スヴェーデンボリはパリを三度訪れていた(訂正記事)

 

昨年116日に「スヴェーデンボリはパリを二度訪れた」と書いたが、訂正する。一度目と二度目はどちらも45年間の大旅行であったので、そのことしか念頭になかった(同記事参照)


ここで、彼の業績をほんの少し見直したら、晩年(80-81)に訪れていた。うっかりこのことを忘れていた。『スヴェーデンボリ叙事詩』第39章、第40(最近になって「あおい出版」のサイトに掲載された)を読めば、わかることであるが、ここでも少し述べておこう。


1768年の秋(80)、アムステルダムでクノーに出会う。4月まで滞在し、そのいきさつが第39章「アムステルダムの友」に書かれている、やや感動的である。その後、パリへ向かう、すなわち1769年春、56月とおそらく最適の季節をパリで過ごしている。


その目的は最後の大作『真のキリスト教』の出版であった(1771年アムステルダムでの出版が有名すぎるのでこの事実を忘れてしまう)。第40章「新しい福音」には、その出版に際し、検閲官から「ロンドンかアムステルダムで出版したことにすれば許す」と言われ、これは自分の生き方にそぐわないとして、結局、アムステルダムで出版することになったことが書かれている。


 


さて、パリにもう一度行くことがあるだろうか? と思っていた私に、よい理由づけができた。スヴェーデンボリも三回訪れたのだから、私もそれにあやかりたい、というものである。この理由は通用するだろうか?

今後、他の訳書(特に長島訳)の批評をしない

 

 前日の44日の礼拝後、松本さん指導のもと、勉強会があった(ジェネラルチャーチ東京グループのサイト参照)。学んだのは「マタイ」25:35「あなたがたはわたしが空腹であったとき…」である。ここには仁愛の働きが六つ述べられている。


さて、そこの「裸のとき、着物を与える」の部分。ここですぐに思い出すのは「創世記」第9章、ノアがぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていたことである。


そのときカナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って…父の裸を見なかった。


酔いからさめたノアは(ハムでなく、その子の)カナンを呪い、セム(とヤペテ)の神をほめたたえた。


 


これを今の自分への教訓と読む。すなわち、「裸」とは「恥」であり、私にとっては「誤訳」である。他人の誤訳を見つけて、それを公言する。これは社会的に正しい(松本さんの弁)。私もそう思っていた。すなわち例えとして極端ではあるが「車に欠陥があるのを見つけたら、そして黙っていたら、犯罪に加担することになる」という意味で正義である。


しかし、仁愛の働きとしてはどうなのか。確かに、批判しながら気分がよくない、良心のとがめのようなものを感じてはいた。また、「こんな翻訳、許せない」という怒りがこみ上げ、そこに自分ながら「地獄の流入かな」と思うこともあった。


 


私のしていることは正義かもしれないが、「裸のときに、着物を与えないで」「裸を告げている」。仁愛の働きに反する。


今はハムかもしれないが、そのうち呪われたカナンとなってしまうかもしれない。


 


ここは悔い改めて、もう批評はしないでおこう。後は、読者の方々が興味あれば訳書の比較をすればよい。私自身が裸なのだから(すなわち、恥知らず)

虹の島、ハワイ

 

 ここで女房と娘がハワイを旅行した。これまで長男(新婚旅行、レンタカーはオープンカーだったとのこと)、次男(なんと優秀社員への会社からのご褒美)、三男(旅行会社の仲間と)が行っていたので、ハワイに行っていないのは家族で私だけとなった。別に何とも感じない。(以下は女房の談話)


 出発の41日、成田空港がテレビカメラなどでざわついていた。カメラから離れて見ていたら、一つ前の便ではあるが、42日挙式予定のスピードスケートの清水選手がやってきた。拍手しながら「おめでとう」と言い、手を差し出したら、夫婦ともども握手をしてくれた。握手をしたのは女房と娘だけだったとのこと。


 さて、ハワイは「ダイヤモンドヘッド」から眺める青い海は最高だった。それと「ハナウマ湾」、これはきれいな海水の中、目の前を魚がいくらでも泳いでいる。


 もう一つ、雨がよく降り、そしてすぐに止む。するとそこに虹が出る。虹がしょっちゅう見られる。最初は感激したが、そのうち慣れっこ。用意したこづかいは娘にいっぱい使われてしまったとのこと。
 
(単なる雑談でスマン、でもハワイに行くのと同じく「気晴らし」とて読んでもらえたか?)

韓国新教会との交流が始まるか? その1 

 

 ここで韓国新教会のヤン師夫妻が来日した(527日~30)。同教会へ日本からはすでにKさん(4)Sさんが訪問している。KさんSさんの招待も幾分あってのことであるが、ここで「私的旅行」という名目で、私たち「ジェネラルチャーチ東京グループ」の礼拝に参加された。以下雑談風に(と言おうかそのようにしか語れない)、筋道もなく、私の交流を述べてみる。


 


527() JAL 954便にて1610分成田到着(実際は20分前)。出迎えは私一人。初対面ではあるが事前にSさんから顔写真を知らされているので、大丈夫。4:30頃、ほぼ最後に出てきた。師からの最初の言葉は「Nice meet you!」。奥さまは英語ができない。すなわち、会話は英語でヤン師とだけ。


私は退職してfreeなので、他にだれもいなければ、こうした出迎えを引き受ける(ある意味、「便利な存在」であろう)。宿泊先の新宿まで電車で案内。夫妻は日本初訪問である。途中、訪問希望地を聞くが何の希望もない、興味があるものとして、わずかに聞き出せたのが「神社仏閣」、当然であろう。世間話も適当にする。すなわち、彼から「Can I ask your age?…」などである。師が60歳、私が63歳。ともに定年退職の身である。病院に勤めていたとのこと(後でX線技師であったと知る)


名前を紹介しておこう、しかし、発音などよくわからない。正確でないかもしれない。


 


ヤン・フウ?・デ Yang Gyu Dae(梁圭大) ウン?・シュ・ヒEun Sook Hee(殷叔姫)


 


ローマ字は師本人に書いてもらったのでO.K.と思う。漢字も書いてもらったがやや怪しい。例えば、「圭」には点があり、「姫」は師が最初に書いたときはこれだったが、次に奥さまが書いたときは「女」編がリッシンベンになっていた。


 


宿は歌舞町のど真ん中、しかし周囲にいくらでもあるラブホテルではない。夕方6時過ぎとなり、駅からのホテルまでの途中、スーツを着込んだ「ホスト」がごろごろ。一応、彼らが何者か説明した。わかっただろうか? チェックインをした後、遅くなったこともあって、新宿の案内は少しにして、すぐに夕食にすることにした。最初に「花園神社」に行った。あちこちで「露店」の用意していた。翌日にわかったことであるが、金・土・日と花園神社の「例大祭」であった。


最初、「何でこんなところ(新宿)に宿を取ったのだろう、環境劣悪」と思っていたが、結果的には大正解だった。翌日、日本の伝統的祭りが味わえたのだから。


 


さて、「これが伊勢丹」「これが三越」とデパートを案内し(奥さまが寄られるかもしれないから)、「つな八」へ行った。話は逸れるが江戸(東京)の味をご存じだろうか? 私は次の五つと思っている。「そば、(江戸前)寿司、てんぷら、ウナギ」そして明治に入って「すき焼き」である。


外人が日本(東京)に来た時、まずはこれらを味わってもらうことにしている。すなわち、てんぷら「つな八」である。店まで案内し、帰ろうと思っていたのだか、「一緒に食べろ」というので、接待する側なのに結果的にはごちそうになってしまった。カウンター席で目の前で揚げてもらう。店の揚げているオヤジが「どこから来たんですか?」と聞く、「韓国からです」と答えた。なんと揚げている品物を韓国語で説明している。こんなことがあるもんだ、と驚く。そして「アナゴ」は韓国語でも「アナゴ」いうらしい。話していたら、オヤジが「これ」と、アナゴを手にとって見せてくれた。


 


27日はこれまで。なぜこのようなことを話すかと言うと、Mさんがそうであるが、私の雑談(雑木林)を期待している人がいるからである。続きは明日。

韓国新教会との交流が始まるか? その2

 

528()、東京案内の初日。急きょ妻の美恵子も付き合うことになった。9時ホテルに集合。よく晴れていたので計画にはなかった東京タワーに行くことにした。新宿三丁目の駅に行く途中でまたも花園神社に寄った。露店が出ていた。神社のパンフレットで今日から三日間が「例大祭」と知った。神社の中で神官が祝詞などあげている作法をヤン牧師は興味深そうに見ていた。地下鉄で「神谷町」へ。


神谷町は東京タワーの最寄り駅である。東京タワーへ向かう坂の途中に聖公会「聖アンデレ教会」がある。木造でうれしい。軽井沢の教会を思い出す。教会関係の人間でなければ、まず立ち寄らないところだろう。私たちのジェネラルチャーチは聖公会の礼拝形式を取り入れている。座ってしばらく静寂の時を持つ。
 東京タワーは混んでいた、地方からのいわゆる「おのぼりさん」だらけ。修学旅行の中学生が目に付いた。最上部まで行く。
東京タワーは東京見物の定番なので、これまでもよく来た。その度すこしずつ風景が変わる、と言っても、新しくビルが建っている。今回は特別である、すなわち「スカイツリー」。


実は、スカイツリーを見るのは初めてではない。1か月ほど前のことだろうか、ある晴れた朝、双眼鏡を取り出し、ベランダから見た。私は東大和のマンションの最上階8階に住んでいる。幸いなことに周囲にあまり高い建物はない。東を見ると、夜など新宿の明かりがいつまでもともっている。いわゆる不夜城である。その新宿からやや左方面だろうと見当をつけて双眼鏡で眺めていたら、見つけた。二機のクレーンがてっぺんにあるのを確認した、間違いない。東京タワーからも周囲に何もないのでよく見える、およそ半分の高さまで完成、この次に見る時には完成していのだろう。
 タワーからの帰りには道路をはさんで聖アンデレ教会の向かい側にある「フリーメイソン」、すなわち「メメソニック・ロッジ」を紹介した。フリーメイソンをご存じないようだった。


地下鉄で「上野」へ。ここも東京見物の定番である。前日、神社仏閣に興味あると知ったので、ここなら「清水観音堂」「東照宮」があるからである。西郷隆盛の銅像からぶらぶらと北へ向かう。彼の標語「敬天愛人」を説明したが、わからなかったようだ。桜見物の名所なのだが、どうも「桜」についても知らないようだった。東照宮はまだ工事中だった(長い)。その後「韻松亭」へ。


上野へ来たときはたいていここへ案内する。私が最初に来たのは妻の美恵子とであった。それ以来なので美恵子はこれで二度目である。創業明治八年、ガイドブックなどに紹介されないが名料亭だと思う。妻と来て以来、気に入りの店となった。この日はおばさんたちが行列であった。


最初、通りに面した席に案内されたが、せっかく(韓国からの珍客連れ)なので「待ってもよいから、中の席にしてくれ」とねばっていたら、すぐ通してもらえた。食事は「茶壷弁当」。京料理を思わせる、繊細な日本料理である。堪能してもらったと思う。やや遅めの昼食後に「国立博物館」。


その後、銀座を案内し、寿司を食おうと思っていたが(それで妻も同行したのかもしれない)、奥様が「疲れた」とのことで(当日は暑かった)、ホテルに帰ることにした(3時半ごろ)。上野駅へ戻るとき「西洋美術館」の庭に寄る(無料)、ここにはロダンの彫刻がある。「考える人」や「地獄の門」はご存じであった。  


ホテルまで送って、この日はこれまで。翌日聞いた話では、しばらく休憩の後、やはり花園神社に行った、祭りの露店など韓国と同じで、ふと母国いるような気がしたとのこと。どうやら、ワタアメと焼きソバを味わったようだった。よい思い出になっただろう。