スヴェーデンボリは独特だったか(その4)

古い脳と新しい脳の協働の機能
 よく知られたある人たちは、この能力を用いて、科学と芸術に驚くべき多産な貢献をなした。電球やその他の多くのものの発明者エジソンは、この発明が催眠状態の中で自分にやってくる、とわかっていた。それで彼は、左手にある金属のボールを握って、気を楽にして椅子に座る。左手の下の床には金属の皿を置いた。彼が、ある緊急の科学的な問題をよく考えながら、眠ってしまうとき、その左手は弛緩し、ボールが金属皿の上に落ち、その音で彼は目覚める。その瞬間に、問題の解を抱き、新皮質がそれを生み出す。エジソンはアイディアを記録し、具体的に表現できた――こうして電球の「夢」が「現実」のものとなった。
 他の有名なできごとはケクレによるベンゼン環の発見である。彼はこのことを1890年の「ドイツ化学協会」への報告で次のように記述している――「私は座って教科書を書いていた。しかし仕事は進まなかった。椅子を回転させ、眠った。またも(炭素の)元素が私の目の前で跳ね回った・・・そのとき私の心の目には、より大きな構造が、長い列が識別できた・・・すべてはヘビのように動いて、もつれ、よじれている。しかし、見よ! あれは何だ? 一匹のヘビが自分自身の尾をとらえ、私の目の前でからかうかのように環になった。あたかも稲妻の電光によるかのように私は目覚めた・・・その夜の残りをこの催眠からの帰結を書き上げて費やした」。
 他の例はサルヴァドール・ダリであり、彼は自分の絵画の多くの主題をあらかじめ準備した催眠状態から得たことを認めている。彼は、あごを支えるスプーンを手に持ち、その肘を椅子の肘掛けに休めて、眠りに落ちる。眠りに落ちると、スプーンは滑り落ち、頭はガクンと落ちる、新しい脳は意識を取り戻す、そこであるシュール(超現実主義)な夢の像が、彼のよく知られた手法により、画用紙へ伝わることができる。狂人の烙印を押されたとき、ダリは言った、「私と狂人とのただ一つの違いは、私が狂っていないことである」。この言葉は、スヴェーデンボリが批評されたとき、その反駁として彼が用いたものでもある。
 興味深いことに、アインシュタインが暗算に深く没頭していたとき、彼の脳造影(EEG・Electroencephalogram)は、アルファリズム示していた〔注:alpha rhythmは、典型的には目覚めた状態の正常人の安静時にみられる〕)。これは新皮質が休んでいるときに伴うもので、アインシュタインの古い脳が暗算を行なっていたことを示唆する。これは馬にアインシュタインのしたことができると言うのではなく、人間の古い脳の異常な象徴または霊的な能力を示している。これはスヴェーデンボリが内的な記憶と呼ぶもので、新しい脳の外的な記憶と協働するものである。
 数学は、幾何学や代数を含めて、優秀さと同等の象徴的な活動であり、ある人々の中で極めて創造的であるという特徴がある。Andreas Mavromatisによる本『催眠』には、眠ることができなかったポアンカレが記述されている。彼はブラックコーヒーを飲み(このことからはスヴェーデンボリの習慣を思い出す)、「アイディアが群れとなって湧き上がり」、彼は「それらが互いに衝突し、組になって連結する、いわば、しっかりした組み合わせになるのを感じた」。このことは、ポアンカレの中で、フックス関数の存在を確立する結果となった。彼の「新皮質」による、そうした関数はありえないことを証明しようとする以前の激しい努力に反する結果であった。彼は500以上の論文を出したが、それらは聖書の用語で放蕩息子を、すなわち古い脳の活動の多産さを示唆している。

スヴェーデンボリは独特だったか(その5)

 子供のとき、スヴェーデンボリは呼吸を制御することを身につけたが、私はそれは催眠洞察力を生み出したと思う。しつけと興味により、彼は外的な記憶を聖書からの像で満たした、ちょうどケクレが自分の脳を分子で、エジソンが物理学の諸事実で、またダリが絵画の技法でいっぱいにしたように。スヴェーデンボリの古い脳は、そのときそれらの像を取り、彼のよく知った霊感を受けて、霊感を受けた方法で、「天界の秘義」と名づけて、それらをいっしょにした。同じ方法で、他の者は彼ら自身の皮質の興味に基づいて産物を生み出す。現実の事柄のよう見えるが、スヴェーデンボリの場合、その神学著作著述の30年間、昼夜、脳がこのすべてを行なったのである。
 私はEMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing・目の運動による脱感作と再処理)と呼ばれる治療の技術を多く体験した。これは私にとって、古い脳の洞察力を新しい脳の葛藤の癒しに用いることができることを示唆している。この技術では、患者は、治療専門家に助けられて、彼の心をある不快で、やっかいな「外的な」記憶に強く集中させ、自分の新しい脳によって、ある意味で新しい脳が活動的であることをやめるように保つ。それはさ迷うことをやめさせる、たとえば、アインシュタインが暗算を行なっているときに、やめさせるようにである。刺激、それは目の断続的な運動、交替して聴覚の刺激、あるいは、交替して腰をたたくことであって、古い脳を刺激し、問題への夢のような(私はこのようにしか言えない)解答が浮かび上がってくるようにする。この治療の技術を行なっているうちに起こってくる像の多くは、霊的な印象を与える。それらはその最中に完全に期待しないで、夢のように起こる。その像は、患者によって、私の最も狂ったような夢の中でも「私に」考えられないようなものとして描かれてきた。このことは、これらの像の根源を探求するとき、スヴェーデンボリにしたがって、霊的な流入と呼ぶことが正しいとみなされることを示唆する。
 古い脳の思考
 古い脳の思考はある特徴によってはっきり示される。そして、なぜ私たちが古い脳の産物を霊的なものとして部類分けするか、その洞察を与えるものとして、それらは考慮する価値がある。
 時間について多くの歪んだ観念がある。時間は、新皮質の時間に関する葉(よう)、新しい脳の一部の機能である。私は、他の哺乳類が時間についての正確な感覚を持っているのか疑う、まして時計の発明の前に。私はしばしば、なぜ馬や牛は野に退屈もせずに立っているのかと思う。これはおそらく、彼らに時間の感覚がないからであろう。このことは、スヴェーデンボリよれば、霊界の特徴である。死んで、私たちは古代人によって経験されたような、時間のない世界に入る。この世のものである時間は、そこの状態の変化に対応し、またこの状態は「外側」から、新皮質ができるように、分析的に、観察されるものではない。それは、光景や照明に対応する変化として、時間のない、永遠のあるいは無限の方法で経験される。出来事の進行を経験する二つの様式、時間のない古い脳の様式と時間に関する新皮質の様式がなくては、時間と永遠は、分離された存在として把握されることができない。奇妙にも、時間に関する葉(よう)がそう呼ばれるのは、時間に関する部位の髪の毛のちょうど下にそれがあるからである。その部位で髪の毛はしばしば白く代わり始め、彼に時の経過を思わせる。
 古い脳は、あら探しもしないし偽善的でもありえない。夢の像は、新しい脳にとって都合のよいもの、あるいは都合の悪いものとして現われる。それらは容赦ないほど正直で、社会の上品な規範に従わない。スヴェーデンボリの初期の読者たちにとって、彼らがその夢の記録を読んだ時、ショックだった。古い脳の機能である性的な愛が、異性愛と同性愛者の間で、両方の部分(*)にまるで理性的でない魅力を授ける。これは古い脳の特徴である。私たちが恋に落ちるとき、私たちは、他の部分に永遠で詩的な意味を与えて、残りの部分は日々の常識とともにいる、という古くからの思考法に入りこむ。なぜプラトンが性的な愛を一種の狂気と呼んだか、これがその理由であり、それを彼はアプロディーテー〔ギリシア神話で愛と美の女神〕に帰した。祭儀の狂気の神ディオニューソス、詩作の狂気の神アポローンは、古代ギリシア人たちによって、最古代教会の死の直後の時期に、制御されない古い脳の活動の他の形態に与えられた名前である。
〔*注:プラトンの恋愛論によれば、お互いにひきつけあうのは、もともとは一つのものだった(二人)が二つの部分に分かれたからとする。また恋愛を狂気の一種ともする〕

スヴェーデンボリは独特だったか(その6・最終)

 新約聖書で、主がこの世におられとき、パリサイ人やユダヤ人の認知は、全般的に、あまりにいわば皮質的な方向に向いている、と主によって批判された。彼らは、律法の文字に盲目的に留意して、古い脳の根源を自分たちから切り離した。主は彼らを白い墓と呼んだ。古い脳は、物事に、善かれ悪かれ、深い意味を与える。新皮質のもっぱら科学的で道徳的な方法な透視図からは、世は、機械のように、死んだ、ブレーク(*1)の暗い地獄の工場の〔絵画の〕ように見える。古い脳は世にいのちを与える。
 ピアジェ(*2)は、子どもたちが機械のようなこの世に、どのようにいのちを与えているかを示した。このことは、彼らの新皮質が、少なくとも12歳になるまでは、よく発達していないからである。子どもたちは天使や悪魔を見ることはよく知られており、これは古い脳の産物である。これは文書になっている。たとえば、学校の教師であり、デンマークの新教会の活動的なメンバーであるMargaret Hauptmanの小さな本『見えない人々』である。
 もし私たちが霊界を人間の新皮質と古い脳の協働の産物であると見なすなら、そのとき霊界の、またみことばの夢のような意味を説いた「霊的な」本(*3)の、有機的な基盤が備えられる。スヴェーデンボリは、この古い脳と新しい脳の間の目覚しい相互作用の結果を描いた。彼は、この意味を、科学的または芸術的な用語でなく、神的な用語で悟っているところが独特である。
 結論
 私はこの論説を、天界と地獄は私たちの脳の単なる生理学上の産物であるとする、よくある批評に反対して終わりたい。このことは、「暗いトンネル」やその他の臨死体験について、しばしば懐疑的な人々によってなされる論評である。もちろん、私たちは好きなように考えることができる。それが知性的な、霊的な自由である。あらゆる物質的なものは、霊的な意味を持つものとなることができる、あるものは催眠現象が表示するものを描写するものとなる。古い脳の特性なしに――新しい脳に取り換えて――私たちに、時間や永遠、またこの論説の中で述べた異常で神的な独創力に近い私たち自身の中の経験、そうしたものを考え、語る方法がない。
注1:イギリスの詩人・画家・神秘思想家。
注2:スイスの心理学者。得に児童心理学の研究で有名。
注3:スヴェーデンボリの神学著作、特に『天界の秘義』をさしているようである。

原典講読『信仰』について

 以前に連載した「原典を読もう」の整理がここで終わりました(いずれ「ラテン語学習」の欄に掲載されます)。念願だった原典の訳出に入ります。ただ訳すだけでなく、「講読」の形でこのブログに掲載することで、最新訳をお知らせするとともに、いっしょに原典を学べたら、と願っています。
 「(2)直訳」の部分から、原文と(直訳の)訳文を見比べることでラテン語については学べると思います。それで注釈等は最小限にしました。
 完成した形の「(3)訳文」からでは汲み取れないものが「(2)直訳」から知ることができると思います。
 できましたら、これまでの訳である静思社「柳瀬訳」とアルカナ出版「長島訳」と比較してみてください。いろいろなことがわかると思います。簡単に言って、前者からは英訳からの重訳の限界、後者からは(異常にも感じられる)意訳です。
 比較することで、私の「翻訳に対する姿勢」がわかると思います。

原典講読『信仰』1,2

◎ DOCTRINA NOVAE HIEROSOLYMAE DE FIDE.と題された本書は1763年(著者73歳)にアムステルダムで出版されたものです。
◎ 70歳のとき『天界と地獄』を含む「ロンドン五部作」の後、やや間があって、他書『主について』『聖書について』『生活について』とともに出版した「新しいエルサレムの教え」四部作の一つです。同年には『神の愛と知恵』も出版しています。
◎ 「講読」といっても、ほとんど「対訳」の形になると思います。次の形式とします。
 (1) 原文の提示。 (2)なるべく短く区切って、これもなるべく「直訳」。そのさい、単語や文法事項の説明が入る場合があるかと思います。 (3)やや意訳した訳文の提示。 (あったっら(4)感想。)
     DOCTRINA NOVAE HIEROSOLYMAE DE FIDE.
     信仰についての新しいエルサレムの教え
          (I.)
     QUOD FIDES SIT AGNITIO INTERNA VERI.
     信仰は真理の内なる承認であること
(1) 原文
1. Per Fidem hodie non aliud intelligitur, quam cogitatio quod ita sit quia ecclesia docet, et quia non patet coram intellectu; dicitur enim, “Crede et non dubita.” Si respondetur, “Hoc non comprehendo,” dicitur quod ideo credendum sit. Quare hodierna fides est fides ignoti, et vocari potest fides caeca: et quia est dictamen alterius in altero, est fides historica. Quod haec non fides spiritualis sit, videbitur in sequentibus.
(2) 直訳
Per Fidem hodie non aliud intelligitur, 今日の信仰によって他のものが意味されない、
☆蛇足ながら「今日」は「こんにち」と読んでください。「現今」の意味です。
quam cogitatio quod ita sit quia ecclesia docet, そのようであることと〔する〕考え以外の、(なぜなら)教会が教えるから、
et quia non patet coram intellectu; また(なぜなら)理解力の前で明らかでないから、
dicitur enim, “Crede et non dubita.” なぜなら、「信じよ、疑うな」と言われる。
Si respondetur, “Hoc non comprehendo,” もし、「このことを私は理解しない」と答えるなら、
☆ここのrespondeo「答える」は受動態でまさに直訳なら「答えられる」。非人称動詞と見なします。
dicitur quod ideo credendum sit. それゆえ、信じられなければならないこと、を言われる。
☆credendumはcredo「信じる」の動形容詞。sumを伴って「必要性を示す」ために述語的に使われる。
Quare hodierna fides est fides ignoti, それゆえ、今日の信仰は知らないことの信仰である、
et vocari potest fides caeca: また、盲目の信仰と呼ぶことができる。
et quia est dictamen alterius in altero, est fides historica. また、別の者が別の者に言った〔ことな〕ので、史実に基づく信仰である。
Quod haec non fides spiritualis sit, videbitur in sequentibus. これが霊的な信仰でないことは、続く事柄の中に見られる。
☆videbiturはvideo「見る」の未来形、動形容詞と同じく「必要性を示して」います。「(必要なので)これから示します」といったニュアンスです。
(3) 訳文
 1. 今日の信仰によって、教会が教えるから、明らかに理解できないから、「信じよ、疑うな」と言われるから、そのようであると考えること以外の(他の)ものは意味されない。もし、「私はこのことがわからない」と答えるなら、それだからこそ、信じられなければならない、と言われる。それゆえ、今日の信仰は知らないことの信仰であり、盲目の信仰と呼ぶことができる。また、ある者がある者に語ったことなので、歴史に基づく信仰である。これは霊的な信仰でないことを、続く事柄の中で示そう。
(1) 原文
2. Ipsa fides non aliud est, quam agnitio quod ita sit, quia est verum; ita enim cogitat et loquitur qui in ipsa fide est, “Hoc verum est, ideo credo;” fides enim est veri, et verum est fidei. Is etiam, si non comprehendit quod verum sit, dicit, “Non scio num verum sit, ideo nondum credo: quomodo credam quod non comprehendo? forte potest falsum esse.”
(2) 直訳
Ipsa fides non aliud est, 信仰そのものは他のものではない、
quam agnitio quod ita sit, quia est verum; そうであることの承認以外の、(なぜなら)真理であるから。
ita enim cogitat et loquitur qui in ipsa fide est, なぜなら、信仰そのものの中にいる者は、このように考え、語る、
“Hoc verum est, ideo credo;” 「これは真理である、それゆえ、私は信じる」。
fides enim est veri, et verum est fidei. (なぜなら)信仰は真理のものであり、真理は信仰のものであるから。
☆veriとfideiは属格、それで「信仰は真理に属し、真理は信仰に属する」とも訳せる。
Is etiam, si non comprehendit quod verum sit, さらにまた彼は、もし真理であることを理解しないなら、
dicit, “Non scio num verum sit, ideo nondum credo: 言う、「私は真理であるかどうか知らない、それゆえ、私は信じない」。
quomodo credam quod non comprehendo? どのように私は信じるのか、理解しないことを?
forte potest falsum esse.” ことによると、虚偽である可能性がある。
☆possumは通常「~できる」ですが、このように「~の可能性がある」の訳もあります。
(3) 訳文
 2. 信仰そのものは、真理であるからそうであると承認する以外の(他の)ものではない。なぜなら、信仰そのものの中にいる者は、「これは真理である、それゆえ、私は信じる」と、このように考え、語るからである。なぜなら、信仰は真理のものであり、真理は信仰のものであるから。さらにまた、もし真理であることを理解しないなら、彼は、「私は真理であるかどうか知らない、それゆえ、私は信じない。理解しないことを、ことによると、虚偽かもしれないことを、どのようにして、私は信じるのか?」と言う。