このこと〔メモラビリア〕から第三の文体へ進む、これを私は物語風の文体と名づけたい。これは明らかに、上品で洗練された、知的な喜び以上のものを読者に提供しようと意図している。たとえば『神の礼拝と愛』からの次の文章。
真夜中、天の星座は、あたかも称賛するかのように、もはや明るく輝かず、ただ一種の輝く炎で、きらめいていた。沈むのを遅らせようと燃えていた、しかし、昇ろうと急いでいた曙の女神は、それらの光を弱め、直ちに太陽に、一日を開けさせようとしていた。
この文体を最もよくメモラビリアの中に見る――この物語は、スヴェーデンボリが単純ながらも印象的な言葉で、彼の周りの光景を語り、そこの住民と話しているうちに、私たちを直接に霊界へと運び入れる。このように――
私は平野を通って丘へ導かれた。すると見よ、丘のふもとにその頂上へと続く、ナツメヤシの木の通り(並木)があった。私たちはそこに入り、登った。丘の頂上、てっぺんに木立ちがあり、地から伸びている木々は劇場のようなものを形作っていた。この内に、いろいろな色の石で覆われた平らなところがあった。このまわりに正方形に並べられた椅子があり、それに知恵を愛する人たちが座っていた。劇場の真ん中に机があり、その上に封印された紙が置かれていた。 『結婚愛』132:1。
最後の〔第四の〕ものは論証の文体であり、そこでは著者は問題を議論し、読者に対して、議論や演説を述べる。このように――
しかし、おそらくここであなたがたは少し立ち止まり、霊魂について、肉体の中のどこにあり、宿っているか、私の考えを質問したくなるであろう。構造と形の両方において、どのようなものであるか? 補助の器官〔肉体〕に直接に、また近接してどのように働きかけるのか? また人間にはほとんど知られていないが、主要なことである他の多くのことも〔質問したくなるであろう〕。
これは『無限なる者』の著作からである(第2章257ページ)。長いけれども、対比と釣り合いのよく取れた文章である。またさらに――
(ここには『神の愛と知恵』308からとする例文が載っています。調べましたが出典個所がわかりません。チャドウィックの訳は「意訳」なので、その翻訳文を省きますのでご了承ください。私はスヴェーデンボリの原典には直訳がふさわしいと思うので、「意訳」されたものを再度訳すつもりになれません)
知っていることから知らないものへと論理的な議論を進めていることを観察されたい。これは自分の手段を制御でき、その手段を目的に対し効果的に用いることのできる表現の達人の作品である。同時に、表現しようとする欲望に、思考は少しも従属していない。