少し前、大著『天界の秘義』の始まりは「創世記の解説」からであったが、「終わりはどのようにして終わったのだったっけ?」と思い、静思社版『天界の秘義』第28巻の最後の部分を見た。「第六の地球」についての物語であった。そしてこの事柄はのちに『宇宙間の諸地球』として、『天界と地獄』などとともに別の書物となって刊行された。
話はそれるが、この『宇宙間の諸地球』を皆様がたはどのように受け止めておられるのか? スヴェーデンボリがほんの付け足しの逸話のつもりで、『天界の秘義』の中に挿入したのではないことは、わざわざその後、本としてまとめたことからわかる。そして本著がスヴェーデンボリの真価に疑いを投げかける書となっている。私にもよくわからないが、ただ「ケルビムの働き」をしていることは間違いない。すなわち、神の奥義、天界の秘義を守る働きである。「月に人がいるなんてばかばかしい」として本書を避けるなら、それでよいのである。「ちょっと受け入れがたいな、それでも、読んでみよう」という人にだけ、神の奥義を知ることが与えられる。しかし、これ以上は本題から離れすぎる。
話を戻して、柳瀬訳『天界の秘義』の最後に「・・・またその若者たちがその妻を選ぶ時も定められている。なぜなら・・・他の所へ行き、その時に見つけないなら、後の時に帰ってくるからである・・・」とある。そして「後の時に帰ってくる」の部分に、鉛筆で「へたなのか? わかっていないのか?」とコメントしてあった。ずっと以前、私がこの個所を読んだ時のことである。
私には「後の時に帰ってくる」が何のことなのかわからない。わかる人がいるんでしょうか? 「わからないなあ」と思いながら、『天界の秘義』を読み終えたのであった。
このような時、皆様はどうされるのか? スヴェーデンボリが一般読者に向けて、その読者が意味の汲み取れない文章を書くとは思えない。すなわち、「翻訳がおかしいんだろう」と思うのが普通ではないか。でも、当時、原著はおろか、英訳すら持っていなかった。すっきりしない思いを抱えたままである。これは精神衛生上よくない。そのためには自分で原著にあたるしかない。
読者が論理の道筋を汲み取れなかったら、その翻訳は誤訳だろう。柳瀬訳にこのような個所がいくつかある(いくらでもある)。柳瀬氏はかつて私にこう言ったことがある。「(内容が)よくわからなこともあるんですよ。でも私はね、(自分の解釈を加えずに)書いてあるとおりに訳したんですよ」(かっこは私の補足)。そのとおりだと思う、英語の直訳(そのままと言う意味)である個所がいくらでもある。ここの英訳は「they return at a subsequent time.」であり、訳として間違っていない、でも意味は汲み取れない。柳瀬氏はあとは読者の解釈に任せることにして先へ進んだ。膨大な訳書を完了させるためには、どんどん道を切り開くしかなかったのであろう、じっくりやっていたら終わらない。するとどうしてもその道はでこぼこし、このように歩きづらい石ころがごろごろしている。
柳瀬訳についてまた語るかもしれない、今はこの個所をどのように理解したらよいか述べよう。どうも決定的によくないのはsubsequent timeの「後の時」のようだ。「帰ってくる」ややよくない。
何と言ってもきっちり考えるには原典にまさるものはない。原典に「・・・abeunt in alium, et si non eo tempore, sequenti redeunt.」とある。直訳は「他のところに出かける、そしてもしその時でないなら、次のものに戻る」である。形容詞sequensは「次の時にやって来る、続きの」と言う意味であり、実詞としては「次のもの」の意味である。動詞redeoは「戻る」であり、「繰り返す」という意味もある。
これで、この個所の正しい意味が把握できる。英訳のようにtimeを付ける必要はなかった、そして英訳にtimeがあっても、これを「機会」と汲み取ればよく、その機会に「もどる、繰り返す」でよかった。柳瀬氏には、このくらい内容を考えて訳してほしかった。
結論として内容的に、その時、妻を見つけられなければ、また「次ぎのものに戻る」のである。
こうして、翻訳書ではすっきりしなかったものが、原著では明確にわかる。それで私は原文に向かう。