[6] また、私は去り、また近づき、到来の理由を言い、何が快さか教えるように懇願した。
これらの者は質問からうれしがって言った、「快さを以sる者が天界と地獄が何でどんなものであるか知ること真理である。意志は、その意志から人間は人間である、快さからでないなら、決して一瞬も生じない。なぜなら、本質的に眺められた意志は、愛の情愛、そのように、快さの何らかの情愛でしかない、というのは、何らかのえり好み(選択)、好みと心地よさであり、それが欲することを行なうからである。意志は理解力を考えることへ駆り立て、意志の快さの流れ入るものからでないなら、思考の観念の最小量も存在しない。
そのようであることの理由は、主は自分自身から流入によって、天使、霊、また人間のもとのすべての霊魂とすべての心を拍動させ、愛と知恵の流入によって活動させ、この流入は活動そのものであり、その活動からすべての快さがあり、その起源の中で祝福、至福、幸福と呼ばれ、派生物の中で快さ、楽しさ、心地よさ、また全般的な意味で「善」〔と呼ばれる〕からである。
しかし、地獄の霊は自分自身のもとのすべてのものを、そのように善を悪の中へ、真理を虚偽の中へ、常に快さを持続して、逆にする。なぜなら、快さの持続なしに、彼らに意志はなく、感覚もなく、そのようにいのちがないからである。
これらから、地獄の快さが何か、またどんなものか、どこからか、なおまた天界の快さが何か、どんなものか、どこからであるか、明らかである。
[7] これらを聞いて、第三の集団へ導かれた、そこに結果を調べ、「知識」と呼ばれる者がいた。
これらの者は言った、「低い地へ下れ、また高い地の中に上れ。これらからあなたは、その中で、天界の天使の快感を、また地獄の霊の快感を知覚し、感じる」。
しかし、見よ、その時、隔たったところの地面が開き、裂け目から三人の悪魔が、彼らの愛の快さから燃え立って上った。また新参の霊と仲間となった〔天使は〕、彼ら三人が摂理から、地獄から上ったこと知覚したので、彼らに言った、「さらに近く、近づくな。しかし、あなたがたがいるその場所から、あなたがたの快さについて何らかのものを語れ」。
彼らは言った、「善良な者あるいは悪い者であるそれぞれの者が、自分の快さの中にいること、善良な者は自分の善の快さ中に、また悪い者は自分の悪の快さの中にいることを知れ」。
質問した、「あなたがたの快さは何か?」
彼らは、淫行し、激怒し、だまし、冒涜する快さであったことを言った。
再び質問した、「それらの快さはどんなものであるのか?」
彼らは、他の者により、糞からの悪臭のように、また死体からの腐臭のように、またよどんだ尿からの臭いのように感じられることを言った。
質問した、「それらがあなたがたに快いものである〔のか〕?」
言った、「極めて(最も)快いものである」。
〔私たちは〕言った、「その時、あなたがたは不潔な獣である、それらはそれらの中で時を過ごす」。
答えた、「もし私たち〔がそのような者〕である〔と思う〕なら、私たち〔はそのような者〕である☆2、しかし、そのようなものが私たちの鼻を歓喜(させるもの)である」。
[8] 質問した、「もっと〔ほかに〕何が〔あるか〕?」
善い霊と天使を攻撃しないかぎり、それぞれの者が自分の快さの中に、さらにまた最も不潔なものと呼ぶような者の中にいることが赦されていることを言った。「しかし、私たちの快さから、他の者を攻撃すること以外に異なってできない、〔そうするとき〕私たちは強制収容所に中に投げ込まれ、そこで厳しいことを被る。そこに私たちの快さの抑制と引っ込めることがあり、〔それは〕地獄の責め苦と呼ばれる。そしてまた内的な苦しみである」。
その時、質問した、「なぜ、あなたがたは善良な者を攻撃するのか?」
言った、異なってできないこと。「ある天使を見るとき、また彼らのまわりの神的なスフェアを感じるとき、激怒が入り込むようである」。
その時、彼らは言った、「このようにあなたがたもまた野獣のようである」。
彼らが天使とともに新参の霊を見るときすぐに、悪魔に激怒が出てきた、それは憎しみの火のように見えた。それゆえ、害を加えないように、地獄の中へ投げ返された。
この後、目的から原因を見、原因を通して結果を見た天使たちが現われた、それらの者はそれらの三つの集団の上方の天界の中にいた。これらの者は白く輝く光の中で見られた。その光は曲がったらせん形を通って転がり落ち、〔天使が〕円形の花冠を持ってきて、新参の霊の頭の上に置いた。その時、彼にここから声があった、「あなたは子供時代から天界と地獄について熟考したので、その理由のために、この月桂冠があなたに与えられる」。
☆1 ウェヌスは別名ヴィーナス(ミロのヴィーナスが有名)であり、愛と美の女神です。クピドーは別名キューピッドです(恋の橋渡し役)。ここは砕けて言えば(自分自身のまた他人の)「恋愛談議」です。
☆2 接続法と直接法「もし私たちがそうであるなら、そうである」
原文はSi simus, sumusであり、直訳すれば「もし、私たちであるなら、私たちである」です。ラテン語にこのように簡潔でしかも明快な表現法、すなわち、接続法と直接法があることに、感心してしまいます。これを日本語で「そのようなもの〝である〟なら、そのようなもの〝である〟かもしれない」と言えば、これで意味が通じます、それでもこの二つの〝である〟の間に接続法と直接法が使われていて、しかも意味を持っています。すなわち認識上の「である」(接続法)、「あなたはそう思うかもしれない」というニュアンスと、事実上の「である」(直接法)、「それでもこれが私たちの実態である」