原典講読『真のキリスト教』461 (直訳[7],[8]と訳文)

(2) 直訳
[7] Praeterea quid actio hominis nisi mens agens? [7] 加えて、人間の行動は何か? 心が行なうのでなければ。
quod enim mens vult et cogitat, hoc agit et loquitur per corpus suum organum; というのは、心が欲し、考えるものを、これをその身体の器官によって行ない、話すから。
quare dum mens ducitur a Domino, ducitur etiam actio et loquela; それゆえ、心が主により導かれる時、行動と話すこともまた導かれる。
ac actio et loquela ducuntur a Domino, cum creditur in Ipsum. そして行動と話すことは主により導かれる、その方が信じられるとき。
Nisi ita foret, dicite si potestis, cur Dominus in Verbo suo millenis in locis mandavit, ut homo amaturus sit proximum, operaturus sit bona charitatis, ac (facturus sit) fructus sicut arbor, ac facturus praecepta, et hoc et illud, ut salvetur; そのようでないなら、あなたがたは言え、もしできるなら、なぜ主はご自分のみことばの中で千を数える箇所の中で、命令したか、人間は隣人を愛すべきであること、仁愛の善を働くべきである、そして木のように実を(生み出すべきである)そして戒めを行なうべきである、またこれやそれを、救われるために。
tum cur dixit, quod homo secundum facta seu opera sua judicaretur, qui bona facit ad caelum et vitam, et qui mala ad infernum et mortem. なおまた、なぜ言われたのか? 人間は自分の行為または働きにしたがって裁かれること、善を行なう者は天界といのちへと、また悪を〔行なう〕ものは地獄と死へと。
Quomodo potuerat Dominus talia loqui, si omne, quod procedit ab homine, foret meritorium et inde malum? どのように主はこのようなことを話すことができたのか? 人間から発出するものが功績を求めるものとここから悪であったなら。
Sciatis itaque, quod si mens est charitas, etiam actio sit charitas; それで、あなたがたは知る(接続)、もし心が仁愛であるなら、行動もまた仁愛であること。
si autem mens est sola fides, quae etiam est fides separata a charitate spirituali, etiam actio sit illa fides." けれども、もし心が信仰のみであるなら、それは霊的な仁愛から分離した信仰でもある、行動もまたその信仰である」。
[8] His auditis, dixerunt sedentes sub lauru, "Comprehendimus quod juste locutus sis, sed usque non comprehendimus." [8] これらで聞いて、月桂樹の下に座っている者たちが言った、「私たちは把握する(理解する)、正しく、あなたが話したこと、しかし、それでも、私たちは把握しない(理解しない)」。
Quibus respondi, "Comprehenditis quod juste locutus sim ex communi perceptione quae est homini ex influxu lucis e caelo cum aliquod verum audit; 彼らに私は答えた、「あなたがたは把握する(理解する)、正しく、私が話したことを、全般的な知覚から、それは人間に天界からの光の流入からある、何らかの真理を聞くとき。
at non comprehenditis ex propria perceptione, quae est homini ex influxu lucis e mundo; しかし、あなたがたはプロプリウムの知覚から把握しない(理解しない)、それは人間に世からの光の流入からある。
binae illae perceptiones, nempe interna et externa, seu spiritualis et naturalis, unum faciunt apud sapientes: それらの二つの知覚は、すなわち、内なるものと外なるもの、または、霊的なものと自然的なもの、賢明な者のもとで一つとなっている。
vos quoque potestis illas unum facere, si spectatis ad Dominum, et removetis mala." あなたがたもまた、それらを一つにすることができる、もしあなたがたが主へ目を向け、また悪を遠ざけるなら。
Haec quia intellexerunt, desumpsi termites ex quadam vite, et porrexi illis, et dixi, "Num creditis quod hoc a me sit, vel a Domino?" これらを彼らは把握した(理解した)ので、私は、あるブドウの木から小枝を選び出した、また彼らに差し出した、また言った、「あなたがたは信じているかどうか、このことが私からであること、あるいは主から?」。
Et dixerunt, quod ex me a Domino; また、彼らは言った、主により私から〔である〕こと。
et ecce termites illi in manibus illorum extruserunt uvas. また見よ、その小枝は彼らの手の中でブドウの実を出した。
At cum recessi, vidi mensam cedrinam, super qua erat liber, sub olea virente, cujus truncum circumligabat vitis. しかし、私が去ったとき、私は(ヒマラヤ)の机を見た、その上に本があった、緑のオリーブの木の下に、〔その〕幹をブドウの木が巻きつけた。
Aspexi, et ecce erat liber per me scriptus, vocatus Arcana Caelestia; 私は見つめた、また見よ、私によって書かれた本があった、『天界の秘義』と呼ばれる。
et dixi, quod in illo libro plene ostensum sit, quod homo sit organum recipiens vitae, et non vita; また、私ったその十分されていること、人間はいのちのれる器官(有機体)であること、またいのちでない。
et quod haec non possit creari, et sic creata inesse homini, plus quam lux oculo. またこれいのち創造れることができないこと、またこのように創造されたものが人間に内在すること、光が目に〔内在すること〕以上にさらに。
 
@1 19 pro “9” 注1 9」の代わりに19
 
(3) 訳文
461. 第三のメモラビリア――
  かつて霊の中で私は霊界の中の南の地方に、またそこのある楽園に進んだ。そして私は、これが今まで観察した他のものにまさることを見た。
 その理由は、庭園が知性を意味し、そして他の者よりも知性を賦与されているすべての者は南の中に移されるからである。
アダムとその妻がいたエデンの園は他のものを意味しない。それゆえ、そこから追放されたことは、知性から、そしてこのようにまたいのちの発達から〔追放されたこと〕を含んでいる。
この南の庭園の中の私が歩いている時、私は、月桂樹の下に座って、イチジクの実を食べている者を認めた。彼らへと私は去った〔近づいた〕、また私は彼らからイチジクの実を求め、彼らは与えた。
 見よ、私の手の中のイチジクの実はブドウの実になった。
そのことを私が驚いたとき、私の近くに座っていた天使の霊が私に言った、「あなたの手の中のイチジクの実はブドウの実になったのは、イチジク(の実)は対応から仁愛の善を、またここから自然的なものの中の信仰を、すなわち、外なる人〔の中の〕、そしてブドウ(の実)は、仁愛の善を、またここから霊的なものの中の信仰を、すなわち、内なる人〔の中の信仰を〕意味するからである。また、あなたが霊的なものを愛するので、それゆえ、そのようにあなたに生じた。というのは、私たちの世界の中で、すべてのものは対応にしたがって生じ、存在するようにな、そしてまた、変化するからである」。
 [2] すぐさま、その時、私に、どのように人間は神により善を行なうことができるのか、またそれでも完全に自分自身からのように行なうことができるのか知ろうとする熱烈なものが出てきた。
それゆえ、私はイチジクの実を食べている者に、どのように彼らはそのことを把握しているか質問した。
これらの者は、そのことを、神がそれを人間の中で内的に、そして人間によって、彼がそのことを知らない時に働くこと以外に異なって把握することができないことを言った。もし、人間がそのことを気づいている、またこのように行なうなら、単に現われるものでないなら善を行なわないからであり、それは内的に悪である。「というのは、人間から発出するすべてのものは、彼のプロプリウムから発出し、またこれは出生から悪であるからである。
どのようにその時、神からの善が、また人間からの悪が結合されること、またこのように結合したものが行動の中に発出することができるのか?。
そして、救いの事柄の中で人間のプロプリウムは絶えず功績を吹き込んでいる。またどれだけこのことを行なうか〔によって〕それだけ主ご自身の功績を取り去り、それは最大の不正と不敬である。 一言でいえば、もし、神が人間の中で働き、人間の中で欲することまたここから行なう善が流入するなら、その善はすべての点で不潔にされ、そしてまた冒涜され、それでも神は決して許さない。
確かに、人間は、自分自身を通して行ない、考えることができる善を神からであること、またそれを神の善と呼ぶことができる。しかしそれでも、そのこと〔がそのよう〕である〔ことを〕、私たちは把握しない」。
 [3] しかし、その時、私は心を開き、言った、「あなたがたは、あ外観から考えているので把握していない、外観から確信した思考は欺きである。
あなたがたは、人間が意志し、考え、またここから行ない、話すすべてのものはが自分自身の中にあること、またしたがって自分自身から〔のものであると〕信じているので、外観とここからの欺きがあなたがたにある。そのときそれでも、流入するものを受け入れる状態以外に、それらの中に彼のものは何もない。
人間は自分自身の中にいのちがない、しかし、いのちの受け入れる器官である。
 「ヨハネ福音書」にもまた言われるように、主は自分自身の中にいのちがある―― 
 
 「父がご自分自身の中にいのちを持つように、そのように子もまたご自分自身の中にいのちを持つことを与えた」(5:26、ほかに他の箇所に、例えばヨハネ11:25,14:6, 19)
 
 [4]
いのちをつくる二つのもの、愛と知恵がある。または、愛の善と知恵の真理と同じものである。これらは神から流入し、また人間により、彼のものであるかのように受け入れられる。またそのように感じられるので、人間から発出するものも、彼の〔ものであるか〕のように〔感じられる〕。
人間に流入し、働きかけ、このように受け入られ、そしてとどまるそのように、人間により感じられることは、主により与えられている。
しかし、すべての悪もまた、神からでなく、しかし、地獄から流入し、これは快さとともに受け入れられる、人間はこのような器官に生まれているからであり、それゆえ、悔い改めによって、また一緒に、主への信仰によって生じ、人間から遠ざけられた悪がどれだけか、それ以上に、神から善の多くのものを受け入れない。
 [5] 知恵、仁愛と信仰は、または一般的ない方で、愛と仁愛の善は、そして知恵と信仰の真理は、流入し、また流入するものは、人間の中で完全に彼の〔もの〕のように、またここから彼の〔もの〕のように発出するもののように見えることが、聴覚で、嗅覚で、味覚で、また触覚で明らかに見られることができる。それらの感覚器官感じられるすべてのものは、外から流入し、それらの中に、同様、内部感覚器官、単なる相違とともに感じられる、後者は見えないものの流入するけれども前者は見えるものの流入する
 一言でいえば、人間からのいのちのれる器官であるしたがって、悪かられるかぎり流入する器官である
 悪かられることができることは、主がそれぞれの人間えている、意志することと理解することをえているからであるまたそれぞれの人間意志から理解力(知性)にしたがってすなわち、同じことであるが〕、★(以下訳れです)でも意志自由から、理解力理性にしたがってなうこれが
 そのことによって、主人間自分自身との結合状態こしまたこのことの改心させ、再生させまた
 [6] 流入するいのちは、主から発出するいのちでありそのいのちは霊、みことばの聖霊ともばれるそれについてもまた、照らすまたかすそれどころか、彼くとわれるしかしこのいのちはによってこされた組織にしたがって多様にされ、変えられる
さらにまたあなたがたは知ることができる、愛と仁愛のすべての善は、また知恵と信仰のすべての真理は流入すること、そのことから、考える者は、このようなものが人間に創造から内在することを、最後に異なって考えることができない、神がご自分を人間に注いだこと以外に、またこのように人間は部分に関して神になったこと。またそれでも、このことを信念から考える者は、悪魔になり、また私たちのもとで死体のように悪臭を放つ。
 [7] 加えて、心が行なうのでなければ人間の行動は何か? というのは、心が欲し、考えるものを、これをその身体の器官によって行ない、話すから。それゆえ、心が主により導かれる時、行動と話すこともまた導かれる。そして主が信じられるとき、行動と話すことはその方により導かれる。
 そのようでないなら、あなたがたは、もしできるなら、なぜ主はご自分のみことばの中で千を数える箇所の中で、命令したか言え、人間は隣人を愛すべきであること、仁愛の善を働くべきである、そして木のように実を(生み出すべきである)そして戒めを行なうべきである、またこれやそれを、救われるために。なおまた、人間は自分の行為または働きにしたがって善を行なう者は天界といのちへ、また悪を〔行なう〕ものは地獄と死へと裁かれると、なぜ言われたのか? 
人間から発出するものが功績を求めるものとここから悪であったなら、どのようにして主はこのようなことを話すことができたのか? 。
 それで、あなたがたは、もし心が仁愛であるなら、行動もまた仁愛であることを知らなければならない。けれども、もし心が信仰のみであるなら、それは霊的な仁愛から分離した信仰でもある、行動もまたその信仰である」。
 [8] これらを聞いて、月桂樹の下に座っている者たちが言った、「私たちは、正しく、あなたが話したことを把握する、しかし、それでも、私たちは把握しない」。
 彼らに私は答えた、「あなたがたは、正しく、私が話したことを、全般的な知覚から把握している、その知覚は何らかの真理を聞くとき天界からの光の流入から人間にある。しかし、あなたがたはプロプリウムの知覚から把握しない、それは人間に世からの光の流入からある。それらの二つ、すなわち、内なるものと外なるもの、または、霊的なものと自然的なものの知覚は、賢明な者のもとで一つとなっている。あなたがたもまた、それらを一つにすることができる、もしあなたがたが主へ目を向け、また悪を遠ざけるなら。
 これらを彼らは把握したので、私は、ブドウの木から小枝を選び出し、彼らに差し出し、言った、「あなたがたは、このことが私から、あるいは主からであることを信じているのか?」
 また、彼らは言った、主により私から〔である〕こと。すると見よ、その小枝は彼らの手の中でブドウの実を出した。
しかし、私が去ったとき、私は幹のブドウの木が巻きついていた緑のオリーブの木の下に、の机を、その上に本があるのを見た。
 私は見つめた、見よ、私によって書かれた『天界の秘義』と呼ばれる本があった。また、私その十分されていること、人間はいのちのれる器官であり、いのちでないこと、またこれいのち、光が目に〔内在することができない〕以上にさらに、創造れ、このように創造されたものが人間に内在することができないことった

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