原典講読『真のキリスト教』464 (直訳[10]と訳文)

[10.] (x.) "Peccatum originis non est quoddam delictum, quod actu perpetratur, sed intime inhaeret infixum naturae, substantiae et essentiae hominis, quod sit scaturigo omnium actualium peccatorum, ut sunt pravae cogitationes, collocutiones, mala opera" (pag. 577). [10] (x) 「原罪☆はある種の過失ではない、それは活動で永続されている、しかし、内部で定着している人間の性質、実体、また本質に植え付けられた(infigo)〔ものである〕、それは実行された罪のすべての噴泉である、邪悪な思考、話すこと、悪の働きのような」(577ページ)
「原罪」はスヴェーデンボリの著作ではpeccatum originalisです。
"Hereditarius ille morbus, per quam tota natura corrupta est, est horribile peccatum, et quidem principium et caput omnium peccatorum, e quo ut radice et scaturigine omnes transgressiones promanant" (pag. 640). 「その遺伝の疾患(病気)は、それによって全部の性質が害される、恐ろしい罪である、また実にすべての罪の始まりと頭(起源)である、それから根と噴泉のようにすべての違反を取り出す」(640ページ)
"Quod natura per id peccatum, tanquam per lepram spiritualem totaliter in intimis etiam visceribus et cordis recessibus profundissimis, tota sit coram Deo infecta et corrupta, et propter hanc corruptionem persona hominis lege Dei accusatur et damnatur, ita ut natura filii irae, mortis et damnationis mancipia simus, nisi beneficio meriti Christi ab his malis liberemur et servemur" (pag. 639). 「性質はその罪によって、あたかも、霊的ならい病によってかのように完全に最内部の中でさらにまた内臓と心臓の奥まった所で、最も深いところで、全部のものが神の前に感染され、害された、またこの腐敗(堕落)のために人間の人物は神の法律で訴えられ(責められ)、断罪される、そのように性質で怒りの、死の、断罪(有罪)の子として、私たちは奴隷である、キリストの功績の恩恵で(助けられて)これらの悪から私たちが解放され、救われないなら」(639ページ)
"Quod ex eo sit totalis carentia seu privatio concreatae in Paradiso justitiae originalis seu imaginis Dei, et quod inde sit impotentia, ineptitudo, et stupiditas, qua homa ad omnia Divina seu spiritualia prorsus ineptus est. 「そのことから、ともに造られたものの☆1全面的な欠乏または剥奪(奪取)があること、楽園の中で、最初の義にまた神の映像に、またここから無力、「不適当」☆2、また愚かさ、それに人間に、すべての神的なものまたは霊的なものに向けてまったく不適当である。
1 concreatum(?)は『レキシコン』にありませんが語形con(=cum)creatumから「〔私たちと〕ともに創造された」といった意味でしょう。
2 ineputitudo(英語ならineputitude)(引用文なので)『レキシコン』にありませんが、このような意味でしょう。
Quod loco imaginis Dei amissae in homine sit intima, pessima, profundissima, inscrutabilis, ineffabilis corruptio totius naturae, et omnium virium, imprimis superiorum et principalium animae facultatum, in mente, intellectu, corde et voluntate" (pag. 640). 「人間の中で神の映像が失われた場所に(代わりに)、最内部の、最も深い、「計り知れない・不可解な・なぞめいた」☆1、言語に絶する腐敗がある、全部の性質に、またすべての力の、特に霊魂の能力の高いまた主要なものの、心(精神・知性)2の中に、理解力で、心と意志で」(640ページ)
1 inscrutabilis(引用文なので)『レキシコン』にありませんが、このような意味でしょう。
2 mensは「心」でも特に精神的な能力を指すことがあります。
 
@1 hominem (cum exemplo Auctoris; sic Formula Concordiae,) pro “homines” 注1 homines」の代わりにhominem (著者の写し(本)に; そのように『一致信条』に)
@2 et (cum Formula Concordiae,) pro “ut” 注2 ut」の代わりにet (『一致信条』に)
@3 “Deum:”sic editio princeps. Formula Concordiae habet “Dominum” 注3 Deum:」――このように初版に。『一致信条』は“Dominum”である。
@4 sanorum (sic Form. Con.,) pro “sacrorum” 注4 sacrorum」の代わりにsanorum (そのように『一致信条』に)
@5 cooperetur (cum exemplo Auctoris; vide etiam Sum. Expos. Doctrinae, n.15,) pro “cooparetur” 注5 cooparetur」の代わりにcooperetur (著者の写し(本); なおまた、『新しい教会の教えの要約』15番を見よ)
@6 579 (cum Sum. Expos. Doct., n. 15,) pro “519” 注6 519」の代わりに579 (『新しい教会の教えの要約』15番に)
 
(3) 訳文
464. (i.)「アウクスブルク信仰告白☆の教師たちは、人間を〔次のように〕断言した最初の両親の堕落から〔の結果〕、霊的な事柄の中で次のように深くそこなわれていること、それらは私たちの回心と救いに向けて眺める〔とき〕本質は盲目であり、また宣べ伝えられた神のみことばを理解もしない、理解することもできない、しかし、それをくだらない事柄のように判断を下し、決して自分自身そのものから神へ近づかない、しかしむしろ神の敵であり、宣べ伝えられ、聞かれたみことばによって聖霊の力で、恩恵だけから、自分の固有の協力なしに回心させられ、信仰を与えられ、再生されられる、また新しくされるまでとどまる」(655, 656ページ)
 [2] 「私たちは、理解力、心また意志が新しくされていない人間に、霊的なまた神的な事柄の中で、自然的な固有な力から〔では〕まったく理解することも、信じ、抱き、考え、意志すること、始め、なし遂げ、行なうこと、働くことまた協力することができないと信じている。しかし、人間は善について、堕落後の人間の性質のようにまったく害われ、死んだものである、そのように、再生の前、火花が確かに霊的ないのちの残りのものに残っていない、それらで彼は神の恩恵に向けて自分自身を準備すること、または〔自分に〕捧げられた物をつかむこと、または自分自身を適合させること、また自分自身によって入れることができない。または、何らかの固有の力で自分の回心へ向けてあるいは全部で、あるいは半分で、あるいは最小の部分で貢献し、行動し、働くかまたは協力すること、自分自身そのものから、またはあたかも自分自身そのものからのようにできない、しかし、人間は罪のしもべであり、サタンから揺り動かされる奴隷である。ここから、これほどまでも、彼の自然的な(生まれながらの)性の選択の自由は、力のそこなわれたものとそのゆがめられた性質で、神に不愉快であり、また対抗するものとなっており、そのことでは働きまた有効である」(656ページ)
 [3] (iii) 「人間は市民的なまた自然的な事柄では勤勉で如才ないしかし、霊魂の救いに目を向ける霊的なまた神的な事柄で、幹、石、ロトの妻の塩の柱と同様であり、それらは目、口、または何の感覚の役立ちも持たない」(661ページ)
 [4] (iv) 「人間は、それでもその場所に運動の力を持つこと、すなわち、外なる肢体を支配すること、福音を聞くこと、また何らかの方法(様式)で熟考すること、しかし、それを言葉に出さない思考の中でくだらない事柄のように軽蔑し、信じることもできない、またこの部分で幹によりもなお悪い、聖霊が〔働いて〕信仰を有効なものとし、また他のところで神が是認している力が〔有効で〕彼の中で〔その信仰が〕燃え立たし、働くものとなっていないなら」(662ページ)
[5] (v)「ある種の論拠で、人間は石または幹でない、と言われることができる――何が自分自身に働きかけられるか、神への回心が生ずるまで、人間が神に自分の意志で反抗するように、石と幹は抵抗しない、理解もしないし、感じもしない。またそれでも、人間は回心の前に理解力を持っている理性的な被造物であることは真実である、しかし、神的な事柄の中では〔理解力が〕また意志がなく、しかし、救いのために善を何も欲しない、それでも自分の回心へと貢献することができず、この部分では幹と石よりもなお悪い」。(672, 673ページ)
 [6] (vi) 全面的な回心は聖霊のみの贈り物と働きあること、その聖霊はそれを自分の力(美徳)と力(能力)で、みことばによって、人間の理解力、心、意志の中に、あたかもそこに人間は何も働かない対象の中に働きかけれるかのように、しかし、それほど多く働きかけ、引き起こす、そして働く、それでも、あたかも石から作られた柱(彫像)に、または蝋(ろう)の中に付けられた印の程度のようにではなく働く蝋(ろう)は知識もなく、意志もないからである」(681ページ)
 [7] (vii) 「ある教父と現代の教師の言ったこと『神が引き寄せる、しかし、望む者〔だけ〕を』にしたがえば、そのように、人間の意志は回心の中で何らかのものを働く。しかし、これらは健全な言葉の類似物ではない、というのは、回心の中での人間の選択の力について誤った見解を確信するから」(582ページ)
[8] (viii) 「理性の対象である世の外なる事柄の中で、人間に、何らかの理解力、力と能力が、たとえ、これらの悲惨な残りのものが非常に弱く、また確かにこれら自体は、遺伝の病気の毒によって感染させられ、そして汚されて、神の前に取るに足らないものであるかのようにいかに小さいものであっても、依然として残されている」(641ページ)
 [9] (ix) 「人間は回心の中で、それによって怒りの息子から恵みの息子になるが、聖霊に協力しない。それどころか、人間の回心はその〔聖霊の〕唯一のまた単独の働きである」(219ページ, 579以降, 663以降、補遺143ページ)
「それでも、再生した人間は聖霊の力によって協力することができた、たとえ、多くの依然として弱々しく一緒に行動するにしても。また聖霊により導かれ、支配され、統制されるかぎり、よく活動する。しかし、それでも、一つの馬車を引っ張る二つの馬のようには聖霊と協力しない」(674ページ)
 [10] (x) 「原罪は、活動して永続するある種の過失ではない、しかし、内部で定着している人間の性質、実体、本質に植え付けられた〔ものである〕、それは邪悪な思考、話すこと、悪の働きのような実行された罪のすべての噴泉である」(577ページ)
「その遺伝の疾患は、それによって全部の性質が害される恐ろしい罪であり、また実にすべての罪の始まりと起源であり、それから根と噴泉のようにすべての違反を取り出す」(640ページ)
「性質はその罪によって、あたかも、霊的ならい病によってかのように完全に最内部の中でさらにまた内臓と心臓の奥まった所で、最も深いところで、全部のものが神の前に感染され、害され、またこの腐敗のために人間の人格は神の法律で責められ、断罪され、そのように私たちは性質では、キリストの功績の助けで、これらの悪から解放され、救われないなら、怒り、死、有罪の子として奴隷である」(639ページ)
「そのことから、楽園の中で、最初の義にまた神の映像として造られたものに全面的な欠乏または剥奪があり、またここから無力、不適当、愚かさがあり、すべての神的なものまたは霊的なものに向けて人間はまったく不適当であること。
「人間の中で神の映像が失われた代わりに、最内部の、最も深いところに、全部の性質に、またすべての力に、特に霊魂の能力の高いまた主要なもの、理解力で精神の中に、心と意志の中に、計り知れない、言語に絶する腐敗があること」(640ページ)
 
アウクスブルク信仰告白は1530年アウクスブルクでルター派が編集した。