原典講読『真のキリスト教』459(訳文~[7]/[18])

(3) 訳文
459. ここに次のメモラビリアが加えられる。
 第一のもの――
 
 私は遠方から五つの学校を見た、それらはいろいろな光で囲まれていた。第一のものは炎のような光で、第二のものは黄色の光で、第三のものは白く輝く光で、第四のものは昼と夕方の間の中間の光で〔囲まれていた〕――第五のものはやっと見られた、というのは夕方のやみの中にのように立っていたから。
 また私は道の中にある者を馬の上に見た、ある者を馬車の中に、またある者を歩いているのを、またある者が走っているまた急いでいるのを、またこれらの者が、炎のような光で囲まれていた第一の学校へ〔行くのを見た〕。
これらを見て、私を欲望が捕えた、また駆り立てた、そこへ出かけ、また聞く、何がそこで議論されるか。それゆえ、急いで私は身支度し、また自分を第一の学校へ急いでいる者の間とし、彼らとともに一緒に入った。
 また、見よ、そこに多くの集団がいた、そこから一部は右へ、また一部は左へ進んだ。
 前部に私は低い講壇を見た、その中にある者が立った、その者は議長の役目を引き受けた。その者は杖を手にし、帽子を頭の上にあり、学校の炎のような色に染まった衣服〔であった〕。
 [2] ここに〔彼らが〕集まった後、彼は声を上げ、言った、「兄弟たちよ、今日『何が仁愛か?』、議論せよ、あなたがたからのそれぞれ、仁愛はその本質の中で霊的であり、実践の中で自然的であることを知ることができる」。
 また、直ちにかって第一長椅らのあるそのには知恵尊重された者が座っていたが、立ち上がった、また話し始めて、言った、「わたしの見解は、『信仰で息を吹き込まれた道徳性が仁愛であること』である」。
 またそれをこのように確証した――
 「女従者が女主人に従うように、仁愛が信仰に続くことをだれが知らないか? また、信仰がある人間、律法、律法と仁愛であることを知らないように無意識に、このように仁愛を行ない、それを生きる。もしまたこのようになわないなら、同時にそのことを救いについて考えるからであり、自分のプロプリウムで信仰の聖なるものを汚し、またこのようにその効力を弱める。このことはたちの教義にしたがっていないか?」 (また、脇へ向かって、座ってる者へ目を向けた、彼らの間に聖職者がいて同意した。)
 [3] 「自発的な仁愛とは、礼儀正しいも振る舞い(道徳)でないなら何か? その中にそれぞれの者は幼児期から導かれ、それはそれゆえ、本質的に自然的なものである、しかし、彼に信仰が吹き込まれる時、霊的なものが生じる。
 だれが人間を見分けるのか? 彼らの道徳的な生活から、彼に信仰があるか、あるいはないか。というのは、すべての者は道徳的に生きるから――しかし、神だけが、その方が信仰を注ぎ、封印し、知り、区別される。
 それゆえ、私は、仁愛が信仰で吹き込まれた道徳であり、信仰からのこの道徳がその内部の中で救うものであることを主張する、しかし、他のすべてのものは功績をもとめるものであるので救いをもたらさないものである。
 それで、仁愛と信仰を混合する、すなわち、それらを内部から結合する、また外部から結び付けない者は、すべてのオリーブ油を浪費する。なぜなら、それらを混合することと結合することは、背後に立つ召使いを、第一人者とともに馬車の中に入れることのように、または、重要人物(高官)ともに門番を食堂の中に食卓に導き入れることのようになるからである。
 [4] これらの後、かって第一長椅らのあるが立ち上がり、また話して、言った――私の見解は、『慈悲を吹き込まれた敬虔が仁愛であること』である、またこのことを私は、低くした心からの敬虔以外にさらに何らかのものは神をなだめることができないことから論証する。そして敬虔は、神が信仰を、また仁愛を与えられるよう、絶えず祈り求める。また、主は言われた、
 
 「祈り求めよ、するとあなたがたに与えられる」(マタイ7:7)
 
 また与えられるので、両方のもの〔信仰と仁愛〕がその〔敬虔〕中にある。
 私は、慈悲を吹き込まれた敬虔が仁愛であることを言う、というのは、信心深いすべての経験は哀れみをかけられるから。なぜなら、敬虔は人間の心をうめくように感動させるから、またこれは哀れむ以外の他の何か? 確かに、これはいのちの後、去る、しかしそれでも、それ(仁愛)ともに戻る。
また戻るとき、その中の敬虔が、またこのように仁愛の中にある。
 私たちの聖職者は、救いを進めるすべてのものを信仰に帰し、仁愛に帰さない――敬虔が両方のものいついて惨めに祈り求めていないなら、その時、何が残るか? 
 私がみことばを読んだとき、信仰と仁愛は救いの二つの手段であるとしか見ることができなかった。 しかし、私が教会の聖職者に助言を求めたとき、私は、信仰は唯一の手段であり、仁愛は何らかのものではないことを聞いた――またその時、私に、あたかも海の中で二つの岩礁の間で揺れる船にいるように見られた。その破壊を私が恐れたとき、私は小舟の中に私に与え、航海した。
 私の小舟は敬虔である。また特に、敬虔はすべてのものに役に立つ」。
 [5] この〔者の〕後、かって第二長椅らのあるが立ち上がり、また話して、言った――
私の見解、『仁愛は、正直な者にも不正直な者にもだれにも善を行なうことであるである。またこのことをはこれらから論証する――
 仁愛心の善良さでないなら何か? また、正直にも不正直にもすべてのする
 また、主、敵にもまたなうべきであることをわれた
 それゆえもしあなたが仁愛をあるからめるなその時、仁愛はその部分して、何もないものにならないかまたこのように人間もうつのものをかれて、一つのぶようにいているようにならないか
 不正直正直しく人間であるまた、仁愛人間人間としてめるもし不正直であってもこのことがとって〕何? 仁愛であるからには、太陽のようであるこれは、獰猛なものもおとなしいものもオオカミとしく羊を生かす。悪い木もそしてしくいばらとブドウの生長させることをなう」
 これらをって、手しいブドウのをつかんだまたった、「仁愛であるからにはこのブドウのについてのようであるもしあなたがそれをけるなら、内部にあるすべてのものが分解する――」。そして、分けたまた分解した
 [6] この発言後、左かって第二長椅らのがり、また言った――「わたしの見解は、『仁愛はすべての方法で血縁(親類)と友人に仕えること』である。そのことを私はこのように論証する――
 仁愛が自分自身ら始まることを、だれが知らないか? というのは、それぞれの者が自分自身に隣人であるから。
 それゆえ、仁愛は自分自身から近似〔の者〕を通って、最初に兄弟と姉妹へ、またこれらから身内と親族へ〔向かい〕、またこのように仁愛はそれ自体(そのもの)により決定される。
 外部にいる者は他人であり、他人は内的には認められない――そのように内なる人から引き離される。
 けれども、自然は血族の者と親族の者を結合する。また第二の自然である習慣は友を結合する。またこのように〔彼らは〕隣人になる。
 また、仁愛は自分自身に他の者を内部から、またこのように外部から結合させる。また、内部から結合しない者は、単に仲間と呼ばれている。
 すべての鳥は、羽毛からでなく、しかし音から、また近くにいるとき、それらの身体から発散したいのちのスフェアから自分の親族関係を知らないか?
 この親類の情愛とここからの結合は、鳥のもとで本能と呼ばれる、しかし、同じものが人間のもとにあり、それは親戚と人間に向かう時、真も人間的な性質の本能である。
 血でないなら何が同質性をつくるのか?
 これを人間の霊でもある彼の心は感じ、そのように嗅ぎ出す。
 この同質性、またここからの和合の中に、仁愛の本質はある
 けれども逆に、異質性は、そこからもまた反感が存在するが、血のものでないようであり、ここから仁愛はない。
 また、習慣は第二の自然であるので、またこのこともまた同質性をつくり、仁愛は友に善を行なうことであることもまたいえる。
 だれが、海から他の港にやって来て、その住民の言語と風習を知らないよそ者の地であることを聞くなら、その時、自分の外部のもののようでないなら〔何も〕存在しない、また彼らに対する愛の快さは何も感じない――けれども、もしその住民の言語と風習を知っている、祖国の地であることを聞くなら、自分の内部のものようであり、またその時、愛から快さを感じ、それは仁愛の快さもでもまたある」。
 [7] その後、かって第三長椅らのあるが立ち上がり、大きい声で話して、言った――わたしの見解は、『仁愛は貧しい者に施し物を与えること、また乏しい者に助けをもたらすこと』である。
 これは神的なみことばが教えるので、確かに仁愛であり、その命令は反駁を入れない。
 富んでいる者と所有している者に助けを与えることは、その中に仁愛はなく、しかし、報酬の幻覚、むなしい名声でないなら、何なのか? またこの中に隣人に対する本物の愛の情愛はありえない、しかし、にせの情愛があり、それは地上で有効である、しかし、天界の中では効力がない。それゆえ、貧乏と欠乏は援助されなければならない、このことの中に返報(報酬)の観念は入らないからである。
私の滞在する都の中で私は正直な者と不正直な者を知ったが、私は、すべての正直(正しい)者は街路の中の貧しい者を見て、階段〔の歩み〕を止め、施し物を与えた、しかし、すべての不正直者は、貧乏な者を脇に見て、見ることに盲目な者のように、またその声の難聴者のように通り過ぎるのを見た。
 また、正直な者に仁愛があり、不正直な者にないことをだれが知らないか?
貧しい者に与え、乏しい者を助ける者は、飢えているまた渇いている羊を牧草地の中へ、また飲み物へ導く羊飼いに似ている――しかし、富んでいる者と満ちている者にだけに与える者は、ちっぽけな神を礼拝し、そして食べ物とブドウ酒を二日酔いをしている者に強要する者に似ている。
 

コメントを残す