「4月23日」(no.509) この世とあの世の違いは?
死を契機として、この世からあの世へ移る。捨てていくもの、失われるものもあれば、たずさえて行くものもある。簡単言って、外面な「外なるもの」はその記憶を残して捨てられ、心にあった「内なるもの」は継続する。さて、この世で犯した罪はどうなるのか。そしてその罰は? だれもが数量的に多かれ少なかれ罪を犯している。罪を犯していないと思う人は、そう思うこと自体が罪である。そして罰については、罪が発覚して、直接に罰をうけることもあれば、発覚しなくても、別の形で間接的にうけることもある。例えば、病気になる、不幸になるなどであり、このことは占い師などが「あなたの病気・不幸は~のせいである」などと言っている。また、全然、(表面上)うけていないように見えることもある。この509番をよく読めばわかると思うが、罪も罰も(やはり外なるものなので)来世まで継続しない。
継続するのは心である。それで、心から悪を行なった者はその悪(または同じような悪)を来世でも行なってしまい、その行為が改めて罰せられる。すなわち、心から悔い改めて「もう決してしない」が本心らなら、来世でも、そのことは行なわない、それで罰せられない。そして罪と言っても二種類あると思う。一つは意図的に行なうもの、もう一つは周囲の状況や環境で心ならず犯してしまう(例えば金に困って、悪いと思っていてもだまして金を得る、いつかは償いをしようと思いながらも)、またはここの最後にある遺伝悪から犯してしまうものである。
よく、「生まれ変わったら」という言い方をする。これが来世である。すなわち、やり残したことがあればそれが実行できる。しかたなしに、心ならずも、やったことなら、やり直しがきく。チャンスがなかったなら、来世で与えられる。心が継続するからである。
「5月3日」(no.526) 既成プロテスタント教会での「救いとその信仰」について
スヴェーデンボリに出会って、『真のキリスト教』を読み、キリスト教についての概観を得たが、まだ新教会の存在を知らなかったころ(30代後半)、近所のプロテスタント教会に出席していた。自分なりに聖書を読み、真のキリスト教とは何かを理解していた(と思う)ので、長らく通っても受洗することはなかった。説教の端々から、また牧師との直接の対話から「救い」と「その信仰」についてどんな教義なのか知ることができた。
救い主、救世主イエス・キリストと言われるように、イエスが救い主であられることは問題ない(それでなければキリスト教ではない)。問題は「どのように救うのか」、「救われるのか」である。
この業は人間にはできないと言う。すなわち、救いは神の業である。これは人間がどのように関与するかによって正しいと言えば、言える。ご存知のように新教会では、「あたかも」人間自身がなし遂げるかのように「人間が(生活を通して)救いをなし遂げるのである」。
既成教会では、人間の側の働きをほとんどないもの、または無としている。人間が救いを自分自身でなし遂げると思うこと自体が罪である(神の領分を侵している)、として。
すると「どうしたら救われるのですか?」となる(私が牧師に問うたことである)。罪を持っていたら救われない。それで、イエスが私たちの罪を背負って十字架で死んでくださったから、そこに救いがある。これが福音。「じゃ、何もしないでよいのですか?」(どうもそのようである)。「では、教会は何をするんですか?」 救われたことに対する感謝をささげることをする所だそうである。確かに「感謝」自体はよいことである。「でも、(何もしないで救われるなんて)うまい話で信じられないですね」というと、それを信じるのが「信仰」である。すなわち、(救ってくださるという)神の慈悲を心から信頼する、信任する、これがほんとうにできることが信仰であり、また救われることでもある(なんとなく自己撞着)とのことだった。
どんなによい説教も、だいたいは「救ってくださった」ということを信頼し、この世を生きていこう、というふうに終わる。信頼まではよいのだが、このままでは信仰の実である善い業が伴わない。福音書に指摘されていることだが、後回しにされていた。40歳になって新教会を知り、既成プロテスタント教会を去った。
「5月4日」(no.527) 死後に悔い改めは不可能なこと
「来世はどんなところか」について本書でずっと語られてきている。私は簡単に言って、「あの世はこの世の継続であり、完成である」と思っている。まるで別世界ではなく、この世の続きである、それでも段々と心の内面の世界が現われてくる。すなわち、完成へ向かう。もう少し繰り返して述べれば、この世でやっていたことは来世でも続ける。職業も同じ、まわりの環境もほとんど同じであろう。それでも外面的な制約はどんどんなくなって、ほんとうにやりたかったことがやれるようになる。「ああしたい、こうしたい」と思っていても、できないことが多いが、できるようになる。嬉しいではないか。「また、あんなことがあればいいな」という経験をまたできる、「もうしたくない」と思えば、しなくてすむ。「生活のために仕方なく」なんてことはなくなる。
さて、人間は何のための何なのか? 一つは「再生」である。別の言葉で言えば、一度目は「オギャー」と自然的に生まれる。そしてその自然的な人間が「ほんとうの人間」に生まれ変わるのが再生。ほんとうの人間とは、動物的でない(貪欲な人をブタと言い、ずるい人をキツネと言う)、愛に溢れた、いわゆる人間味のある人である。その再生は「悔い改め」から始まる。「このままじゃ動物と変わらないな、動物以下だな、なんとかしよう」という心である。そしてこの再生の出発点は、来世ではなく、この世でしかない! すなわち、「来世はこの世の継続」であるから。来世から何かが始まることはない。この世で方向付けを間違えれば、あの世ではその方向にどんどん進んでいく。
この世で肝心なのは「どの方向へ向かうか」である。自分はどこへ行こうとしているのだろう? と時々、思い巡らさなければならない。「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」(創世記16;8)。
「5月15日」(no.543への補足) affluxusとinfluxusについて
Reguntur inferna in communi per 「affluxum」 communem Divini Boni ac Divini Veri ex caelis・・・「地獄は一般に天界からの神的な善と神的な真理の普遍的な「流れ込み」によって支配されている・・・」とあった。「流れ込み」の訳語は誤解を生むかもしれない。すなわち同じような言葉influxus「流入」とどこが違うのか、である。訳語的にはここでは「流れ来る」が適切なようである。それを説明する。
言語的にはaffluxusはaffluo=ad「~へ」+fluo「流れる」の名詞、同じくinfluxusはin「~の中へ」+fluoである。すなわち「流れて向かう」(これは立場をかえれば「流れて来る」)のと「流れて入ってくる」との違いである。
この文に即して解説しよう。地獄には「善や真理」が「やって来る」だけで「流入」はしない。すなわち外面的に作用する、内面まで入って来ない(入って来たら「流入」)。人間で言えば、善や真理の環境に置かれ、そこから影響を受けるのである。善人たちの間では自分もやはり善人らしくなる、でも善を受け入れたことにはならない。真理も同じこと、スヴェーデンボリの教えに接しただけならafluxusであって、生活の善を伴えばそれがinfluxusとなる。おわかりになったと思う。
地獄の統治は、その住民に、もはや善や真理が流入することはないので、善や真理が外側から働きかける、それでaffluxusなのである。
「5月20日」(no.555) 私が今していることは自己愛からか?
教員であった。教員としての自己愛はあまりなかったかもしれない。というのは、サラリーマンなら多くの者が望む「昇進」、教員としてなら「校長になること」だろう、それを望まなかった。現在の教育界で校長になる人は出世欲(人からよく見られたい)が大きな理由となっているだろう。女房や親戚の目もあって、という理由を挙げた人もいた。校長になると、現場からはドンドン離れる、すなわち、生徒からは離れる、すると「教育者」ではなくなってしまう。生徒とぶつかり合いながら成長するほうが生き方として望ましかった。そして、私には自分の勉強「スヴェーデンボリをもっと極めたい」があった。すなわち、ここで述べられている、栄光や名誉を求めなかったという部分では、自己愛はそれほどなかったようだ。
しかし、では、40歳で勉強時間がほしくて定時制に移り、それ以来、勉強し続けた、この「スヴェーデンボリ研究」の世界では、どうだろうか? 「たいした勉強家だ」と誉められたくないのか?
このような内面は他人にはわかるまい(というより、他人のほうがよくわかるかもしれない)。それで、自分自身、正直に反省してみて、どうだろうか? なんともいえない、すなわち、人から誉めてもらいたい、認めてもらいたい、という気持ち、自己愛がなくはない。活力の火である。
自己弁護になるが、もしもそんな気持ちが先にあったら、すなわち、それが第一番の理由だったら、こんな回り道はしない。もっとストレートに人気を博すことをするだろう。今していることは『レキシコン』の作成であり、これをほしがる人は50人いるだろうか? すなわち、辞書をひいてスヴェーデンボリを原典から読みたい人である。その需要を思えば、人から誉められたいという願う者が、こんなことに労力をつぎ込むだろうか。
私は、真理が知りたくて、この道に入り込んだ。真理を知るだけでは何にもならない。私にできる役立ちとして仲間のために『レキシコン』を訳している。
純粋にこの気持ちからなら自己愛「から」ではないと思う、しかし、人間には自己愛がある。その自己愛を利用して、今取り組んでいる。利用することも自己愛なのか? なんともいえない。
しかし、別の面もある。自分にどれほどのことができるだろうか? 挑戦である。このブログの連載も、毎日、継続して原典をちびちびならがらも読み続けることができるだろうか、やってみよう、という挑戦である。この挑戦には読者の支えが必須である。
「5月29日」(no.572) 柳瀬訳「奈落の」について、すなわち英訳からのコチコチの直訳
英訳書に目と通している方なら、おわかりであろう、柳瀬は形容詞infernalを「奈落の」と訳している。そして名詞hellはもちろん「地獄」としている。
ところが、ラテン語ではそれぞれinfernalisとinfernumである。ここには形容詞と中性名詞の違いだけしかない。(英語のinfernalはラテン語infernalisを借用したこともわかる)
柳瀬はinfernalとhellでは語形がまったく異なるので、この「奈落の」と「地獄」のように「英語にしたがって」使い分けたのであろう。その点、英訳に忠実である。しかし、日本語の「地獄」と「奈落」は別物である。英訳に忠実がなるために、日本語として、「奈落の火」とは何か?「地獄の火」とは異なるのか? という余計な疑問を生じてしまう。原典を見れば「奈落の」は「地獄の」でよいのは明白。
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ここで感じることは二点、一つは「やはり原典にさかのぼらなければ正しい訳はできない」。もう一つ「意味を汲むことをしないで、字面だけからの直訳はやはりよくない」。
私は直訳派であるが、意味は汲み取って、しかもなお、原文の表現やその他もろもろのものを(例えば「文の長さや句読点」まで、できることなら「語の配列」まで)を、なんとか訳文に反映できないかと努力する直訳である。こうすると表現に違和感が生じることにもなるが、そこがかえってよいのではと思っている。すなわち、こなれた日本語の表現では「ひっかかるもの」がなく、考察が深まらないかもしれない。
「6月1日」(no.576) 「法」「法律」はローマ時代に完成した、と言われること
古代ギリシアで「哲学」が起こった。後述のことから連想して、おそらくギリシア語が哲学するのに適した言語だったのかもしれない(そうとうに厳密な言語であるから、一般的に古典語は厳密である)。
さて、古代ローマはどうか? それまでになかった巨大帝国となった。当然「法」が必要となる。それまでにも「ハンムラピ法典(本文282条)」などあったが、巨大帝国を治めるには大きな、綿密な法を定めなければならなかったであろう。それで古代ローマの成し遂げたことの一つが「法」である。
さて、「法」には、あいまいなところ、いくつかの解釈の余地、があってはならない。ラテン語は厳密である(先ほど触れた「形容詞の修飾」はその一例)。法を制定しようにも、その言語が厳密でなかったら、土台がゆらぐようなものである。私はラテン語の厳密性の上にローマ法が成立した、と思っている。
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話はややそれてゆく。厳密ばかりがよいものかどうか。すなわち、きちっと輪郭を描くばかりが絵ではない、ぼんやりとした印象派の絵もある。「はっきりさせない」のも、「あいまいな要素をあえて残す」のも、ひとつの表現である。その点では日本語は優秀な言語かもしれない。微妙ないいまわし、繊細な味はどのような言語にもあるであろうが、特に日本語はすぐれていると思う、これは日本人の感性と表裏一体である。料理を見れば、和食に見られる「繊細さ」は世界一と思う。文化人の間で日本食がブームなのは当然とも言える。
「6月9日」(no.588) 「長島訳」に思う
その前に、原典と長島氏による誤訳を示す。
sunt communicationes quorundam per transitus, et sunt communicationes plurium per exhalationes,直訳は「あるものの☆伝達(手段)は通路(通行、移行)によってある、多くのものの☆伝達(手段)は発散(物)によってある・・・」☆どちらも属格であり、当然communicatioに属する。
このままではよくわからないと思うので普通に訳せば「ある地獄の伝達手段は通行によって、多くの地獄の伝達手段は発散物によっていて・・・」となる。
これが長島訳には「・・・地獄と地獄との間には、転出人をとおして交流したり、霊気の発散をとおして、より多くの者と交流したり・・・」とあり、これは、がまんならないし、許せないとも思う。原意とまったく異なるからである。でたらめを通り越している。文法は別にして「転出人」とは何か?
また文法的には、「より多くの者と」ではまるっきり文法を無視している(対格とするならplures)。「多くのcommunicatio」があるのである。文法(約束、決まりごと)は「正確に表現し、伝える」ために存在する。文法は交通規則のようなものである。その文法を無視する長島氏とは何者であろうか?
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そこで「長島訳」に思う。
現在、スヴェーデンボリの著作の和訳は「柳瀬訳」か「長島訳」かである。ご存知のように原典訳は長島訳である。そして、原典訳であることと、読みやすさから、長島訳を好み、推奨する人が多い。
ついこの間も「わかりやすくて、読者に(難しい神学を)わかっていただこうという愛情を感じる」と言っていた人がいる。ほんとうにそう感じているのか?
長島訳を読まれる方で「ほんとに、こんなことが書いてあるの?」と疑問をもつ人がいないのか?
長島訳『天界と地獄』は、彼が53歳でアルカナ出版を設立し、54歳の1985年に最初の出版物となったものである(私の15歳年長)。私がその初版を入手したのは88年であった。その頃は『天界の秘義』の勉強中であり、コンコーダンスやヘブル原典まで参照しながら、その二回目の読書がそろそろ終了するときだった。参考書の一つとして買ったまでで、まともには読まなかった。
その後、英訳書全巻を読むとき、英訳書を読みながら併読した(91年秋)。「こういうことが書いてあるのかな?」との違和感をもちながらも、それまでだった。私が原典入手したのは93年4月、45歳のときだった。
ヘブル語・ギリシア語の勉強はしてきた。聖書を読むためである。ラテン語は全然知らず、原典を求めたのは「どのような言葉が使われているか」知るためだけだった。当時はヘブル語・ギリシア語の習得に全精力を使い果たした気がして、もう新たに言語を学ぶ気になれなかった。
学ぶ気になれなかったことは、今振り返れば、「気力がなかった」と思い込んでいたが、「手段・方法」がなかったのであった。すなわち、「文法書」、「辞書」がなかった。
言葉足らずで補足すれば「スヴェーデンボリを読むための」文法書・辞書がなかったのである。世にある文法書、辞書はいわゆる「古典」を対象としている。スヴェーデンボリの使用した近代ラテン語とはかけ離れている。原典を読もうとしてもうまくいかない。切れない包丁で料理しているようなもの。
ドールの教科書(翻訳し、このサイトに掲載してある)とチャドウィックの『レキシコン』に出会ったのとき、私は(しぶしぶながらも)、ラテン語を学び、原典を読んでみよう、という気になった。
私の原典訳は50歳を契機に創刊した研究誌『荒野』が始まりである。その頃のラテン語は未熟であった。それでも、原典訳を発表しながら土台はつくられていった。私の勉強法は翻訳しながらである。
長島訳のことから、話は「私のラテン語勉強歴」に脱線している(ように見える)。何を言いたいか、と言えば、以前は私も「そんなことが書いてあるのかな?」という疑問だけであったのが、今では原典と照らし合わせて、きちんと訳文を評価できることである。うれしい、といえば、うれしい。
そして、他人の欠点(すなわち、誤訳)に気づいたら、どのような態度を取ればよいのだろうか? むずかしい。長島訳にはそれ自体の役立ちがある。よいと思う人はそれでよいのかもしれない。疑問を抱いた人に、私の原文解釈が参考になればよいのだろうか?
長島氏は私よりもはるかに語学力(英語もラテン語も)がある。すると、ここの誤訳(属格を対格としたこと)は何だろう? 見落としたとは思えない(そんなそそっかしい気持ちで翻訳をしてもらいたくない)。ましてや、文法を無視したとは思いたくない。そうなら最初から翻訳の資格がない。わかっていて(意図的に)したとするなら、(このようなものである、という)思い込みが激しいのか? でも、その思い込みなり、自由訳に読者を引き込んでしまうことを何と思っているのか?
ある人は言う、「鈴木さん、長島さんを批判する前に、自分の訳を出したら?」、そのとおり。