[8] この〔者の〕後、左に向かって第三の長椅子からのある者が立ち上がり、話して、言った――「私の見解は、『仁愛は、収容所、病院、孤児院また宿泊所を建てること、そして贈り物で支えること』である。
このことを私は、このような善行と援助は公共のものであること、また個人のものを多くの尺度でまさることによって論証する。ここから〔その〕仁愛はさらに善で富んだものまた詰め込んだものになり、その善の総計は増す、そしてみことばの中の約束から期待される報酬は、さらに満ち溢れるものになる。なぜなら、畑を用意し、種を蒔くだれかは、そのように刈るからである。
このことは、貧しい者に与えることまた乏しい者に助けることに豊富にないか?
ここからだれが世から栄光を、また同時に卑下とともに称賛を、被保護者からの感謝の声で得ないか? このことは心を、また同時に仁愛と呼ばれる情愛を、その頂点にまでも高揚させないか?
街路を歩かないで、〔乗り物で〕運ばれる富んでいる者は、壁の近くの脇に座っている者〔物乞い〕に目で気づくことが、また硬貨を差し出すことができない。しかし、そのような者に寄付で貢献し、それは同時に多くの者に役立つ。
けれども、街路を歩き、彼らにこのような蓄積がなくて劣る者は、他のことを行なう」。
[9] これらを聞いて、急にその時、同じ長椅子のもう一人の者が彼の声を大きな音で制し、また言った、「それでも富んでいる者は、貧しい者が貧しい者に与える以上に自分の仁愛の気前の良さ(寛大さ)と優越さを施しで見せないように〔するのがよい〕。というのは、私たちは、行なうすべての者はその人物のふさわしいこと行なうことを知っているから。王は自分のふさわしいことを、指導者は自分のふさわしいことを、役人は自分のふさわしいこと、また従者は自分のふさわしいことを。
なぜなら、本質的に眺められた仁愛は、それをそれらに行なう、人物の高位にしたがって、またここからの職務、しかし情愛の充満にしたがって評価されないから。また、このように〔いやしい仕事をする〕召使いは、贈り物(捧げ物)を与える時、宝物を与えるかまたは〔その約束を〕証言する高位の者よりも、さらに十分な仁愛から惜しまず与えることができる。そのことはさらにまたこれらにしたがっている――
イエスは、「富んだ者が自分の献金を宝庫に投げ入れているのを、さらにまたある貧しい寡婦が二つの微細なものをげ入れた見た。……言った、まことに、わたしはあなたがたに言う、この貧しい寡婦はすべての者にさらに投げ入れた」(ルカ21:1-3)。
[10] これらの〔者の〕後、左に向かって第四の長椅子からのある者が立ち上がり、話し、言った――「私の見解は、『仁愛は神殿(教会)を富ませること、また彼らの聖職者たちをよくしてやること』である。私はこれらによって確信する。それらを行なう者は、自分の心の中で聖なるものを熟考し、また聖なるものから行動し、そしてまた、自分の贈り物を神聖なものとする。
このことを仁愛は要求する、それは本質的に聖なるものであるからである。
神殿(教会)の中のすべての礼拝は聖なるものではないのか?
なぜなら、主は言われたから、
「ふたりまたは三人がわたしの名前の中で集められるところに、彼らの真ん中にわたしがいる」(マタイ23:20)。
そしてその方の召使いである聖職者はそれを執行する。
ここから私は結論づける。これらの者へまた神殿(教会)へ配置される贈り物は、他の者へまた他のもの(事柄)へ割り当てられる贈り物にまさっていること。またさらに、聖職者には祝福を与える機会が与えられていて、それからもまたそれら(贈り物)を聖なるものにする。またその後、自分の奉納物が見られ、それだけ多くの聖所に見られること以上に、このように心を(さらに)広く広げるも、また喜ばせるのは何もない。
[11] その後、右に向かって第四の長椅子からのある者が立ち上がり、またこのように話した――
「私の見解は、『仁愛は昔の教会の〝兄弟であること〟である』ことである。またこのことを私はこれらによって論証する。真の神を礼拝するすべての教会は、昔のキリスト教徒と同様に、仁愛から始まっている。それ〔仁愛〕は心を結合させ、また多くの者から一つをつくるので、それゆえ、自分たち自身を兄弟と、しかし、彼らの神イエス・キリストの中の〔兄弟〕と呼んだ。
しかし、その時、野蛮な国民により囲まれていたので、それらの者を恐れ、自分たちの財産(所有物)を共有することを行なった。そのことから一緒にまた一つの心で喜んだ、また日々の交わりの中で自分たちの救い主なる神、主イエス・キリストについて、そして昼食と晩餐の中で仁愛について話し合い、ここから彼らの〝兄弟であること〔があった〕〟
しかし、彼らの時代の後、分裂(分派)が、また最後におそるべきアリウス主義の信奉者の異端が起こり始めた時、それは多くの者のもとで主の神的人間性について観念を取り去り、仁愛は衰えた、また〝兄弟であること〟は消散させられた。
真理の中で主を礼拝し、その方の戒めを行なうすべての者が兄弟であることは真理である(マタイ23:8)、しかし、霊での兄弟である。しかし、今日、ある者が霊でどんなものか知られないので、自分たちを互いに兄弟と呼ぶようなことは必要とされない。
〝兄弟であること〟は、信仰のみに、さらにまして、救い主なる神、主以外の他の神の信仰にない、それをつくる仁愛がその信仰の中にないからである。それゆえ、私は結論づける。昔のキリスト教徒の〝兄弟であること〟は仁愛であった、しかし、これはあったが〔今は〕ない。しかし、私は、やって来るであろうことを予言する」。
このことを言った時、東の窓を通して炎のような光が現われ、また彼のほほを染めた。その光景を見て、集団は唖然とした。
[12] 最後に、左に向かって第五の長椅子からのある者が立ち上がり、また、この発言に何らかの信条を付け加えることを許すように懇願した、また是認された後、言った、「私の見解は、『仁愛はそれぞれの者にその者の過失(負債)を赦すこと』である。
この見解を私は、聖餐へ近づく者の習慣的な話し方から把握した。というのは、その時、ある者は友に、「私に赦せ、それらを私は違反した」、このように考え、〔このことによって〕仁愛のすべての任務を満たしたから。
しかし、私は自分自身で、このことは単に仁愛の姿が描かれたものであり、その本質の真の形ではない、と考えた。というのは、赦さない者も、仁愛を努力が何もなく求める者もこのことを言い、またこれらの者は、主ご自身が教えられた祈り「父よ、私たちの負債を私たちに赦せ、私たちが私たちに対する違反する者に赦すように」の間にいないからである。
というのは、過失は潰瘍のようであるから。★(この文章の以下の部分が抜け落ちました、ここは直訳のままとします)それは開けられ、治療されないなら、内部に膿(うみ)が固定される、それは近辺を害する、そしてヘビのように周囲を這う☆、また血をあらゆる方向へ膿(うみ)に変える。
☆ circumrepoと思われる語は『レキシコン』にありません。意味はcircum(周りに)+repo(這う)で、想像がつきます。なお初版はcinumrepitとなっており、これは誤植でしょう。
隣人に対する過失も同様であり、それらは悔い改めによって、また主の戒めにしたがった生活によって取り除かれないなら残り、深くとどまるようになる――また悔い改めなしに、自分たちの罪を赦してくれるように主に祈るだけの者は、伝染性の病気に働きかけられた都の市民と同様の者である。その者は執政官に近づき、また、「主人よ、私たちを治療せよ」と言う――それらの者に執政官は言うであろう、「私が何を治療するのか? 医者へ行け、治療法を学べ、また薬を売る人からあなたがたにそれらを得よ、そして用いよ、あなたがたは癒される」。
そして、主は、罪の赦しについて実際の悔い改めなしに懇願する者に言われた、「みことばを開け、またそれを読め、「イザヤ書」でわたしが話したこと――
「わざわいだ、罪を犯す国……不法の重い者……それゆえ、あなたがたが手を伸ばす時、わたしは目をあなたがたから閉ざす。さらにまた、あなたがたが祈りを増しても、わたしは聞かない。……あなたがたを洗え……あなたがたの悪意の働きをわたしの目の前から取り除け、悪を行なうことをやめよ。善を行なうことを学べ」(1:4, 15-18)。
またその時、あなたがたの罪は取り除かれる、そして赦される」。
[13] これらが行なわれて、私は手を伸ばし、たとえ私がよそ者であっても、私の見解もまた付け加えること許すように懇願した。これを主宰者(議長)が提案し、また承諾の後、私はこれらを話した――
「私の見解は、『仁愛は、すべての働きと任務の中で思慮分別をもって公正の愛から、しかし救い主なる神、主からの愛から、行動すること』である。
右側からまた左側からの長椅子の上に座っている者から、私が聞いたすべての見解は、仁愛の称賛すべき実例である。しかし、この集会の主宰者(議長)が導入(序文)として言ったように、仁愛はその起源の中で霊的であり、またその派生物の中で自然的である。また自然的な仁愛は、もし、内部に霊的なものがあるなら、天使の前にダイヤモンドのように透明に見える。しかし、もし、内部に霊的なものがないなら、またここから単に霊的なものなら、天使の前に、煮た魚の目に似ている真珠に見える。
[14] あなたがたが順に発表した仁愛の称賛すべき実例が、霊的な仁愛が吹き込まれたものであるか、あるいは吹き込まれていないものか、私が言うことではない。しかし、私がここで言うことは、霊的な仁愛が〔その〕自然的な形であるために、内在すべき、あるべきである霊的なものが何かである。
それらの霊的なものはまさしく、思慮分別と一緒の公正の愛からのものである。すなわち、人間は、仁愛を表に出す中で見通すために、公正から行なっているか、またこれは思慮分別と一緒に見通しているかどうかである。というのは、人間は親切によって悪を行なうことが、そしてまた、悪を行なったように見えるものによって善を行なうことができるから。
例えば、例として、貧乏な強盗が剣を買うような、たとえこのことを言わなくても、彼が懇願したとき、親切によって、〔買うような〕役に立つ助けで、彼に悪をなす。または、もし彼を牢獄から救い出し、森への道を示す、また自分自身に、「彼が盗むことは私の過失ではない、私は人間に援助を与えた〔だけである〕」言うなら〔悪をなしている〕。
さらにまた他の例がある、例えば、怠惰な者に食べさせ、厳しい労働に追い立てられないように保護し、また、「私の家の部屋の中に、また床の中に横になれ。」なぜ、あなたは疲れたのか?」と言う者である。というのは、彼は怠惰な者に賛同するから。
なおさらにまた、不正直な性質の親類や友を名誉ある職に進める者は、それらの中で多くの種類の悪意を働くことができる。
このような仁愛の働きは、何らかの思慮分別と一緒の公正の愛からでないことを、だれが見ることができないか?
[15] さらにまた逆に、人間は、悪をなすように見えるようなものによって、善を行なうこと――例えば、例として、裁判官が、悪を行なう者を、泣くので、敬虔の声で注ぎ出し、そして隣人であるからと赦してくれるように祈る〔ので〕を赦す〔ようであっても〕、それでも裁判官は、彼が法律にしたがって罰を科する時、仁愛の働きを実践する、というのはこのように彼がさらに進んで悪を行なわないように前もって、そして上の段階の隣人である社会に、害の源であると警告するから、そしてそのような判決がつまづきの石ではない。
さらにまた、自分の主人(雇い主)から、そして両親から、悪行のために懲らしめられるなら、召使いに〔とって〕、そして子どもにとって、善になることを、だれが知らないか?
地獄の中にいる彼らに同様である。彼らのすべての者に悪を行なう愛があり、牢獄に閉じ込められて保たれること、また悪を行なう時、罰せられること、それを主は矯正のために許される。このことは、主は公正そのものであられ、判断力そのものから何でも行なわれるからである。
[16] これらから、〔仁愛が〕どこからであるか見通すことができる、それは前に言われたように、霊的な仁愛は判断力とともに公正の愛から生じる、しかし、救い主なる神、主から以外の別の場所からの愛からではない。そのは理由、仁愛のすべての善は主からであるからである。というのは、言われたから、
「ある者がわたしの中にとどまり、わたしもその者の中にとどまるなら、この者は多くの実を結ぶ、わたしなしであなたがたは何もすることができないからである」(ヨハネ15:5)。
またその方に天の中の地の中ですべての力があること(マタイ28:18)。
また判断力とともに公正の愛は、公正そのものであられる天界の神から以外の別の場所からでなく、またそこからすべての判断力が人間にある(エレミヤ23:5、33:15)。
[17] 右に向かって、また左へ向かって長椅子(ベンチ)から言われたそれらのすべてのものから次の結論が生じる、それらは――仁愛は信仰を吹き込まれた礼儀正しさ(道徳)であること、哀れみの情を吹き込まれた敬虔であること、正直な者にも不正直な者にも善を行なうこと、親類と友にすべての方法(手段)で仕えること、貧しい者に与えることと乏しい者に助けること、病院を建てること、また贈り者で支えること、神殿(教会)を富ませること、またそれらの聖職者によくしてやること、昔のキリスト教徒の兄弟であることであること、それぞれの者にその過失を赦すこと――これらのすべてのものは,判断力ともに公正の愛から行なわれる時、すばらしくよい仁愛の実例である、そうでなければ、仁愛ではない、しかし、単に泉から分離した流れのよう、そして、木から引き裂かれた枝のようであるである。主を信じ、そしてすべての働きと任務の中で公正に正しく行動することが本物の仁愛であるからである。
そこで、主から公正を愛し、またそれを判断力とともに行なう者は、仁愛の像と似姿である」
[18] これらが言い表わされて沈黙が生じた、そのようであることを、内なる人から何らかのものを見るまた認める性質が彼らにある〔からであり〕、しかし、また外なる〔人の〕中に〔その性質はない〕でない。このことは彼らの顔から認められた。
しかし、突然、その時、私は彼らの視野から取り除かれた――なぜなら、私は霊から私の物質的な身体の中に再び入ったからである。というのは、自然的な人は、自然的な身体を着ているので、霊的な人に、すなわち、霊と天使たちに見られないから、逆もまたない。