原典講読『啓示された黙示録』 464,465

EXPLICATIO.

説明

 

 (1) 原文

464. In hoc et in sequente capite agitur de Domino, quod sit Deus Caeli et Terrae, et quod sit Deus etiam quoad Humanum; consequenter quod Jehovah sit Ipse. Quod de hoc in binis his capitibus agatur, videri potest ex singulis in Sensu spirituali, et ex clausula eorum, cap. xi. 15, 16, 17.


 

(2) 直訳

464. In hoc et in sequente capite agitur de Domino, quod sit Deus Caeli et Terrae, et quod sit Deus etiam quoad Humanum; 464 これと続く(次の)章の中に主について扱われている、天地の神であること、人間性に関してもまた神であること。

consequenter quod Jehovah sit Ipse. したがって、エホバがその方であること。

Quod de hoc in binis his capitibus agatur, videri potest ex singulis in Sensu spirituali, et ex clausula eorum, cap. xi. 15, 16, 17. このことについて、これら二つの章の中に扱われていることが、個々のものから霊的な意味の中で見られることができる、またそれらの結び(最期の節)、第11章15, 16,17から。

 

(3) 訳文

 464 この章と次章の中で主について扱われている、天地の神であること、人間性に関してもまた神であること、したがって、エホバがその方であることである。

 このことについて、これら二つの章の中に扱われていることが、個々のものから霊的な意味で、またそれらの結び第11章15, 16,17から見られることができる。

 

(1) 原文

465. [Vers. 1.] ” Et vidi alium Angelum fortem descendentem e Caelo,” significat Dominum in Divina Majestate et Potentia.―Quod “Angelus” hic sit Dominus, patet a descriptione Ejus, quod “circumdatus nube, iris supra caput, facies Ejus sicut Sol, pedes Ejus sicut columnae ignis,” et quod teneret pedes Suos super mari et super terra; tum quod clamaverit sicut leo rugit, et locutus sicut tonitru. Quod visus sit sicut Angelus, est quia apparet in Caelis et infra Caelos, quando Se manifestat, ut Angelus; implet enim aliquem Angelum Divino Suo accommodate ad receptionem illorum quibus Se dat videndum; ipsam praesentiam Ipsius, qualis est in Se aut Sua Essentia, non aliquis Angelus, et minus aliquis homo, sustinet; quare apparet supra Caelos ut Sol, qui distat ab Angelis sicut sol mundi ab hominibus; ibi est in Divino Suo ab aeterno et simul in Divino Suo Humano, quae unum sunt sicut anima et corpus. Vocatur hic “Angelus fortis” ex Divina Potentia: et dicitur “alius Angelus” ex eo, quod aliud Divinum Ipsius hic describatur quam prius.

 

(2) 直訳

465. [Vers. 1.] ” Et vidi alium Angelum fortem descendentem e Caelo,” significat Dominum in Divina Majestate et Potentia.― 465(1節) 「私は天から降るもう一人の力のある天使を見た」は、神的な威厳と力の中の主を意味する。

Quod “Angelus” hic sit Dominus, patet a descriptione Ejus, quod “circumdatus nube, iris supra caput, facies Ejus sicut Sol, pedes Ejus sicut columnae ignis,” et quod teneret pedes Suos super mari et super terra; この「天使」が主であることは、その記述から明らかである、「雲に囲まれ、頭の上に虹、太陽のようなその顔、火の柱のようなその足」こと、また「その足を海の上と地の上に保つこと。

tum quod clamaverit sicut leo rugit, et locutus sicut tonitru. なおまた、ライオンがほえるように叫んだこと、また、雷鳴のように話した。

Quod visus sit sicut Angelus, est quia apparet in Caelis et infra Caelos, quando Se manifestat, ut Angelus; 天使のように見られたことは、天界の中にまた天界の下に見られたからである、ご自分を、天使として見せる時。

implet enim aliquem Angelum Divino Suo accommodate ad receptionem illorum quibus Se dat videndum; というのは、ある天使にご自分の神性を満たすから、彼らの受容(受け入れ)のために適した、その者にご自分を見ることを与える。

ipsam praesentiam Ipsius, qualis est in Se aut Sua Essentia, non aliquis Angelus, et minus aliquis homo, sustinet; その方の臨在そのものに、ご自身の中にあるような、またはご自分の本質〔のような〕、ある(どんな)天使は、ましてある(どんな)人間は、耐えない。

quare apparet supra Caelos ut Sol, qui distat ab Angelis sicut sol mundi ab hominibus; それゆえ、天界の上に太陽として見られる、それは天使から離れている(遠い)、世の太陽が人間からのように。

ibi est in Divino Suo ab aeterno et simul in Divino Suo Humano, quae unum sunt sicut anima et corpus. そこに永遠からご自分の神性の中にいる、また同時にご自分の神的人間性の中に、それらは一つである、霊魂と身体のように。

Vocatur hic “Angelus fortis” ex Divina Potentia: ここに神的力から「力のある天使」と呼ばれている。

et dicitur “alius Angelus” ex eo, quod aliud Divinum Ipsius hic describatur quam prius. またそのことから「もう一人の天使」と言われている、ここにその方のもう一つの(他の)神性が述べられていること、前のもの以外に。

 

(3) 訳文

 465(1節) 「私は天から降るもう一人の力のある天使を見た」は、神的な威厳と力の中の主を意味する。

 この「天使」が主であることは、その記述「雲に囲まれ、頭の上に虹、太陽のようなその顔、火の柱のようなその足」、また「その足を海の上と地の上に保ち」、なおまた、「ライオンがほえるように叫び、雷鳴のように話した」ことから明らかである。

 天使のように見られたのは、ご自分を天使として見せる時、天界の中にまた天界の下に見られたからである。というのは、ご自分を見ることを与える彼らの受け入れのために適したある天使に、ご自分の神性を満たすから。ご自身の中にあるような、またはご自分の本質のようなその方の臨在そのものに、どんな天使も、ましてどんな人間も耐えられない。それゆえ、天界の上に太陽として見られ、その太陽は、世の太陽が人間から離れているように、天使から離れている。そこに永遠からご自分の神性の中に、また同時にご自分の神的人間性の中におられ、それらは霊魂と身体のように一つである。

 ここに神的力から「力のある天使」と呼ばれている。また、ここに前のもの以外にその方のもう一つの神性が述べられていることから「もう一人の天使」と言われている。

原典講読『啓示された黙示録』 466

(1) 原文

466. ” Circumdatum nube et iris Supra caput,” significat Divinum Naturale et Divinum Spirituale Ipsius.―Per “nubem,” qua circumdatus, significatur Divinum Naturale; quare Verbum in Sensu naturali, quod etiam est ab Ipso, ita Ipsius et Ipse, significatur per “nubem” (n. 24); per “iridem” significatur Divinum Spirituale, quod quia est supra Naturale, ideo Iris visa est supra caput. Sciendum est, quod Dominus in Divino Suo Naturali sit apud homines, in Divino autem Spirituali apud Angelos Regni spiritualis, et in Divino Caelesti apud Angelos Regni caelestis; sed usque non est divisus, at apparet cuique secundum quale ejus. Divinum Spirituale Domini etiam significatur per “iridem” apud Ezechielem:

 

Super expanso Cheruborum “similitudo Throni, et super illo aspectus Hominis: et ex igne lumborum Ejus sicut aspectus Iridis quae in nube in die pluviae; hic aspectus gloriae Jehovae” (i. 26-28{1});

 

per ‘Thronum” significatur Caelum, per “Hominem super illo” Dominus, per “ignem lumborum” amor caelestis, et per “iridem” Divinum Verum spirituale, quod etiam est Divinae Sapientiae Ipsius. Per “iridem,” de qua haec apud Mosen,

 

“Arcum Meum dedi in nube, qui erit in signum foederis inter Me et inter Terram:” et cum videro illum in nube, “recordabor foederis aeterni” (Gen. ix. 12-17),

 

non aliud intelligitur quam Divinum Verum spirituale in naturali apud hominem qui regeneratur, fit enim homo, cum regeneratur, a naturali spiritualis; et quia tunc est conjunctio Domini cum illo, ideo dicitur, quod arcus in nube esset “in Signum foederis.” “Foedus” significat conjunctionem. Quod non aliqua conjunctio Domini cum homine sit per irides in mundo, patet.

@1 26-28 pro “26, 28, 29”

 

(2) 直訳

466. ” Circumdatum nube et iris Supra caput,” significat Divinum Naturale et Divinum Spirituale Ipsius.― 466 「雲に囲まれた、また頭の上に虹」は、その方の神的自然的なもの(自然的な神性☆)と神的霊的なもの(霊的な神性☆)を意味する。

☆ どのように訳すかの問題でもありますが、「自然的な神性」、「霊的な神性」その後の「天的な神性」がよいようです。そしてこれらについては、この後、ここで出版した改訂版『スヴェーデンボリ用語辞典』から引用しておきますので、参考にしてください。(入手ご希望の方はSPSC(スヴェーデンボリ読者の会)へお問い合わせください、同書には「天的」「霊的」の違いなどが詳しく載っています、つでに同書の「まえがき」ここに掲載しておきます)。

Per “nubem,” qua circumdatus, significatur Divinum Naturale; 「虹」によって、それによって囲まれた、自然的な神性が意味される。

quare Verbum in Sensu naturali, quod etiam est ab Ipso, ita Ipsius et Ipse, significatur per “nubem” (n. 24); それゆえ、霊的な意味の中のみことばは、それもまたその方からである、そのようにその方のものまたその方、「雲」によって意味される(24番)。

per “iridem” significatur Divinum Spirituale, quod quia est supra Naturale, ideo Iris visa est supra caput. 「虹」によって、霊的な神性が意味される、それは自然的なものの上にあるからである、それゆえ、虹が頭の上に見られた。

Sciendum est, quod Dominus in Divino Suo Naturali sit apud homines, in Divino autem Spirituali apud Angelos Regni spiritualis, et in Divino Caelesti apud Angelos Regni caelestis; 知らなければならない、主は人間のもとでご自分の自然的神性の中にいること、けれども霊的な王国の天使のもとで霊的な神性の中に、また天的な王国の天使のもとで神的天的なもの(天的な神性☆)の中に。

sed usque non est divisus, at apparet cuique secundum quale ejus. しかしそれでも分割されない、しかし、それぞれの者に彼の性質にしたがって見られる。

Divinum Spirituale Domini etiam significatur per “iridem” apud Ezechielem: 主の霊的な神性が「エゼキエル書」のもとの「虹」によっても意味される――

Super expanso Cheruborum “similitudo Throni, et super illo aspectus Hominis: ケルビムの大空の上に「王座に似たもの、またその上に人間の外観〔があった〕。

et ex igne lumborum Ejus sicut aspectus Iridis quae in nube in die pluviae; またその腰の火から、虹の外観のような〔ものがあった〕、それは雨の日の中の雲の中に。

hic aspectus gloriae Jehovae” (i. 26-28{1}); これはエホバの栄光の外観〔であった〕」(1:26-28)。

per ‘Thronum” significatur Caelum, per “Hominem super illo” Dominus, per “ignem lumborum” amor caelestis, et per “iridem” Divinum Verum spirituale, quod etiam est Divinae Sapientiae Ipsius. 「王座」によって天界が意味される、「その上の人間」によって主が、「腰の火」によって天的な愛が、また「虹」によって霊的な神的真理が、それもまたその方の神的知恵である。

Per “iridem,” de qua haec apud Mosen, 「虹」によって、それについてこれらがモーセ(の書)のもとに、

“Arcum Meum dedi in nube, qui erit in signum foederis inter Me et inter Terram:” 「わたしの弓をわたしは雲の中に置いた(与えた)、それはわたしの間と地の間の契約のしるし(として)となる」。

et cum videro illum in nube, “recordabor foederis aeterni” (Gen. ix. 12-17), また、わたしがそれを雲の中に見るとき、「わたしは永遠の契約を思い出す」(創世記9:12-17)。

non aliud intelligitur quam Divinum Verum spirituale in naturali apud hominem qui regeneratur, fit enim homo, cum regeneratur, a naturali spiritualis; 何らかのものが意味されない、人間のもとの、その者は再生される、自然的なものの中の霊的な神的真理以外の、というのは、人間は、再生されるとき、自然的なものから霊的なものになるから。

et quia tunc est conjunctio Domini cum illo, ideo dicitur, quod arcus in nube esset “in Signum foederis.” また、その時であるからである、彼との主の結合は、それゆえ、言われる、雲の中に弓がある「契約のしるしとして」。

“Foedus” significat conjunctionem. 「契約」は結合を意味する。

Quod non aliqua conjunctio Domini cum homine sit per irides in mundo, patet. 人間との主の何らかの結合でないことは、世の中の虹によって、明らかである。

@1 26-28 pro “26, 28, 29″ 注1 「26, 28, 29」の代わりに 26-28

 

(3) 訳文

 466 「雲に囲まれ、頭の上に虹〔がある〕」は、その方の自然的な神性と霊的な神性を意味する。

 「虹」によって、それによって囲まれた、自然的な神性が意味される。それゆえ、霊的な意味のみことばは、それもまたその方から、そのようにその方のものまたその方であり、「雲」によって意味される(24番)。「虹」によって、霊的な神性が意味される、それは自然的なものの上にあるからである、それゆえ、虹が頭の上に見られた。

 主は人間のもとでご自分の自然的神性の中に、けれども霊的な王国の天使のもとで霊的な神性の中に、また天的な王国の天使のもとで天的な神性の中にいることを知るべきである。それでも分割されない、しかし、それぞれの者に彼の性質にしたがって見られる。

 主の霊的な神性が「エゼキエル書」の「虹」によっても意味されている――

 

 ケルビムの大空の上に「王座に似たもの、またその上に人間の外観〔があった〕。またその腰の火から、雨の日の中の雲の中の虹の外観のような〔ものがあった〕。これはエホバの栄光の外観〔であった〕」(1:26-28)。

 

 「王座」によって天界が、「その上の人間」によって主が、「腰の火」によって天的な愛が、また「虹」によって霊的な神的真理が意味される、その真理はその方の神的知恵でもある。

 「虹」によって、それについてこれらが「モーセの書」に、

 

 「わたしの弓をわたしは雲の中に置いた、それはわたしの間と地の間の契約のしるしとなる」。また、わたしがそれを雲の中に見るとき、「わたしは永遠の契約を思い出す」(創世記9:12-17)。

 

 再生する人間のもとの自然的なものの中の霊的な神的真理以外の何らかのものが意味されない、というのは、人間は、再生するとき、自然的なものから霊的なものになるから。また、彼との主の結合はその時であるからである、それゆえ、雲の中に「契約のしるしとして」弓があると言われる。

 「契約」は結合を意味する。

 世の虹による人間との主の何らかの結合でないことは明らかである。

 

* * *

 

◎『スヴェーデンボリ用語辞典』より

 

自然的な神性 Divinum Naturale. 栄化された主の人間性は自然的な神性である/真教109(聖書99).信仰の善は,したがって服従の善は最も低い天界の善であり,自然的な神性と呼ばれる/秘義10,087.☞ 主の栄化.

霊的な神性 Divinum Spirituale. 霊的な神性は天的な神性から発出する神的な真理であり,したがって,中間のすなわち第二の天界の中に受け入れられる主の神性である/秘義9811.主の神的人間性から発出する霊的な神性は,天界や教会の中のその方からの神的な真理である.霊的なものはその本質では他のものではない/秘義4669.仁愛の善は中間のすなわち第二の天界の善であり,霊的な神性と呼ばれる…仁愛の善は意志することから善を行なうことである/秘義10,087:1, 2.☞ 天的な神性.

天的な神性 Divinum coeleste. 主は神的な善以外の何ものでもない.その方の神的な善から発出して連会の中に流入するものは,その方の天的な王国の中で天的な神性,その方の霊的な王国の中で霊的な神性と呼ばれる.そのように受け入れに比べて天的な神性や神的霊的な神性と相対的に言われる/秘義6417.主の神的な愛から発出するものは天的な神性と言われ,そのすべてのものは善である.その方の神的な知恵から発出するものは霊的な神性と言われ,そのすべてのものは真理である.両方のものから自然的な神性があり,最後のものの中で,それらの複合体となっている/真教195.天的な神性は最内部の天界の中の主の神性である,というのは,そこの天使は天的な天使と呼ばれ,その意志の部分に神的な真理を受け入れるものであるから/秘義9810.第三の天界,すなわち,最内部の天界の天的な神性は主への愛であり,そこの霊的な天的なものは仁愛である/秘義3969:10.

天的な神性と霊的な神性 Divinum coeleste et Divinum spirituale. 天的な神性と霊的な神性は,主の神性を受け入れる者にとって相対的なものである,なぜなら,主は,それぞれの者に,受け入れる者がどのような者であるか〔によってそのように〕見られるからである/秘義3235.主から発出している神性は,受容からそのように呼ばれ,二つの神性,天的な神性と霊的な神性ではない.なぜなら,神的な善が,受容から天的な神性と呼ばれ,神的な真理が,ら受容から霊的な神性と呼ばれ,このように,二つのものではなく一つのもののように結合して発出しているからである/講解448:5.

 

 ◎ついでに同書の「まえがき」を紹介します。ここには例として「天的な霊的な」の語順の違いを述べていますので参考になるでしょう。

 

訳者まえがき

 

0.序論

本書は内行詩の表題のように「用語集」すなわち、スヴェーデンボリが『神学著作』の中で用いた特別な用語や語句の彼自身によるその意味」です。

以下の内容は「まえがき」よりもむしろ予備知識として知っておくとよい「序論」と言えます(「汎例」も含みます」。

 

1.用語辞典とは

スヴェーデンボリは「ある言葉」をどのように使っているでしょうか? その言葉をどこでどのようにして定義しているでしょうか? スヴェーデンボリは「ある概念」を説明するのに、彼独自の「言葉」を彼独自の「意味」で使用しています。こうした場合、彼の思想・神学体系を理解するには、その言葉をよくわきまえておかなければなりません。

それらの言葉は「著作」のいろいろな箇所にでてきます。何度も読んでいるうちに「このような意味だな」と徐々に把握できることもありますが、それでも、「あれ、この言葉はどんな意味だったけな? どこでどのように使っていたかな? どのように定義していたっけ?」と思うことがしばしばあります。私もそのひとりです。

このようなとき『用語辞典』があれば便利です。すなわち、『国語辞典』のようなものでは、「通常の意味」しか載っていないので、その意味からだけではスヴェーデンボリの「著作」を正しく明確に読むことは困難です。どうしても、スヴェーデンボリの「著作」で使われた「専門語」を集めた辞典がほしくなります。これがこの『用語辞典』です。本人が説明し、定義した言葉が載っています。

 

2. 本書についての書評から

ボッグは、本書について「これはほんの〝始まり〟であって、今後、さらによいものが出てくるであろう」と述べていますが、この後、他の人から「用語集」が出されましたが、これを超えるものは出ていません。

それで100年も前に出されたものであっても、ここで翻訳、出版する価値があると思っています。ただし、本人は本書を数年間、教科書として使用してから、ロングフェローの少女にたとえたようです――「彼女は良い時には、非常に、非常に良い、しかし、悪い時には、ぞっとする」。

すなわち、ボッグはこの用語辞典の「見出し語」として真に価値あるものを集めましたが(語数 1,600 あまり)、同時に、どう見ても無意味であり、まとはずれなものもあったことです(例えば、「束にしたもの」です)。

このような欠点があるにしても、当面は本書はスヴェーデンボリの研究に十分に役立ちます。私もまた、今後、さらによい編集者が現われることを待ち望んでいます。

 

3.内容について(汎例)

 (1) まず、「見出し語」とその原語(ラテン語)があります。語義解説の部分はラテン語原文から訳しました(。原著は英文です)。その解説内容に合わせて、見出し語を変えたものとそのままとしたものがあります。原語についてはこれを示しておく必要性をボッグも「まえがき」で述べています。訳語が定まっていない現状では(後述)、また研究する上で、これは必要不可欠でしょう。

 また、異なる見出し語であってもその原語が同じものは一緒にしました。このことは改行して、○印をつけあることからわかるようにしてあります(例えば「真の結婚愛」、「霊的に考えること」など)。(ほんの少しばかり、「見出し語とその参照箇所」を適当でないとして削除したものがあります)

 (2) 続いて、語義解説ではその定義や意味を原典から選び、述べています。その出典箇所は「略称」で示しました。「出典箇所」は重要な情報であり、簡略な説明だけでよくわからないとき、その前後を調べれば、理解が深まるでしょう。

 (3) 最後に「☞」で参照箇所や関連箇所を示しました。

(4) スヴェーデンボリの「著作」の訳語については定まっていないで、まだまだ研究の余地があるかと思っています。それで「訳語考察」をしてみた用語があります(記号◇)。今後の訳語を定める上で参考になるかと思っています。

(5) 巻末の「見出し語のラテン語索引」は原著にありません。アルファベット順に並べた原語を一覧表とすることで、用語や訳語を学ぶヒントが得られると思い、この索引を作成しました。

(6) 文中の記号「*」は複数を示しています。これは翻訳途中でこの必要性に気づき、また日本語にその適当な表示法がないので、いろいろ考えたすえ、こうしました。これについては次の4の「わかったこと」で詳しく述べます。

 

4.『用語辞典』に取り組んで、わかったこと

 「このようなものがあれば便利であろう」といった気分だけで翻訳を始めましたが、途中でいろいろと学べました。しかもこのことは極めて重大であって、私の翻訳の根本をゆるがすほどのもの、すなわち、これまでの翻訳を見直さなければならなくなったほどのものです。以下に二つだけ述べます。

 

(1) 「単数」と「複数」の違い

 日本語には、国々、山々、人たち、諸外国といった複数を示す表現がありますが、通常は単に数の多いことを意味するだけです。それで例えば単数で「真理(verum)」、複数で「真理(vera)」とあっても、後者を特に「諸真理」とすることはあっても、通常、「真理」として訳して、それほど違和感がありません、というよりも、単数と複数の違いが「数の違い」だけであって、両者を特に区別しないからです。日本語の特性といえます。別の言い方なら、日本語に単数と複数の違いとして、一般的で明確な表記法がないので(これは日本語にこの概念が希薄であることを意味します)、単数形だけで用がたります。

 しかし、この『用語辞典』を訳していて、単数と複数では「見出し」が異なっていることに気づきました、すなわち、その内容(概念)が異なるのです! 

 「真理」を例とします。「真理」と「諸真理」はどこが違うでしょうか?(日本語で)普通に考えれば、単に数が多いのが「諸真理」(すなわち複数)としか思いません、しかし、決定的に異なります! これは「抽象的なもの」と「具体的なもの」の違いとも言えます。

 「花」で言えば、単数の「花」は「花なるもの」という抽象的な概念を意味します。「高嶺の花」「花の乙女」と言うときの「花」です。「花々」と言うと、(数が多いことも意味しますがそれ以上に)抽象性が薄れ、「バラ」「桜」などの具体的な花が思い浮かびます。この違いです。真理と諸真理なら、抽象的な真理(単数)と具体的な真理(複数)の違いです。

 日本語にはこの違いうまく表現する方法がないでしょう、それで、このことを表示するために本書ではそのことばの右肩に*を付けることにしました。そこで「用語*」とあれば、複数の「用語」を意味する、すなわち、具体的な個々の「用語」を指しているとわかります。

 しかし、これよりももっと重要なことがありました、それが語順の違いです!

 

(2) 語順の違いは意味の違い

ラテン語は語順は自由であり、ある語がどこにあっても意味は変わらないとされています(余談ながら英語は語順が重要な言語です、「熊・食う・人間」と「人間・食う・熊」ではまったく意味が違います)。

ところが、スヴェーデンボリの著作では語順が重要となります、繊細な事柄を語順の違いで表現しているからです

「著作」の読者は「天的な霊的な~」や「霊的な天的な~」の表現をしばしば見かけたと思います。このような語順の違いが「著作」の中に数多くあります、これをどのように理解されましたか? 例えば「霊的天的な王国」と「天的霊的な王国」、「霊的天的な天使」と「天的霊的な天使」です。「どちらも大して変わりないだろう」と思っていませんか? でも、大多数の人は、「変わりはあるのだろうが、どのように異なるのかよくわからない」といったところでしょう。私もそうでした。

 まずは日本語で考えてみます(日本語自体に厳密ではない部分がありますが、「著作」が語の順序を厳密に守っているかぎり、それに即して、訳文で日本語の語順を厳密に使うことがその基盤または受け入れる「面」となるからです)。

 「近くて遠い親戚」と「遠くて近い親戚」の違いは(ちょっと例がよくないかもしれませんが)何でしょうか?

 このように「形容するもの」(形容辞)が二つある場合(あるいは三つのこともあります)、その語順で何がどう異なるのかを問題としてみます(実はこの考察の発端は「天的な霊的なもの」と「霊的な天的なもの」の違いでした)。

 このことについて、私は“日本語の形容辞は「主体」の「遠いところ」から「近くのところ」あるいは「外面的なもの」から「内面的なものへ」向かって、付けられる、と思いました。

 すなわち、この例では「近いところに住んでいるが、気持ちは遠い親戚」、「遠く離れていても心は親密な親戚」といったニュアンスです。

 日本語では上記のように「形容辞(遠い)」+「形容辞(近い)」+「主体」の語順ですが、ラテン語では「主体」+「形容辞(近い)」+「形容辞(遠い)」の語順となります。(前から後ろへ)

具体的には Angelus coeleste spilitualeなら「霊的な天的な天使」と訳すことになります。(後ろから前へ)

「近い」「遠い」と説明しましたが、これは日本語で「小分類(範疇)」と「大分類(範疇)」と言い換えることもできます。これは「住所」の表示と同じです、すなわち、日本語では「東京都、東大和市・・・」としますが、英語表記では「・・・東大和市、東京」のように「近いもの(小分類)」から「遠いもの(大分類)」へ向かいます。

 

ここで「天的な霊的な天使」と「霊的な天的な天使」について説明しておきます。天界は三つに大分類されます。すなわち「天的」「霊的」「自然的」な天界です。そしてそれぞれに天的な王国と霊的な王国があります、これが小分類です。そこで「天的な霊的な天使」は「天的な(天界の中の)霊的な(王国の)天使」です。

このままではよくわからないでしょうから「最大の人(maximus homo)」で説明します。天的な天界は「最大の人」の頭部に対応します。そのうち、「首」に「天的な霊的な天使」が対応します。この天使たちが霊的な天界と伝達を持ちます。また、霊的な天界は「最大の人」の胴体と腿(もも)に対応します(なお「自然的な天界」はひざから下の足の部分です)。「霊的な天的な天使」は「最大の人」の胸部に対応します。これが天的な天界と伝達しています(なお胸部から上の部分を「高い天界」その下の部分を「低い天界」と言うこともあります)。

 

ついでに「神的真理(Divinum Verum)」と「神的な真理(Verum Divinum)」について述べておきます。このように原語では、二つの主格の言葉の語順が前後しています。ラテン語は、基本的に語順は「主」+「従」となります。それであえてその違いを述べればDivinum Verumは「真理」のうちの「神的なもの」であり、Verum Divinumは「神的なもの」のうちの「真理」となります。これをそれぞれ「神的真理」(これは「神の真理」とも訳せます)と「神的な真理」としています。「な」が入るだけの一文字の違いなので、訳語をどうするかは今後の課題でしょう。

 

5.「用語」と「訳語」について雑感 

 ここで考察したように「用語」と「訳語」は裏腹(となり合せ)です。すなわち、正しく厳密な用語が定まっていなければ、思考を深めることができません。しかしその用語は訳語がしっかりと定まったものでないあやふやなものとなります。用語を上部構造、訳語を下部構造(インフラ)と見なすことができます。そしてこのインフラ整備は上部構造を見据えてなくてはできません。そしてここで「用語」を定め、その用語から、再度、私が学んだように、訳語を見直すことが求められると思います。

現在、訳語はまだまだ定まっていないでしょう。例えば、『真のキリスト教』の各章末の「霊界での体験談」はどのような訳語がよいのかわかりません、それで「メモラビリア」と音訳しています、「メモ」と訳すのは論外ですが、「説話」や「記憶すべき事」と訳してはその真意を伝えているとは思えません。いずれ、研究が進み、よい訳語が見つかるでしょう、あるいは、これまでにない新しい概念なので、明治初期のように「造語」が必要となるかもしれません。これはプロプリウムでもいえます(ただ、この頃、英訳ではプロプリウムと音訳しているようです)。この『用語辞典』が「辞典」としての役立ち以外に、こうした研究の一助となれば訳者としてうれしいです。

 

2016年10月末                                   鈴木之

原典講読『啓示された黙示録』 467,478

(1) 原文

467. ” Et Facies Ejus sicut Sol.” Quod significet Divinam Amorem et simul Divinam Sapientiam, patet ab explicatis supra (n. 53), ubi similia dicuntur de Filio Hominis.

 

(2) 直訳

467. ” Et Facies Ejus sicut Sol.” Quod significet Divinam Amorem et simul Divinam Sapientiam, patet ab explicatis supra (n. 53), ubi similia dicuntur de Filio Hominis. 467 「またその顔は太陽のような」。神的愛と同時に神的知恵を意味することは、上の説明から明らかである(53番)、そこに「人の子」について同様のものが言われている。

 

(3) 訳文

 467 「またその顔は太陽のよう〔である〕」が神的愛と同時に神的知恵を意味することは、前の説明から明らかである(53番)、そこに「人の子」について同様のものが言われている。

 

(1) 原文

468. ” Et Pedes Ejus sicut columnae ignis,” significat Divinum Naturale Domini quoad Divinum Amorem, quod sustentat omnia.―Hoc etiam patet ex explicatis supra (n. 49), ubi de Filio Hominis dicitur, quod “Pedes Ipsius essent similes chalcolibano tanquam in camino igniti.” Causa, quod Pedes Ipsius visi sint sicut “columnae igni,” est quia Divinum Naturale Domini, quod in se est Divinum Humanum quod in mundo suscepit, sustentat Divinum Ipsius ab aeterno. Sicut corpus animam, et similiter sicut Sensus naturalis Verbi sustentat Sensum spiritualem et caelestem ejus, de quo videatur Doctrina Novae Hierosolymae de Scriptura Sacra (n. 27-49). Quod “pedes” significent naturale, videatur (n. 49), et “columna” sustentaculum (n. 191); quod “ignis” significet amorem, est quia ignis spiritualis non aliud est; quare in solenni cultu oratur, ut “Ignis caelestis accendat corda,” hoc est, amor caelestis. Quod sit correspondentia inter ignem et amorem, noscitur ex eo, quod homo incalescat ex amore, ac frigescat ex deprivatione ejus; non aliud est quod facit calorem vitalem, quam amor in utroque sensu. Origo correspondentiarum est ex duobus Solibus, uno in Caelis qui est purus Amor, et alter in Mundo qui est purus Ignis; inde quoque est correspondentia omnium spiritualium et naturalium. [2] Quoniam “Ignis” significat Amorem Divinum, ideo

 

Jehovah visus est Mosi super Monte Chorebo in rubo in Igne (Exod. iii. 1-3):

Et descendit super montem Sinai in Igne (Deutr. iv. 36).

 

Et ideo

 

Septem lucernae Candelabri in Tabernaculo quavis vespera accendebantur, ut arderent coram Jehovah (Levit. xxiv. 2-4).

 

Tum, quod

 

Ignis jugiter arderet super Altari, et non exstingueretur (Levit. vi. 6 [B.A. 13]);

Quodque ex Altari acciperent Ignem in thuribulis et suffirent (Levit. xvi. 12, 13; Num. xvii. 11, 12 [B.A. xvi. 46, 47]);

Quod Jehovah iverit coram filiis Israelis noctu in Columna Ignis (Exodxiii. 21, 22);

Quod super Habitaculo esset Ignis noctu (Exod. xl. 38; Psalm. cv. 39{1} Esaj. iv. 5, 6);

Quod Ignis e Caelo consumpserit holocausta super Altari, in signum beneplaciti (Levit. ix. 24: 1 Reg. xviii. 38);

Quod holocausta vocata sint Ignita Jehovae, et Ignita odoris quietis Jehovae (Exod. xxix. 18; Levit. i. 9, 13, 17; cap. ii. 2, 9-11; cap. iii. 5, 16; cap. iv. 31, 35{2}; cap. v. 12; cap. vi. 11{3} [B.A. 18]; cap. xxi. 6; Num. xxviii. 2; Deutr. xviii.{4} 1);

Quod oculi Domini visi sint sicut Flamma ignis (Apoc. i. 14{5}; cap. ii. 18; cap. xix.{6} 12; Dan. x. 5, 6);

Quod septem Lampades ignis arderent coram Throno (Apoc. iv. 5).

 

Inde patet, quid significatur per

 

Lampades cum oleo et absque oleo (Matth. xxv. 1-11);

 

per “oleum” intelligitur ignis, et sic amor: praeter multis aliis in locis. Quod “ignis” in opposito sensu significet amorem infernalem, patet a tam multis locis illi Verbo, ut vanum sit illa adducere propter copiam; videatur aliquid de eo in Opere de Caelo et Inferno Londini edito (n. 566-575).

 

@1 39 pro “37, 39″ @2 31, 35 pro “15” @3 11 pro “30” @4 xviii. pro“xvii.” @5 14 pro “13” @6 xix. pro “xv.”

 

(2) 直訳

468. ” Et Pedes Ejus sicut columnae ignis,” significat Divinum Naturale Domini quoad Divinum Amorem, quod sustentat omnia.― 468 「またその足は火の柱のような」は、神的愛に関する主の神的自然的なもの(自然的な神性)を意味する、それはすべてのものを支える。

Hoc etiam patet ex explicatis supra (n. 49), ubi de Filio Hominis dicitur, quod “Pedes Ipsius essent similes chalcolibano tanquam in camino igniti.” このこともまた上の説明から明らかである(49番)、そこに「人の子」について言われている、「その方の足は真ちゅうに似ていた、あたかも炉の中で燃えているような」。

Causa, quod Pedes Ipsius visi sint sicut “columnae igni,” est quia Divinum Naturale Domini, quod in se est Divinum Humanum quod in mundo suscepit, sustentat Divinum Ipsius ab aeterno. 理由は、その方の足が「火の柱」のように見られたこと、主の自然的な神性が、それは本質的に神的人間性である、それを世の中でまとった、永遠からのその方の神性を支えるからである。

Sicut corpus animam, et similiter sicut Sensus naturalis Verbi sustentat Sensum spiritualem et caelestem ejus, de quo videatur Doctrina Novae Hierosolymae de Scriptura Sacra (n. 27-49). 身体が霊魂を〔支える〕ように、また同様に、みことばの自然的な意味が霊的な意味、またその天的な〔意味〕を支えるように、それについて『新しいエルサレムの教え 聖書について』に見られる(27-49番)。

Quod “pedes” significent naturale, videatur (n. 49), et “columna” sustentaculum (n. 191); 「足」が自然的なものを意味することが見られる(49番)、また「柱」が支えを(191番)。

quod “ignis” significet amorem, est quia ignis spiritualis non aliud est; 「火」が愛を意味することは、霊的な火は他のものではないからである。

quare in solenni cultu oratur, ut “Ignis caelestis accendat corda,” hoc est, amor caelestis. それゆえ、習慣的な礼拝の中で祈られる、「天界の火が心に火をつける」ように、すなわち、天界の愛が。

Quod sit correspondentia inter ignem et amorem, noscitur ex eo, quod homo incalescat ex amore, ac frigescat ex deprivatione ejus; 火と愛の間に対応があることは、それから知られる、人間が愛から熱くなる、そしてその剥奪から冷たくなること。

non aliud est quod facit calorem vitalem, quam amor in utroque sensu. 他のものはない、生命の熱をつくるものは、両方の意味の中の愛以外に。

Origo correspondentiarum est ex duobus Solibus, uno in Caelis qui est purus Amor, et alter in Mundo qui est purus Ignis; 対応の起源は二つの太陽からである、一つは天界の中の、それは純粋な愛である、またもう一つは世の中の、それは純粋な火である。

inde quoque est correspondentia omnium spiritualium et naturalium. ここからもまた、霊的なものと自然的なものすべてのものの対応がある。

[2] Quoniam “Ignis” significat Amorem Divinum, ideo [2] 「火」は神的な愛を意味しているので、それゆえ

Jehovah visus est Mosi super Monte Chorebo in rubo in Igne (Exod. iii. 1-3): エホバはモーセにホレブの山の上で見られた、イバラのやぶ(柴)の中に火の中に(出エジプト記3:1-3)。

Et descendit super montem Sinai in Igne (Deutr. iv. 36). また、シナイ山の上に、火の中に降られた(申命記4:36)。

Et ideo また、それゆえ

Septem lucernae Candelabri in Tabernaculo quavis vespera accendebantur, ut arderent coram Jehovah (Levit. xxiv. 2-4). 幕屋の中の燭台の七つのランプがそれぞれの夕にともされなければならない、エホバの前に燃えるために(レビ記24:2-4)。

Tum, quod なおまた、~こと

Ignis jugiter arderet super Altari, et non exstingueretur (Levit. vi. 6 [B.A. 13]); 火は祭壇の上で常に燃やされなければならない、また消されてはならない(レビ記6:13)。

Quodque ex Altari acciperent Ignem in thuribulis et suffirent (Levit. xvi. 12, 13; Num. xvii. 11, 12 [B.A. xvi. 46, 47]); そして、彼らは祭壇から火を香炉の中に受けた、また香をたいたこと(レビ記16:12, 13、民数記16:46, 47)。

Quod Jehovah iverit coram filiis Israelis noctu in Columna Ignis (Exodxiii. 21, 22); エホバはイスラエル民族の前を行ったこと、夜に火の柱の中に(出エジプト記13:21, 22)。

Quod super Habitaculo esset Ignis noctu (Exod. xl. 38; Psalm. cv. 39{1} Esaj. iv. 5, 6); 住まいの上に夜に火があったこと(出エジプト記40:38、詩篇105:39、イザヤ4:5, 6)。

Quod Ignis e Caelo consumpserit holocausta super Altari, in signum beneplaciti (Levit. ix. 24: 1 Reg. xviii. 38); 天からの火が祭壇の上の全焼のいけにえを焼き尽くしたこと、喜ぶところのしるしとして(レビ記9:24、列王記Ⅰ18:38)。

Quod holocausta vocata sint Ignita Jehovae, et Ignita odoris quietis Jehovae (Exod. xxix. 18; Levit. i. 9, 13, 17; cap. ii. 2, 9-11; cap. iii. 5, 16; cap. iv. 31, 35{2}; cap. v. 12; cap. vi. 11{3} [B.A. 18]; cap. xxi. 6; Num. xxviii. 2; Deutr. xviii.{4} 1); 全焼のいけにえはエホバの火と呼ばれたこと、またエホバの休息のかおりの火と(出エジプト記29:18、レビ記1:9, 13, 17、第2章2, 9-11、第3章5, 16、第4章31, 35、第5章12、第6章18、第21章6、民数記28:2、申命記18:1)。

Quod oculi Domini visi sint sicut Flamma ignis (Apoc. i. 14{5}; cap. ii. 18; cap. xix.{6} 12; Dan. x. 5, 6); 主の目が火の炎のように見られたこと(黙示録1:14、第2章18、第19章12、ダニエル書10:5, 6)。

Quod septem Lampades ignis arderent coram Throno (Apoc. iv. 5). 七つの火の明かり(ともしび)が王座の前で燃えていたこと(黙示録4:5)。

Inde patet, quid significatur per ここから明らかである、何が意味されるか、~によって

Lampades cum oleo et absque oleo (Matth. xxv. 1-11); 油といっしょのまた油なしの明かり(マタイ25:1-11)。

per “oleum” intelligitur ignis, et sic amor: 「油」によって火が意味される、またこのように愛が――

praeter multis aliis in locis. ほかに、他の多くの箇所の中に。

Quod “ignis” in opposito sensu significet amorem infernalem, patet a tam multis locis illi Verbo, ut vanum sit illa adducere propter copiam; 「火」が正反対の意味の中で地獄の愛を意味することは、そのみことばのこれほど多くの箇所から明らかである、それらを提示することがむだ(空しい)ようにも、おびただしいために。

videatur aliquid de eo in Opere de Caelo et Inferno Londini edito (n. 566-575). それについて 何らかのものが『天界と地獄』(ロンドンで出版)の著作の中に見られる(566-575番)。

@1 39 pro “37, 39″ 注1 「37. 39」の代わりに 39

@2 31, 35 pro “15” 注2 「15」の代わりに 31, 35

@3 11 pro “30” 注3 「30」の代わりに 11

@4 xviii. pro “xvii.”  注4 「xvii.」の代わりに xviii.

@5 14 pro “13” 注5 「13」の代わりに 14

@6 xix. pro “xv.”  注6 「xv」の代わりに xix.

 

(3) 訳文

 468 「またその足は火の柱のよう〔である〕」は、神的愛に関する主の自然的な神性を意味する、それはすべてのものを支える。

 このこともまた前の説明から明らかである(49番)、そこに「人の子」について、「その方の足は、あたかも炉の中で燃えているような真ちゅうに似ていた」と言われている。

 その方の足が「火の柱」のように見られたことの理由は、本質的に神的人間性であり、それを世の中でまとった主の自然的な神性が、永遠からのその方の神性を支えるからである。

 身体が霊魂を〔支える〕ように、また同様に、みことばの自然的な意味が霊的な意味とその天的な意味を支えるように〔支える〕、それについて『新しいエルサレムの教え 聖書について』に見られる(27-49番)。

 「足」が自然的なものを意味すること( 49番)、また「柱」が支えを意味すること(191番)が見られる。「火」が愛を意味するのは、霊的な火は〔それ以外の〕他のものではないからである。それゆえ、習慣的な礼拝の中で、「天界の火が心に火をつける」ように祈られる、すなわち、天界の愛が〔心に火をつける〕。

 火と愛の間に対応があることは、人間が愛から熱くなり、そしてその剥奪から冷たくなることから知られる。生命の熱をつくるものは、両方の意味の愛以外に他のものはない。

 対応の起源は二つの太陽からである、一つは純粋な愛である天界の太陽、またもう一つは純粋な火である世の太陽である。ここからもまた、霊的なものと自然的なものすべてのものの対応がある。

 [2] 「火」は神的な愛を意味しているので、それゆえ、エホバはモーセにホレブの山の上で、イバラのやぶ(柴)の中の火の中に見られた(出エジプト記3:1-3)。また、シナイ山の上で、火の中に降られた(申命記4:36)。

 また、それゆえ、幕屋の中の燭台の七つのランプがエホバの前に、毎夕、燃えるためににともされなければならなかった(レビ記24:2-4)。

なおまた、火は祭壇の上で常に燃やされなければならない、消されてはならないこと(レビ記6:13)。そして、彼らは祭壇から火を香炉の中に受け、香をたいたこと(レビ記16:12, 13、民数記16:46, 47)。エホバはイスラエル民族の前を、夜、火の柱の中を行ったこと(出エジプト記13:21, 22)。夜、住まいの上に火があったこと(出エジプト記40:38、詩篇105:39、イザヤ4:5, 6)。天からの火が、喜ぶところのしるしとして祭壇の上の全焼のいけにえを焼き尽くしたこと(レビ記9:24、列王記Ⅰ18:38)。全焼のいけにえはエホバの火、またエホバの休息のかおりの火と呼ばれたこと(出エジプト記29:18、レビ記1:9, 13, 17、2:2, 9-11、3:5, 16、4:31, 35、5:12、6:18、21:6、民数記28:2、申命記18:1)。主の目が火の炎のように見られたこと(黙示録1:14、2:18、19:12、ダニエル書10:5, 6)。七つの火の明かり(ともしび)が王座の前で燃えていたこと(黙示録4:5)。

 ここから、油といっしょのまた油なしの明かりによって(マタイ25:1-11)、何が意味されるか明らかである。

「油」によって火が、このように愛が意味される――ほかに、他の多くの箇所の中に。

 「火」が正反対の意味の中で地獄の愛を意味することは、おびただしいために、みことばからそれらを示すことが空しいようにもそれほど多くの箇所から明らかである。それについて何らかのものが『天界と地獄』(ロンドンで出版)の著作の中に見られる(566-575番)。

原典講読『啓示された黙示録』 469

(1) 原文

469. [Vers. 2.] ” Et habebat in manu Sua Libellum apertum,”significat Verbum quoad id doctrinae ibi, quod Dominus sit Deus Caeli et Terrae, et quod Humanum Ipsius sit Divinum.―Quod per “Librum,” quem Agnus accepit ex Sedente super Throno, et cujus septem sigilla solvit (Apoc. v. 1, 7; cap. vi. 1), intelligatur Verbum, videatur supra (n. 256, 259, 295, seq.); quare per “Libellum” in manu Angeli, Qui etiam est Dominus (n. 465), hic non aliud intelligitur quam Verbum quoad aliquod Essentiale ibi; quod hoc sit id doctrinae in Verbo, quod Dominus sit Deus Caeli et Terrae, et quod Humanum Ipsius sit Divinum, patet a singulis in hoc capite et in sequente in Sensu spirituali; et quoque ex Sensu naturali capitis sequentis (xi.), vers. 15-17. [2] Dicitur “Libellus apertus,” quia illud exstat manifeste in Verbo, et patet cuivis qui legit, si attendit. De hoc nunc agitur, quia hoc est ipsum Essentiale Ecclesiae Novae. Causa est, quia a cognitione et agnitione Dei pendet salus cujusvis, est enim sicut dicitur in Praefatione, “Quod super justa idea Dei fundetur universum Caelum, et in terris universa Ecclesia, et in genere omnis Religio, quia per illam est conjunctio, et per conjunctionem lux, sapientia, et felicitas aeterna.” [3] Nunc quia Dominus est Ipse Deus Caeli et Terrae, quare si Ipse non agnoscitur, non aliquis admittitur in Caelum, Caelum enim est Corpus Ipsius; sed is stat infra, et mordetur a serpentibus, hoc est, a spiritibus infernalibus, a quibus non datur sanatio, nisi quae fuerat filiis Israelis, ut spectarent ad “Serpentem aeneum” (Num. xxi. 1-9{1}); per quem quod intelligatur Dominus quoad Divinum Humanum, patet ex his apud Johannem:

 

“Sicut Moses exaltavit Serpentem in deserto, ita oportet exaltari Filium Hominis, ut omnis qui credit in Ipsum non pereat, sed vitam aeternam habeat” (iii. 14, 15).

 

@1 1-9 pro “1 ad 10”

 

(2) 直訳

469. [Vers. 2.] ” Et habebat in manu Sua Libellum apertum,”significat Verbum quoad id doctrinae ibi, quod Dominus sit Deus Caeli et Terrae, et quod Humanum Ipsius sit Divinum.― 469(2節) 「また、自分の手の中に開かれた小さな本(巻き物)を持っていた」は、そこにその教えに関するみことばを意味する、主は天地の神であること、またその方の人間性が神性であること。

Quod per “Librum,” quem Agnus accepit ex Sedente super Throno, et cujus septem sigilla solvit (Apoc. v. 1, 7; cap. vi. 1), intelligatur Verbum, videatur supra (n. 256, 259, 295, seq.); 「本(巻き物)」によって、それを天使は王座の上に座っているから受け取った、またその七つの封印を解いた(黙示録5:1, 7、第6章1)、みことばが意味されることは、上に見られる(256, 259, 295番以降)。

quare per “Libellum” in manu Angeli, Qui etiam est Dominus (n. 465), hic non aliud intelligitur quam Verbum quoad aliquod Essentiale ibi; それゆえ、天使の手の中の「小さな本(巻き物)」によって、その者もまた主である(465番)、ここに他のものが意味されない、みことば以外の、そこに何らかの本質的なものに関する。

quod hoc sit id doctrinae in Verbo, quod Dominus sit Deus Caeli et Terrae, et quod Humanum Ipsius sit Divinum, patet a singulis in hoc capite et in sequente in Sensu spirituali; これがみことばの中のその教えであることは、主が天地の神であること、またその方の人間性が神性(神的なもの)であること、この章の中の、また続く〔章〕の中の個々のものから明らかである、霊的な意味の中で。

et quoque ex Sensu naturali capitis sequentis (xi.), vers. 15-17. そしてまた、自然的な意味から、続く章(11)の15-17節。

[2] Dicitur “Libellus apertus,” quia illud exstat manifeste in Verbo, et patet cuivis qui legit, si attendit. [2] 「開かれた小さな本(巻き物)」と言われる、それはみことばの中にはっきりと現われているからである、またそれぞれの者に明らかである、その者は読む、もし、留意するなら。

De hoc nunc agitur, quia hoc est ipsum Essentiale Ecclesiae Novae. このことが、今や、扱われている、このことが新しい教会の本質そのものであるからである。

Causa est, quia a cognitione et agnitione Dei pendet salus cujusvis, est enim sicut dicitur in Praefatione, “Quod super justa idea Dei fundetur universum Caelum, et in terris universa Ecclesia, et in genere omnis Religio, quia per illam est conjunctio, et per conjunctionem lux, sapientia, et felicitas aeterna.” 理由がある、神の知識と認知からそれぞれの者の救いがぶらさがっている(~による、~しだいである)からである、というのは序文の中に言われているように「神の正しい観念の上に全天界が基礎を据えられる(建てられる)からである、また地の中の全教会が、また全般的にすべての宗教が、それらによって結合が、また結合によって、光、知恵、また永遠の幸福があるからである」である。

[3] Nunc quia Dominus est Ipse Deus Caeli et Terrae, quare si Ipse non agnoscitur, non aliquis admittitur in Caelum, Caelum enim est Corpus Ipsius; [3] さて、主は天地の神そのものであるので、それゆえ、もしその方が認められないなら、だれも天界の中に入れられない、というのは、天界はその方の身体であるから。

sed is stat infra, et mordetur a serpentibus, hoc est, a spiritibus infernalibus, a quibus non datur sanatio, nisi quae fuerat filiis Israelis, ut spectarent ad “Serpentem aeneum” (Num. xxi. 1-9{1}); しかし、彼は下に立つ、またヘビ(たち)によりかまれる、すなわち、地獄の霊たちにより、それら〔かまれること〕から治療は与えられない(存在しない)、~でないなら、それ〔癒し〕はイスラエル民族にあった、「青銅のヘビ」に向けて眺めるような(民数記21:1-9)。

per quem quod intelligatur Dominus quoad Divinum Humanum, patet ex his apud Johannem: それによって、神的人間性に関する主が意味されることは、「ヨハネ(福音書)」のもとのこれらから明らかである――

“Sicut Moses exaltavit Serpentem in deserto, ita oportet exaltari Filium Hominis, ut omnis qui credit in Ipsum non pereat, sed vitam aeternam habeat” (iii. 14, 15). 「モーセが荒野の中でヘビを上げたように、そのように人の子は上げられなければならない、すべての者が、その者はその方を信じる、滅びないように、しかし、永遠のいのちを持つ」(3:14, 15)。

@1 1-9 pro “1 ad 10″ 注1 「1 ad 10」の代わりに 1-9

 

(3) 訳文

 469(2節) 「また、自分の手の中に開かれた小さな巻き物を持っていた」は、そこにその教えに関するみことばを意味する、主は天地の神であること、またその方の人間性が神性であることである。

 天使が王座の上に座っているから受け取り、またその七つの封印を解いた「巻き物」によって(黙示録5:1, 7、6:1)、みことばが意味されることは前に見られる(256, 259, 295番以降)。それゆえ、天使、その者もまた主である(465番)、その手の中の「小さな巻き物」によって、ここに、何らかの本質的なものに関するみことば以外の他のものが意味されない。これ〔本質〕が、みことばの中のその教え、主が天地の神であること、またその方の人間性が神性であることであることは、この章の、また続く章の中の個々のものから霊的な意味で明らかである。そしてまた、続く章(第11章)の15-17節の自然的な意味から、。

 [2] 「開かれた小さな巻き物」と言われる、それはみことばの中にはっきりと現われているからである、また、読み、もし留意するなら、それぞれの者に明らかである。

 今や、このことが扱われている、このことが新しい教会の本質そのものであるからである。

 その理由は、それぞれの者の救いが神の知識と認知によるからである、というのは序文の中に言われているように「神の正しい観念の上に全天界が基礎を据えられるからである、また地の中の全教会が、また全般的にすべての宗教が、それらによって結合が、また結合によって、光、知恵、また永遠の幸福がある」からである。

 [3] さて、主は天地の神そのものであるので、それゆえ、もしその方が認められないなら、だれも天界の中に入れられない、というのは、天界はその方の身体であるから。しかし、彼は〔天界の〕下に立ち、ヘビに、すなわち、地獄の霊たちにかまれる、それら〔かまれること〕の治療は与えられない、それ〔治療〕はイスラエル民族にあった、「青銅のヘビ」に向けて眺めるようなものでないなら(民数記21:1-9)。それによって、神的人間性に関する主が意味されることは、「ヨハネ福音書」のこれらから明らかである――

 

 「モーセが荒野の中でヘビを上げたように、そのように人の子は上げられなければならない。その方を信じるすべての者が、滅びないで、永遠のいのちを持つためである」(3:14, 15)。

原典講読『啓示された黙示録』 470

(1) 原文

470. ” Et posuit pedem dextrum super mari et sinistrum super terra,” significat quod Dominus sub Suo Auspicio et Dominio habeat universam Ecclesiam, tam illos ibi qui in externis ejus sunt, quam illos ibi qui in internis ejus.―Per “mare et terram” significatur universa Ecclesia, per “mare” Ecclesia externa, hoc est, illi qui in externis ejus sunt, et per “terram” Ecclesia interna, hoc est, illi qui in internis ejus sunt (n. 398); per “ponere pedes super illis,” significatur omnia Sibi subjecta habere, proinde sub Divino Suo Auspicio et Dominio. Quoniam Ecclesia Domini in terris est sub Caelis, ideo vocatur illa “scabellum pedum Ipsius,” ut in his locis:

 

“Projecit e Caelo in terram decus Israelis, non recordatur Scabelli pedum Suorum” (Thren. ii. 1);

“Terra Scabellum pedum Meorum” (Esaj. lxvi. 1);

“Intrabimus in Habitacula Ipsius, incurvabimus nos Scabello pedum Ipsius” (Psalm. cxxxii. 7{1});

“Non jurabis per Caelum, quia Thronus Dei est, neque per Terram, quia Scabellum pedum Ipsius” (Matth. v. 34, 35);

“Locum pedum Meorum honorabilem reddam” (Esaj. lx. 13);

“Dominari fecisti Ipsum super opera{2} manuum Tuarum, omnia posuisti sub Pedes Ipsius” (Psalm. viii. 7 [B.A. 6];

 

haec de Domino. Quod “pedem dextrum posuerit super mari, et sinistrum super terra,” est quia illi qui in Ecclesiae externis sunt, non ita confirmaverunt falsa apud se, sicut qui in internis ejus sunt.

@1 Psalm. cxxxii. 7 pro “Matth. v. 34, 35″ @2 opera pro “omnia

 

(2) 直訳

470. ” Et posuit pedem dextrum super mari et sinistrum super terra,” significat quod Dominus sub Suo Auspicio et Dominio habeat universam Ecclesiam, tam illos ibi qui in externis ejus sunt, quam illos ibi qui in internis ejus.― 470 「また右足を海の上に置いた、また左〔足〕を地の上に」は、主がご自分の指導と支配権の下に全教会を持っていることを意味する、そこに彼らも、その者はその外なるものの中にいる、そこに彼らも、その者はその内なるものの中にいる。

Per “mare et terram” significatur universa Ecclesia, per “mare” Ecclesia externa, hoc est, illi qui in externis ejus sunt, et per “terram” Ecclesia interna, hoc est, illi qui in internis ejus sunt (n. 398); 「海と地」によって全教会が意味される、「海」によって外なる教会が、すなわち、彼らが、その者はその外なるものの中にいる、また「地」よって内なる教会が、すなわち、彼らが、その者はその内なるものの中にいる(398番)。

per “ponere pedes super illis,” significatur omnia Sibi subjecta habere, proinde sub Divino Suo Auspicio et Dominio. 「それらの上に足を置くこと」によって、自分自身に服従させた(された)すべての者を持つことが意味される、したがって、自分の神的指導と支配権の下に。

Quoniam Ecclesia Domini in terris est sub Caelis, ideo vocatur illa “scabellum pedum Ipsius,” ut in his locis: 地の中の主の教会は天界の下にあるので、それゆえ、それらは「その方の足の足台」と呼ばれている、これらの箇所の中にのように――

“Projecit e Caelo in terram decus Israelis, non recordatur Scabelli pedum Suorum” (Thren. ii. 1); 「〔主は〕天から地の中にイスラエルの美観(飾り)を投げ出された、その方の足の足台は思い出されない」(哀歌2:1)。

“Terra Scabellum pedum Meorum” (Esaj. lxvi. 1); 「地はわたしの足の足台」(イザヤ66:1)。

“Intrabimus in Habitacula Ipsius, incurvabimus nos Scabello pedum Ipsius” (Psalm. cxxxii. 7{1}); 「私たちはその方の住まいの中へ行こう、私たちはその方の足の足台にお辞儀をしよう(腰をかがめよう)」(詩篇132:7)。

“Non jurabis per Caelum, quia Thronus Dei est, neque per Terram, quia Scabellum pedum Ipsius” (Matth. v. 34, 35); 「あなたがたは天によって誓ってはならない、神の王座であるから、そして地によってもならない、その方の足の足台〔である〕から」(マタイ5:34, 35)。

“Locum pedum Meorum honorabilem reddam” (Esaj. lx. 13); 「わたしはわたしの足の場所を誉むべきものへと戻す」(イザヤ60:13)。

“Dominari fecisti Ipsum super opera{2} manuum Tuarum, omnia posuisti sub Pedes Ipsius” (Psalm. viii. 7 [B.A. 6]; 「あなたはご自分にあなたの手の働きを支配することをした、あなたはすべてのものをご自分の足の下に置いた」(詩篇8:6)。

haec de Domino. これらは主について〔である〕。

Quod “pedem dextrum posuerit super mari, et sinistrum super terra,” est quia illi qui in Ecclesiae externis sunt, non ita confirmaverunt falsa apud se, sicut qui in internis ejus sunt. 「右足を海の上に置いた、また左〔足〕を地の上に」ことは、彼らが、その者は外なる教会の中にいる、そのように虚偽を自分自身のもとに確信しなかったからである、~のように、その者はその内なるもの〔教会〕の中にいる。

@1 Psalm. cxxxii. 7 pro “Matth. v. 34, 35″ 注1 「Matth. v. 34, 35」の代わりに Psalm. cxxxii. 7

@2 opera pro “omnia“ 注2 「omnia」の代わりに opera

 

(3) 訳文

 470 「また右足を海の上に、また左足を地の上に置いた」は、主がご自分の指導と支配権の下に全教会を持っていることを意味する、そこにその外なるものの中にいる者も、その内なるものの中にいる者もいる。

 「海と地」によって全教会が、「海」によって外なる教会が、すなわち、その外なるものの中にいる者が、また「地」よって内なる教会が、すなわち、その内なるものの中にいる者が意味される(398番)。「それらの上に足を置くこと」によって、ご自分に服従した、したがって、自分の神的指導と支配権の下に、すべての者を持つことが意味される。

 地上の主の教会は天界の下にあるので、それゆえ、それらは「その方の足の足台」と呼ばれている、例えば、これらの箇所の中に――

 

 「〔主は〕天から地上にイスラエルの飾りを投げ出された、その方の足の足台は思い出されない」(哀歌2:1)。

 「地はわたしの足の足台」(イザヤ66:1)。

 「私たちはその方の住まいへ行こう、私たちはその方の足の足台にお辞儀をしよう」(詩篇132:7)。

 「あなたがたは天によって誓ってはならない、神の王座であるから、そして地によってもならない、その方の足の足台〔である〕から」(マタイ5:34, 35)。

 「わたしはわたしの足の場所を誉むべきものへと戻す」(イザヤ60:13)。

 「あなたはあなたの手の働きをご自分に支配するようにされた、あなたはすべてのものをご自分の足の下に置かれた」(詩篇8:6)。

 

 これらは主についてである。

 「右足を海の上に、また左足を地の上に置いた」ことは、外なる教会の中にいる者が、その内なる教会の中にいる者のようには虚偽を自分自身のもとに確信しなかったからである。