感想:原典講読『天界と地獄』から その5

 

11(no.349) 雑談:マタイの法則(原理)


 (タラントのたとえの後)「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられる」(マタイ25:29)とある


 根っから雑談好きなので正月早々、雑談で失礼する。マタイの法則(Matthew plinciple)と言われるものがある。銀座が、軽井沢がドンドンと膨張する。すなわち、「軽井沢」というブランド名にあやかって、周辺の地名を「南軽井沢」、「北軽井沢」と称するのである。北軽井沢など、「ここが軽井沢?」と疑問符が付くような範囲まで広がっている。同じ例は、弘法大師の掘った井戸が各地にある。同じ井戸なら、弘法大師が掘ったことにすれば、同じ水が一味違ってくるのだろう。


 ちょっと違う例は「犯罪人には親戚が少なく、有名人には親戚が多い」。直ぐわかると思うが、だれもわざわざ親戚の例として犯罪人の名前を挙げないが、有名人なら、「あの人の○○にあたる」と名乗りやすい。すなわち、親戚が多い。


 小学生のころ、話好きの伯父から聞いた。「お金というものは寂しがりやで、仲間のところ、お金のあるところに集まる」というものである。すなわち、金はあるところに集まってくる。


 その他いろいろ、これらすべては「マタイの法則」である。


* * * * *


 少し、まじめになって、ここの「持っている」とは「何を」持っているのだろうか?


 タレントのたとえの文脈の中なら、タレント(才能)であり、「才能は、生かせば増え、生かさないと枯れる」であるが、それでは世俗的な説明でしかない。『天界と地獄』のこの個所から「情愛と願望」、そのもとである「愛」とわかる。すなわち「愛を持っている者は・・・」と読むと、そのとおりだな、とうなずける。


 


19(知識について) 人間はまず知識を得なければならないこと、でも。


 何事であれ、まずはそれ相応の知識がなければ始まらない。ある適度の知識がなければ、お互いの話しも通じない。すなわち「基盤」なのである。でも、その基盤の上に何を「建てるか」が問題である。土地と作物で言えば、知識は土地であり、よく学び、よく訓練された人は、よく耕された土地であろう。どんな種を蒔くにしろ、その土地からはよい作物、よい収穫が得られる。


 霊的なものが重要であっても、その基盤は、私たちがこの世に生きるかぎりは自然的な知識である。そしてその知識が真理となるか虚偽となってしまうか、その違いがここに書かれている。


 やや話が変わるが、ここで「種まきのたとえ」(マタイ13)を思い出す。


 どうか、私たちが「良い地」となれますように。


 


117(no.364) 富は祝福ではない、公平に与えられないものは祝福とはいえない、時間も


 この世は「金(かね)」の世界なので、常に金が問題になる。お金(富)に恵まれる者もいれば、貧乏人もいる。でも不公平とは思わない。祝福ではないから。神は、主は、人間にほんとうに必要なものは(神の目から見て)公平に与えてくださっていると思う(ここに、特別な慈悲はない、と言われている)。生活の程度、境遇はともかく、「いのち」は公平に与えられている。与えられた「いのち」をどのように使うか、使わせてもらうかが問題であろう。なくなることもある金ではなく、才能を考えてみる。恵まれる者もいれば、何の才能もないような者もいる。おそらくその人にその才能は不要なのだろう、金が不要の人間がいるのと同じである。


 若死にする人もいれば長寿に恵まれる(?)人もいる。なぜ、疑問符が付くかといえば、長寿が即祝福ではないから。だらだらと長く、不満たらたらと過ごすよりも、短くても「輝く時」を持てた人間のほうが幸せであるのは間違いない。「時は金なり」という。何千万円もかけて心臓手術をして、少しでもいのちを延ばしたいらしい(手術後10年ぐらいしか持たない)。すると1年間のいのちはいくらに相当するのか? 「いのちを永らえることができるなら、いくらでも金を出す」という人もいる。一方で、長患いの身をもてあまし「長生きし過ぎた」と嘆く者もいる。


 現在、私は幸い還暦過ぎまで元気に生きている。普段、生きるのは当然と思っているが、よく考えればお金以上のものを恵まれている。さて、それをどのように使うのか、使わせてもらうのがよいのだろうか。それで、この文章を書いている。(続く)


 


118(no.365) 続き:前日の唐突な結論への補足、「役立ちの王国」


 前日の結論「それで、この文章を書いている」は唐突だったか? はしょっても勘のよい方ならおわかりになると思ったが、この「続き」で補足しよう。


 「主の王国は、天界は役立ちの王国である」。主から頂いた、そのいのちを自分のためだけに消費してよいものだろうか、このような疑問への答えはすでに与えられている。スヴェーデンボリの著作を原典で読み、高尚な思索にふけっている方々に、この駄文を読んでいただくのは気が引ける。同じスヴェーデンボリ神学を学ぶ者の感想と受け止めてもらいたい。


 私は、少しでもお役に立てば、すなわち、スヴェーデンボリの原典を読む一助になれば、と思っている。もちろん、人様に公表するとなれば、正確を期さなければならない、それが私自身の勉強ともなっている。「それでこの文章を書いている」。


 


125(no.378) この世は混じり合う傾向、あの世は純化


 ここの記事からは、人種間の「混血」など天界ではありえないようである。サラブレッドは速い馬を掛け合わせてつくられたという。すなわち、混血をだんだんと排除し、「速い馬」という純血種の血統を(人為的に)つくった。霊界では霊たちの世界にしばらくいてから、天界と地獄へ分かれて行く。そして天界でも自分にぴったりの社会に居つく。いわゆる異分子がいないので、住みやすく、平和である。こうみてくると、この世の「特権」が「混じり合うこと」のようである。そこに活力(というよりも新しいもの、新局面といったもの)はあるが、混乱も生じる。


 この世で起こった混乱が来世で沈静化するようにも思える(しかし、いろいろと制約のあった活動はさらに活発となる)。ある意味で、この世がやはり天界の苗床・基盤であるとわかる。


 


212(no.403) ある霊らは・・・天界の幸福は暇な生活に・・・あると信じた。


 「小人閑居して不善をなす」を思い浮かべる


 注文など殺到し、忙しいだけの仕事はもうかるかもしれないがきつく、つらい。働きすぎで健康を損ねる恐れがある。またお客などが少なくて、暇な仕事もやはりつらい。適当な、快い速度で仕事がはかどるとき、幸せである。せっせと仕事に精を出すとき、その仕事が「楽しい」のである。


 私の経験でも、職場で「お、何かニコニコしているね」と言われたとき、何らかのやりがいのある課題に取り組み、それが思うように進捗しているときであった。仕事に取り組んでいて、その楽しさが表にでてくる。みんながニコニコ働いているような職場はよい(私はそれを目指してきた)。


 教員社会(どこも同じと思う)では、お互いに仕事を分担する、そのとき楽な仕事、暇な部署につこうとする人が出てくる。しかし、眺めていると、そういう人は幸せそうに見えなかった。過重な負担は避けなければならないが、適当に忙しいほうが健康であると思う。過重で思い出すが、私にも過重な仕事が割り当てられる時があった、しかし、精一杯やっていると、それでもやり終えることができそうもないとき、必ずどこからか「助け」があった。このような経験は何かを懸命やった人なら必ず持っていると思う。


 


212(no.404) 神を賛美し、称賛するとは仁愛の善をなすこと


 いわゆる世の中のためになる役立ちを果たすこと、それがそのまま神への賛美であることが言われている。私利私欲のためだけに働くのではなく(働くのは何らかの役立ちになっている)、それが神への賛美となっているから「労働は神聖」なのであろう。


 


216(no.408) 幸福である者が大きな者であること、なるほど


 自分がちっぽけな人間に感じられるときがある、いろいろなものの不足(能力、金、時間など)から物事がうまく行かないときなどである。そんなとき「不幸」も感じる。ここにこの逆の状態が書かれている。


 幸福なとき、胸が膨らむ思いがする、自分が「大きく」なった気がする。何かの成長や充実を感じるときもそうである。純粋な意味で「大物」とは、天界的な意味で「幸福な者」であろう。どんな大人物でも心の中で不満や不幸を感じているなら、その人は「小物」である。そしてその幸福は「心から他の者によかれと願うこと」から得られる。このことに今更ながら納得する。


 


221(no.414) Senescere in Caelo est Juvenescere


 読みは「セネスケーレ イン カエロ エスト ユウェネスケーレ」。


 「天界で年取ることは若返ることである」とは印象的な言葉である。私たちも「年齢を感じさせない」などと言う。何か懸命に取り組んでいる人の「心」は若々しく感じる。このとき、心の世界である天界を垣間見る思いがする。


 話はちょっと逸れるが、今のように翻訳をしているとき、自分がいつまでも学びの、修業の途中にある「若造」の気がしてならない。読むたびに新しい発見があるから。


 その例として、スヴェーデンボリの文章は「省略」の多いことが特徴となっていることがある(読者の方もすでにお気づきであろう)。そして、この省略文が何が省かれているのだろうか? と勉強になる。そしてこれは論理の道筋をきちっと追っていればわかることである(逆に、わからないのは読み込みが足りないといえる)。


 


225(no.418) 一致して(一つ心でunanimiter)まとまるには


 ここの最後の部分にはすべての団体や組織などにいえることが書かれている(言語的に「一致」とは「一つ」+「心」であることがおもしろい)。そしてそのためには「共通の」目的があることである(ここでは「主」)。共通の目的があるとき、みんなの視線はそこに向かって一致する。そのとき「一人は全員のために、全員は一人のために」といった気持ち(ここでは「善」)が生じる。


 


226(no.420) 著書『天界と地獄』の7割は「天界」について


 「天界と地獄」の題名からは、それぞれ半分ずつ扱われているような気がするが、その内容の7割は「天界」について、残りの3割のうち2割は「霊たちの世界」について、「地獄」については最後の1割である。すなわち大部分は「天の御国がどのようなものであるか」を述べている。


 ここで、その7割分が終わった。明日からは「霊たちの世界」である。やや努力を怠ったこともあって予定よりやや遅れたかな、と思っている。それでも「毎日掲載する」気持ちは失っていない(何日か遅れたことがある)。それというのも日々のアクセス数に励まされているから。すなわち、毎日読んでいてくださる方がいるのでは休む気になれない。読者の皆様に感謝する。


 


43(no.477) 「支配愛」とは


 スヴェーデンボリ神学の特徴を表わす言葉の一つが「支配愛」である。どのような概念を表わす言葉かここからも少しわかるが、私なりに補足してみる。


 心の中にはさまざまな愛がある。あたかもいろいろな人がいるかのようである。その人々はばらばらではない。秩序をもって一人の主導者(これが国なら王)のもとに統治されている。その主導者たる愛が支配愛である。それで「主導愛」の訳語が考えられる。そして人がそれぞれ異なるように、その人の支配愛も異なる。というよりも支配愛が異なるから、人の性格も異なるのである。主への愛が最も強ければ「天的な人間」、隣人への愛がまさっている人が「霊的な人間」と呼ばれるのは周知のこと。「愛」でなく「欲」と言えば、悪人にも通用する。


 自分の支配愛が何か知ることはそれほどむずかしいことではないようである。金銭や時間など、はたまた人目など、何も制約がないとき、最もしてみたいこと、寝食を忘れてやれることは何であろうか? そのことへの愛が支配愛であろう。しかし、王様一人だけで王国が成り立たないように、それに仕える愛が付随する。そして普段それらの愛にうずもれて王様が見えないことも多いようである。私も、自分がどこに向かおうとしているのか、わからなくなることがよくある。


 よくわからなくなったところで話を少し変える。音楽に「調」がある。すなわちハ長調、イ短調などである。それぞれの曲に基調となる音(主音keynote)が定まっている。支配愛もこのように考えることができる。そのとき「主調愛」の訳語も考えられる。音楽用語の属音をドミナントdominatと言うが、これは「主要なもの、優勢なもの」という意味をもつ。


 


44(no.479) ここの「霊たちの世界」の出来事は、この世でも感じられること


 ここに書かれていることに対し、私と同感の人が多いと思う。すなわち、この世でも同様のことを感じることである。内容の繰り返しになるかもしれないが、同じ順に述べてみる(本文参照)


[1] 「類は友を呼ぶ」「類を以って集まる」と言う。気心の知れた仲なら抵抗感がない。場違いなところだと、居心地が悪い。それぞれの情愛、ひいては支配愛が異なるからである。


[2] この世での人間の成長に対し一般的に言えることである。すなわち、虚偽が取り去られること、この世では遅いが霊たちの世界では速やかに行なわれる。そして何か目標を持ったり、何かに囚われたりするとき、常にそのことが目から離れない。すなわち、常に目の前にあるような気がする。


[3] 世と共通であることは、書かれてあるとおり。ただし、支配愛の範囲内で(縛られているかのように)行動することは、自分の日ごろの行ないなどを反省しないとよくわからないかもしれない。すなわち、日ごろの自分の行動は支配愛に導かれていること。


[4] 私は他人との会話、いろいろな集会など実感していることである。すなわち、愛の一致する者の存在感が大きい、しかし、違和感を持つ者は、いないように、どっかにいってしまったように感じられる。


私は、目の前にいる人が、あるとき黒く見えたことがある(すぐもとに戻ったが)。そうでなくても、ある人の本性を垣間見るようなときがないだろうか。


[5] 人間は木でもあり、動物でもある。自分にふさわしいものを、それぞれ取り入れている。そしてそれぞれの者に「道」がある。たとえで、進路や進むべき方向を「道」という。この世の道は心の中にある、そして振り返れば歩いてきた道は見えるが、行き先は見えない(全部でないが、一部見えることもある)、しかし、霊たちの世界では現実にそれが見える。


 このようなことを感じるのも、霊界からの流入、または対応があるからだと思う。


 


419(no.500) 思考は意志の形であり、それは分析によって示されること


 こうした表現をどのように読み取るのであろうか? 私なりの理解の仕方を述べてみる。


 意志は(そして思考も)目に見えない。それで「思考は意志の形である」と言われても、思考自体も普通の意味で「形」ではないので理解に苦しむ。それでも、「概念」という形をとっていると思う。意志は行為となったとき外にその姿を現わすが、思考は「概念」として頭の中に「形」としてあると考える。その思考の根源が意志である。そしてその意志を探るには分析的思考を働かせなくてはならない。そうして捕らえた意志が思考の中に形をとって見えてくるのであろう。


 


422(no.508) 「人間は生活によってその性質をおびる」homo per vitam induit naturam.


 「ある人とその人の生活との関係は?」と考えるとき、その職業、行なっていることなどは、その人が心で「こうありたい」と思っていることの反映であろう。そしてまた、その日々の生活からその人の性質、性格などが後天的に形作られる(職人気質など)。人間は(内面的には)意志そのものであり、その意志が(外面的に)反映された生活がその性質を形成する。こうして、内なるものと外なるものが対応している。

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