原典講読『神の摂理』 233([9.]~[13.])

 

(2) 直訳


[9.] Quintum: [9.] 第五:


Sed quod Dominus per Divinam suam Providentiam quam maxime prospiciat ne prius et plus inde recipiatur a voluntate, quam quantum homo sicut a se removet malum in externo homine.― しかし、主はご自分の神的な摂理によって、その記憶が意志により、前にまた多くここから受け入れられないように、人間が外なる人間の中で自分自身からのように悪を遠ざけるかぎり、その記憶を最大に用心される


Nam quod a voluntate, hoc in hominem venit, ac ei appropriatur, ac fit vitae ejus; なぜなら、意志により〔受け入れられる〕ものは、これは人間の中にやって来て、そして彼に専有され、そして彼のいのちとなるから。


et in ipsa vita, quae homini est ex voluntate, non potest malum et bonum simul esse, sic enim periret; またいのちそのものの中に、それは人間に意志からある、悪と善が一緒に存在することができない、というのはこのように滅びるから。


at in intellectu potest utrumque esse, quae ibi vocantur falsa mali aut vera boni, attamen non simul; しかし、理解力の中に(両方)二つとも存在することができる、それらはそこに悪の虚偽または真理の善と呼ばれる、けれども、同時にではない。


alioqui non potuisset homo videre malum a bono, ac cognoscere bonum a malo; そうでなければ、人間は悪を善から見ることができなかった、そして善を悪から知ること。


sed distinguuntur et separantur ibi sicut domus in interiora et exteriora. しかし、そこに区別され、分離される、家が内側と外側の中に〔区別される〕ように。


Cum malus homo cogitat et loquitur bona, tunc exterius cogitat et loquitur: 悪い人間が善を考え、話すとき、その時、外的に考え、話す。


at cum mala tunc interius; しかし、そのとき悪を、その時、内的に。


quare cum loquitur bona, fit loquela ejus sicut ex pariete; それゆえ、善を話すとき、その話し方は壁からのように生ずる。


et comparari potest cum fructu superficietenus pulchro, qui intus vermiculosus et putris est; また表面的に美しい果実に例えられることができる、それは内部に虫でいっぱい、腐っている。


et quoque cum ovo draconis crusta tenus. そしてまた、ヘビ()の卵に、殻に関して〔表面的に美しい〕。


[10.] Sextum: [10.] 第六:


Quod si prius et plus, tunc voluntas adulteraret bonum ac intellectus falsificaret verum, commiscendo illa cum malis et inde falsis.― もし、前にまた多くなら、その時、善と真理に悪とそこから☆虚偽を混ぜて、意志は善を不純化し、理解力は真理を虚偽化すること。


前の232番ではcumだったものがここではindeに変わっています。


Cum voluntas est in malo, tunc illa in intellectu adulterat bonum, ac adulteratum bonum in intellectu est in voluntate malum, confirmat enim quod malum sit bonum, et vicissim; 意志が悪の中にあるとき、その時、それは理解力の中で善を不純にする(汚す)、そして理解力の中の不純にされた善は意志の中の悪である、というのは確信するから、悪が善であること、また〔その〕逆に。


malum ita facit cum omni bono, quod sibi oppositum est. 悪はそのようにすべての善に行なう、それ〔善〕はそれ〔悪〕自体に対立している。


Malum etiam falsificat verum, quia verum boni est oppositum falso mali; 悪もまた真理を虚偽化する、善の真理は悪の虚偽に対立しているので。


hoc quoque facit voluntas in intellectu, et non intellectus ex se. このこともまた意志が理解力の中で行なう、理解力がそれ自体からではない。


Adulterationes boni in Verbo describuntur per adulteria, et falsificationes veri per scortationes ibi. 善の不純化は、みことばの中で姦淫によって述べられている、また真理の虚偽化はそこに淫行によって。


Adulterationes et falsificationes illae fiunt per ratiocinia ex naturali homine qui in malo est, et quoque fiunt per confirmationes ex apparentiis sensus litterae Verbi. それらの不純化と虚偽化は自然的な人間からの〔誤った〕推論によりなされる、その者は悪の中にいる、そしてまた、みことばの文字通りの意味の外観からの確信によってなされる。


[11.] Amor sui, qui est caput omnium malorum, praepollet aliis amoribus ingenio adulterandi bona et falsificandi vera, et hoc facit per abusum rationalitatis, quae cuivis homini tam malo quam bono a Domino est; [11.] 自己愛は、それは悪のすべてのものを捕える(つかむ)、他の愛に強力である、才能(知力)で、善を不純化する〔ことで〕、また真理を虚偽化する、またこのことを推理力の濫(悪用)よって行なう、それは人間のそれぞれに悪い者にも善い者にも主からある。


immo potest per confirmationes facere, ut malum prorsus appareat sicut bonum, ac falsum sicut verum. それどころか、確信によってすることができる、悪をまったく善のように見えるように、そして虚偽を真理のように。


Quid non potest, cum potest mille argumentis confirmare, quod natura se ipsam creaverit, et quod illa dein creaverit homines, bestias et vegetabilia omnis generis; 何ができないか? 千の論証で確信することができるとき、自然がそれ自体そのものを創造したこと、またそれ〔自然〕はその後、人間を創造した、すべての種類の動物と植物を。


tum quod per influxum ex interiori se faciat ut homines vivant, analytice cogitent, et sapienter intelligant? なおまた、それ自体の内なるものからの流入によって人間が生きるようにすること、分析的に考える、また賢明に理解する。


Quod amor sui praepolleat ingenio confirmandi quicquid vult, est quia ultimam superficiem ejus facit quidam splendor lucis in varios colores variegatae. 自己愛は、才能(知力)で、どんなものでも欲するものを確信することに強力であることは、その表面の最外部が光のある輝きをつくっているからである、いろいろな色で色とりどり(多彩な)


Hic splendor est amoris istius gloria sapiendi, et sic quoque eminendi et dominandi. この輝きはその愛の賢明である〔ことの〕栄光である、そしてまたこのようにすぐれている〔こと〕また支配的である〔ことの〕。


[12.] At cum amor ille talia confirmaverat, tunc fit tam caecus, ut non videat aliter quam quod homo sit bestia et quod cogitent similiter, immo quod si bestia quoque loqueretur, foret illa homo sub alia forma. [12.] しかし、その愛がこのようなことを確信したとき、その時、このように盲目になる、人間が獣(動物)であること以外に異なって見ないように、また同じように考えること、それどころか、もし獣(動物)もまた話したなら、それは人間であったこと、他の形のもとに。


Si adduceretur ex quadam persuasione credere quod aliquid hominis vivat post mortem, tunc tam caecus est, ut credat quod etiam bestia, et quod hoc aliquid vivens post mortem sit modo subtilis vitae halitus, sicut vapor, qui usque relabitur ad cadaver suum; もし、ある信念から信じることをひき起こされても、人間の何らかのものが死後も生きること、その時、これほどに盲目である、獣(動物)もまた〔死後に生きる〕ことを信じるように、また死後に生きるこの何らかのものは単にいのちの微細な息(発散物)である、蒸発気のような、それでもそれはその死体に戻される(すべり帰る)


vel quod sit aliquod vitale absque visu, auditu et loquela, ita caecum, surdum et mutum, volitans et cogitans; あるいは、何らかの生命力であること、視覚、聴覚と話すことなしに、このように盲目、つんぼでおし〔である〕、飛んでまた考える。


praeter plures insanias, quas ipsa natura, quae in se mortua est, phantasiae ejus inspirat. 他に多くの狂気〔がある〕、それらを自然そのものが、それは本質的に死んだものである、その幻(想像力)吹き込む。


Hoc facit amor sui, qui in se spectatus est amor proprii; このことを自己愛が行なう、それは本質的に見られた、プロプリウム(固有のもの)の愛である。


et proprium hominis quoad affectiones, quae omnes sunt naturales, non est absimile vitae bestiae, et quoad perceptiones quia ex illis affectionibus sunt, non absimile est noctuae. また人間のプロプリウムは情愛に関して、それらのすべては自然的である、獣(動物)のいのちに似ていなくもない、また知覚に関して、それらの情愛からであるので、フクロウに似ていなくもない。


Quare qui continue immergit cogitationes proprio suo, non potest elevari e luce naturali in lucem spiritualem, et videre aliquid Dei, caeli, et vitae aeternae. それゆえ、絶えず思考を自分のプロプリウムに浸す者は、自然的な光から霊的な光の中に上げられることができない、また、神、天界、また永遠のいのちの何らかのものを見ること。


Quia hic amor talis est, et usque ingenio confirmandi quodcunque lubet, praepollet, ideo etiam simili ingenio potest adulterare bona Verbi, et falsificare vera ejus, dum ex quadam necessitate tenetur confiteri illa. この愛はこのようなものであるので、またそれでも才能(知力)で、どんなものでも気にいるものを確信することが、強力であるので、それゆえまた、同様に才能(知力)で、みことばの善を不純化することができる、またその真理を虚偽化すること、ある必要からそれらを告白する(宣言する)ことを強いられる時。


[13.] Septimum: [13.] 第七:


Quod ideo Dominus non interius immittat hominem in vera sapientiae et in bona amoris, nisi quantum homo in illis potest teneri usque ad finem vitae.― それゆえ、主は人間を知恵の真理の中と愛の善の中に、それらに中に生涯の終わりまで保たれることができないかぎり、内的に入れられないこと。


Hoc facit Dominus, ne homo in gravissimum illud genus profanationis sancti, de quo in hoc articulo actum est, incidat. このことを主は行なわれる、聖なるものの冒涜のその最も重い種類の中に〔落ち込ま〕ないように、そのことについてこの章の中で扱われている、落ち込む。


Propter id periculum etiam Dominus permittit mala vitae, et plura haeretica cultus; その危険のために、主はまたいのち(生活)の悪を許されている、また多くの異端の礼拝(にせ宗教)を。


de quorum permissione videbitur in sequentibus paragraphis. それらの許しについて続く節(段落)の中に見られる。


 


(3) 訳文


[9.] 第五:「しかし、主はご自分の神的な摂理によって、その記憶が意志により、前にまた多くここから受け入れられないように、人間が外なる人間の中で自分自身からのように悪を遠ざけるかぎり、その記憶を最大に用心される


 なぜなら、意志により受け入れられるものは、人間の中にやって来て、彼に専有され、そして彼のいのちとなるから。また人間に意志から存在するいのちそのものの中で、悪と善が一緒に存在することができないからである、というのはこのようにして滅びるから。しかし、理解力の中に二つとも存在することができ、それらはそこに悪の虚偽または真理の善と呼ばれる、けれども、同時にではない。そうでなければ、人間は善から悪を見ること、また悪から善を知ることができなかった。しかし、家が内側と外側に区別されるように、そこに区別がなされ、分離される。


 悪い人間が善を考え、話すとき、その時、外的に考え、話す。しかし、悪を考え、話すとき、その時、内的にそうする。それゆえ、善を話すとき、その話し方は壁からのようである。また表面的に美しい〔けれども〕、内部は虫でいっぱいであり、腐っている果実に、そしてまた、殻に関して〔表面的に美しい〕ヘビの卵に例えられることができる。


[10.] 第六:「もし、前にまた多くなら、その時、善と真理に悪とそこから虚偽を混ぜて、意志は善を不純化し、理解力は真理を虚偽化すること」


 意志が悪の中にある時、それは理解力の中で善を不純にし、そして理解力の中の不純にされた善は意志の中の悪である。というのは、悪が善であること、またその逆を確信するから。悪はそのようにすべての善に行なう、その善はその悪自体に対立している。


善の真理は悪の虚偽に対立しているので、悪もまた真理を虚偽化する。このこともまた、意志が理解力の中で行ない、理解力がそれ自体からではない。


みことばの中で、善の不純化は姦淫によって、また真理の虚偽化は淫行によって述べられている。それらの不純化と虚偽化は、悪の中にいる自然的な人間からの〔誤った〕推論によりなされ、そしてまた、みことばの文字通りの意味の外観からの確信によってなされる。


[11.] 悪のすべてのものを捕える自己愛は、他の愛よりも強力に、知力で、善を不純化し、また真理を虚偽化する。またこのことを主から悪い者にも善い者にも人間のそれぞれにある推理力の悪用によって行なう。それどころか、確信によって、悪をまったく善のように、そして虚偽を真理のように見えるようにすることができる。


自然がそれ自体を創造したこと、またその自然はその後、人間を創造し、すべての種類の動物と植物を創造したこと、なおまた、その自然自体の内なるものからの流入によって、人間が生き、分析的に考え、また賢明に理解するようにすることを千の論証で確信することができるとき、何かできないものがあるのか?


 自己愛は、知力で、どんなものでも欲するものを強力に確信するのは、その表面の最外部が、多彩ないろいろな色で光のある輝きをつくっているからである。この輝きはその愛が賢明であり、そしてまたこのようにすぐれていて、また支配的であるという栄光である。


[12.] しかし、その愛がこのようなことを確信した時、人間は〔同じ〕獣であり、同じように考え、それどころか、もし獣もまた話したなら、それは他の形の人間であるとしか見ないほどの、そのような盲目となる。もし、ある信念から人間の何らかのものが死後も生きることを信じるようにされても、その時、獣もまた死後に生き、また死後に生きるこの何らかのものは蒸発気のような単なるいのちの微細な発散物であって、それでもそれはその死体に戻されるあるいは、視覚、聴覚、話すことのない、このように盲目、つんぼでおしであり、飛び回り、考える何らかの生命力である、信じるほどに、これほどに盲目である。他に多くの狂気があるが、それらを本質的に死んだものである自然そのものが、その幻想で吹き込む。


 このことを自己愛が行ない、本質的に見られたその愛はプロプリウム(固有のもの)の愛である。また人間のプロプリウムは情愛に関して、それらのすべては自然的であり、獣のいのちに似ていなくもなく、また知覚に関して、それらの情愛からであるので、フクロウに似ていなくもない。


 それゆえ、絶えず思考を自分のプロプリウムに浸す者は、自然的な光から霊的な光の中に上げられ、神、天界、また永遠のいのちの何らかのものを見ることができない。


 この愛はこのようなものであるので、またそれでも知力で、強力にどんなものでも気にいるものを確信するので、それゆえまた、ある必要から善や真理を告白することを強いられる時、同様に知力で、みことばの善を不純化し、その真理を虚偽化することができる。


[13.] 第七:「それゆえ、主は人間を知恵の真理の中と愛の善の中に、それらに中に生涯の終わりまで保たれることができないかぎり、内的に入れられないこと」


 このことを主は、この章の中で扱われている聖なるものの最も重い種類の冒涜に落ち込まないように、行なわれる。その危険のために、主はまた、生活上の悪を、また多くの異端の宗教を許されている。


それらの許しについては続く節の中に見られる。

原典講読『神の摂理』 234

 

QUOD LEGES PERMISSIONIS ETIAM SINT LEGES DIVINAE PROVIDENTIAE.


許しの法則もまた神的な摂理の法則であること


 


(1) 原文


234.  Non sunt aliquae leges permissionis per se seu separatae a legibus Divinae Providentiae, sed sunt eaedem; quare dicitur quod Deus permittat, per quod non intelligitur quod velit, sed quod non possit avertere propter finem, qui est salvatio. Quicquid fit propter finem, qui est salvatio, est secundum leges Divinae Providentiae: nam, ut prius dictum est, Divina Providentia jugiter in diversum et contrarium it cum voluntate hominis, continue intendens finem; quare in omni momento operationis suae, seu in omni vestigio progressionis suae, ubi animadvertit aberrare hominem a fine, illum secundum leges suas dirigit, flectit et disponit, abducendo a malo, ducendo ad bonum. Quod hoc non fieri possit absque permissione mali, in sequentibus videbitur. Praeterea non potest aliquid permitti absque causa, et causa non datur alibi quam in aliqua lege Divinae Providentiae, quae lex docet cur permittitur.


 


(2) 直訳


Non sunt aliquae leges permissionis per se seu separatae a legibus Divinae Providentiae, sed sunt eaedem; 許しの何らかの法則はない、それ自体から☆、または神的な摂理の法則から分離した、しかし、同じものである。


per se で「単独に」という熟語です。「それ自体から」もありますので、どちらでも訳文は可能です。


quare dicitur quod Deus permittat, per quod non intelligitur quod velit, sed quod non possit avertere propter finem, qui est salvatio. それゆえ、主が許されることが言われる、そのことによって〔主が〕望まれることが意味されない、しかし、目的のために避けることができないこと〔が意味される〕、それは救いである。


Quicquid fit propter finem, qui est salvatio, est secundum leges Divinae Providentiae: 何でも目的のために行なわれるものは、それは救いである、神的な摂理の法則にしたがっている。


nam, ut prius dictum est, Divina Providentia jugiter in diversum et contrarium it cum voluntate hominis, continue intendens finem; なぜなら、前に言われたように、神的な摂理は常にいろいろな方向に、また人間の意志に逆らっている☆、絶えず目的に(心を)向けて(目指して)


ここにitとありますが(初版もそうです)、私には理解不能です。sitのミスプリであろうと解釈しておきました。


quare in omni momento operationis suae, seu in omni vestigio progressionis suae, ubi animadvertit aberrare hominem a fine, illum secundum leges suas dirigit, flectit et disponit, abducendo a malo, ducendo ad bonum. それゆえ、その働きのすべての瞬間に、すなわち、その進行(前進)すべての歩みの中で、そこに目的から人間をさまようことを気づく、彼をその法則にしたがって導く、曲げる(そらせる)、また整える(適応させる、しむける)、悪から導き出して、善へ導いて。


Quod hoc non fieri possit absque permissione mali, in sequentibus videbitur. このことが悪の許しなしに行なわれることができないことは、続くものの中に見られる。


Praeterea non potest aliquid permitti absque causa, et causa non datur alibi quam in aliqua lege Divinae Providentiae, quae lex docet cur permittitur. さらに、何らかのものは理由なしに許されることができない、また理由は神的な摂理の何らかの法則の中に以外に他のところに存在しない、その法則はなぜ許されるかを教える。


 


(3) 訳文


234.  神的な摂理の法則と単独で、またはその法則から分離した、許しの何らかの法則はなく、同じものである。それゆえ、主が許される、と言われるとき、そのことによって〔主が〕望まれることが意味されないで、救いである目的のために避けることができないことが意味される。救いである目的のために行なわれるものは何でも、神的な摂理の法則にしたがっている。なぜなら、前に言われたように、神的な摂理は絶えず目的に向けて、常にいろいろな方向に目を向け、また人間の意志に逆らって〔も〕いるから。それゆえ、その働きのすべての瞬間に、すなわち、その進行すべての歩みの中で、 そこに目的から人間がさまようことを気づかせ、悪から導き出し、善へ導いて、彼をその法則にしたがって導き、そらせ、また整える。


 このことが悪の許しがなくて行なわれることができないことは、続くものの中に見られる。さらに、何らかのものは理由なしに許されることができない、また理由は神的な摂理の何らかの法則の中にしか存在せず、その法則はなぜ許されるかを教えている。

原典講読『神の摂理』 235

 

(1) 原文


235.  Qui prorsus non agnoscit Divinam Providentiam, ille in corde suo non agnoscit Deum, sed pro Deo agnoscit naturam, et pro Divina Providentia humanam prudentiam. Quod ita sit, non apparet; quia homo potest aliter cogitare et cogitare, et quoque aliter loqui et loqui; potest aliter cogitare et loqui ex interiori se, et aliter ab exteriori se: est sicut cardo qui utrinque potest vertere januam, aliter dum intrat quam dum exit; et sicut velum utrinque potest vertere navem, sicut nauclerus id expandit. Qui se confirmaverunt pro humana prudentia, usque adeo ut negaverint Divinam Providentiam, illi quicquid usquam vident, audiunt et legunt, dum in illa sua cogitatione sunt, non animadvertunt aliud, immo nec possunt, quia nihil e caelo recipiunt, sed solum a se; et quia ex solis apparentiis et fallaciis concludunt, et non vident aliud, possunt jurare quod ita sit. Et si etiam solam naturam agnoscunt, possunt irasci contra defensores Divinae Providentiae, modo non sint sacerdotes, de quibus cogitant, quod id eorum doctrinae aut functionis sit.


 


(2) 直訳


Qui prorsus non agnoscit Divinam Providentiam, ille in corde suo non agnoscit Deum, sed pro Deo agnoscit naturam, et pro Divina Providentia humanam prudentiam. 神的な摂理をまったく認めない者は、彼は自分の心の中で神を認めていない、しかし、神の代わりに自然を認める、また神的な摂理の代わりに人間の思慮を。


Quod ita sit, non apparet; このようであることは、見られない。


quia homo potest aliter cogitare et cogitare, et quoque aliter loqui et loqui; 人間は異なって考えることと考えることができるので、そしてまた異なって話すことと話すこと☆。


このままでは文章になっていません。また原文もこのままでは舌足らずであると思います。はたしてこのような表現がたとえ省略文であったとしても、可能なのでしょうか? やや疑問が残ります。それでも「明晰な文章を書くスヴェーデンボリなのでこんな文を書くはずがない」、とみれば、意味するところはわかります。普通の人がこのように書いたら、またこれを読んだら、「なんだこれは?」となるでしょう。意味は「考えても、またそれとは異なって考えること、話しても、またそれとは異なって話すことができる」ということでしょう。英訳は「二つの異なった方法・仕方で(two different ways)考える」と意訳しています。


potest aliter cogitare et loqui ex interiori se, et aliter ab exteriori se: 内的な自分自身から異なって考えることと話すことができる、また外的な自分自身から異なって。


est sicut cardo qui utrinque potest vertere januam, aliter dum intrat quam dum exit; ちょうつがいのようである、それは扉のどちらの側にも回転することができる、入る時に異なる、それ()を出る時に。


et sicut velum utrinque potest vertere navem, sicut nauclerus id expandit. また船をどちらの側にも向きを変える(回転する)とができる帆のよう〔である〕。


Qui se confirmaverunt pro humana prudentia, usque adeo ut negaverint Divinam Providentiam, illi quicquid usquam vident, audiunt et legunt, dum in illa sua cogitatione sunt, non animadvertunt aliud, immo nec possunt, quia nihil e caelo recipiunt, sed solum a se; 自分自身に〔神的な摂理を〕人間の思慮として確信した者は、そこまでも神的な摂理を否定する、彼らは何でもいつも(どんな場合も)見る、聞く、また読む、それらがその〔思慮の〕思考の中にある時、他のものを気づかない(認めない)、それどころかできもしない、天界から何も受けないので、しかし、自分自身だけから。


et quia ex solis apparentiis et fallaciis concludunt, et non vident aliud, possunt jurare quod ita sit. また外観と〔感覚の〕欺きから結論するので、また他のものを見ない、誓うことができる、そのようであることを。


Et si etiam solam naturam agnoscunt, possunt irasci contra defensores Divinae Providentiae, modo non sint sacerdotes, de quibus cogitant, quod id eorum doctrinae aut functionis sit. また、もし、さらにまた自然だけを認めるなら、神的な摂理の擁護者に対して怒ることができる、祭司でないかぎり☆、その者について考える、それは彼の教えのものまたは職務のものであること。


modoには接続詞の用法があります。この場合、接続法です。「~する間は、~する限り、~の条件で」といった意味です。


 


(3) 訳文


235.  神的な摂理をまったく認めない者は、自分の心の中で神を認めておらず、しかし、神の代わりに自然を、また神的な摂理の代わりに人間の思慮を認める。〔心の中で〕このようであることは、人間は考えても、それと異なって考えること、また話しても、それと異なって話すことができるので、見られない。内的な自分自身から異なって考え、話すことができ、また外的な自分自身からそれと異なってできる。扉のどちらの側にも回転することができるちょうつがいのようであり、それは、入る時と出る時で〔回転方向が〕異なる。また船をどちらの側にも向きを変えるとができる帆のようである。


〔神的な摂理を〕自分自身に人間の思慮として確信した者は、見、聞き、また読むどんな場合も、それらが思考の中にある時、天界から何も受けず、しかし、自分自身だけから受けるので〔自分の思慮以外の〕他のものを認めず、それどころかできもせず、そこまでも神的な摂理を否定するまた外観と〔感覚の〕欺きから結論するので、他のものを見ず、そのようであることを誓うことができる。さらにまた、自然だけを認める者は、神的な摂理の擁護者に対して、もし、その者が祭司でないなら、怒ることができる。祭司にとって、神的な摂理とは教えに属すものまたは職務上のものである、と考える〔からである〕。

原典講読『神の摂理』 236

 

(1) 原文


236.  Enumerabuntur nunc aliqua quae permissionis sunt, et usque secundum leges Divinae Providentiae, per quae mere naturalis homo se pro natura contra Deum, et pro humana prudentia contra Divinam Providentiam, confirmat. Ut cum Verbum legit: Quod sapientissimus hominum, Adamus et uxor, se passi sint a serpente seduci, et quod Deus hoc per Divinam suam Providentiam non averterit. Quod primus eorum filius, Cainus, occiderit fratrem suum Abelem, et Deus non tunc abduxerit loquendo cum illo, sed modo post factum, maledicendo. Quod gens Israelitica in deserto coluerit vitulum aureum, et agnoverit eum pro Deo qui e terra Aegypti illos eduxit, cum tamen Jehovah hoc vidit e Monte Sinai prope, et non praecavit. Tum quod David numeraverit populum, et propterea immissa sit pestis, e qua tot millia hominum perierunt, et quod Deus non ante sed post factum ad illum miserit Gadem prophetam, et denuntiaverit poenam. Quod Salomoni permissum fuerit instaurare cultus idololatricos: et multis regibus post illum profanare templum et sancta ecclesiae: et demum quod genti isti permissum sit crucifigere Dominum. In his et multis aliis in Verbo, agnitor naturae et prudentiae humanae non videt nisi quam contraria Divinae Providentiae: quare illis ut argumentis potest uti ad negandum illam, si non in exteriore sua cogitatione, quae est proxima loquelae, usque in interiore quae remota est a loquela.


 


(2) 直訳


Enumerabuntur nunc aliqua quae permissionis sunt, et usque secundum leges Divinae Providentiae, per quae mere naturalis homo se pro natura contra Deum, et pro humana prudentia contra Divinam Providentiam, confirmat. そこで(今から)、何らかのものが列挙される(未来)、それらは許しのものである、またそれでも神的な摂理の法則にしたがって〔いる〕、それらによって、単に自然的な人間は自分自身に神に対して自然のために(味方して)、また神的な摂理に対して人間の思慮のために(味方して)、確信する。


Ut cum Verbum legit: 例えば、みことばを読むとき、


Quod sapientissimus hominum, Adamus et uxor, se passi sint a serpente seduci, et quod Deus hoc per Divinam suam Providentiam non averterit. 〔(i.)1〕人間の最も賢明な者、アダムと妻は、自分たち自身にヘビにより惑わされることを許した☆こと、また神はこのことを神的な摂理によって避けなかったこと。


1 今後の記述に合わせるために、この番号を振ります。このほうがはるかに読みやすいでしょう。またこれらの見出しとなっているものは(後に)『真のキリスト教』479番に言及されています。


2 passiの辞書形はpatiorです。この語は他動詞として「被る」、自動詞として「許す」という意味があります。


Quod primus eorum filius, Cainus, occiderit fratrem suum Abelem, et Deus non tunc abduxerit loquendo cum illo, sed modo post factum, maledicendo. 〔(ii.)〕彼らの最初の息子、カインは、その兄弟アベルを殺したこと、また神はその時、彼に語ることを差し控えられた、しかし、ただ行為の後、呪って。


Quod gens Israelitica in deserto coluerit vitulum aureum, et agnoverit eum pro Deo qui e terra Aegypti illos eduxit, cum tamen Jehovah hoc vidit e Monte Sinai prope, et non praecavit. 〔(iii.)〕イスラエルの国民は砂漠(荒野)中で金の子牛を礼拝したこと、またそれを神として認めた、それはエジプトの地から彼らを導き出した、そのときそれでも、エホバはこのことをシナイ山から近くで見た、また警戒(用心)されなかった。


Tum quod David numeraverit populum, et propterea immissa sit pestis, e qua tot millia hominum perierunt, et quod Deus non ante sed post factum ad illum miserit Gadem prophetam, et denuntiaverit poenam. 〔(iv.)〕なおまた、ダビデは民を数えたこと、またさらに、疫病が送られた、そのことからこのように多くの数千の人間が死んだ(滅んだ)こと、また神は行為の前でなく後に、彼に預言者ガドを送られた(派遣された)、また罰をおどして宣言した(おどした)こと


ここは「サムエル記Ⅱ」第24章です。


Quod Salomoni permissum fuerit instaurare cultus idololatricos: 〔(v.)〕ソロモンに偶像崇拝の礼拝を制定することが許されたこと。


et multis regibus post illum profanare templum et sancta ecclesiae: 〔(vi.)〕また多くの王に、彼の後、神殿と教会の聖なるものを冒涜することが〔許された〕


et demum quod genti isti permissum sit crucifigere Dominum. 〔(vii.)〕また最後に、その国民に主をはりつけにすることが許された。


In his et multis aliis in Verbo, agnitor naturae et prudentiae humanae non videt nisi quam contraria Divinae Providentiae: みことばの中のこれらや他の多くのものの中に、自然と人間の思慮の承認者は神的な摂理の正反対のもの以外でないなら見ない。


quare illis ut argumentis potest uti ad negandum illam, si non in exteriore sua cogitatione, quae est proxima loquelae, usque in interiore quae remota est a loquela. それゆえ、それらは証拠(論拠)として用いられることができる、それ〔摂理〕を否定するために、もし自分の思考の外なるものの中でないなら、それは話しに最も近いものである、それでも内なるものの中で、それは話しから遠く離れている☆。


少しわかりづらいと思います。「(外なる思考に最も近いものである)話しに出して否定しなくても、思考の内なるものでは否定している」ということでしょう。


 


(3) 訳文


236.  そこで、許されていても、それでも神的な摂理の法則にしたがってものを列挙しよう。それらによって、単に自然的な人間は、神の代わりに自然を、また神的な摂理の代わりに人間の思慮を確信する。例えば、みことばを読むとき―


 


 〔(i.)〕人間の最も賢明な者アダムと妻は、ヘビにより惑わされることを許したこと、また神はこのことを神的な摂理によって避けなかったこと。


 〔(ii.)〕彼らの最初の息子カインは、その弟アベルを殺したこと、また神はその時に彼に語ることを差し控え、しかし、ただ行為の後に呪われたこと。


 〔(iii.)〕イスラエルの民は荒野の中で金の子牛を礼拝し、またそれをエジプトの地から彼らを導き出した神として認め、そのときそれでも、エホバはこのことをシナイ山から近くで見、警戒されなかったこと。


 〔(iv.)〕なおまた、ダビデは民を数え、またさらに疫病が送られ、そのことからこのように多くの数千の人間が死んだこと、また神は行為の前でなく後に、彼に預言者ガドを送られ、罰をおどして宣言されたこと。


 〔(v.)〕ソロモンに偶像崇拝の礼拝を制定することが許されたこと。


 〔(vi.)〕また彼の後で多くの王に神殿と教会の聖なるものを冒涜することが許されたこと。


 〔(vii.)〕また最後に、その国民に主をはりつけにすることが許されたこと。


 


 みことばの中のこれらや他の多くのものの中に、自然と人間の思慮を承認する者は神的な摂理と正反対のものしか見ない。それゆえ、それらは神的な摂理を否定するために、論拠として用いられることができる。もし話しに最も近いものである自分の思考の外なるものの中で否定しないなら、それでも話しから遠く離れている思考の内なるものの中で否定する。

原典講読『神の摂理』 237

 

(1) 原文


237.  Omnis cultor sui et cultor naturae contra Divinam Providentiam se confirmat, cum in mundo videt tot impios, et tot illorum impietates, et simul quorundam gloriationes ex illis, et usque non aliquas illorum punitiones propterea a Deo. Et magis contra Divinam Providentiam se confirmat, cum videt quod succedant machinationes, astutiae et doli, etiam contra pios, justos et sinceros: et quod injustitia trumphet super justitiam in judiciis et in negotiis. Imprimis se confirmat, cum videt impios ad honores evehi, ac fieri magnates et primates; tum etiam abundare divitiis, ac vivere in lautis et magnificis; et vicissim cultores Dei in contemptu et paupertate. Contra Divinam Providentiam etiam se confirmat, cum cogitat quod permittantur bella, ac tunc tot hominum neces, ac tot urbium, gentium et familiarum depraedationes: et quoque quod victoriae stent a parte prudentiae, et quandoque non justitiae; et quod non aliquid faciat, si praefectus sit probus vel sit improbus; praeter similia alia: quae omnia sunt permissiones secundum leges Divinae Providentiae.


 


(2) 直訳


Omnis cultor sui et cultor naturae contra Divinam Providentiam se confirmat, すべての自分自身の崇拝者と自然の崇拝者は神的な摂理に反対して(自分自身に)信する、


cum in mundo videt tot impios, et tot illorum impietates, et simul quorundam gloriationes ex illis, et usque non aliquas illorum punitiones propterea a Deo. 〔(i.)☆〕世の中にこれほど多くの不信心な者を見るとき、またこれほど多くの彼らの不信心を、また同時に、彼らからある賛美が〔ある〕、またそれでも神によりこのためにそれらのある(何らかの)罰がない。


同じく今後の記述に合わせるために、この番号を振ります。


Et magis contra Divinam Providentiam se confirmat, cum videt quod succedant machinationes, astutiae et doli, etiam contra pios, justos et sinceros: またさらに神的な摂理に反対して(自分自身に)信する、見るとき、陰謀、欺き(だますこと)、またごまかし(策略)成功すること、敬虔な者、正しい者と誠実な者に対してもまた。


et quod injustitia trumphet super justitiam in judiciis et in negotiis. また、不正(不公平)が公正(正義)に勝ち誇る(凱旋する)☆、裁判で、また商売(事業)で。


ここのtrumphettriumphetのミスプリ。初版は正しいです。superは特に訳出するだけの意味はありません。


Imprimis se confirmat, cum videt impios ad honores evehi, ac fieri magnates et primates; 〔(ii.)〕特に自分自身を確信する、不信心な者が名誉(称賛される地位)へ昇進させられることを見るとき、そして高官や高位聖職者(第一人者)なること。


tum etiam abundare divitiis, ac vivere in lautis et magnificis; さらにまた、富に満ちあふれること、そして、ぜいたくと堂々とした(みごとさの)中で生きること。


et vicissim cultores Dei in contemptu et paupertate. また逆に、神の崇拝者が軽蔑と貧困の中に。


Contra Divinam Providentiam etiam se confirmat, cum cogitat quod permittantur bella, ac tunc tot hominum neces, ac tot urbium, gentium et familiarum depraedationes: 〔(iii.)〕神的な摂理に反対してさらにまた(自分自身に)信する、考えるとき、戦争が許されていること、またその時、これほど多くの人間の(非業の)死、またこれほど多くの都市の、人々(国民)の、また家族の略奪。


et quoque quod victoriae stent a parte prudentiae, et quandoque non justitiae; 〔(iv.)〕そしてまた、勝利は思慮の側から立つ(置かれる)また時々、公正(正義)でない。


et quod non aliquid faciat, si praefectus sit probus vel sit improbus; また、何かが生じないこと、もし統治者(長官)が正直であるかあるいは不正直であるかにしても。


praeter similia alia: 加えて同様の他のもの。


quae omnia sunt permissiones secundum leges Divinae Providentiae. それらすべてのものは神的な摂理の法則にしたがって()許しである。


 


(3) 訳文


237.  すべての自分自身と自然を崇拝するすべての者は神的な摂理に反対して信する。


 〔(i.)〕世の中にこれほど多くの不信心な者を、またこれほど多くの彼らの不信心を、また同時に、彼らに賛美が与えられ、またそれでも神によりこのためにそれらの何らかの罰がないのを見るとき。また、陰謀・欺き・策略が、敬虔な者・正しい者・誠実な者に対してもまた成功し、また、不正(不公平)が公正(正義)に裁判で、また事業で勝ち誇るのをするのを見るとき、さらに神的な摂理に反対して信する。


 〔(ii.)〕特に、不信心な者が称賛される地位へ昇進し、そして高官や高位聖職者なり、さらにまた、富に満ちあふれ、そして、ぜいたくに、堂々として生き、また逆に、神の崇拝者が軽蔑と貧困の中に生きるのを見るとき、確信する。


 〔(iii.)〕さらにまた、戦争が許され、その時、これほど多くの人間の死、またこれほど多くの都市、人々、また家族の略奪を考えるとき、神的な摂理に反対して信する。


 〔(iv.)〕そしてまた、勝利は、時々、公正(正義)ではなく、思慮する側にあり、また、統治者(長官)が正直であるかあるいは不正直であるにしても、何も生じないこと、加えて同様の他のもの〔を見て確信する〕。


 〔それでも〕それらすべてのものは神的な摂理の法則にしたがった許しである。