(1) 原文
352. Illi qui averterunt se a cogitando de Divino, cum vident mirabilia in natura, et per id fiunt sensuales, non cogitant quod visus oculi tam crassus sit, ut plura insectula videat sicut unum obscurum, et quod tamen unumquodvis eorum organizatum sit ad sentiendum et ad se movendum, et sic quod praeditum sit fibris et vasis, tum corculis, fistulis pulmonicis, viscerulis ac cerebris, et quod haec contexta sint ex purissimis in natura, et quod contextus illi correspondeant alicui vitae, e qua minutissima eorum distincte aguntur. Cum visus oculi tam crassus est, ut plura talia, cum innumerabilibus in unoquovis, appareant ei sicut parvum obscurum, et tamen illi qui sensuales sunt ex illo visu cogitant et judicant, patet quam incrassata est mens eorum, et inde in qua caligine sunt de spiritualibus.
(2) 直訳〔ここは『結婚愛』416番、『真のキリスト教』12番4で引用されています〕
Illi qui averterunt se a cogitando de Divino, cum vident mirabilia in natura, et per id fiunt sensuales, non cogitant quod visus oculi tam crassus sit, ut plura insectula videat sicut unum obscurum, et quod tamen unumquodvis eorum organizatum sit ad sentiendum et ad se movendum, et sic quod praeditum sit fibris et vasis, tum corculis, fistulis pulmonicis, viscerulis ac cerebris, et quod haec contexta sint ex purissimis in natura, et quod contextus illi correspondeant alicui vitae, e qua minutissima eorum distincte aguntur. 彼ら、神性について考えることから自分自身をそらせた者らは、自然の中の驚くべきものを見るとき、またそのことによって感覚的になった〔者ら〕、目の視覚はこのように粗野であることを考えない、多くの小さい昆虫を一つの不明確なもののように見るように、またそれでもそれらのそれぞれは有機的にまとめられていること、感じるために、また動くために、またこうして繊維と器官を備えている(与えられている)☆、さらに小さな心臓、肺の気管、小さな内部器官(内臓)、そして脳、またこれらは自然の中の最も純粋なものから織られて(構成されて)いること、またそれらの構造(組織)はいのちの何らかのものに対応すること、それらから彼らの最小のものは区別して働きかけられる。
☆ 形容詞praeditusは奪格をとります。
Cum visus oculi tam crassus est, ut plura talia, cum innumerabilibus in unoquovis, appareant ei sicut parvum obscurum, et tamen illi qui sensuales sunt ex illo visu cogitant et judicant, patet quam incrassata est mens eorum, et inde in qua caligine sunt de spiritualibus. 目の視覚がこのように粗野であるとき、このように多くのものが、それぞれの中に無数のものが〔ある〕とき、それ〔目〕に小さい不明確なもののように見えるように、またそれでも彼ら、感覚的である者らは、その視覚から考える、また判断する〔とき〕、彼らの心がどれほど鈍いか明らかである、またここから霊的なものについてその〔心の〕暗黒の中にいるか。
(3) 訳文
352. 自然の中の驚くべきものを見るとき、神性について考えることから自分をそらせ、そのことによって感覚的になった者らは、目の視覚が、多くの小さい昆虫を一つの不明確なもののように見るようにも粗野であることを思わない。それでも、それら虫のそれぞれは感じ、また動くために有機的にまとめられていて、こうして繊維と器官を、小さな心臓、肺の気管、小さな内臓、脳も備えており、これらのものは自然の中の最も純粋なものから構成され、それらの組織はいのちの何らかのものに対応しており、それらからその組織の最小のものは別々に働きかけられるのである。
目の視覚がこのように粗野であり、このように多くのそれぞれのもの中に無数のものがあり、それが目に小さい不明確なもののように見え、それでも感覚的である者らは、その視覚から考え、判断するとき、彼らの心がどれほど鈍いかまたここからその心が霊的なものについて暗黒の中にいるか、明らかである。
(4) 長島訳とは? くだらないかもしれないが次の二つの訳を比較してほしい
『神の愛と知恵』352番(1991年2月刊行)
神について考えるのを避けている人は、自然の中にあるすばらしさを目撃しても、それによって、かえって感覚的になり、頭が働きません。眼の視力は、ムシケラがものを漠然と一つのものとして見るように、鈍化してしまっています。ところが、一つ一つの部分は、何かを感じ、行動をとるため組織化されています。繊維があり、器官があり、小型の心臓、肺の導管、内臓と能を備えています。しかもこれらのものは、みんな自然の中で、もっとも純粋なものから織りなされています。そして、以上の組織体は、ある種の〈いのち〉がもとになって、もっとも微細な部分が明確な働きを見せています。
一つ一つの部分の中には、数えきれないほどのものがあって、こんなにも複雑なものがぼんやりした塊りにしか見えないとしたら、その視力は鈍化しています。ところが、看過う的な人間は、自分が見ているところから考え判断します。かれらの心が、どんなにかたくなになってしまったか、お分かりでしょう。霊的なことがらでは、暗闇の中にいるのです。
『真のキリスト教』12:4番(1988年2月刊行)
神から思いをそらせる人は、肉的・感覚的になります。だから肉眼は、粗雑かつ物質的で、小さな虫がたくさんいても、それをぼんやりとした一つのかたまりとしてしか見ていません。ところがその一つ一つは、感覚と運動の能力を発揮できるよう構成されていて、心臓・気管・内臓・脳に附随する繊維と諸器官をそなえています。
これらはみんな、自然界にあるもっとも純粋な要素からできていて、その組織について見ると、細部まで正確に動いていて、それが最低段階の生命にまでも相応をもっています。肉眼で見ると、個々の部分に無数の要素があって、たくさん集まっていても、ぼんやりとした小さな塊にしか見えません。そのように、感覚的人間は、自分が見ている範囲内でしか、思考力や判断力を働かせません。その精神の鈍さがどれほどかお分かりでしょう。かれらは霊的なことがらについては、暗闇の中にいるのです。
* * * * *
さて、誤訳と思える個所が多々あるが、それは別として、この二つの訳文の原文は「まったく同一」である。訳文を見比べるかぎり、3年の期間を隔ててはいても、同じ訳者がこのように「別もの」(私には別ものに見える)に訳すとは何なのか? 薄々感じていたことではあるが、長島氏は「訳語が確定していない」、そのときの「気分で訳している」(すなわち、論理を正確にたどるのは後回し)、このことがここからはっきりとわかる。繰り返そう、長島訳は忠実な「翻訳」からは遠く、「自由訳」に近い、といえる。
身近な女房に(前知識なしで)見比べてもらった。その評価は案の定、「同じ訳者、同じ原文とは思えない」、事情を説明したら、「後に訳した『愛と知恵』の文章のほうが何を言っているのかわかない、訳がよくなっているのではなく、悪くなっている」というものだった。
〔追記:これを書きたくなったのは、前日、礼拝後に松本さんと飲んでいて、「長島さんは同じものを全然違って訳すことがあるよ、今「原典講読」で訳している部分もそうだよ」と話題としたからである〕
(1) 原文
353. Quisque ex visibilibus in natura potest se confirmare pro Divino, si vult, et quoque se confirmat qui de Deo cogitat ex vita; ut dum videt volatilia caeli, quod quaelibet eorum species sciat sua alimenta, et ubi sunt, cognoscat ex sono et visu consocios, tum inter alios quinam eorum amici, et quinam inimici sunt, quod connubia jungant, congressus sciant, arte struant nidos, ibi ponant ova, incubent illis, tempus incubatus sciant, quo exacte excludunt pullos, illos tenerrime amant, sub alis fovent, escas porrigunt et alunt, hoc usque dum sui juris fiunt, et similia possunt agere, et procreare familiam ad perpetuandum suum genus. Omnis qui vult de influxu Divino per mundum spiritualem in naturalem cogitare, potest illum in his videre; potest etiam si vult corde suo dicere, “Tales scientiae non possunt in illos influere ex sole per ejus lucis radios; est enim sol, ex quo natura suum ortum et essentiam ducit, purus ignis, et inde radii lucis ejus prorsus mortui,” et sic possunt concludere, quod talia sint ex influxu Divinae Sapientiae in ultima naturae.
(2) 直訳〔ここは『結婚愛』417番、『真のキリスト教』12番5で引用されています〕
Quisque ex visibilibus in natura potest se confirmare pro Divino, si vult, et quoque se confirmat qui de Deo cogitat ex vita; だれでも、自然の中に見ることのできるものから神性のために確信することができる、もし欲するなら、また神について生活から☆考える者もまた確信する。
☆ この「からex」は論拠を示す「から」です。すなわち、「生活に基づいて考える」ことです。この「生活」を長い目でとらえれば「人生(を顧みて)」とも訳せるでしょう。
ut dum videt volatilia caeli, quod quaelibet eorum species sciat sua alimenta, et ubi sunt, cognoscat ex sono et visu consocios, tum inter alios quinam eorum amici, et quinam inimici sunt, quod connubia jungant, congressus sciant, arte struant nidos, ibi ponant ova, incubent illis, tempus incubatus sciant, dum sui juris fiunt, et similia possunt agere, et procreare familiam ad perpetuandum suum genus. 例えば、空の飛ぶ動物を見る時、それらの種類のどんなものでも、自分の食べ物を知っている、またどこにあるか、音と視覚から仲間を知る、さらに他のもの〔種類〕の間でだれが彼らの友か、まただれが敵であるか、つがいとなること、交尾を知っている、技術で(巧みに)巣を作る、そこに卵を置く、それらを孵化する☆、孵化の時を知っている、そのことで正確にひなを孵化する、彼らを最も優しく愛する、翼の下に育む(抱く)、食物を与える(差し出す)、また食べさせる(養う)、このことを〔ひなが〕自分自身の支配(管理)のもとに行なうまで、また同様のことを行なうことができる、家族を生むこと、自分の種類(属)が永続するために。
☆ incuboは与格をとります。
Omnis qui vult de influxu Divino per mundum spiritualem in naturalem cogitare, potest illum in his videre; すべての者は、霊界を通って自然〔界〕の中への神的な流入について考えることを欲する者たち、それをこれらの中に見ることができる。
potest etiam si vult corde suo dicere, “Tales scientiae non possunt in illos influere ex sole per ejus lucis radios; さらにまた、もし自分の心で欲するなら、言うことができる、「このような知識はそれら〔鳥〕に太陽からその光(の光)線を通して流入することはできない。
est enim sol, ex quo natura suum ortum et essentiam ducit, purus ignis, et inde radii lucis ejus prorsus mortui,” et sic possunt concludere, quod talia sint ex influxu Divinae Sapientiae in ultima naturae. というのは、太陽は、それから自然はそれ自体の起源と本質を導く(得る)、純粋な火、またここからその光(の光)線はまったく死んだものであるから」、またこうして結論することができる、このようなものは自然の最後のもの(最も低いもの)の中への神的な知恵の流入からであること。
(3) 訳文
353. だれでも、自然の中に見ることのできるものから、欲するなら、神性を確信することができ、また神について生活に基づいて考える者もまた確信する。例えば、空を飛ぶ動物を見る時である。それらの種類のどんなものでも、自分の食べ物を、またどこにあるかを知っている、音と視覚から仲間を、さらに他の種類でだれが自分たちの友で、だれが敵であるか知り、つがいとなること、交尾を知っている、巧みに巣を作り、そこに卵を置き、それらを孵化し、孵化の時を知っていて、そのことで正確にひなを孵化し、それらを最も優しく愛し、翼の下で育み、食物を与え、また食べさせ、このことをひなが自分自身で行なうまで、家族を生み、自分の種属が永続するためにまた同様のことを行なうことができるまで、するのである。
霊界を通って自然界の中への神的な流入について考えようと欲する者はすべて、これらの中にそのことを見ることができる。さらにまた、欲するなら、「それら〔鳥〕のこのような知識は、太陽からその光線を通して流入することはできない。というのは、自然がそれ自体の起源と本質を得る太陽は純粋な火であり、ここからその光線はまったく死んだものであるから」、と自分の心に言うこと、またこうして、このようなものは自然の最も低いものの中へ神的な知恵が流入するからである、と結論することができる。