原典講読『真のキリスト教』 389(訳文])

(3) 訳文
389. 第五のメモラビリア――
 
 かつて天界から、霊たちの世界のある社会ろされたられた。そこの教会二人指導者たちがいた、彼らの聖職者長老とともに
 その紙の中に、主イエス・キリストを天地の神として認めるように(その方が「マタイ」28:18教えるように)そして、律法の働きなしに義とする信仰は間違ったものなので、その教えから去るように、との警告があった。
 その紙は多くの者により読まれ、筆写され、またそれらの中にあったことについて、考え、また多くの者に、思慮分別をもっ話した。しかし、それらを受け入れた後、自分たちの間で、「私たちは指導者たちに聞こう」と言った。
また、聞かれた、しかし、彼ら〔指導者〕は否定(反駁)し、不可とした――けれども、その社会の指導者たちは前の世の中で吸収した虚偽から固い心であった。それゆえ、自分たちの間の短い協の後、天界からやって来た紙をそこへ送り返した。
 その行為で、あるブツブツ声の後、大部分の平信徒は以前の自分の承諾から引き下がった、またその時、霊的なものの中での彼らの判断の光は、それは前に光を放っていたが、急に消えた。再び、しかし、むだに警告された後、私はその沈む社会を見た、しかし、それを深くは見なかった、そのように彼らの視野から私は遠ざかった。彼らはもっぱら主を礼拝し、信仰のみの義認を退けた者であった。
 [2] しかし、数日後、私は「低い地」から上って来るほぼ百人ほどの者を見た、そこへその小さな社会が沈んだのであった、その者は私に近づいた。また彼らからのある話す者が言った、「私は驚くべきことを聞きました――私たちが沈んでいる時、私たちの場所は池のように、しかし、じきに、乾いた地のように、またその後、小さな都に見られ、その中に、多く者に自分の家がありました。
 翌日、私たちは私たちの間で、何をすべきか協議しました。多くの者は、天界から降った紙を送り返し、そこから、またそのためにそのことはこの私たちに起こったので、その二人の教会の指導者たちに近づき、穏やかに非難すべきであることを言いました。さらにまたある者たちを選びました」(また、私に話す者が言った、その者たちからの一人であったこと)
『私たちは、私たちのもとに他の者にまさって教会があること、また宗教があることを信じていました。私たちは福音の最高の光の中にいる、と言われていることを聞いたからです。しかし、私たちからのある者は天界からの照らしを、また照らしの中で知覚を与えられました、今日、キリスト教世界の中に、もはや宗教がないので教会がないことです』。
 [3] 指導者たちは言いました、『何をあなたがたは言うのか? みことばがあり、救い主キリストが知られ、また典礼(秘跡)があるところに教会があるのではないのか?』
 これらに私たちは答えました、『それらは教会のものです、なぜなら、それらは教会をつくるからです、しかし、〔それらは〕教会を人間の外につくらないで、人間の内につくります』。 またさらに言いました、『三つの神が礼拝されているところに教会は存在することができるのですか?
その教え全体がパウロの言ったただ一つの虚偽の理解の上に基づき、またここからみことばの上に基づいていないところに教会は存在することができるのですか?
教会の神そのものである世の救い主が近づかれないところに教会は存在することができるのですか? むしろ宗教は悪を避けることと善を行なうことであることをだれが否定することができますか? 信仰だけが救うこと、また同時に、仁愛が救わないことが教えられるところに、何らかの宗教がありますか? 人間から発出する仁愛は、道徳的また市民的な仁愛以外でないなら存在しないことが教えられるところに、宗教がありますか? その仁愛の中に、何らかの宗教のものがないことをだれが見ませんか? 信仰だけの中に何らかの行なわれたものまたは働きのものがありますか、そのときそれでも行なうことの中に宗教が存します。 仁愛の善による救うすべてのものを排除する国民は全地の地球の中に存在しますか? そのときそれでも、宗教のすべてのものは善の中に、また教会のすべてのものは教えの中に存します、それは真理を、また真理を通して善を教えます。もし私たちが、天界から降ったその紙を私たちの内部に運び、それを受け入れたなら、私たちにどんな栄光があったでしょうか』。
 [4] 「その時、指導者たちは言いました、『あなたはあまりに声高に話す――完全に義とするまた救う信仰である活動での信仰が、教会ではないのか? また、発出するまた完成する信仰の状態が、宗教ではないのか? このことを把握せよ、子たちよ』」。
 「しかし、その時、私たちの賢明な者は言いました、『聞いてください、父たちよ――人間は活動での信仰をあなたがたの教義にしたがって切り株のように〔心に〕抱きませんか? 切り株は教会の中で生かされることができますか? あなたがたの観念にしたがって信仰の状態は、活動での信仰の継続と進行ではありませんか? また、あなたがたの教義にしたがうとき、救うすべての者は信仰の中にあり、また人間により仁愛の善の中に何らかのものはなく、その時、どこに宗教がありますか?』
 その時、高位聖職者は言いました、『友よ、そのようにあなたは話す、あなたは信仰のみによる義認の秘義を知らないからである。また、それを知らない者は、内的なものによる救いの道を知らない。 あなたの道は外なるものであり、庶民のものである。もし、あなたが欲するなら、それを行け。しかし、あなたは単に知らなければならない、すべての善は神からであり、決して人間からでないこと、またこのように人間は霊的なものの中で決して自分自身からできないこと。その時、どのように人間は霊的な善である善を自分自身から行なうことができるのか』。
 [5] これらに、彼らと〔話す〕私たちの話す者は、大いに憤慨して答えました、『私はあなたがたの義認の秘義をあなたがたよりもさらに知っています、また腹蔵なくあなたがたに言います、あなたがたの秘義の中の内部に、私は亡霊以外でないなら見ませんでした。宗教は神を認めることと愛すること、そして悪魔を避けることと憎しみを持つことではありませんか? 神は善そのもの、悪魔は悪そのものはありませんか? 
 全地の地球の中で宗教があるだれが、このことを知りませんか?
 神を認めることと愛することは、善を行なうことではありませんか? これは神のもの、また神からのものであるので、また悪魔を避けることと憎しみを持つことではないありませんか、悪を行なわないこと、これは悪魔のもの、また悪魔からのものであるからです。
 または同じことですが、あなたがたが十分に義とするまた救う信仰と呼ぶ、または同じことですが〕、信仰のみによる義とするあなたがたの活動と呼ぶ、あなたがたの活動での信仰は、何らかの善を行なうことを教えませんか? 善は神のもの、また神からのものであり、何らかの悪を避けること、それは悪魔のもの、また悪魔からのものであることを教えませんか? 
あなたがたが発出するまた完全にする信仰と呼ぶあなたがたの状態での信仰は、活動での信仰と同じものでないなら何ですか。
 あなたがたが、自分自身によるように人間によるすべての善を、あなたがたの秘義の中で、『救いは好意からのものであるとき、どのように人間は自分自身からの何らかの善によって救われることができるのか?』と言って排除するとき、どのようにこれは完全にされることができるのですか? なおまた、『人間による善は功績を求めるものでないなら何か? それでもすべての功績はキリストものである。それゆえ、救いの理由で善を行なうことは、自分自身に帰することにな、それはキリストだけのものである、さらにまたこのように自分自身に義とすることと救うことを欲することなる』。なおまた、『聖霊がすべてのものを、人間の何の働きもなしに働くとき、どのようにだれかが善を働くことができるのか? その時、人間によるすべての善は本質的に善でないとき、人間からのその付けたし善からの働きとは何か?』ほかに多くのこと――
 [6] これらがあなたがたの秘義ではありませんか? しかし、それらは私の目に、あなたがたが仁愛の善である善の働きを遠ざける目的のために引き起こしたつくった単なる詭弁と欺瞞です、それらは、あなたがたの信仰のみを確実にするためのものです。
 またこのことをあなたがたは行なうので、あなたがたは人間を、それら〔善の働き〕に関して、また全般的に、教会と宗教のものであるすべての霊的なものに関して、丸太のように、あるいは、生命のない偶像(彫像)のように見なし、人間を神の像へ向けて創造されたものとして見なしません、人間には、理解し、意志し、信じ、愛し、そして話し、行なう能力が、完全に自分自身からのように、特に霊的なものの中で与えられ、また絶えず与えられています、人間はそれらから人間であるからです。
 もし、人間が自分自身からのように霊的なものの中で考えず、活動しないなら、その時、みことばとは何ですか? その時、教会と宗教とは何ですか? また、その時、礼拝とは何ですか?
 あなたがたは、愛から隣人に善を行なうことが仁愛であること知っています。しかし、あなたがたは、何が仁愛か知りません。そのとき、それでも、仁愛は信仰の霊魂と本質です――また仁愛はそれら両方のものであるので、その時、仁愛から遠く離れた信仰とは 死んだものでないなら何ですか? 死んだ信仰は亡霊以外の何ものでもありません。私はそれを亡霊と呼びます、ヤコブが善の働きなしの信仰を、死んだものとだけでなく、しかし、悪魔のようなものともまた呼んだからです』。
 [7] その時、その指導者たちからの一人は、自分の信仰が死んだもの、悪魔のもの、亡霊と呼ばれれいるのを聞いたとき、自分の頭から司教冠をひったくって、『私たちの教会の敵を復讐する前に、私は取り戻さない』と言って、机の上に投げ出し、それほどに激しく怒った。また、ぶつぶつ言いながら頭を動かし、また、「あいつだ、ヤコブ、あいつだ、ヤコブ」言った。
 司教冠の額の部分に金属板あり、それに「義とする信仰のみ」と彫り込まれていた。
 またその時、突然、地から起き上がる怪物が見られた。七つの頭、雌グマのような足、ヒョウのような身体、ライオンのような口があり、「黙示録」(13:1, 2)に描かれている獣にまったく似ていた、その像が造られ、崇拝された(14, 15)。この怪物は机から司教冠を取り、その下方を広げた、自分の七つの頭の上に置いた。その行為で、その足の下に、地は開き、沈んだ。
 これを見て、指導者は叫んだ、『暴力、暴力』。
 その時、私たちは彼らから去った、また、見よ、私たちの目の前に階段。それを通って私たちは上り、地の上へ戻り、また視野の中に天界〔が現われた〕、そこに私たちは以前にいた」。
 これらを、他の百〔人〕とともに「低い地」から上ったその霊は私に語った。

原典講読『真のキリスト教』 390(原文と直訳[1])

(1) 原文
390. Sextum Memorabile:
 
In plaga septentrionali mundi spiritualis audivi sicut strepitum aquarum. Quare illuc accessi; et cum prope eram, cessavit strepitus, et audivi sonorum sicut ex congregatione: et tunc visa est domus foraminosa, circumcincta macerie, e qua auditum est sonorum illud. Accessi erat ibi ostiarius, quem quaesivi, "Quinam ibi."
Dixit, quod essent sapientum sapientes, qui inter se concludunt res supranaturales; loquebatur ita ex simplici sua fide.
Et dixi, "Liceatne intrare?"
Dixit quod liceat, "Modo ne aliquid loquaris; quoniam ex venia admitto gentiles, qui in ostio mecum stant."
Quare intravi, et ecce erat circus, et in ejus medio pulpitum, et coetus sapientum ita dictorum ventilabant arcana fidei eorum; et tunc materia seu propositio ventilationi subjecta fuit, Num Bonum, quod homo in Statu Justificationis per fidem, seu in Progressione ejus post Actum, facit, sit Bonum religionis, vel non. Dixerunt unanimiter, quod per bonum religionis intelligatur bonum quod confert ad salutem.
[2.] Ventilatio acris fuit; sed praevaluerunt, qui dixerunt quod bona quae homo in statu seu progressione fidei facit, sint modo bona moralia, quae ad prosperitatem in mundo conducunt, sed nihil ad salutem conferunt; ad hanc confert modo fides. Et confirmarunt illud ita: "Quomodo potest aliquod bonum voluntarium hominis conjungi cum gratuito? fitne salvatio gratis? Quomodo potest aliquod bonum ab homine conjungi cum merito Christi? estne per id unice salvatio? Et quomodo potest operatio hominis conjungi cum operatione Spiritus Sancti? Facitne ille omnia absque ope hominis? Suntne illa unice salvifica in actu justificationis per fidem, permanentque illa tria unice salvifica in statu seu progressione ejus? Quare bonum accessorium ab homine nequaquam potest vocari bonum religionis, quod, ut dictum est, confert ad salutem; sed si quis id facit propter salutem, quoniam ei inest hominis voluntas, et haec non potest, non spectare id ut meritum, potius vocandum est malum religionis.'
[3.] Stabant duo gentiles juxta ostiarium in vestibulo, et audiverunt haec; et dicebant inter se, "His non est aliqua religio: quis non videt. quod bonum facere proximo propter Deum, ita cum Deo, et a Deo, sit quod vocatur religio?" Et alter dixit, "Fides illorum infatuavit illos.
Et tunc quaesiverunt ostiarium, "Quinam sunt illi?"
Dixit ostiarius, "Sunt sapientes Christiani." Et responderunt, "Garris, mentiris; sunt ludiones; ita loquuntur."
Et ego abivi. Quod ad illam domum venerim, et quod tunc deliberaverint de rebus illis, et quod factum sit sicut describitur, fuit ex auspicio Divino Domini.
 
(2) 直訳
390. Sextum Memorabile:― 第六のメモラビリア――
 
In plaga septentrionali mundi spiritualis audivi sicut strepitum aquarum. 霊界の北の方位の中に、私は水の騒音を見いた。
Quare illuc accessi; それゆえ、そこへ、私は近づいた。
et cum prope eram, cessavit strepitus, et audivi sonorum sicut ex congregatione: また近くに私がいたとき、私は集会からのような音声を聞いた。
et tunc visa est domus foraminosa, circumcincta macerie, e qua auditum est sonorum illud. またその時、私は穴だらけの家を見た、壁で囲まれた、それからその音声が聞こえた。
Accessi erat ibi ostiarius, quem quaesivi, "Quinam ibi." 私は近づいた、そこに門番がいた、彼に私は質問した、「だれがそこに」。
Dixit, quod essent sapientum sapientes, qui inter se concludunt res supranaturales; 彼は言った、賢明な賢明な者たちがいたこと、その者たちは自分たちの間で超自然の事柄を証明している(結論づけている)
loquebatur ita ex simplici sua fide. そのように自分の単純な信念(信仰)ら話した。
Et dixi, "Liceatne intrare?" また私は言った、「入ることが許されるのか?」
Dixit quod liceat, "Modo ne aliquid loquaris; 許されることを言った、「ただ、何らかのことをあなたは話さないように。
quoniam ex venia admitto gentiles, qui in ostio mecum stant." 私がよそ者を入れる許可からであるから、その者は入り口の中で私とともに立つ」。
Quare intravi, et ecce erat circus, et in ejus medio pulpitum, et coetus sapientum ita dictorum ventilabant arcana fidei eorum; それゆえ、私は入った、また見よ、円形のもの(丸い場所)あった、またその真ん中に講壇、また賢明な者の集団が、いわゆる(そのよう言われる)、彼らの信仰の秘義を議論していた。
et tunc materia seu propositio ventilationi subjecta fuit, Num Bonum, quod homo in Statu Justificationis per fidem, seu in Progressione ejus post Actum, facit, sit Bonum religionis, vel non. またその時、主題、すなわち、提出された討議の主題(問題)は、善かどうか、人間が信仰によって義認の状態の中で、または、行為の後、その進歩(発展)の中で、行なう、宗教の善である、あるいはない。
Dixerunt unanimiter, quod per bonum religionis intelligatur bonum quod confert ad salutem. 彼らは一致して言った、宗教の善によって善か意味されること、それは救いに寄与する。