[2] *Quondam erat sermo de hac re ibi, ac viri ex persuasione ab uxoribus instabant, quod illi ament, et non uxores, sed quod uxores amorem recipiant ab illis. [2] かつて、ここでこの事柄について会話があった、そして男(夫)たちは、妻たちからの信念から主張した、彼らが愛すること、また妻たちでなく、しかし、妻たちは愛を彼らから受けること。
Ut lis hujus arcani dirimeretur, ablatae sunt a viris omnes feminae una cum uxoribus, et simul cum illis ipsa sphaera amoris sexus remota est; この秘義の論争に解決されるために、男(夫)たちからすべて女が、妻たちと一緒に、また同時にそれらともに性愛のスフェアそのものが遠ざけられた。
qua remota viri in statum prorsus peregrinum, et prius nusquam perceptum, venerunt, ex quo multum conquesti sunt. それらが遠ざけられて、男(夫)たちはまったく未知の(奇妙な)状態の中に、また以前に決して感じられなかった、やって来た、そのことから大いに不平があった。
Tunc cum in illo erant, adductae sunt ad illos feminae, et ad maritos uxores, ac hae et illae blande alloquebantur illos; その時、その中にいたとき、彼らに女たちが連れて来られた、また夫たちに妻たちが、そしてこれらやそれらが優しく彼らを話しかけた。
sed ad blanditias illarum frigidi facti sunt, et averterunt se, et dixerunt inter se, "Quid hoc? Quid femina?" しかし、 彼女たちのおべっか(お世辞)に冷たさの〔感情が〕ひき起こされた、また自分自身を背かせた、また自分たちの間で言った、「これは何か? 女とは何か?」
Et cum quaedam dicerent, quod uxores illorum essent, respondebant, "Quid uxor? non cognoscimus vos." また、ある者たちが言ったとき、彼らの妻たちであったこと、彼らは答えた、「妻とは何か? 私たちはあなたがたを知らない」。
At cum uxores de hac prorsus frigida indifferentia virorum inciperent indolere, et quaedam lachrymare, sphaera amoris sexus feminini, et conjugialis, quae hactenus viris ablata fuit, restituta est; しかし、妻たちが夫たちのこのまったくの冷たい無関心について悲嘆することを始めたとき、またある者は涙を流すこと(泣くこと)、女の性愛のスフェアが、結婚の、それは今まで男(夫)たちに取り去られた(aufero)、回復された。
et tunc viri illico in statum priorem suum redierunt; またその時、男(夫)たちに直ちに前の自分の状態が戻った。
amatores conjugii in suum, et amatores sexus in suum. 結婚を愛する者たちは自分のものの中に、また性を愛する者は自分のものの中に。
Sic convicti sunt viri, quod nihil amoris conjugialis, ne quidem amoris sexus, apud illos resideat, sed solum apud uxores et feminas: このように男(夫)たちは確信させられた、結婚愛の何もののないこと、性愛でさえない、彼らのもとに住む、しかし、妻と女たちのもとにだけ。
sed usque postea uxores ex prudentia sua adduxerunt viros ad credendum, quod amor resideat apud viros, et quod aliqua scintilla ejus possit ab illis transire in se. しかしそれでも、その後、妻たちは自分の思慮分別から、男(夫)たちを信じることへ連れて来た(ひき起こした)、愛が男(夫)たちのもとに住むことを、また何らかのその火花が彼女たちから自分自身の中に移ることができること。
[3] Experientia haec hic adducta est, ut sciatur quod uxores sint amores, et viri receptiones. [3] この経験がここに提示されたのは、知られるためである、妻たちは愛であること、また男(夫)は受け入れるもの〔である〕。
Quod viri sint receptiones secundum sapientiam apud se, imprimis secundum hanc ex religione, quod sola uxor amanda sit, patet ex eo, quod dum sola uxor amatur, amor concentretur; 男(夫)は自分自身のものと知恵にしたがって受け入れるものであることは、特に宗教からこれにしたがって、妻だけを愛さなくてはならないこと、このことから明らかである、妻だけが愛されるとき、愛は集中させられること。
et quia etiam nobilitatur, maneat in suo robore, consistat et persistat; さらにまた高貴なものにされること、その力強さにとどまる、持続する、また存続する。
et quod alioquin foret, sicut dum triticum ex horreo projicitur ad canes, unde fit domi egestas. またそのことはそうでなければ、穀物倉から犬に投げ捨てられる小麦の時のように、なった(なる)であろう、ここから家に欠乏が生じる。
* NOTA EDITORES.―Ab Auctuore hic paragraphus signis citationis inclusus est. 出版する者の注:著者によりこの段落は引用の印で囲まれている(閉ざされている)。
(3)訳文
161.(5) 妻から彼女の愛にしたがって夫(男)に結合が吹き込まれ、彼の知恵にしたがって夫(男)により受け入れられること。
愛とここからの結合が妻から夫(男)に吹き込まれていることは、今日、夫(男)たちに隠されている、それどころか一般的に彼らから否定されている。その理由は、妻たちは、夫(男)たちだけが愛する、また自分たち自身は受けること、または、夫(男)は愛である、また自分たち自身は従順〔である〕ことを確信させるからである。夫(男)たちがそのように信じる時、〔妻たちは〕心から嬉しがる。このことを彼らに確信させることは、多くの理由がある、それらは妻たちの思慮分別と慎重さのすべてのものであり、それらについて何らかのものが続くものの中で、また特に「配偶者(夫婦)の間の冷たさ(冷淡)、分離また離婚の原因について」の章の中で言われる。
愛を吹き込むことまたはしみ込ませることが、妻たちから夫(男)たちへであることは、夫(男)たちのもとに結婚愛は、そのうえ性愛も何もない、しかし、妻たちまた女たちのもとにだけ〔ある〕からである。そのようであることは、霊界の中で私に生き生きと示された。――
[2] かつて、ここ〔霊界〕でこの事柄について会話があった、そして男(夫)たちは、妻たちからの信念から、妻たちでなく自分たちが愛すること、しかし、妻たちは愛を自分たちから受けることを主張した。
この秘義の論争が解決されるために、男(夫)たちからすべて女が、妻たちと一緒に、また同時にそれらともに性愛のスフェアそのものが遠ざけられた。それらが遠ざけられて、男(夫)たちはまったく未知の、また以前に決して感じられなかった状態の中にやって来た、そのことから大いに不平があった。
その中にいたその時、彼らに女たちが、また夫たちに妻たちが連れて来られた、そして彼女たちが優しく彼らに話しかけた。しかし、彼女たちのお世辞に冷たさの〔感情が〕ひき起こされ、また背むき、自分たちの間で言った、「これは何か? 女とは何か?」
また、ある者たちが、彼らの妻たちであることを言ったとき、彼らは答えた、「妻とは何か? 私たちはあなたがたを知らない」。
しかし、妻たちが夫たちのこのまったくの冷たい無関心について悲嘆し、またある者は泣き始めたとき、今まで男(夫)たちに取り去られていた女の性愛の、結婚のスフェアが、回復された。またその時、男(夫)たちに直ちに前の自分の状態が。結婚を愛する者たちはその中に、また性を愛する者はその中に戻った。
このように、男(夫)たちは、彼らのもとに住む結婚愛が何も、性愛でさえ何もないことない、しかし、妻と女たちのもとにだけ〔住むことを〕確信させられた。しかしそれでも、その後、妻たちは自分の思慮分別から、愛が男(夫)たちのもとに住むこと、また何らかのその火花が彼女たちから自分自身の中に移ることができること信じることを男(夫)たちに、ひき起こした。
[3] この経験がここに示されたのは、妻たちが愛であり、男(夫)は受け入れるもの〔である〕ことが知られるためである。
男(夫)は自分自身のものと知恵にしたがって、特に宗教から、妻だけを愛さなくてはならないことにしたがって、受け入れるものであることは、このことから、妻だけが愛されるとき、愛は集中させられ、さらにまた高貴なものにされ、その力強さにとどまり、持続し、存続することが明らかである。またそのことはそうでなければ、小麦が穀物倉から犬に投げ捨てられる時のようになり、ここから家に欠乏が生じるであろう。