原典講読『霊界体験記』 1602~1607(訳文)

(3) 訳文

役に立つ哲学と役に立たない哲学について

 

1602. ある霊たちが、哲学的な議論と呼ばれるすべてのものはまったく追い払われなければならないと思った、おそらく、哲学または人間の知恵は、それゆえ、哲学を賢明なものにする用語もまた断罪されるからである。そして、彼らは、どれだけ哲学が忌み嫌われているか私に示されるために、背中に血が散在したイノシシを表象した。また彼らは私がこのような者であったと呼んだ☆、私が哲学的な用語を散りばめた、または哲学的に観念を形作ったからである。

 

☆これでよいのかよくわかりません。

 

1603. しかし、彼らは、私の哲学〔的な著作〕は単純な用語で表現される何らかの観念以外の何らかのものではなかったことを教えられた、私が、「主体と属性」と言う時のように次のこと意味している、それは――属性は主体が意味することに適用されなけれないことである。預言書の中で〔何らかのものについて〕扱われる時のように、それは信仰のある箇条に、信仰に、人間の最も内的ななおまた内的な心に、教会に、天界に、適用されることができる。そのように、それは、その時、取り上げられ、または理解され、それは主体と呼ばれる。その時、属性と呼ばれている言われる他のものは、適用されなければならないものである。このように、属性は主体に当てはめられなければならない。

 この同じものが、このような言葉なしに、異なってもまた表現され、そして同様に理解され、またその後、言われることることができる。それゆえ、真の観念だけがこのようなきまり文句で、用語で、把握される。そのように、ある種の哲学的な話し方は、他の話し方よりも〔適切に〕構成される。というのは、同じ事柄を、回り道を通って、異なって表現しなければならないからである、そのことはそれらの用語を知らない者に生じることがよくある。実際に、物事からそれら〔用語〕が流れ出ていないなら、さらに明確〔である〕。そのように、何が形か、何が性質か、また他の同様のものの中で同様である。それらは、内的なものを、そして最も内的なものを簡潔なもので表現すること欲する者に仕える単なる“真理”の観念である。

 

1604. しかし、悪用がある、哲学者たちが用語の中にとどまり、それらについて論争し、一致もしないことである。ここから、物事のすべての観念は滅び、その後、人間の理解力は用語以外に何も知らないように、そのように制限される――したがって、自分の用語で物事を把握することを欲する時、このような用語だけを積み上げ、このように物事をあいまいにする。まったく何も理解することができないように、彼らの自然的な光は暗くされる。

 というのは、このように学問のある者でない人間がさらに広い観念の多くのものを持ち、そして、何が真理か、哲学者よりも〔さらによく〕見るからである、このような者がブタのように自分の汚物の中にとどまる――それゆえ、このようなブタが、またはイノシシが私に表象された――そして森の中の野獣になる。なぜなら、“真理”の中で野獣のようにうろつき、それらを引き裂き、そして殺すからである。

 

1605. そこで、人間が用語の中だけにしがみつき、ここから推論し、感覚を積み上げるとき、このように学者ぶる言葉、そのようにくっつけられたもの以外に何もない。その時、このようなきまり文句(=学者用語)を何も知らない者よりも、彼らは、含み、またさらに隠れていると思っているもの、そのすべてを知らない。このように、彼はすべてのものについて疑う。

 

1606. さらに、それらの哲学的なものは、このような推理の形でもあり、それはつくりものの規定とされ、人間の心を暗くする。たとえ“真理”が、だれもがこのようなものなしではっきりと見通すことができるようにこれほどに明白であってもである。彼ら〔哲学者たちは〕その時、制限し、そのように知性を暗くし、そのように把握した真理もまた絶え間のない疑いの中へ呼び出す。

 

1607. 哲学または人間の知性によって、作り話やたわごともまた意味される、特に、ユダヤの律法博士(ラビ)のものであった、そして〔今も〕あるようなものであり、それらは無数である。エジプトの魔法も同様である。1748年3月20日。

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