原典講読『霊界体験記』 166(訳文と参考)

(3) 訳文

祝福された者の幸福を知覚するとき、悪い者の、このように地獄の群れのもとの、ねたみの結果の立証

 

166.  かき乱された眠りの後、目覚めの最初のころに、あたかも緑の月桂樹のような幻が、長くまた二重の交わりとなって続き、互いの間で隔たりがある、最も美しい順序で、一緒につながり、動くことのできる花冠とともに、その美のために記述されることが十分にできない、またここから至福の情愛、調和から流れ出る、これほどに快い幻が表象された。

これらは。悪い霊たちにもまた非常にはっきりとしていた。その後、他の幻が、さらに美しい、また推量することが許されているように、天界の幸福と結合した最も快いいものが続いた、しかし、非常に不明瞭に見ることのできるものでしかなかった。幼児が天界の遊びの中にいて、言葉にできないそれらが心を最高度に動かした、それらは明瞭に明らかで知覚できるものではなかった、それらを最内部の天界の天使たちは〔でき〕、これらを目覚めの中で〔見た〕。

 その後、私はそれらの幻について霊たちと話し、その者は、私と同様に最初の幻をはっきりと見たこと、しかし第二のもの見ず、それもまた見れるよう最高度に熱望していることを本気で言った。ここから、彼らのもとに憤りが、その後、段々とねたみが起こり、私に彼らのそのねたみを感じて、気づくことが与えられた、教えられて〔私に〕貢献するかぎり、〔そのことが〕何も私から逃げ去らないように。ねたみは、彼らがこの第二の幻を、第一のもののようにはっきりと見なかったことであり、彼らのもとに最高度の反感だけでなく、しかし最内部の苦痛もまたがひき起こされるようなものであった。その後、彼らは多様なねたみによって、〔よく〕言われるように、あたかも彼らの胸の奥までも苦しむように、導かれた。

彼らがその状態の中にいた時、私は彼らのねたみについて、いろいろなことを、最初の幻を見たので満足できること、またもし正直な性質であったなら第二のものも見ることがであろうことを言った。ここからもまた憤りが〔起こり〕、それによってねたみは増され、その後、それを思い出すことに決して耐えられず、むしろ苦痛で満たされるようなものであった。順に発出し、ねたみとここから不信心な者にとどまるような実際に起こる苦しみが示されような、その多種多様なものは、記述されることができない。ここから、彼らの責め苦だけでも記述されることができない、なぜなら、私はそのねたみを私のもののようにでなく、彼のもののように把握したからである。ねたみの様な進行の段階に関して、私は霊たちと話した、その時、私はその者を少しも慰めることができなかった。

 ここから、敬虔な者の至福を見る時、ねたみに関しでだけ、不信心な者の将来の状態がどんなものか、ある程度、知ることができる。

  多くのものが起こり、それらを私は記憶に保持することができなかった、それらの霊たちも、大部分の場合、それらが明らかにされるように欲しなかった、それゆえ、彼らにもまた、ある種の事柄の記憶を密かに取り去ることが許された。

1747年8月☆25, 26日、旧暦。

 

◎参考のためにスヴェーデンボリ出版の『みことばとその内意・表象と対応』の71番を掲載してきます。

これは『天界の秘義』1974番であり、この「霊界体験記」に基づいて書かれています。

 

七一 [一九七四] かき乱された夢の後、初

( ★ ) の頃、最も快い光景が示されました。緑の、最も美しく整えられた、生きているように動き、美と調和のために述べられることができないような形をしたこぎれいな月桂樹の冠があり、ここから幸福の状態の情愛の流れ出るようでした。二列で互いの間が少し離れ、〔枝を〕十分に長く〔伸ばして〕交わり、また常に、美のさまざまな状態でした――これは霊に、さらに悪い者にも知覚されました。その後、なおさら美しい他の光景が続き、その中に天界の幸福がありました、しかし、ただ不明瞭に見えました。幼児たちが天界の遊びの中にいて、それが言語に絶する方法で心を感動させました。

[2] その後、それらの光景について霊たちと話し、その者は、私と同様に最初のものを見たこと、しかしもう一つのものは、何であったか言うことができなかったような不明瞭なものしか見なかったことを認めました。ここから、彼らのもとに憤りが、その後、天使と幼児がそれを見た、と言われたので、そのことから次第に、ねたみが生じました。彼らのそのねたみを、感覚でとらえらるように知覚することが与えられ、そのように教えに向けられているかぎり、私から何も逃げ去りませんでした。〔その〕ねたみは、彼らがもう一つのものもまた見なかった、という理由だけから、彼らのもとで極度の悩みだけでなく、苦悶と内的な苦痛もまたひき起こすようなものでした。ここから、多様なねたみよって導かれ、胸の奥までも悲しみました――

[3] その状態の中にいたとき、私は彼らとねたみについて、最初のものを見ることに満足していることができること、さらにまたもう一つのものも、もし善良な者であったなら〔見ることが〕できる、と話しました。ねたみの状態と進行は、その程度、〔その〕増大、アニムス(気質)と心の病気で変化また混合したものとともに、述べられることができません――このように、不信心な者が、単なる〔自分の〕ねたみから、遠方から善良な者の幸福の状態を見るとき、それどころか、ただそれについて考える時、どれだけ苦しめられるかが示されました。

原典講読『霊界体験記』 167

(1) 原文

De vita Brutorum

 

167.  De vita brutorum cum angelis loquutus sum, nempe quod communi quadam vita regantur, quae est vita geniorum et spirituum, nam genii et spiritus classificati sunt, et tenentur secundum genera et classes, in suo ordine, inque sua subordinatione, qui{1} quia activitates sunt, inde communis vita existit, et quidem secundum facultates diversas brutorum, sicut ab omni alia activitate, quae diffundit se, et constituit sphaeram, quae sphaera activitatis vocatur, et se in subtiliori natura ad magnam, imo ad immensam distantiam [extendit]{2}, quilibet genius et spiritus suam sphaeram activitatis habet, quod multis demonstratum est, ita quoque omnes simul, secundum ordinem, in quo sunt, qui ordo nisi a Deo Messia conservaretur, periret{3} omne{4} vitale in terra, imo confunderetur totum coelum: haec causa est quod bruta secundum indolem suam vivant, nec ab ea deflectant, et quod varietates excitentur secundum objecta sensuum, et status mutationes in sanguine utroque. Homo autem et spiritus mali, quia contrariam naturae vitam, vivunt, regendi omnino sunt a Deo Messia per angelos secundum classes, etiam a spiritibus, quibus datur major vis operandi, quum homo in tentationes mittitur. Et nisi homines regerentur a Deo Messia per angelos et spiritus, nequicquam posset mens eorum intellectualis aperiri, et instrui, nam absque intellectu nascitur homo, et tempore intellectus formatur, aliter apud animalia bruta.

@1 in ms. quae in qui emendatum〔手書き原稿では quae が qui に訂正されている〕

@2 sic J.F.I. Tafel〔ターフェルは extendit を補っている〕

@3 ms. perireret

@4 ms. omnne sed J.F.I. Tafel amoris

 

(2) 直訳

De vita Brutorum 獣のいのちについて

167.  De vita brutorum cum angelis loquutus sum, nempe quod communi quadam vita regantur, quae est vita geniorum et spirituum, 獣のいのちについて私は天使たちと話した、すなわち、全般的なある種のいのちに支配されていること、それは悪鬼と霊たちのいのちである。

nam genii et spiritus classificati sunt, et tenentur secundum genera et classes, in suo ordine, inque sua subordinatione, qui{1} quia activitates sunt, inde communis vita existit, et quidem secundum facultates diversas brutorum, なぜなら、悪鬼と霊たちは分類されているから、また種類(属)と部類にしたがって保たれている、その秩序の中に、そしてその従属の中に、それらは活動であるので、ここから全般的ないのちが存在する、その上(実際に)、獣のいろいろな能力にしたがって。

sicut ab omni alia activitate, quae diffundit se, et constituit sphaeram, quae sphaera activitatis vocatur, et se in subtiliori natura ad magnam, imo ad immensam distantiam [extendit]{2}, 他のすべての活動からのように、それはそれ自体をまきちらす(広がる)、またスフェアを構成する、それは活動のスフェアと呼ばれる、またそれ自体をさらに微細な自然の中に大きなものへ、それどころか測り知れない距離へ〔広げる〕。

quilibet genius et spiritus suam sphaeram activitatis habet, quod multis demonstratum est, ita quoque omnes simul, secundum ordinem, in quo sunt, どんな悪鬼や霊たちも自分の活動のスフェアを持っている、大いに示されたこと、そのようにすべての者もまた一緒に、秩序にしたがって〔持っている〕、その中にいる、

qui ordo nisi a Deo Messia conservaretur, periret{3} omne{4} vitale in terra, imo confunderetur totum coelum: その秩序が神メシアにより守られないなら、地の中のすべての生命力〔のあるもの〕が滅びる、それどころか、全天界が混乱させられる。

haec causa est quod bruta secundum indolem suam vivant, nec ab ea deflectant, et quod varietates excitentur secundum objecta sensuum, et status mutationes in sanguine utroque. これらが理由である、獣がその生来の性質にしたがって生きていること、それから逸れもしない、また多種多様なもの(変化)が感覚の対象にしたがってかきたてられる(ひき起こされる)、また両方の血液☆の中の変化の状態〔にしたがって〕。

☆ 「両方の血液」とは962番に immunda spiritumm sanguinus(血液の精の不潔なもの)と immunda seri sanguinus(血液の漿液の不潔なもの)とあるので、この二つ精(エキス)と漿液(血清)でしょう。

Homo autem et spiritus mali, quia contrariam naturae vitam, vivunt, regendi omnino sunt a Deo Messia per angelos secundum classes, etiam a spiritibus, quibus datur major vis operandi, quum homo in tentationes mittitur. けれども、人間と悪い霊は、自然に反した生活を、生きているので、すべての点で神メシアにより支配されなければならない、天使たちによって、部類にしたがって、霊たちによってもまた、彼らに働きかけるさらに大きな力が与えられている、人間が試練の中に入れられるとき。

Et nisi homines regerentur a Deo Messia per angelos et spiritus, nequicquam posset mens eorum intellectualis aperiri, et instrui, また、人間は神メシアにより支配されないなら、天使と霊たちを通して、決して彼の知性的な心は開かれることができない、また教えられること。

nam absque intellectu nascitur homo, et tempore intellectus formatur, なぜなら、人間は理解力なしに生まれているからである、また時が経つにつれて理解力が形作られる。

aliter apud animalia bruta. 獣のもとで異なって〔いる〕。

 

(3) 訳文

獣のいのちについて

 

167.  獣のいのちについて、私は天使たちと話した、すなわち、悪鬼と霊たちのいのちである全般的なある種のいのちに支配されていることである。なぜなら、悪鬼と霊たちは、また種属と部類にしたがって分類され、その秩序の中に、そしてその従属の中に、それらは活動であるので、ここから全般的ないのちが存在し、実際に、獣のいろいろな能力にしたがって保たれているからである。他のすべての活動からのように、それは広がり、活動のスフェアと呼ばれるスフェアを構成し、またさらに微細な自然の中の大きなものへ、それどころか測り知れない距離へ広げる。大いに示されたことであるが、どんな悪鬼や霊たちも自分の活動のスフェアを、そのようにすべての者もまた一緒になってその中にいる秩序にしたがって持っている。その秩序が神メシアにより守られないなら、地上のすべての生命力あるものが滅び、それどころか、全天界が混乱させられる。これらが、獣がその生来の性質にしたがって生き、それから逸れもせず、また感覚の対象にしたがってまた両方の血液☆の変化の状態にしたがって、多種多様なものがひき起こされる理由である。

 けれども、人間と悪い霊は、自然に反した生活を生きているので、すべての点で神メシアにより、部類にしたがって天使たちによって、霊たちによってもまた支配されなければならない、彼らには人間が試練の中に入れられるとき、働きかけるさらに大きな力が与えられている。

 また、人間は神メシアにより支配されないなら、天使と霊たちを通して、決して彼の知性的な心は開かれ、教えられることができない。なぜなら、人間は理解力なしに生まれ、時が経つにつれて理解力が形作られるからである。獣のもとで異なっている。

 

☆ 「両方の血液」とは、962番にあるように、血液の精(エキス)と漿液(血清)でしょう。962番参照。

原典講読『霊界体験記』 168

(1) 原文

Infantum informatio in coelo{1}

 

168.  Quod vero infantes attinet, ii reguntur ab angelis, et quidem vita primum communi, et postea singulariori secundum formationem illorum mentis rationalis et intellectualis. Infantes autem qui in ipsa infantia moriuntur, quando iis nulla adhuc mens intellectualis, et nulla adhuc indoles instructa, ii post vitam corporis formantur in coelo apud angelos, de qua formatione et informatione, plura possunt dici, sed adhuc non mihi ita revelatum est, ut ab experientia satis perspicua id possim dicere.

@1 caput hoc apparet infra paragraphum marginaliter ut 168 indicatam et annotatam cum titulo sublineato variante Infantum informationes in coelo 〔欄外に「168」として示され、注意書きされて、Infantum informationes in coelo とさまざまな下線が施されている〕(なお tituloは「口実で」という意味です)。

 

(2) 直訳

Infantum informatio in coelo{1} 天界の中の幼児の教育☆

168.  Quod vero infantes attinet, ii reguntur ab angelis, et quidem vita primum communi, et postea singulariori secundum formationem illorum mentis rationalis et intellectualis. けれども、幼児たちについては、彼らは天使たちにより支配されている、また、確かに最初は全般的ないのち〔によって〕またその後、特定なもの、彼らの理性的なまた知的な心の形成にしたがって。

Infantes autem qui in ipsa infantia moriuntur, quando iis nulla adhuc mens intellectualis, et nulla adhuc indoles instructa, ii post vitam corporis formantur in coelo apud angelos, けれども、幼児たちは、その者は(まさに)幼児期そのものの中で死んだ、彼らにその時まで(依然として)知的な心が何もない、またその時まで教育された性質が何もない、彼らは身体の死後、天界の中で天使たちのもとで形作られる。

de qua formatione et informatione, plura possunt dici, sed adhuc non mihi ita revelatum est, ut ab experientia satis perspicua id possim dicere. その形成と教育について、多くのものが言われることができる、しかし、今でも(依然として)私に啓示されていない、経験により十分にはっきりとそのこと私が言うことができるようには。

 

(3) 訳文

天界での幼児の教育☆

 

168.  けれども、幼児たちについては、彼らは天使たちにより、彼らの理性的なまた知的な心の形成にしたがって、確かに最初は全般的な、またその後、特定ないのちによって支配されている。

 けれども、まさに幼児期に死んだ幼児たちは、その時まで彼らに)知的な心が何もなく、またその時まで教育された性質が何もなく、彼らは、身体の死後、天界の中で天使たちのもとで形作られる。その形成と教育について、多くのものが言われることができる、しかし、経験により十分にはっきりとそのこと私が言うことができるようには、依然として私に啓示されていない。

 

☆ この表題は手書き原稿の欄外に書かれています。

原典講読『霊界体験記』 169

(1) 原文

De Summo Deo et creatore universi eorum qui non agnoscunt Deum Messiam pro Mediatore

 

169.  Cum spiritibus loquutus sum, num agnoscere possunt Supremum Jehovam Salvatoris nostri Parentem pro supremo Creatore, qui Deum Messiam non agnoscunt, et qui cupiditatibus auferuntur in perversum ordinem; et tunc subiit satis vive, quod nullum alium pro creatore universi agnoscere possent, quam aliquem Deum prorsus naturalem, qui se jactat pro supremo, sic aliquem genium magna loquentem; quod tales genii sint, ab experientia viva novi, nam se creatores universi putabant et jactabant, et sic multos decipiebant, sed eorum jactabunda verba, prolixum est describere, et plura, quae ab iis patrata sunt, hoc solum, quod postquam fere crediderim, quod essent tam magni, pedibus meis postea substrati sunt, et mecum tot vana loquuti sunt, ut ne quidem risum tenere potuissem. Tales itaque sunt dii, quos adorant ii qui cupiditatibus abducti inversum vivunt ordinem, et facti qui tunc naturam agnoscunt pro omnium rerum creatore, nam iis impossibile est, prae caligine eorum intellectus et crassitie ingenii, ultra naturam penetrare; haec in praesentia spirituum. 1747, 24 Aug.

 (m)Ea jam causa est, quod gentiles tot deos agnoverint et adoraverint, qui omnes naturalia significabant, et dejectissimi idola, alii{1} autem homines diversos olim in vita; etc. etc.(n)

@1 ms. idola alii

 

(2) 直訳

De Summo Deo et creatore universi eorum qui non agnoscunt Deum Messiam pro Mediatore 彼らの最高の神と全世界の創造者について、その者は神メシアを仲介者(調停者)として認めない

169. Cum spiritibus loquutus sum, num agnoscere possunt Supremum Jehovam Salvatoris nostri Parentem pro supremo Creatore, qui Deum Messiam non agnoscunt, et qui cupiditatibus auferuntur in perversum ordinem; 私は霊たちと話した、最高位の者(至高者)エホバを、私たちの救い主の父を、至高の創造者として認めることができるかどうか、その者は神メシアを認めない、またその者は欲望によってゆがめられた秩序の中に連れ去られる。

et tunc subiit satis vive, quod nullum alium pro creatore universi agnoscere possent, quam aliquem Deum prorsus naturalem, qui se jactat pro supremo, sic aliquem genium magna loquentem; またその時、十分に生き生きと心に浮かんだ(subeo)、決して他の者を全世界の創造者として認めることができないこと、まったく自然的なある神以外に、その者は自分自身を至高者として自慢する、このように大きなことを話すある魔鬼を〔認める〕。

quod tales genii sint, ab experientia viva novi, このような魔鬼たちがいることを、生き生きとした経験から私は知った(知っている)。

nam se creatores universi putabant et jactabant, et sic multos decipiebant, sed eorum jactabunda verba, prolixum est describere, et plura, quae ab iis patrata sunt, なぜなら、自分自身を全世界の創造者と思ったからである、また自慢した、またこのように多くの者を欺いた、しかし、彼らの自慢することばを、記述することは長たらしくて飽きあきする(退屈である)、また多くのもの、それらは彼らにより遂行された。

hoc solum, quod postquam fere crediderim, quod essent tam magni, pedibus meis postea substrati sunt, et mecum tot vana loquuti sunt, ut ne quidem risum tenere potuissem. ここにただ~だけ〔述べよう〕、私がほとんど信じた(接続)後、これほどに偉大であったこと、その後、私の足で(=の)下に置かれた、また私にこのように多くのむだな(空虚な)ことを話した、決して笑いを抑えることができないような。

Tales itaque sunt dii, quos adorant ii qui cupiditatibus abducti inversum vivunt ordinem, et facti qui tunc naturam agnoscunt pro omnium rerum creatore, そこで、これらの者が神々である、その者を彼らは崇拝する、その者は欲望によって連れ去られて逆転した秩序に生きる、行なった、その者はその時、自然をすべての事柄の創造者として認める。

nam iis impossibile est, prae caligine eorum intellectus et crassitie ingenii, ultra naturam penetrare; なぜなら、彼らに不可能であるからである、彼らの理解力の暗黒と素質の粗雑さのために、自然を超えて洞察することが。

haec in praesentia spirituum. これらは霊たちの居合わせる中で〔書かれた〕。

1747, 24 Aug. 1747年8月24日。

(m)Ea jam causa est, quod gentiles tot deos agnoverint et adoraverint, qui omnes naturalia significabant, et dejectissimi idola, alii{1} autem homines diversos olim in vita; etc. etc.(n) (欄外に☆1)これらは、今、理由である、異邦人(異教徒の意味もある)がこのように多くの神々を認めた、また崇拝した、そのすべての者は自然的なものを意味した、また最も低い(投げ落とされた)者は偶像を、けれども、他の者たちはいろいろな人間を、昔は、生活の中で☆2、等々。

☆1 (m)……(n)の記号は「……」が欄外に書かれていることを意味します。

☆2 ここは「昔にいのちの中に(あった)」、すなわち、「昔に生きた」と見なしてようでしょう。

 

(3) 訳文

神メシアを調停者として認めない者の最高の神と全世界の創造者について

 

169. 私は、神メシアを認めず、欲望によってゆがめられた秩序の中に連れ去られた霊たちと話した、至高者エホバを、私たちの救い主の父を、至高の創造者として認めることができるかどうか。またその時、十分に生き生きと心に浮かんだ、自分自身を至高者として自慢し、このように大きなことを話すある魔鬼を、まったく自然的なある神以外に決して他の者を全世界の創造者として認めることができないことである。このような魔鬼たちがいることを、生き生きとした経験から私は知っている。なぜなら、自分自身を全世界の創造者と思い、自慢し、このように多くの者を欺いたからである、しかし、彼らの自慢することばを、また彼らにより遂行された多くのものを記述することは長たらしくて飽きあきする。ここに、私がこれほどに偉大であったことをほとんど信じた後、私の足の下に置かれ、私に、決して笑いを抑えることができないような多くのむだなことを話したことだけ〔を述べよう〕。

 そこで、これらの者が神々であり、その神々を、欲望によって連れ去られて逆転した秩序に生き、その時、自然をすべての事柄の創造者として認めることを行なった者が崇拝する。なぜなら、彼らの理解力の暗黒と素質の粗雑さのために、自然を超えて洞察することが彼らに不可能であるからである。これらは霊たちの居合わせる中で〔書かれた〕。1747年8月24日。

 (欄外に)これらは、今、異邦人がこのように多くの神々を、また最も低い者は偶像を、けれども、他の者たちは昔に生きたいろいろな人間を認め、崇拝した理由であり、そのすべての神々は自然的なものを意味した、等々。

原典講読『霊界体験記』 170

(1) 原文

De Punitione superbiae, h.e, fiduciae sui

 

170.  Ab experientia viva etiam discere per misericordiam Dei Messiae, mihi datum est, quomodo fiducia sui per dolorem dejectionis castigaretur, erat dolor interior, planctus cum planctu, fere cum desperatione omnis salutis, sed observatum usque, quod semper in mediis doloribus et planctibus spes salutis continenter adesset, quae levaret dolorem-alioquin etiam deprimitur fastus per submissionem quasi spontaneam, quod non nisi humilia desideret, quod tamen est donum Dei Messiae. 1747, d. 24 Aug. st. v. Comitabatur etiam continua miseratio, sensibiliter tunc percepi, quod malus spiritus affligeret; et quod Deus Messias per spem salutis jugiter aspiraret.

 

De vita hominis post mortem

 

      Post vitam corporis manet vita qualis formata est in vita corporis, sed recedunt scientiae, et similia, quae fuerunt modo instrumentalia formationis hominis; ipsa indoles est quae manet, quae est essentia vitae.{1}

@1 paragraphus haec cum titulo deleta esse videtur in ms.〔この文節(段落)は表題☆とともに削除されているのが手書き原稿に見られる〕

☆ 前にtitulo を「口実」としましたが(スヴェーデンボリの著作ではこの意味で使っています)、この注では一般的な意味である「表題・上書き」の意味です。

この段落には欄外に二つの「Obs.}があります。訳文に表示しておきます。observatio の略語であり「注意・注目」の意味です。

 

(2) 直訳

De Punitione superbiae, h.e, fiduciae sui 誇りの、すなわち、自己信頼の懲罰について

170.  Ab experientia viva etiam discere per misericordiam Dei Messiae, mihi datum est, quomodo fiducia sui per dolorem dejectionis castigaretur, 生き生きとした経験からもまた神メシアの慈悲によって学ぶことが、私に与えられた、どのように自己信頼が投げ落とすことの苦痛によって懲らしめられる(矯正させる)か、

erat dolor interior, planctus cum planctu, fere cum desperatione omnis salutis, sed observatum usque, quod semper in mediis doloribus et planctibus spes salutis continenter adesset, quae levaret dolorem― 内的な苦痛であった、嘆きとともに嘆き、ほとんど、すべての救いの絶望とともに、しかしそれでも観察された(気づいた)、苦痛と嘆きの真ん中の中に常に救いの希望が絶え間なくあったこと、それが苦痛を和らげた(減らされた)――

alioquin etiam deprimitur fastus per submissionem quasi spontaneam, quod non nisi humilia desideret, quod tamen est donum Dei Messiae. そうでなければ(他の時に)もまた高慢はいわば自発的な従順によって押し下げられた(低くされた)、低いもの(=低い身分または卑下)でないなら望まないこと、それでも、そのことは神メシアの賜物である。

1747, d. 24 Aug. st. v. 1747年8月24日に、旧暦。

Comitabatur etiam continua miseratio, sensibiliter tunc percepi, quod malus spiritus affligeret; 絶え間のない同情(哀れみの行動)もまた伴なった、その時、私は感覚でとらえられるように(感じられて)知覚した、悪霊が取り付けたこと。

et quod Deus Messias per spem salutis jugiter aspiraret. また、神メシアが救いの希望を通して常に息を吹きかけていること。

 

De vita hominis post mortem 死後の人間のいのち(生活)について

Post vitam corporis manet vita qualis formata est in vita corporis, sed recedunt scientiae, et similia, quae fuerunt modo instrumentalia formationis hominis; 身体のいのちの後、いのちが残る、身体のいのちの中で形作られたような、しかし、知識は、また同様のものは去る(やむ)、それらは人間の形成の単なる道具であった。

ipsa indoles est quae manet, quae est essentia vitae.{1} (生来の)性質そのものである、それが残る、それはいのちの本質である。

 

(3) 訳文

誇り、すなわち、自己信頼の懲罰について

 

170.  生き生きとした経験からもまた神メシアの慈悲によって、どのように自己信頼が投げ落とすことの苦痛によって懲らしめられるか学ぶことが私に与えられた、嘆きとともに嘆き、ほとんど、すべての救いの絶望とともに、内的な苦痛であった、しかしそれでも苦痛と嘆きの真ん中に常に救いの希望が絶え間なくあ、それが苦痛を和らげたったことに気づいた――他の時にも、高慢は、いわば自発的な従順、低いもの(低い身分など)でないなら望まないことによって押し下げられた、それでも、そのことは神メシアの賜物である。

1747年8月24日、旧暦。

 絶え間のない哀れみの行動もまた伴なった、その時、私は感覚で感じられて、悪霊が取り付けたこと、また、神メシアが救いの希望を通して常に息を吹きかけていることを知覚した。。

 

死後の人間のいのち(生活)について☆

 

 身体のいのちの後、身体のいのちの中で形作られたようないのちが残る、しかし、人間の形成の単なる道具であった知識や同様のものは去る。残るものは性質そのものであり、それがいのちの本質である。

 

☆ 手書き原稿では、この段落は表題とともに削除されています。