原典講読『みことばとその内意』 48(訳文)

 

(3) 訳文


48. みことばの内意について以前にしばしば扱われた。しかし、私は、このような意味がみことばの個々のものの中に、預言のものの中だけでなく、しかしまた歴史のものの中にあることを、わずかな者が信じることができること知っている。このような意味が預言のものの中にあることは、それらの中にこのような連続がないので、また全体を見るとそれらの中に奇妙な話し方がある〔ので〕さらに容易に信じられることができる。ここから、何らかのアルカナを含むことを、だれもが憶測することができる。しかし、歴史のものの中にと同様に、このように容易には見られない。今までだれにも心の中にやって来なかったし、歴史のものは心をその歴史自体の中に保つようなものであり、またこのように心を何か深いものがそこに隠されている、と考えることから引き離すから。そのうえ、歴史的なものもまたそのように述べられた真にこのようなものであるからである。


[2] しかしそれでも、それらの中の内部にもまた見えてこない天的なものまた神的なものがあることを、だれも推論することができる、次のことから――


第一、みことばは主から天界を通って人間に送られたものであり、このようにその起源とは別のものがあること。起源がどのようなものであるか、またこれらが文字どおりの意味から異なり、離れていて、このように、それゆえに、単に世俗的である者から決して見られないような、認められないものであることは、続くものの中で多く示される。


 第二に、みことばは神的〔である〕ので、人間のためにだけでなく、しかしまた人間のもとの天使のために、人類に役立つだけでなく、しかしまた天界に役立つように書かれたこと。また、このようにみことばは天界と地の結合する手段であること。結合は教会によって、実際に教会の中のみことばによって存在し、それゆえ、すべての他の文書から区別されるそのようなものであること。


[3] 特に歴史のものについては、それらが同様に文字から切り離された神的なものと天界的なものが含まれていないなら、越えて考える者により、霊感を受けたみことばとして、またどの一点に関しても霊感を受けたものとして、決して認められることができなかった。


 ロトの娘たちの忌まわしい事柄について、それらについてはこの〔第十九〕章の終わりにあるが、神的なみことばの中に記録されていることをだれが言うのか? いろいろな色の、斑入りの、またしみ(斑点)のある羊を産むように、樹皮を剥いで、むいた枝水路の中に置いたヤコブについては? ほかに別の「モーセ書」中に、「ヨシュア記」、「士師記」、「サムエル記」、「列王記」の中にある他の多くのものは? それらはもし神的な深いアルカナが含まれていないなら、何ら重要でないものになったろう、また知られるかあるいは知れらない〔にしても〕まったく同じ〔ものになったろう〕。もしこれがないなら、他の歴史のものと何も異ならない、それらは時々、もっと感動させることができる、と見られるように書かれる。


[4] 神的なものと天界的なものが内部に、みことばの歴史のものの中にも隠れていることが学問の世界で知られていないので、もし幼児期からみことばの書として刻みつけられている聖なる崇敬からでなかったなら、単にここのことから、さらにまた容易に、みことばは聖なるものではない、と心で言うであろう。そのとき、たとえここのことからでなくても、内意が、またそれに天界的なものと神的なものが、内在するので、それは天界を地と、すなわち、天使の心を人間の心と、またこのように人間の心を主に結合するようにする。

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