原典講読『神の摂理』 96(訳文)

 

(3) 訳文


96.  (vii.) 主は二つのそれらの能力を人間のもとで損なわれず、そして聖なるものように、すべてのご自分の神的な摂理の進行の中で守られること。


 人間にそれらの二つの能力なしに理解力と意志はなく、またこうして彼は人間でなくなったであろうこと、さらに、人間はそれら二つの能力なしに主と結合されることができず、また、こうして改心し、再生することができず、そのようにまた、人間にそれらの二つの能力なしに不死性はなく、また永遠のいのちがなくなったであろうことには理由がある。


 自由と推理力は何かという思考から、(それらがそれらの二つの能力である)、そのようであることは、前の個所で与えられており、確かに見られることができる。しかし、もしそれらが結論として視覚に示されないならはっきりとではない、それゆえ、明らかにするべきである。


[2.] 「人間にそれらの二つの能力なしに理解力と意志はなくなったであろう、またこうして彼は人間でなくなったであろうこと」、というのは、人間に意志は、自分自身からのように自由に意志することができること以外の他の出所からではないからである。そして、自分自身からのように自由に意志することは、主から絶えず与えられている自由と呼ばれる能力からである。また人間に、理性のものであるかどうかと自分自身からのように理解することができる理解力は他の出所からではない。そして、理性のものであるどうかと理解することは、主から絶えず与えられている推理力と呼ばれるそのもう一つの能力からである。これらの能力が人間のもと意志と理解力のように合される。すなわち、人間は意志することができるので、理解することもまたできるのである。なぜなら、意志することは理解することなしに存在しないから。理解することは、彼の仲間または配偶者であり、それを伴わないで存在することができない。それゆえ、自由と呼ばれる能力とともに、推理力と呼ばれる能力が与えられている。さらにまた、もしあなたが理解することから意志することを取り去るなら、あなたは何も理解しない。


[3.] またどれだけあなたが意志するかによって、知識と呼ばれる補助が現存するかまたは同時に現われるかぎり、それだけあなたは理解することができる、なぜなら、それらは働く者の道具ようであるから。どれだけあなたが意志するかによって、それだけあなたは理解することができる、すなわち、どれだけあなたが理解することを愛するか、と言われる、なぜなら、意志と愛は一つとして働くから。


このことは確かに背理のように見える。しかし、理解することを愛さず、またここから欲しない者には、そのように見える。また欲しない者は、自分自身にできないと言う。けれども、だれができないか、まただれがほとんどできないか、続く節の中で言われる。


[4.]もし人間に由と呼ばれる能力から意志がなかったなら、そして推理力と呼ばれる能力から理解力がなかったら、彼は人間でなくなってであろうことは、確証しに明らかである。獣にそれらの能力はない。獣もまた意志することができ、また理解することができるように見えるが、しかし、できない。自然的な情愛があるが、それらは本質的に望であり、その配偶者である知識とともに、それらはもっぱら、行ないを行なおうとすることへそれらを導き、そのことをもたらす。市民的なものや道徳的なものが確かにそれら獣の知識の中にある、しかし、それらの上にはない、その獣に、道徳的なものを知覚することを、またこから分析的にそれを考えることを与える霊的なものがないからである。確かに、何かを行なうことが、教えられることができる、しかし、このことは自然的なものであり、それは知識と同時にそれらの情愛でそれ自体に加えられたものであり、そしてあるいは視覚によってあるいは聴覚によって再現される、しかし、決して思考のものに、ましてそれらのもとに理性のものにならない。


これらの事柄について、何らかのものが前に見られる(74)


[5.] 「人間はそれら二つの能力なしに主と結合されるができず、また、こうして改心し、再生することができないこと」は前に示されている。


なぜなら、主は人間のもとにそれらの二つの能力の中に、善い者と同様に悪い者に住まわれ、またそれらによってご自分をそれぞれの人間に結合されるから。ここから、善い者と同様に悪い者は理解することができ、またここから彼らは善の能力そして真理の理解力の潜在能力の中にいて、実際に存在しないのは、それらの能力の濫用らである。主がそれぞれの人間のもとにそれらの二つの能力の中に住まわれることは、主の意志の流入からであり、それが人間により受け入れられること、またご自分のもとに住まいを持つこと、そして永遠のいのちの幸福が与えられることを望まれている。主の神的な愛そのもののものであるので、これが主の意志のもの(みこころ)である。人間の中に、自分のものであるように、考え、話し、欲し、行なうことが見えるようにすること、これが主の意志(みこころ)である。


[6.] 主の意志(みこころ)の流入がそのことを生み出していることは、界から大いに確証されている。時々、主は天使を、天使が〔自分が〕主であるとしか知らないようにまでも、ご自分の神性で満たされるからである。そのように天使たちは、アブラハム、ハガイ、ギデオンの視覚に満たされ、彼らはここから自分自身をエホバと呼んだが、それらのことについては聖書の中にある。そのようにまた、ある霊は他の霊により満たされることができる、他の霊であるとしか知らないようにまでも。このことはしばしば私に見られている。


 天界の中でもまた、主が意志することによってすべてのものを生み出し、また欲するものを生じさせていることはよく知られているこれらから、それらの二つの能力があること、それらによって主はご自分を人間に結合すること、またそれらによって人間が相互に結合されるようにすることが明らかである。けれども、どのように人間がそれらの能力によって相互に結合されるか、したがって、どのようにそれらによって改心され、また再生されるか、前に言われている、またそれについて次に多くのことが言われる。

[7.] 人間にそれらの二つの能力なしに不死性と永遠のいのちがなくなったであろうこと、そこで言われたことから、それらによって主との結合、さらに改心と再生があることがいえる。結合によって人間に不死性があり、そして改心と再生によって永遠のいのちがある。またそれらの能力によってすべての人間との主の結合があるので、善い者と同様に悪い者に、言われているように、それゆえ、すべての人間に不死性がある。しかし、最内部から最外部まで相互の結合がある者のもとに、その人間に永遠のいのち、すなわち、天界のいのちがある。これらから、なぜ主がそれらの能力を人間のもとに損なわれず、また聖なるもののように、すべてのご自分の神的な摂理の進行の中に守られるか、その理由が見られることができる。

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