韓国新教会との交流が始まるか? その3(終わり)

 

529()、東京案内の二日目。この日は熊澤夫妻が栄さんとともに車で案内した。すなわち、ヤン牧師夫妻と合わせて5名である。以下は栄さんからざっと聞いた話。


最初に「皇居」、二重橋、桜田門を見たとのこと。銀座は「ここが四丁目」と車窓案内。(銀座は歩かなくてはその価値激減と思う。この次は私が歩いて案内するよ、いわゆる「銀ブラ」)


続いて「築地」。ここも場内には入らない(中に入ってほしかった)で場外の「玉寿司」(チェーン店がいくつかあるがここが本店)でスシ!


その後「浅草」。以上。


だいたい私が前日、熊澤さんにお勧めした場所であった。東京案内の「定番」であるが、二日間ならこれでよいと思う。


さて、夕方、ホテルのそばの店で「歓迎夕食会」。これには私も参加し、上記5名とTさんを含めて7名であった。6時から8時ちょっとすぎまで。話題はヤン牧師がイ・ミョンバク(李明博)に似ていることから(実際には似ていないが、雰囲気が似ている、妻もそう言っていた)、「政治」となった。そこで語られたのは、日本のマスコミは韓国の上層階級だけの見解を紹介しているのではないかということ。庶民の人気は前大統領、盧武鉉(ノ・ムヒョン)が絶大であった、残念ながら、ある種の圧力で自殺してしまった、など。珍しく政治の話となったが、しかし、ここで政治の話はやめておく。


8時ちょっと過ぎの「お開き」ということもあり、私の趣味でもあって「二次会」に誘う。といってもカラオケなどではなく、「ソバを味わおう」いうものである。


栄さんと一緒に4人で新宿二丁目「へぎそば昆」に向かう。途中でやはり花園神社を通りながら。「昆」はずっと以前にある飲み会の後、連れて行ってもらった、うまかったので、それ以来いつか再訪したかった。「へぎそば」なので新潟(越後)のソバであるが、日本のソバであることに変わりはないので、これでよいだろう。そして「うまい」と言ってもらえたのでよかった。


てんぷら・すし・そば、と味わってもらったので後は、うなぎ・すき焼き、であるがこれはまたの機会。そしていつかは日本料理そのものと思える「会席(懐石)料理」を味わってもらおうと思っているが、これはいつになるかわからない。


 


530() ジェネラルチャーチ東京グループの礼拝日。今は船堀駅前で行なっている。11時からの礼拝にヤン牧師夫妻も臨席。私たちとしては説教をお願いしたのであるが、「今回は牧師としてでなく」という本人に希望を尊重し、一般信徒の席で参加していただいた。礼拝後、昼食をはさんで午後の懇親会()では栄さんの通訳で、多岐にわたって話し合いがあった。詳細は省略するが、そこでの会話などを通して、ヤン牧師について私が知ったことをここで改めて記しておこう。


 


20歳ごろスヴェーデンボリに出会う。『真のキリスト教』を英語版から翻訳した。ジェネラルチャーチからの神学教育は受けていないが、韓国新教会の牧師ジン・クワック師の推薦で牧師となる(20071021日韓国でトム・クライン主教より叙階)。今はジン・クワック師の後任として韓国新教会を牧し、現在会員50名ほどに発展させた。


 


さて、230分で話し合いも終わり、熊澤さんの車で成田へと去る。日本の新教会に、また初訪問であった日本そのものにどのような印象を持たれたであろうか? わからない、でも「(歓迎するので)韓国新教会に来てほしい」の言葉が聞けたことは、お世辞でなく本心であると感じた。


ここで韓国新教会の指導者が日本を訪れたことの意義は(今後に向けて)大きいと思っている。

韓国新教会との交流が始まるか? その4(付録)

 

その後(63)、このような交流に尽力され、通訳など大いに活躍された栄さんからメールが来た。そこに「ヤン牧師からお礼のメールが届いたので翻訳して…伝送させていただきます」とあった。その一部を以下に紹介する。無断転載ではあるが、栄さんのご寛恕を願う(言葉づかいをほんの少し変えた部分がある)


* * * * *


栄様 日本で愛の歓待を受け、私と家内は感謝の思いで感無量でございます。私たちの訪問がお邪魔ではなかったでしょうか。


 


鈴木ご夫妻 言葉も通じないのに、それでもあらゆる手段を用いて日本の良さを伝えようとご苦労なさったことを思うと心が痛みます。また奥様と一緒の博物館観光も楽しかったし、ご馳走になった日本料理は本当においしかったです。いつかご夫妻で韓国へ来られたら私も韓国伝統料理で、もてなしたいと思っています。


 


熊澤ご夫妻 いつ、お会いしても情愛の豊かな方で麗しい愛を感じさせてくださいます。土曜日は東京観光案内と日曜日は空港まで見送っていただき、日本を離れる最後の最後まで慈しみ深い愛に深い感銘を覚えました。


 


東京グループの兄弟姉妹たちとの礼拝は厳粛かつ清らかで大変良かったです。松本先生に感謝するとともに、食事をしながら対話を通して互いに理解し合い、真の情愛の交流ができたと思っています。


(中略)


 


栄様 通訳ご苦労様でした。おかげで日韓における交流が滞りなく実現されました。


 


私たち皆、この世に主の新教会が堅固に建てられるその日まで互いに協力し合い御心がなりますよう、熱い心で祈ってまいりましょう。皆様を心より愛しています。


 


ヤンギュデ・ウンシュクヒ


* * * * *


 


この文面から推察するに、好印象を持たれ、また日本の仲間を身近に感じられたと思う。〔なお「付録」とは本文を補足して付け足して録することであり、まともな用い方である〕

玉城徹(たまき・てつ)さんの思い出

「いずこにも貧しき道がよこたわり神の遊びのごとく白梅」


 


714日の朝刊に訃報が載っていた。


「玉城徹さん死去」歌人、読売文学賞


歌人の玉城徹さんが13日午前11時、肺炎のため死亡した。86歳。…(中略)…仙台市生まれ。北原白秋に師事し、東大卒業後、教員生活のかたわら、正岡子規や白秋を研究した。…(後略)


そして、代表歌として掲載されていたのが上記の歌である。


 


さて、私との接点であるが「教員生活のかたわら…」の部分である。やや複雑な経緯の後、大学を出て都立高校教員として最初に赴任したのが青梅の「多摩高等学校」。そこの国語の教師が玉城さん。


教員の中では異色であった(同じく私も?)。私の教員生活で範とした先生の一人である。学校の帰り路、喫茶店に誘ってもらい話し、かわいがってもらった。酒が好き(同じく私も)なので、同僚と一本ぶら下げて自宅を訪問したこともあった。その時、新聞社から原稿料が届いていて、教員生活以外に活躍されていると知った。出会ったのは40代後半だった。


大学を出ただけで社会常識のなかった(今でもない)私に、いろいろ教えてくれた。その一つをここで紹介しよう、これはよく覚えている:「お礼は二度言うものである」


何かお世話になったとき、もっとくだけて「もらいもの」でもよい。そのとき当然「お例を言う」。その場で言うのが1回目(これすら言わない人もいるようだ、論外)。後日、またあった時「この前は…」ともう一度言う。これが2回目。一回こっきりでなく、このことは何を意味するか、すなわち「ご恩を忘れていませんよ」、ということ。この言葉で私は人の行動というものを見直すようになった。よい教えだと思う。


 


語れば、つきなくなりそう、というよりもこれ以上は当人を知らなければつまらないであろう、それで「歌の解釈」にはいる。東大では「美学」を学んだようだ。理屈っぽいし、むずかしい。この歌も一見しただけではなんだか全然わからない。投げ出そうと思った、しかし、私は翻訳をしているので、ある程度「解釈」できなければ翻訳業から撤退すべきであろう。実は「文字の通りの意味」だけからで「内意」は汲めない。背景、また精神的なものに踏み込むことが必要となって来る。ここに逸話がある。玉城さんは「長い直線を描くことができない」。すなわち、短い線を重ね、継ぎ足して長い線とする。ある日、私の似顔絵を箸の袋に描いてくれたことがあった。そのときの筆運びはまさにその通りであった。これを歌でいえば「言葉の重ね合わせ」であろう。


「貧しき道」「神の遊び」「白梅」といった言葉を重ね合わせて、そこから何かを浮かび上がらせるのである。でもこれだけでは無理だ。玉城さんの作風は徹底的に「われ」が視点となっている、という。すると、この歌も「われ」すなわち、自分を歌っている、とみなそう。


さて、「白梅」である。最後に唐突な付けたしとも思える「白梅」に悩み、女房に尋ねてみた。女房は多摩校出身、玉城さんのファンである。別の言い方をすれば「私は教え子と結婚した」。


「白梅ってなんだろう?」、すると女房は近くにある「白梅学園」の「いわれ」を持ちだした。どうも「清い生徒に育ってほしいらしい」と。そこで「清さの象徴」ではないかと思い至った。


 すなわち、ここには「清貧」が詠われている。


玉城さん自身が「貧しい道」を歩んでいる(歌を詠んでも、金にはならないネ)、そうした生活の中でもちゃんと「白梅」が咲いている。これはちょっとした「神の遊び」心なのか。(こんな解釈で内意としてはよろしいんでしょうか?)


 さて、私も「清貧」にあこがれる、「貧」は大丈夫、ほぼ退職金はなくなった。「清」はちょっとキビシイ。それでこれに一つ付け足して私の標語とする「清く、貧しく、いやらしく」。


 

青い梅いつのまにやら老梅酒

 

 玉城徹さんをしのぶ記事を書いてから、やや考えていた。そして、ふと思った。私も詠んでみようと。ただし短歌をやったことはない。俳句もしくは川柳である。



 青梅の多摩高時代は私の
20代だった。未熟で恥ずかしいこともしょっちゅうだった。しかもこれは今も変わらない。なんだかんだ過ごしながらも、いまや60代。いやゆる「老境」である。


 それで、表題の句となった。「青い梅」は季語なのか? ならば、愚作ながら俳句。



 前後関係を何も言わずに、ある人に「こんな句をつくったけど、どう?」と感想を聞いてみた。しばらくじっと考えていて、「人生ですね、人生を感じます」と言った。大正解。


 


 青梅で教員を始めた(社会人となった)あの頃は「青かったな」、いろいろあったけれど、今や「老人」、少しは、「老成」しただろうか、味わってもらえる「梅酒」となっただろうか。


そうなりたいものだ……しかし、普通の人から見れば、駄作ですね。



 また別の人は「梅酒の形容が『老』以外にないの?」と感想を述べた。私としては、私自身が日々、酒びたりの老人だし、字面から『老酒』の雰囲気もあって、これでよいと思っている。

やってしまった脳梗塞、でも、無事退院

 

 ご心配をおかけしました()826日に入院してから、本日97日に退院しました。立川の「災害医療センター」にいました。7階の病棟からは今日は久しぶりに富士山がくっきりと。美しく見えました。無事の回復を暗示しているように思えました。


 いちおう病名は脳梗塞の「失言症」です(病気の影響か、『失語症』の間違いです)。運動機能はまったく問題なく、左脳(すなわち言語分野)を軽くやられた感じです。それでも当初は「言葉はとんでもなかった」。そのことはそのうち話します。翌日27日の午後にはもう言語能力はほとんど回復していました。すなわち、27日には病室で『天界と地獄』の校正をしていました。


暑い中、見舞いに来てくださった新教会のみなさまに感謝いたします。「わたしが病気をしたとき、わたしを見舞ってくれた」(マタイ25:35)という「仁愛の働き」を心から感じています。