語学が得意か?

 自己紹介か何かの折、高校の教員であり、「翻訳しています」と言うと、たいてい「英語の先生ですか?」と聞かれた(または「体育ですか?」とも聞かれる、スキー、山歩きをあってやっていたし、今でも水泳をやっているので)。
 どういうわけか、数学とは思ってもらえない。そこには数学についての偏見が混ざっていると思う。宗教をやるような人と(理性的な?)数学とは相反するという先入観があるのか? 脱線するが私は数学を自然科学とは思わない。精神科学である、むしろ哲学に近いと思う。そして、哲学は文学部の一部だから、数学は理学部の一分野ではないだろうか。も少し続けて述べたいが話を戻す。
 このブログを覗いている方もまた、私を「語学が得意」なんじゃないかと思い違いされているかもしれない。高校時代、科目として国語は好きだったけれども成績は普通。英語は不勉強のせいもあって成績は下の部類だった(数学ばかりやっていた)。
 これまでに述べたが、新教会が説教等の翻訳を必要とし、何かの役に立てばと翻訳を始め、少しでも良い、正確な訳のために、と英文法を学び直したのだった。
 しかし「言語」そのものには昔から興味があった。それで大学では、初年度にフランス語、ドイツ語の初級を学んだ。なんとかこなし、続いて2年次にドイツ語中級を選択した。そこには文学部の連中しかいない。1年間ドイツ語の初歩を学んだだけでは見通しが甘かった、ついていけなかったが、途中で放棄することはなかった。それでも試験は歯が立たず、白紙。単位を落とした。
 大学で単位を落としたのはこの科目ともう一つ、その名称はよく覚えていないが「教育法」だったと思う。この科目をなぜ落としたか、そのことについては別の機会に譲る。「教育法」は教員になるための必須科目なので、落としたままにはできす、大学を5年やることになった最大の理由である。
 3年次にはドイツ語の挫折にもめげず、ロシア語を選択した。数学をやる上では、ロシアの文献は当時やや重要であった。題名や概要だけでも読めるようにしたかった。なお、諸外国の数学の文献は数式をたどればだいたい読めて、文学書を読むのと違ってむずかしい文法などは不要である。このロシア語に限らず、3年次科目は後半に講義が成り立たなくなっていた。当時「大学紛争」の波が押し寄せてきていて、落ち着いて学ぶ雰囲気が失われつつあった。ロシア語は落としたのでなく、単位を取らないで終わった。
 このようにいろいろな言語に対する興味はあった。さかのぼれば、高校3年では漢文を「巻三」まで学んだ。理科系に進む生徒はまず選択しない科目である。それでも、決して得意ではなかった。
 それから、時は流れ、聖書を読むようになり、原語が話題となり、ヘブル語聖書を見せてもらう機会があった。生まれながらの言語に対する興味が再びわいた。そうでなくても、そのころスヴェーデンボリの著作を読み始め、ヘブル語が天界の言語に近いことを知っていた。
 聖職者でなければ、あまり学ぶことのないヘブル語であっても、こわいものしらずで飛び込んだ。さすがに最初はわけがわからなかった。しかし、その「わけのわからない」ものがだんだんわかってくる楽しみがあった。数学の難問にかじりつくのに共通した感覚である。眺め回し、どっかにとっかかりがないかな、とひっくり返したりした(もちろん比喩)。ヘブル語がおぼろげながらに見え始めたとき、それと同時に「言語とは何か」がわかり出した気がした。これまでの英語、また日本語が違って見えるようになった。
 も少しこのことに付言すれば、ヘブル語を学ぶまでは、翻訳は「語の置き換え」にしか過ぎなかった。「dog」を「犬」とするように。それで、そこに新しい発見はなく、それで、私は数学に向かったともいえる。ところがヘブル語はこれまでの言語と文の構造が違った、もっといえば「言語体系」が問題となった。このことを体系の「体」という字がよく表わしている。手や足の一つひとつの部位でなく、体全体のつくりを、ヘブル語を一人の人物を見るように眺めないと、把握しきれるものではなかった。
 聖書を原文で読めることもさることながら、この視点に到達できたのはヘブル語学習の収穫だった。全然成り立ちの異なる言語を「独学で」学んだことも大きかったかと思う。「いったいどうなってんだこれは」と何度も思わされた。指導者のもとで学んでいたら、余計な疑問も持たず、まして「言語とは」などと思い巡らすことはなかったかもしれない。
 こうして、語学に興味はあったが、決して得意でなかった私が、ヘブル語学習を契機として言語に目覚めた。ほぼ同時にギリシア語も学んだ。しかし、その後しばらくの間、私にラテン語を学ぼうとする気力はなかった。

ラテン語を学び始める、その勉強法は?

 ヘブル語・ギリシア語の習得に精力を使い果たした状態だったので、ラテン語を本格的に学ぶ気はなかった、と述べた。それでも3月22日のブログ「ラテン語勉強歴」で述べたように(1) 原典を手元に置き(93年9月)、 (2)よい教科書に出会う(小林標著『独習者のための楽しく学ぶラテン語』、93年12月)と勉強をしたくなってきた。
 さらに、原典を参照し、読むだけでなく「翻訳したい」との気持ちも起こってきた。このことについては別に述べる。
 94年5月(47歳)に注文してあった『LEXICON』を入手し、ばらく、使っているうち、「これ(辞書)を使えば、読める、翻訳できる」と確信をもった。しばらく勉強してから――
 1997年1月、50歳を契機に個人研究誌『荒野』を創刊した。A5版30ページくらいの月刊誌であり、50部ほど作成し、30部ほど頒布した。諸般の事情で2001年8月67号をもって中断した。
 その内容は当然ながら「原典対訳」がメインだった。もちろん本邦初訳のものを扱うようにした。自分のラテン語の勉強をかねて発行した。学んでから発行するのでなく、発行しながら、公表することを原動力として学び続けたのだった。すなわち、私のラテン語原典訳は97年が始まりである。
 『荒野』では、ほんの小編から始め、途中『仁愛について』を全部、また別冊では『預言者と詩篇』の預言者の部分も訳した。振り返れば、「ろくに学びもしないで、よくこんなことやったなあ」という気もする。しかし、思いついたら始めちゃう性分だし、前にも述べたが「わからないことがあったら、そのことについて著述してしまう」という「勉強法」そのものだった。

インターネット(情報)の危険性、その回避

 「情報に振り回されないように」とはよく言われる言葉。ここで改めて言うまでもない。このことをちょっと考えてみる。
 インターネットを覗くといろいろなことがわかる。特に今は「検索」がよくできている。瞬時に膨大かつ的確(?)な知識が、なんの苦労もなく目の前に広がる。あきらかに視界は広がり、確実に「物知り」になる。
 危険なのは「これで事足れり」としてしまうこと。たとえば、レポートなどを提出させることがある。すると、あちこちインターネットから引っ張り出し、それを継ぎ合わせて、「ハイ、終了」としてしまう。
 情報は情報でよい。そこに考察を加えなければ何にもならない。ところがその「考察」までも他人の結論を引っ張ってきて、貼り付ける。そこにあるのは切り張り作業だけ。これじゃ思索は深まらない。右にあるもの(情報)を左 (自分のところ?)に持ってきただけのこと。
 ネットを眺めるだけで「何でもわかった」つもりになってしまう危険性を常に意識しなければいけないと思う。あえて情報を遮断することも必要だろう。
 とりあえずは、インターネットを覗いたら、それと同じ時間を、思索に耽ることに使うのはどうだろうか。座ってじっと考えるばかりが思索ではない、単純作業をしながら、あれこれ考える。
 ちょっと脱線。昔は単純作業が多かった(今はそれを機械がしている)。針仕事などしている間にいろいろなことを考えたと思う。昔の人は(テレビなど見ずに)あれこれよく考える時間があっただろう。
 昔からよくある思索法が「散歩」。健康にも、目にもいいね。現代人は画面を見すぎだよ。
 散歩できない人には電車の中がある。よく本など読んでいる人がいるが、目によくないよ。外の景色でも眺めながら、ぼけっとあれこれ考えるのがいいんじゃないの。これは決して時間の無駄遣いと思わない。「目的なく」ものを考えるという時間が少なすぎるよね。

文章家としてのスヴェーデンボリ(その1)

 1957年1月、John Chadwickがスヴェーデンボリ協会に与えた論説を以下に紹介します。旅行記、講解、会話体など、スヴェーデンボリのいろいろな文体を論じています。題名は「SWEDENBORG AS A STYLIST」(文章家としてのスヴェーデンボリ)。
        * * * * *
 ラテン語は伝達手段としていまだに生きている。ほんの数ヶ月前、私はスペインの学者から手紙を受け取り、その同じ言語〔ラテン語〕で返事をした。この言語は、西ヨーロッパの現代言語がようやく国際的な地位を獲得した時の18世紀を越えて生きた。ラテン語の散文体の歴史は、その最初の大作家キケロまで、途切れることなくさかのぼる。西ヨーロッパ帝国は5世紀に滅んだが、その言語の失墜が伴うことはなかった。ラテン語は文筆上の言葉として用いられて残り、これによって人々は教育されたので、かつてローマ帝国の支配下にあったすべての地で、伝達も会話もできた。ローマカトリック教会はこれを公式言語として保ち、今日もそうである。ルネッサンス期も乗り越えた。エラスムスはキケロの流儀によってラテン語を新たに活気づかせ、こうして科学的改革の手段となり、これは私たちの機械化文明へと続いた。これは大学の言語であった――古くからの二つのイギリスの大学ではいまだに公式の会議で用いる――その使用は、人や書籍にとって、全文明社会を旅するためのパスポートであった。
 私たちは、新教会の「著作」の媒体としてラテン語の使用に、神の摂理を認める、と主張してよい。国民的な偏向、科学的先入観、長く確立された神学的で形而上学の語彙から、〔ラテン語は〕比較的に自由で普遍的であることを指摘してよい。もし神的な目的のために、この使用が定められたとするなら、これをいまもなお用いないのは残念である。しかし20世紀ではこう言うのはむだかもしれない、平均的な読者と「著作」の文字の間には障害があるどころではないからである。それでも、原典を忘れてしまったローマ教会のようにではなく、私はあなたがたに、スヴェーデンボリを彼自身の言語でもっと十分に理解できるよう学び、私たち自身の言語に翻訳することに全力を尽すことを望む。
 しかし、スヴェーデンボリに選択の余地はなかった。これは重要な書物がすでにフランス語、ドイツ語、英語で現われていたことを否定するものではない。18世紀では、〔ラテン語は〕全ヨーロッパで読まれることを意図した書物に適切なただ一つの言語だった。こうして、私たちが計り知ることのできない摂理についての議論を脇に置くなら、ラテン語の選択は、歴史的な状況を考慮するとき、合理的で、適切であった。
 早くからラテン語を教わったスヴェーデンボリは、それを個人的なメモに使うほどにも完全に吸収した。その使用頻度は決してとどこおることなく、彼の語彙は膨大である。彼はときに『霊界体験記』のノートにスウェーデン語を用いたが、これはラテン語に同等のものがない何かを、さらに正確に記録するためであって、決してラテン語の表現を忘れたからではなかった。(続く)

文章家としてのスヴェーデンボリ(その2)

 私はスヴェーデンボリの文体について書いている。文体が「著作」の最も外なる部分であること、そして文芸作品としてのその是非が、そこに含まれる真理に少しも関連しないことは言うまでもない。私たちの最も熱狂的な〔スヴェーデンボリの信奉〕者でさえ、「著作」は聖書に似た、偉大な文芸作品であるとは主張できない。しかし、純粋に外面的な形式の研究から学べるものもいくらかある。もちろん、このことを完全に味わうにはラテン語の知識が本質的要素となるが、私は、英語で十分に、スヴェーデンボリが用いた広範な文体から引き出して、あなたがたに示すことができると思っている。
 彼の文体は一様かつ不変のものではない。忙しい筆による無頓着なメモから、注意深い書き手による最も練られた解釈にまで変動する。この範囲の中で、私は、明確に区切られたものでなく、有効な大まかな分類として、四つの文体に分ける。
 第一に、日記の文体――この中にスヴェーデンボリは、日々の自分の考えを、最終的な草稿を書く前の自分の著述計画を書き留めた。これは『霊界体験記』やその他の多くの遺稿の文体である。しばしば散漫で、あいまいである。多くの文は、単なる小記事、見出しである。スヴェーデンボリがその後に出版した作品で、再び用いた個所から、私たちは、どのように彼がその表現に、より明確さと洗練さを加えて、書き直したか見ることができる。納得できるような翻訳をする困難さはよく知られている――翻訳者は、しばしば遠慮なく原文に現われる誤った外観に対し、それを結びつける言葉を挿入し、文を言い換えることに追われる。
 第二は解説の文体である。ここには日記の直接性も、注意深く構成された散文の洗練さもない。これは、相互参照や、根拠を労を惜しまず整理したものの退屈な繰り返しである。私はこれが無用のものと言うつもりではない――最も重要である、しかし卓越した文学ではない。私たちは、この常なる同じ形式の繰り返しの背後に、その目的を知ることができる――これは意味を正確にするため、計画的に意図された文体として下位のものである。科学的な文体であり、ユークリッドの『原論』を思い出させる。
 例を示す必要はない。『天界の秘義』10,837番の大部分は、メモラビリアによる歓迎すべき中断を別として、ときどき脱線するが、一本調子でこの方法をとっている。