落後の、再生前の性質は、霊的な力の少しのもの(火花)も決してとどまらない、または残っていない、それらで彼は神の恩恵に向けて準備され、または〔神からの〕奉納物をつかむ。または、その恩恵で自分自身からまた自分自身によって、存在することができ、または霊的なものの中で、理解すること、信じること、抱くこと、考えること、意志すること、始めること、完成すること、働くこと、協力すること、または自分自身を恩恵に当てはめることまたは適合させることを、または何らかのものを回心へ向けて、あるいは半分のものから、あるいは最小の部分から、自分自身からできる。
そして、霊的なものの中で人間は、それは霊魂の救いについて、ロトの妻の塩の像のようであること眺め、そしていのちを欠いた幹または石に似ており、それは目の、口の、または何らかの感覚の役立ちを持たない。
それでも、代わりに運動の力を持っている、すなわち、外なる四肢を支配すること、公共の集会へ近づくこと、そしてみことばや福音を聞くことができることである」。
(これらは私の〔所有する〕版の中の656, 658, 661-663, 671-673ページに読まれる)。
この後、すべての者は同意し、また一緒に叫んだ、「これは真に正教である」
[5] 私はそばに座り、またそれらすべてのものを懸命に聞いた、また私の霊で燃え立って、大きな声で質問した、「もし、霊的なものの中で、あなたがたが人間を塩の像、獣、盲目、また狂気とするなら、その時、あなたがたの神学は何か、そのすべてと個々のものは霊的なものではないのか?」
これに、何らかの沈黙の後、彼らは答えた、「私たちの神学全体の中にどんなものも理性で把握するものは決して霊的ではない。私たちの信仰は、そこに、単独で霊的である。しかし、これ(信仰)をまったく私たちは閉ざした、だれかが注意深く調べない)うに、また私たちは、霊的な光がここから吐き出さないように、また理解力の前に現われないように、またそのうえ、人間はこれに何らかの自分の選択(自由裁量)から小部分を寄与しないように用心した。
仁愛もまた、すべての霊的なものから私たちは遠ざけ、またそれを単なる道徳的なものとした。同様に十戒〔もした〕。
義認、罪の赦し、再生、またここからの救いについて、何らかの霊的なものも伝えない。私たちは、信仰がそれらを働くことを言う、しかし、どのように〔働く〕かは、まったく知らない。
悔い改めの代わりに、それが霊的なものと信じられないように、私たちは痛悔を用いた、私たちはそれをすべての接触に関して信仰から遠ざけた。
贖罪について、純粋に自然的な観念でないなら私たちは適合させなかった、それらは、父なる神は人類を断罪の下に閉じ込め、子自身がその断罪を自分自身の中に負った、また自分を十字架に掛けられるよう許した(受けた)こと、またこのように自分の父を哀れみの行動(同情)へ促したことである。ほかに同様の多くのものを、それらの中にどんなものでも霊的なものを認めないで、しかし、単に自然的なものを〔認めた〕」。
[6] しかし、その時、最初に抱いた憤りの中に私は居続け、言った、「もし、人間に霊的なものの中で選択の自由がなかったなら、その時、人間は獣のようなものでないなら何になったか?
人間はそのことによって、獣のような獣の上に卓越しないか?
それなしの教会は、洗い張り屋の黒い顔のその目の中に白い斑点(=角膜が白く濁った眼) ☆があるでないなら何か? それのないみことばは、空虚な本でないなら何か?
人間が神を愛し、隣人を愛し、そしてまた信じること以外に、なおまた彼が愛し、また信じることにしたがって救いといのちが彼にあること以外に、何がそこにしばしば言われ、命令されているのか?
みことばの中に、またそれらは十戒の中にあるそれらを理解し、行なう能力がないような、だれがいるのか?
彼に能力を与えなかったのなら、どのように、神はこのようなものを人間に定めることと命令することができたであろうか?
[7] 心が神学の欺きによって封鎖されていないだれか田舎者に、幹と石以上の〔ものでは〕さらに少しもないこと、信仰の仁愛の事柄の中で理解することと意志すること、またここから救いの〔事柄〕、またそれらへ決して自分自身を適合させること、また調節することとができる、と言え(=言ってみよ)、その時、彼は全部の胸で笑い、「何と気違いじみているのか?」と言うのではないのか?〔続けて次のように言うのではないか?〕その時、私に〔とって〕聖職者とその説教とは何か? その時、神殿(教会)は家畜小屋以外のさらに何か? また、その時、礼拝は耕すこと以外のさらに何か? (「おお、何か、狂気、そのように話すこと、愚かさの上の愚かさである。」この直訳を落としました。)「おお、そのように話すことは何たる狂気か、愚かさの上の愚かさである。」
すべての善は神からであることを、だれが否定するのか?
神により、人間に自分自身から善を行なうことが与えられていないか? 信じることも同様である」。
これらで聞いて、すべての者は叫んだ、「私たちは正教から正教で話した、それでも、あなたは田舎者のものから田舎者のように話した」。
しかし、突然に、その時、天界から稲妻が注がれ、「それがそれら(彼ら)を焼き尽くさないように、彼らは群れをなして突発し、またここから逃げた、それぞれの者が自分の家へ」。「・・・」部分の直訳を落としました。
それが彼らを焼き尽くさないように、彼らは群れをなして突発し、またここから、それぞれの者が自分の家へ逃げた」。
☆ ギリシア神話でリュンケリウスは鋭い視力を持つ男として有名でした。ここから「鋭い視力」を意味します。
☆ 布さらし業者は、さらしに使う薬品の影響で「白そこい(白内障)」なる者が多かったのでしょうか?