原典講読『真のキリスト教』400(訳文)

(3) 訳文
400. (4) 特に、自己愛と世俗愛について――
 1. 自己愛は自分自身だけに善く欲し、自分自身のためでないなら他の者に善を欲しないことである。教会の、祖国の、何らかの人間の社会に、または仲間に決して欲しない――そのようにまた、自分の名声、名誉、また称賛のためにだけ、それらに善を行なう。彼らに行なう善の中にそれらを見ないなら、心で、「何が関係するのか? なぜこれを〔行なわなければならないのか〕、また何がここから私に〔得られるのか〕」と言い、このようにやめる。
 ここから、自己愛の中にいる者は、教会を、祖国もない、社会もない、仲間もない何らかの真の善も愛さない、しかし自分自身と自分自身のものを愛することが明らかである。
 [2] 2. 自己愛の中にいる人間は、それらを考え、行なう時、それらの中で隣人を、そのように公共のことを、まして主を顧慮しない、しかし、自分自身を、また自分自身のものだけを顧慮する。したがって、〔その〕時、自分自身と自分自身のもののためにすべてのことを行なう。また、もし公共のために行なうなら、見られるためにだけである。また、もし隣人のためなら、自分自身に好感を持つためである。
 [3] 3. 自分自身と自分自身のもののために、と言われる。なぜなら、自分自身を愛する者は、自分自身のものもまた愛するからである、それらは特に彼の子と孫である、また全般的に、彼と一つになっているすべての者であり、それらを自分自身のものと呼ぶ。これらとそれらを愛することもまた自分自身を愛することである、なぜなら、彼らを、あたかも自分自身の中に、また自分自身を彼らの中に眺めるからである――自分自身の者と呼ぶ者の間に、彼を誉める、称賛する、また崇拝するすべての者もまたいる。
 残りの者を確かに身体の目で人間のように見る、しかし、自分の霊の目では、幽霊のようにとしか見ていない。
 [4] 4. 自己愛の中にいるその人間は、自分自身を比べて隣人を軽蔑する。もし自分自身に好感を持たないなら、また自分自身を尊ばない、また崇拝しないなら、その者に敵意を持つ――さらになお、自己愛の中にいる者は、そのために隣人に憎しみを持ち、迫害する。またさらになお、その者はそのために彼に対して復讐心燃え、彼の破滅を欲する――このような者は、最後に残酷を愛する。
 [5] 5. 自己愛がどんなものかは、天界的な愛との比較から知られることができる。
 天界的な愛は役立ちのために役立ちを愛することである、すなわち、善のために善を、それらを人間は教会の、祖国の、人間の社会に、また仲間に果たす。しかし、自分自身のためにそれらを愛する者は、彼はそれらを、自分自身に仕えるので、召使いとしか愛さない――ここから、自己愛の中にいる者は、教会、祖国、人間の社会、また仲間が自分自身に仕えるように欲し、また彼がそれらに仕えることを欲せず、自分自身をそれらの上に、またそれらを自分自身の下に置くことがいえる。
 [6] 6. さらに、だれかが天界的な愛の中にいるて、役立ちと善を愛する、また心の快さで働きかけられ、それらを果たせば果たすほど、それだけ主により導かれる、その愛が、その〔愛の〕中にその方が、またそれ〔愛〕はその方からであるからである――しかし、ある者が自己愛の中にいればいるほど、それだけ自分自身によって導かれ、またそれだけ自分自身のプロプリウムによって導かれる。また、人間のプロプリウムは悪以外でないならない、というのは、彼の悪は遺伝のものであるから、それは自分自身を神よりも、また世を天界よりも愛することである。
 [7] 7. さらにまた、自己愛はこのようなものである。彼に抑制がゆるめられる、すなわち、法律とその刑罰のための恐れ、そして名声、名誉、利益、職務を、また、いのちの奪われることの恐れため、外なる束縛が遠ざけられば遠ざけられるほど、それだけ突進し、地球全体の上に支配することを欲するだけでなく、しかし、天界の上にもまた、それどころか、神そのものの上にまでも支配することを欲するようなものである。彼に何らかの限界または終わりは何もない。
 これは自己愛の中にいるそれぞれの者の中に隠れている、それでも世の前に明らかではない、そこに彼を〔前に〕言われた抑制や束縛が押しとどめている。またこのようなそれぞれの者は、そこに不可能なことに向かい合っている時、そこに可能になるまでとどまる。
これらやそれらから、人間は、その者はこのような愛の中にいる、限界のないそのような気の狂った欲望が彼の中に隠れていることを知らない。
 それでもそのようなものであることは、だれも勢力のある者と王のもとに見ることができ、そのような抑制、束縛や不可能なことがない者は領域や国に突進し、また征服し、それらに成功するかぎり、また限界を超えて権力と栄誉を得ようとする――またさらに彼らのもとで、その者は支配を天界の中に広げ、主の神的なすべての力を自分自身に移す。これらの者は絶えず〔どこまでも〕越えて熱望する。
 [8] 8. 二種類の支配がある。一つは隣人に対する愛のもの、またもう一つは自己愛のもの。
 これら二つの支配は互いに対立している。
 隣人に対する愛から支配する者は、すべての者に善を欲し、また役立ちを果たすこと、そのように他の者に仕えること以外に何も愛さない。(他の者に仕えることは他の者に善く欲することから善く行なうこと、また役立ちを果たすことである――)これが彼の愛であり、これが彼の心の快さである。彼もまた、高位に上げられれば上げられるほど、それだけ(さらにまた)ぶ、高位のためにでなく、しかし、それをその時、さらに豊かに、またさらに重要な段階で果たすことができる役立ちのためである――このような支配が天界の中にある。
しかし、自己愛から支配する者は、だれの善も欲しない、しかし、自分自身だけにまた自分自身ものに〔善を欲する〕。果たす役立ちは、自分自身の栄誉と称賛のためであり、それらが彼にただ一つの役立ちである。他の者に仕えることは、仕えられ、尊敬され、また支配するための目的のためである。地位を求めるのは、果たす善のためにでなく、しかし、卓越と称賛の中にいるため〔である〕、またここから自分の心の中に快さが〔ある〕。
 [9] 9. 支配するはそれぞれののもとに、世〔生活後〕、死後もまたしかし、隣人するから支配した、彼天界でもまた支配委任されまたその時、彼らは支配しないしかし愛している役立ちと〔支配する〕。また、役立ちと〔支配するとき、主支配されるけれども、世自己愛から支配した、彼〔生活後〕、〔地位〕奪われ、奴隷状態いやられる
 これらから、今だれが自己愛にいるかられる
 たとえあるいは高慢あるいは従順、外なるでどのようにえても関係ないなぜならこのようなものはなるありそしてなる大部分によりされているまたなる〔人〕はそれらをることをえられているからであるそれらはそれらはけのものと隣人するそのように正反対のものであり、このこともまた自分自身のためである。というのは、公けのものと隣人を愛することは内的にすべての者を感動させることを、またそれだけ評価されることを知っているからである。働きかけるのは、天界がその愛の中へ流入するからである。
 [10] 10. 自己愛の中にいる者のもとにある悪は、全般的に、他の者への軽蔑、ねたみ、自分自身に好意を持たない他の者に対する敵意、ここから敵対感、いろいろな種類の憎しみ、復讐、狡猾さ、欺くこと、無慈悲残酷である――また、そのような悪があるところに、神の軽蔑、また教会の真理と善である神性さへの軽蔑もまたある。それらをもし〔彼らが〕尊ぶなら、口先だけであり、心からではない。
また、ここからそのような悪があるので、似た虚偽もまたある、なぜなら、悪から虚偽があるから。
 [11] 11. けれども、世俗愛は、他の者の富を、どんな技巧で引き出されたものであっても自分自身に欲することであり、そして富の中に心を置くこと、そして、世が彼を霊的な愛から遠ざける、またそのように天界から連れ去ることを被ることである、その霊的な愛は隣人に対する愛である。
 世俗愛の中にいる者は、他の者の財産をいろいろな技巧によって自分自身に運ぶことを欲する、特に、隣人の善を何も行なわないで、狡猾さと欺くことによって〔そうする者、そうである〕。
 その愛の中にいる者は、他の者の財産をほしがる、また利益のために、法律を恐れないかぎり、また名声の奪われることを、奪う、それどころか、略奪する。
 [12] 12. しかし、世俗愛は、自己愛ほどに、天界的な愛に対立していない、それほど大きい悪がその中に隠れていないので。
 [13] 13. その愛は多種多様である――名誉へ高められるための富への愛がある。富を得るための名誉と地位への愛がある。いろいろな役立ちのための富への愛があり、それらで世の中で楽しむ。単なる富のための富への愛がある(そのような愛が貪欲である)。等々。
目的が、そのための富が、役立ちと呼ばれる。そして、目的または役立ちがあり、そこから、愛がそれ自体の性質を引き出す。なぜなら、目的がどのようなものであるか〔によって〕そのために、そのような愛があるから。残りのものは彼に手段として仕える。
 [14] 14. 一言でいえば、自己愛と世俗愛は、主への愛と隣人に対する愛に完全に対立している。それゆえ、前に述べられているような自己愛と世俗愛は、さらにまた地獄の中で支配し、そしてまた人間のもとに地獄をつくる。
 けれども、主への愛は、また隣人に対する愛は、天界的な愛であり、さらにまた天界の中で支配し、そしてまた人間のもとに天界をつくる。

コメントを残す