原典講読『最大の人とその対応』 257(訳文)

 

(3) 訳文


257 世の中の生活の中で他の者りも公平に見られ、また同時に要職に任命され、ここからそれらの両方から権威そしてまた重みがあり、またそれでもなお何も信じず、また自己愛の生活だけを送り、彼らに好意を持たず、また彼らを尊重せず、またさらに彼らに何らかの方法で対立したすべての者に対して、内部で憎しみと復讐をかき立てられた者は、すべてのうちで最も頑固な者である。もしそれらののもとにらかの汚点をあばいたならそのことからをつくりそしてたとえその〕最良にあっても中傷する


[2] このような来世中でのようにすなわち、権威から重々しくまた公正からのようにそれゆえくの、他よりもじられなくてはならないとったしかし、最悪意あるである。彼らが人間れるとき、疲労によってきな苦痛をひきこしそれは最高度えられないものにまでえずみまたやしそれはとここから身体、人間がほとんど寝床から起きることができないような衰弱をひきこすこのことはそばにいたときこのような虚弱とらえそれでもそれは、遠ざかるほどますますその〕程度にしたがってやんだことによって、私された


 [3] 〔彼らは〕疲労とここからの衰弱を注ぎ込もうと、多くの技巧で用いる、特に自分と自分たちの間の毒舌中傷によって、自分たちの共有のスフェアを持ち込む。彼らは部屋の中で、神性の礼拝について、信仰、また永遠のいのちについて推論するとき、それらのことを完全に退け、またこのことを他の者以上に知恵からのように行なう。


彼らに地獄を支配すること、またこのように支配から、彼らが信じるように、神性に反抗して働くことが許されさえすれば、来世で悪魔と呼ばれることを欲する。


他の者以上に自己愛の中にまたここから憎しみと復讐の中に、そしてまた彼らを尊重しないすべての者に対する残酷の中にいるので、彼らは内部に汚れている。


[4]さらにまた私は、〔彼らは〕公正の外見によって他の者を惑わすことをやめる時まで重く(きびしく)罰せられる、と聞いた。それらの外見が彼らから取り去られる時、異なった口調で話す。その後、霊たちの世界から追い払われ、またその時、左に向かって、またそこに深い地獄の中に追い払われる。その地獄は、左に、中間の距離にる。

原典講読『最大の人とその対応』 258

 

(1) 原文「5722番」


258 Sunt alii qui in vita corporis spurcissimi fuerunt; spurcities eorum talis est ut reticenda; illi per praesentiam suam et influxum in partes solidas corporis, inducunt taedium vitae, {1}et talem torporem membris et artubus ut se levare homo e lecto non possit. Contumacissimi sunt, {2]non {3}desistunt per poenas ut alii diaboli; apparent juxta caput et ibi sicut jacentes; cum abiguntur, non fit subito sed lente, et tunc per gradus versus inferiora devolvuntur; et cum in profundum {4}veniunt, ibi in tantum cruciantur ut non possint non desistere ab infestandis aliis. Tale est eorum jucundum malum faciendi ut nihil jucundius.


@1 ut I @2 nec @3 after diaboli @4 venerunt


 


(2) 直訳


258 Sunt alii qui in vita corporis spurcissimi fuerunt; 他(たち)いるその身体のいのちのていた。


spurcities eorum talis est ut reticenda; 彼らの不浄はこのようなものである、黙さなければならないような〔ものである〕☆。


reticeo「沈黙を通す、黙秘する」ですが、だれがそうするのかと言えばスヴェーデンボリです。すなわち「公言をはばかる」という意味です。


illi per praesentiam suam et influxum in partes solidas corporis, inducunt taedium vitae, {1}et talem torporem membris et artubus ut se levare homo e lecto non possit. 彼らは自分居合わせることまた流入によって、身体個体部分いのちの疲労をひきこすこのような無活動(不活発)四肢関節、人間寝床から(自分自身)こすことができないような。


Contumacissimi sunt, {2]non {3}desistunt per poenas ut alii diaboli; 彼らは最も頑固である、他の悪魔のように罰によってやめない(断念しない)


apparent juxta caput et ibi sicut jacentes; 頭の近くに見られる、またそこに横たわっているように。


cum abiguntur, non fit subito sed lente, et tunc per gradus versus inferiora devolvuntur; 彼らが追い払われるとき、急に生じない、しかし、ゆっくりと、またその時、徐々に地獄に向けて転がし落とされる。


et cum in profundum {4}veniunt, ibi in tantum cruciantur ut non possint non desistere ab infestandis aliis. また深いところ(深淵)の中にやって来るとき、そこにそれだけの中に☆拷問にかけられる(苦しめられる)、他の者に攻撃する(悩ます)とからやめないことができないような。


このinは必要なのでしょうか? (まだラテン語をよくわかっていないのだろうか?)


Tale est eorum jucundum malum faciendi ut nihil jucundius. 悪を行なう彼らの快さはこのようなものである、さらに快いものが何もないような。


@1 ut I 注1 初版のutetに換えた


@2 nec 注2 necnonに換えた


@3 after diabolic 注3 diabolicの後ろにあったdesistuntをここに移した


@4 venerunt 注4 veneruntveniuntに換えた


 


(3) 訳文


258 いのちが身体中にあったとき最ていた他いる。彼らの不浄黙秘しておかなければならないようなものである。彼らは自分居合わせることまた流入によって、身体個体部分いのちの疲労、人間寝床から起き上がることができないような不活発四肢関節にひきこす


 彼らは頑固であり、他悪魔のようにによってやめない。頭くにそこにたわっているようにられる。彼らがわれるとき、急にでなくしかしゆっくりとであるまたその時、徐々地獄けてがしとされるまたいところにやってるときそこでは攻撃をやめることができるようなそれだけの拷問にかけられる。悪なうらのさはさらにいものがもないようなものである

原典講読『最大の人とその対応』 260(雑談)

 

(4) 句読法の違いについて


 日頃思っていて、機会がなくて言えなかったことを、ここで述べておこう。


 日本語の句読点のつけ方には明確な基準はない、と思っている。句読点、すなわち句点()読点(。)は古来なかった。日本語の昔の文章は、だらだらつなげて書いたのであった。区切りは自然とわかったのであろう。基準がなかったので、そのうち、「読みやすさ」をもとに、(また句点がないと誤読されることもあって)、文章を適当に区切り、適当な長さにした。


 英語(他は知らない)は、区切りはカンマ()、セミコロン()、ピリオッド()の順に強い(コロン()もあるが別の機会に述べたい)


文意を小区切りしたいときカンマ(これをつけるか、付けないかで意味に大きな違いが発生するのが「or」と「,or」また「which」と「,which」など、ご存じでい方はいないと思いますが、そうでない人は一勉強してください)


いったん区切って、別のことを述べるのがセミコロン。すなわち、「Aではある、それでもBということもあって、~である」などという論理構成なら、それでもの前でいったん文を区切るのが読みやすい。


最後に、まとまった文として終了するのが「終止符」、フルストップとも言われる。


 


さて話しは変わってラテン語は、その性格もあって、(だらだらと)文章をつなげることが得意である。フルストップまで延々と論述が続くことがある。それまでセミコロンが次から次へと続く。


 で、それはともかく、そのようなことを「翻訳する」上ではどうするのか? が翻訳者に課せられる。日本語はなるべく文章を区切る。だらだらつなげないことが読みやすい文章だとされている(あえてこれに反する文章家もいる)。すなわち読点を多用することである。


 そこで、スヴェーデンボリの文章に限っては(実は他のラテン語の文章は知らない、私が知っているのはスヴェーデンボリのラテン語だけ)、「セミコロンは読点とする」のが論理的にも、日本語の文章としても、ラテン語の性格からも「妥当である」というのが私の結論である。


 しかし、本日の例のように、(もちろん)例外もある。

原典講読『最大の人とその対応』 261(直訳まで)

 

 (1) 原文「5725番」


261 Ab experientia discere datum est quid inundatio seu diluvium in sensu spirituali; inundatio illa est duplex, una quae est cupiditatum, et altera quae est falsitatum; quae est cupiditatum, est partis voluntariae, et est dextrae partis cerebri, at quae est falsitatum, est partis intellectualis, {1}in qua est sinistra pars cerebri. Cum remittitur homo qui in bono vixerat, in proprium suum, ita in sphaeram suaemet vitae, tunc apparet quasi inundatio; cum in illa inundatione est, tunc indignatur, irascitur, cogitat irrequiete, cupit vehementer; aliter cum inundatur sinistra pars cerebri, ubi sunt falsa, et aliter cum dextra ubi {2} mala. Cum autem homo tenetur in sphaera vitae quam receperat a Domino {3}per regenerationem, tunc prorsus extra talem inundationem est, et est quasi in sereno et aprico, {4}et in laeto et felici, ita longe ab indignatione, ira, {5}irrequietudine, cupiditatibus et similibus; hoc est mane seu ver spirituum, illud est vespera seu autumnus eorum. Datum erat mihi percipere quod extra inundationem essem, et hoc satis diu, cum viderem quod alii spiritus essent in illa; postea autem ipse immersus fui, et tunc {6}appercepi similitudinem inundationis. In tali sunt qui in tentationibus. Inde quoque instructus sum quid diluvium in Verbo significat, quod nempe ultima posteritas antiquissimorum qui fuerunt ab Ecclesia caelesti Domini, prorsus inundati fuerint malis et falsis et sic perierint.


@1 ad hanc pars sinistra cerebri pertinet, ad illam autem pars cerebri dextra @2 i sunt @3 cum regeneratus est @4 inque @5 inquietudinibus @6 percepi


 


(2) 直訳


261 Ab experientia discere datum est quid inundatio seu diluvium in sensu spirituali; 経験からることがえられた、氾濫(洪水)たは洪水であるか、霊的意味


inundatio illa est duplex, una quae est cupiditatum, et altera quae est falsitatum; 氾濫、それは二重(二様)である、一つは欲望の〔もの〕、またもう一つは虚偽の〔もの〕である。


quae est cupiditatum, est partis voluntariae, et est dextrae partis cerebri, at quae est falsitatum, est partis intellectualis, {1}in qua est sinistra pars cerebri. 欲望のものであるものは、意志部分のものであるまた部分のものであるしかし、虚偽のものであるものは、理解力の部分のものである、その中に脳の左の部分がある。


Cum remittitur homo qui in bono vixerat, in proprium suum, ita in sphaeram suaemet vitae, tunc apparet quasi inundatio; 人間されるときその者は善の中に生きた、自分のプロプリウムの中に、そのように自分自身の☆いのちのスフェアの中に、その時、いわば氾濫が見られる。


suum-metがついて強調されています。


cum in illa inundatione est, tunc indignatur, irascitur, cogitat irrequiete, cupit vehementer; その氾濫にいるときその時、憤慨する、怒、落ずに考える、激しく欲する。


aliter cum inundatur sinistra pars cerebri, ubi sunt falsa, et aliter cum dextra ubi {2} mala. 異なっている〕脳部分氾濫させられているときこに虚偽がある、また異なっている〕右が~のとき、そこに悪が。


Cum autem homo tenetur in sphaera vitae quam receperat a Domino {3}per regenerationem, tunc prorsus extra talem inundationem est, et est quasi in sereno et aprico, {4}et in laeto et felici, ita longe ab indignatione, ira, {5}irrequietudine, cupiditatibus et similibus; けれども、人間がいのちのスフェアのたれるとき、それを主から再生を通して受け取った、その時、まったくこのような氾濫の外にいる、またいわば晴天と日照の中にいる、また喜ばしさと幸福の中に、そのように憤慨、怒り、落ち着きのなさ、欲望や同様のものから遠く離れて〔いる〕。


hoc est mane seu ver spirituum, illud est vespera seu autumnus eorum. これ(後者)たちのまたはであるそれ(前者)らのまたはである


Datum erat mihi percipere quod extra inundationem essem, et hoc satis diu, cum viderem quod alii spiritus essent in illa; 私知覚することがえられた、私氾濫にいたことまたこの状態に長い間、私が見たとき、他の霊たちがその中にいたこと。


postea autem ipse immersus fui, et tunc {6}appercepi similitudinem inundationis. けれどもその後、自分自身されたまたその時、私氾濫の類似のものを認めた。


In tali sunt qui in tentationibus. このようなにいる、試練いる〕者。


Inde quoque instructus sum quid diluvium in Verbo significat, quod nempe ultima posteritas antiquissimorum qui fuerunt ab Ecclesia caelesti Domini, prorsus inundati fuerint malis et falsis et sic perierint. ここからもまたえられたみことばの洪水意味するかすなわち、最古代人最後子孫その天的教会からであった、完全に悪と虚偽に水でおおわれた(氾濫させられた)、またこのように滅んだこと。


@1 ad hanc pars sinistra cerebri pertinet, ad illam autem pars cerebri dextra 注1 ad hanc pars sinistra cerebri pertinet, ad illam autem pars cerebri dextrain qua est sinistra pars cerebriに換えた


@2 i sunt 注2 suntを補うとよい


@3 cum regeneratus est 注3 cum regeneratus estper regenerationemに換えた


@4 inque 注4 inqueet inに換えた


@5 inquietudinibus 注5 inquietudinibusirrequietudineに換えた


@6 percepi 注6 percepiappercepiに換えた

原典講読『最大の人とその対応』 261(訳文)

 

(3) 訳文


261 霊的意味氾濫たは洪水であるか、経験からることがえられた。氾濫二様であり、一つは欲望のもの、またもう一つは虚偽のものである。欲望のものは、意志部分のものであり、脳部分のものであるしかし、虚偽のものは、理解力の部分のものであり、その中に脳の左の部分がある。


善の中に生きた人間自分のプロプリウムの中に、そのように自分自身のいのちのスフェアの中に戻される時、いわば氾濫が見られる。その氾濫にいる時、憤慨、怒、考えは落ず、激しく欲する。脳部分氾濫こに虚偽があるときと、悪がある右の部分が氾濫しているときとは異なっている


 けれども、人間主から再生を通して受けた、いのちのスフェアのたれる時、まったくこのような氾濫の外に、いわば晴天と日照の中に、また喜ばしさと幸福の中に、そのように憤慨、怒り、落ち着きのなさ、欲望や同様のものから遠く離れている。後者たちのまたはであり、前者らのまたはである


 私氾濫またこの状態に長い間いたこと、また私が見たとき他の霊たちがその中にいたことを知覚することがえられたけれどもその後、自分自身されまたその時、私氾濫と類似のものを認めた。試練にいる者はこのようなもののにいる


 ここからもまたみことばの洪水意味するかすなわち、主天的教会の者であった最古代人最後子孫、悪と虚偽によって完全に水でおおわれ、このように滅んだことを教えられた


〔次回で『最大の人とその対応』は終了です〕