(3) 訳文
23 流入と対応について、獣の霊魂の場合と人間の場合が似ている、すなわち、彼らのもとに霊界からの流入があり、またそれらによって自然界からの流れ込みが保たれ、生きている。しかし、働きそのものはそれらの霊魂の形、またここから身体の形〕したがって異なってそれ自体を示す。このことは世の光のようであり、その光は地球のいろいろな対象の中に同様の段階と同様の方法で流入するが、やはりそれでもなおいろいろな形の中で異なって働く。あるものの中では美しい色を、他のものの中では美しくない色を生み出す。そのように霊的な光が獣の霊魂の中に流入するとき、まったく異なって受け入れられ、またここからそれらは人間の霊魂の中に受け入れられるときと異なって活動させられる。
[2] というのは、これらはさらに高い段階の中に、またさらに完全な状態の中にあり、上方を、このように天界また主へ目を向けることができるような、それゆえ、主はそれらを自分自身に接合し、また永遠のいのちを与えることができるような、このようなものであるから。しかし、獣の霊魂は、下方を、このように地に特有なものだけしか眺めることができないような、またこのようにただそれらに接合され、そのためにまた身体とともに滅びるようなものである。目的が、人間のいのちがどんなものか、また獣のいのちがどんなものか示す。人間は霊的なまた天的な目的を持つこと、またそれらを見、認め、信じ、またそれらを鼓舞されることができる。しかし、獣は自然的なもの以外の他の目的を持つことができない。そのように人間は、天界の中にあり、天界を構成する目的と役立ちの神的なスフェアの中にいることができる。けれども、獣は地の目的と役立ちのスフェアの中にしかいることができない。目的は愛以外のものではない、なぜなら
、愛されるものが目的として持たれるから。
[3] 非常に多くの人間が自分のいのちと獣のいのちの間を区別することを知らないことは外なるものの中で似ているから、また地のもの、身体のもの、世のものだけに関心があり、それらを心に抱くからである。またこのような者は、獣のいのちに関して自分自身もまた似ていると信じ、自分自身も死後それらのように消散させられると信じている、なぜなら、何が霊的なものと天的なものか、関心がないので、知りもしないから。ここから、私たちの時代の狂気は、自分たち自身を獣にたとえ、内なる相違を見ない。しかし、霊的なものと天的なものを信じる、すなわち、霊的な光が流入し、働くのを許す者は、彼はまったく反対のものを、例えば、どれだほど動物の獣にまさっているかを見る。
しかし、動物の獣のいのちについては、主の神的な慈悲から、別にして扱われる。