原典講読『真のキリスト教』665(直訳[6]、[7])

[6.] His auditis diximus ad illos, "Loquimini lingua Hippocratica et Galeniana; [6] これらで聞いて、私たちは彼らに言った、「あなたがたはピッポクラーテス☆とガレノス☆の言葉を話す。
ピッポクラーテスは紀元前45世紀のギリシアの医師。
ガレノスは2世紀のギリシアの医師。
illa nobis sunt graeca, non intelligimus; それらは私たちにギリシアのもの(ギリシア語)である☆、私たちは理解しない。
英語に「It’s Greek to me.」という表現があります。直訳すれば「それは私にギリシア語である」意訳すれば「それは私にはまったくちんぷんかんぷんだ」となります。この表現がラテン語にもあるのでしょうか? わざわざギリシアの「医師」を持ち出しているところから判断すれば、ありそうです。
すなわち、「あなたがたは専門用語ばかり使って話すので、まったくわからない」。
nos non quaesivimus de his morbis, sed de conscientia quae est solius mentis." 私たちは、これらの病気について質問しなかった、しかし、良心について、それはただ心だけのものである」。
Et dixerunt, "Morbi mentis et morbi capitis sunt iidem, et hi ascendunt ex corpore; また彼らは言った、「身体の病気と頭の病気は同じものである、またこれらは身体からのぼる。
cohaerent enim sicut duae mansiones unius domus, inter quas est scala, per quam fit ascensus et descensus, quare novimus, quod status mentis indivulse pendeat a statu corporis; というのは、一つの家の中の二つの階(住まい)ように密着するから、心の状態は身体の状態から分離できずに依存するから。
sed nos gravedines seu cephalalgias illas (quas captavimus vos intelligere per conscientias), sanavimus, quasdam per emplastra et vesicatoria, quasdam per infusa et emulsa, et quasdam per condimenta, et per anodyna." しかし、私たちはそれら重苦しさ(圧迫感)と頭痛を(それらを私たちは把握する、あなたがたが良心によって理解すること)、私たちは治療する、あるものを膏剤と発庖剤によって、あるものを注ぎ込むものと乳液(乳剤)によって、またあるものを薬味によって、またあるものを鎮痛薬によって」。
[7.] Cum ergo similia adhuc audivimus ab illis, avertimus nos, et convertimus ad clericos, et diximus, "Vos scitis quid conscientia; [7] そのとき、私たちは彼らからさらに同様のものを聞いた、それゆえ、私たちは☆向きを変えた(背けた)、また聖職者へ向き変えた、また私たちは言った、「あなたがたは知っている、何が良心か。
nos,とあるべきところ、原文ではoでした。
dicite ergo, et instruite praesentes." それゆえに、言え、また居合わせる者に教えよ」。
Et responderunt, "Quid conscientia, novimus et non novimus. また彼らは答えた、「何が良心か、私たちは知っている、また知らない。
Credidimus quod sit contritio, quae praecedit electionem; 私たちは悔恨(痛悔)あることを信じる、それは選びに先行する。
hoc est, momentum quo homo donatur fide, per quam ei novum cor et novus spiritus fit, ac regeneratur. すなわち、瞬間、そのとき人間は信仰を与えられる、それによって彼に新しい心と新しい霊が生じる、そして再生される。
Sed appercepimus quod contritio illa paucis obvenerit, solum quibusdam pavor et inde anxietas pro igne infernali, et vix alicui pro peccatis et inde justa ira Dei. しかし、私たちは認める、その悔恨(痛悔)がわずかな者に生じること、地獄の火のために恐怖とここからの不安〔がある〕者にだけ、またほとんどある者にない、罪とここからの神の正しい怒りのために。
Sed illos nos confessionarii sanavimus per evangelium quod Christus per passionem crucis sustulerit damnationem, et sic ignem infernalem exstinxerit, et aperuerit caelum illis qui fide, cui imputatio meriti Filii Dei inscripta est, beantur. しかし、彼ら懺悔者(告白者)私たちは福音によって癒した、キリストが十字架の受難によって断罪を取り去ったこと、またこのように地獄の火を消した、また彼らに天界を開けた、その者は信仰で〔祝福される〕、その者に神の御子の功績の転嫁が刻まれている、祝福される。
Praeterea dantur conscientiosi ex varia religione, tam vera quam fanatica, qui sibi scrupulos faciunt in rebus salutis, non modo essentialibus, sed etiam formalibus, et quoque in adiaphoris. さらに、いろいろな宗教からの良心的な者が存在する、真理のものも狂信的なものも、その者は自分自身に救いの事柄の中で微量(異議)をつくる、本質的なものだけでなく、形式的なものでもまた、そしてまた無関心な事柄の中で。
Quare, ut supra diximus, novimus quod sit conscientia, sed quid et qualis vera, quae omnino spiritualis erit, non novimus. それゆえ、上に私たちが言ったように、私たちは良心があることを知っている、しかし、真実のもの(真の良心)が何、またどんなものか、それらはまったくの霊的なものである(未来☆)、私たちは知らない。
未来時制なので、それらを扱うとすれば、まったく霊的な問題と「なってしまう」ので扱いきれない、というニュアンスでしょうか、あるいは「当然の推量」を意味するので「~にちがいない」といったニュアンスでしょうか。(後者でしょう)
 
@1 senserit pro “sentiverit” 注1 sentiverit」の代わりにsenserit
@2 consistunt pro “consistit” 注2 consistit」の代わりにconsistunt

原典講読『真のキリスト教』665(訳文)

(3) 訳文
665. この後、私たちの直接に上方にあった天界から、天使からの声が聞こえた、言って、「(あなたがたは)こに上れ、そして身体に関してまだ自然界の中にいるあなたがたからの一人に私たちは質問する、そこでは、〝良心〟について何を知っているか」。
 また、私たちは上った、また入った後、ある賢明な者(たち)に出会った、また私に質問した、「あなたの世界の中で、〔彼らは〕良心について何を知っているか?」。
 また、私は答えた、「もしよろしかったら、私たちは降る、また私たちは平信徒からまた聖職者から賢明な者と信じられている数を呼び集める、また私たちはあなたがたの下の鉛直線の下に立ち、そして質問する。また、あなたがたはそのように何を答えるか、あなたがたの耳で聞くでしょう」。
 また、そのように行なわれた。選ばれた者からの一人がラッパを取った、またそれを南、北、東、また西へ鳴らした、またその時、数分の後、ほとんどスタディオン〔約一八五メートル〕〔四方〕の空間を満たすような、このように多くの者がいた〔集まった〕。
しかし、上からの天使たちがそれらからのすべての者を四つの集団の中に配列させた、一つは政治家から、もう一つは学者から、第三のものは医者から、また第四のものは聖職者から構成された。
 そのように配列された者たちに、私たちは言った、「(あなたがたは)せ、あなたがたが呼び集められたこと。理由がある、その者は私たちの正反対の上方にいる天使たちが、知ることを熱望しているからである、あなたがたはその中に以前いた世で、良心について何を考えたか、またここから、何を今でもそれについて考えているか、それらのものについて以前の観念を今でも心に留めている。というのは、天使たちは、良心について世の中の思考は、失なわれた思考の中にある、と話しているからである」。
 [2] この後、私たちは、最初に政治家から構成された集団へ向け、またもし喜びなら、良心について。何を考えたか、また何をここから今でも考えているか、心から言うように求めた。
 これに彼らは、一つ、その後にもう一つと〔=次らか次へと〕答えた。それらの答えは一つの中に集められた、良心が自分自身を知ることである以外の、そのように、何を意図したか、考えた、行なったか、また話したか気づいていること以外の何らかのものを知らないことである。
 しかし、私は彼らに言った、「私たちは、良心の言葉の語源について質問しなかった、しかし、良心について〔質問した〕」。
 また、彼らは答えた、「良心とは、名誉または富の、そしてまた、それら二つのための名声の危険の予想された恐れからの苦痛(悲しみ)以外の他の何か。
 しかし、その苦痛(悲しみ)は、宴会によって、また高貴な(=上等の)インの杯によって、また、ウェヌスとその少年の遊びについての会話によって☆1追い払われる」。
 [3] これに私たちは言った、「あなたがたは冗談を言っている。言え、よろしかったら、あなたがたのだれかが、感じているかどうか、何らかの不安が別の場所からか?」
 彼らは答えた、「別の場所から、とは何か? 世界全部は劇場のようではないのか? その上で、それぞれの者が、、喜劇役者のように自分の〔舞台〕上で自分の場面を演じる。
 私たちは自分の欲望から、だれでも、ある者をごまかし(あざけり)で、ある者をお世辞(へつらい)で、ある者をたくらみ(策略)で、ある者を友情の見せかけ(ふり)で、ある者を誠実の作りごとで、またある者を他の政治的な技巧(巧妙さ)で、誘惑で欺き、罠にかける――ここから私たちに心の苦痛(悲しみ)は何もない、しかし、これに反して、快活さと喜びが〔ある〕、それらを拡がった胸で静かにまたそれでも十分に吐き出す(発散させる)
 私たちは、私たちの仲間からのだれかからのある者を、彼らを代わる代わる、心臓と胸の〔痛みの〕ような、またここから心の収縮のような不安と悩みが出てくることを聞いた。しかし、これらの者について薬剤師に質問した時、教えられた、胃の中の消化されていないものから起こるうつ病の(ゆうつな)体液から、または脾臓の病気の状態からであること。しかし、これらの者からのある者たちについて私たちは、自分の以前の快活さを、薬によって回復した、と聞いた」。
 [4] これをたちが聞いた後、私たちは学者から構成された集団へ向きを変えた、それらの者の間にもまた技術で熟練した多くの自然科学者☆2がいた。またらにしかけて、私たちはった、「あなたがたは、知識専念したまたここからあなたがたは知恵託宣者であるとじているあなたがたはもしびなら、何良心?」
 またらはえた、「この目的(意図)は何どんなものか
 確かに、私たちはる者のもとに、身体の胃の領域だけでなく、しかし、心の住まいもまた悩ます悲しみ、悲哀また不安があることを聞いたというのは、私たちは、二つのがそれらのまいであることをじているからまたこれらは繊維いているもの(容器)から構成されているのである苦い体液であること、それがそこに繊維をつねりかみ、むしばみ、またこのように心の思考のスフェアをそのように、何らかの楽しみの中へ、変化から、注ぎ出すことができないように締めつける。ここから、人間つの事柄だけに心を向けることが生じる、そのことからそれらの繊維が、伸張性と弾力で滅びる、ここからそれらの頑固さと硬直が〔生じる〕。それらから霊魂精気☆3の不規則な運動が起こり、それは医者により失調症と呼ばれ、そしてまたその機能での欠陥がそれが卒倒(めまい)ばれる
 一言でいえば、心その時、地獄の群れにとりつかれたように座り、自分自身をここやそこへと、鍵が取り付けられた車輪ができるよりも、また砂州の上にしがみつく船ができるよりも、さらに向きを変えることもできない。
 心のこのようなものとここからの胸の悩みは彼らのもとの支配している愛が損失を被るそれらにに起こる、それはもし攻撃されるなら、脳の繊維を縮ませ)、またその収縮は、心が自由に広がらないようにさまたげ、そしていろいろな形の中で歓喜をつかまえる。
この危機にいるときこれらのそれぞれのものを自分気質にしたがっていろいろな種類幻想、狂気また精神錯乱、また宗教的なものの中でのある種の狂気の襲撃が入それをこれらの者は良心の呵責と呼ぶ」。
 [5] この後、私たちは医者たちから構成された第三集団きをけた、それらの間に外科医と薬剤師もいた。また、私たちはった、「あなたがたはおそらく、何良心、知っているそれは心臓実質組織またここから土台となっている上腹部下腹部の領域を襲。悩ます苦痛なのか〔知っている〕。または、ほかの何かなのか?」
 また、これらの者は答えた、「良心は、このような苦痛でしかない。私たちは他の者よりもその起源を知っている、というのは、、それは身体の器官、そしてまた頭の器官を、したがって、心もまた攻撃する偶発的な病気であるから、これ〔心〕は、クモが自分のクモの巣の糸の中心にいて、それによって同様に走り出、また突進するように、脳の器官の中に座るから。これらの病気を私たちは器官の病気と呼ぶ、またそれは、それらの〔病気が〕時々、戻る〔とき〕、慢性のもの〔と呼ぶ〕。
 しかし、良心の苦痛によって、私たちの前で病気(不健康)によって述べられているようなこのような苦痛は、心気症の病気以外の他のものではない、それは最初に脾臓を、また第二位に膵(すい)臓と腸間膜のその本質的な機能で奪う。ここから、胃の病気が、それらから体液の不健康状態(悪化)が導かれる。というのは、胃の開き口(門、孔)まわりに圧迫が生じるからであり、それは胸やけと名づけられる。これらから、黒い、黄色のまたは緑の胆汁のぎっしり詰まった体液が引き出され、それらから毛細管と呼ばれる血の最小の管がふさがれ、そこから悪液質(不健康状態、カヘキシー)、委縮、また癒合、そしてまた、トロリとした粘液(リンパ液)からの擬似肺炎、そして膿漿のようなリンパ、また血の(全部の)大部分の中でむしばむ。
 さらにまた同様のものが、血とその漿液(血清)の中の通過から、蓄膿(症)の溶解、身体の中の膿瘍と膿瘍から、流れ出る。その血が頸動脈を通って頭の中に上がるとき、脳の髄、皮質と(脳)膜が浪費され、むしばまれ、かみつかれ、またこのように苦痛をかきたてられ、それは良心の〔呵責〕と呼ばれる」。
 [6] これらを聞いて、私たちは彼らに言った、「あなたがたはピッポクラーテス☆4とガレノス☆5の言葉を話す。それらは私たちにギリシア語であり☆6、私たちは理解しない。私たちは、これらの病気について質問しなかった、しかし、ただ心だけのものである良心について〔質問した〕」。
 また彼らは言った、「身体の病気と頭の病気は同じものである、またこれらは身体からのぼる。というのは、一つの家の中の二つの階ように密着し、心の状態は身体の状態から分離できずに依存するから。しかし、私たちはそれら重苦しさ(圧迫感)と頭痛を(それらを私たちは、あなたがたが良心によって理解するものである、と把握しているが)、私たちは、あるものを膏剤と発庖剤によって、あるものを注ぎ込むものと乳液(乳剤)によって、またあるものを薬味によって、またあるものを鎮痛薬によって治療する」。
 [7] そのとき、私たちは彼らからさらに同様のものを聞いた、それゆえ、私たちは身を背け、聖職者へ向き変えた、また私たちは言った、「あなたがたは、何が良心か知っている。それゆえ、言え、また居合わせる者に教えよ」。
 また彼らは答えた、「何が良心か、私たちは知っているし、知らない。
 私たちは悔恨あることを信じる、それは選びに先行する。すなわち、その瞬間、人間は信仰を与えられ、それによって彼に新しい心と新しい霊が生じ、そして再生される。
 しかし、私たちは認める、その悔恨が地獄の火のために恐怖とここからの不安〔がある〕わずかな者にだけ生じること、またほとんど者は罪とここからの神の正しい怒りのためではないこと。
 しかし、彼ら懺悔者(告白者)私たちは、キリストが十字架の受難によって断罪を取り去ったこと、またこのように地獄の火を消したという福音によって癒した、また彼らに天界を開けた、その者は神の御子の功績の転嫁が刻まれている信仰で祝福される。
 さらに、真理のものも狂信的なものも、いろいろな宗教からの良心的な者が存在する、その者は自分自身に救いの事柄の中で、本質的なものだけでなく、形式的なものでもまた、そしてまた無関心な事柄の中でささいなものをつくっている。
 それゆえ、前に私たちが言ったように、私たちは良心があることを知っている、しかし、真実のもの(真の良心)が何か、またどんなものか、それらはまったくの霊的なものにちがいないので、私たちは知らない。
 
1 ウェヌス(ビーナス)は美と愛の女神であり、「性的活動、愛欲」の意味があります。「その少年」はクピドー(Cupido、キューピッド)のことでしょう、すなわち、愛欲、恋愛を話すことです。
2 ここの原語physiceは「物理学者」の意味がありますが(『秘義』6057:1)がここでは特定の学問としないでもっと一般的に「自然哲学」(『霊界体験記』2299の見出し参照)または、このように「自然科学者」あるいは「唯物論者」とするのがよいようです。
3 霊魂精気は脳髄に生じ神経を通って全身に伝えられるとされていた精気、魂と外界をつなぐ役を果たすと考えられていた。
4 ピッポクラーテスは紀元前45世紀のギリシアの医師。
5 ガレノスは2世紀のギリシアの医師。
6 英語に「It’s Greek to me.」という表現があります。直訳すれば「それは私にギリシア語である」意訳すれば「それは私にはまったくちんぷんかんぷんだ」となります。この表現がラテン語にもあるのでしょうか? わざわざギリシアの「医師」を持ち出しているところから判断すれば、ありそうです。すなわち、「あなたがたは専門用語ばかり使って話すので、まったくわからない」。

原典講読『真のキリスト教』666(原文と直訳[2]まで)

(1) 原文
666. Haec omnia, quae a quatuor coetibus edicta sunt, angeli, qui supra illos erant, exaudiverunt; et dixerunt inter se, "Percipimus quod non aliquis in Christianismo sciat quid conscientia; quare demittemus ex nobis unum qui instruet."
Et actutum tunc in medio illorum adstitit angelus in veste alba, circum cujus caput apparuit cinctura lucida, in qua minutae stellae erant. Et hic allocutus quatuor coetus dixit. "Audivimus in caelo quod in ordine protuleritis sententias de conscientia, ac autumaveritis omnes quod sit aliquis dolor mentis, qui gravedine infestat caput et inde corpus, aut corpus et inde caput. Sed conscientia in se spectata non est aliquis dolor, sed est spiritualis volentia faciendi secundum illa quae religionis et fidei sunt. Inde est, quod illi qui conscientia gaudent, in tranquillitate pacis et in beatitudine interna sint cum faciunt secundum conscientiam, et in quadam intranquilitate dum faciunt contra illam; dolor autem mentis, quem vos credidistis esse [1]conscientiam, non est conscientia, sed est tentatio, quae est pugna spiritus et carnis; et haec dum spiritualis est, venam trahit ex conscientia; at si modo est naturalis, originem trahit ex morbis, quos medici nuper recensuerunt."
[2.] "Quid autem conscientia, illustrari potest per exampla: sacerdos, cui est spiritualis volentia docendi vera propter finem ut grex ejus salvetur, ille conscientiam habet; at qui [docet] propter quamcunque aliam causam ut finem, ille conscientiam non habet. Judex, qui unice spectat justitiam, et hanc cum judicio facit, ille conscientiam habet; at qui primario spectat munus, amicitiam et favorem, ille conscientiam non habet. Adhuc, omnis homo qui alterius bona apud se habet, nesciente altero, et sic absque timore legis, ac jacturae honoris et famae, potest lucrari illa, si usque alteri reddit, quia sua non sunt, ille conscientiam habet, nam facit justum propter justum. [2]Sic quoque, qui potest venire ad functionem, sed scit, quod alter, qui etiam ambit, societati utilior sit, ille si cedit alteri locum propter bonum societatis, is bonam conscientiam habet; similiter in reliquis. [3.] Omnes illi qui conscientiam habent, ex corde loquuntur quae loquuntur, et ex corde faciunt quae faciunt; habent enim illi mentem non divisam, nam secundum id quod intelligunt et credunt verum et bonum esse, loquuntur et faciunt. Exinde sequitur quod conscientia perfectior possit dari apud illos, qui in veris fidei sunt prae aliis, et qui in clara perceptione prae aliis, quam apud illos qui minus illustrati sunt, et in obscura perceptione. In vera conscientia est ipsa vita spiritualis hominis, est enim ibi ejus fides conjuncta charitati; quapropter facere ex conscientia est illis facere ex vita sua spirituali; et facere contra conscientiam, est illis facere contra illam suam vitam. Praeterea, quis non ex communi sermone scit quid conscientia? ut cum dicitur de aliquot, "Hic conscientiam habet," nonne etiam tunc intelligitur, hic justus homo est? ac vicissim cum dicitur de aliquot, "Hic non conscientiam habet," nonne tunc etiam intelligitur, hic injustus est?"
[4.] Angelus dum haec edixerat, subito sublatus est in suum caelum, et quatuor coetus coiverunt in unum, et postquam aliquantum inter se collocuti sunt de effatus angeli, ecce interum divisi sunt in quatuor coetus, sed in alios quam prius; in unum ubi illi qui comprehenderunt verba angeli, et assenserunt; in alterum ubi illi, qui non comprehenderunt, sed usque faverunt; in tertium ubi illi, qui non voluerunt comprehendere, dicentes "Quid nobis cum conscientia?" et in quartum ubi illi qui irridebant, dicentes, "Quid conscientia nisi flatus?" Et vidi illos secedentes a se invicem, et tunc duos coetus priores abeuntes ad dextrum, et duos coetus posteriores ad sinistrum; et hos descendentes, illos autem ascendentes.
 
   @1 conscientiam (cum Doctore Tafel,) pro “conscientia” @2 Sic pro “Sit”
 
(2) 直訳
666. Haec omnia, quae a quatuor coetibus edicta sunt, angeli, qui supra illos erant, exaudiverunt; これらすべてを、それらは四つの集団から言い表わされた、天使たちは、その者は彼らの上にいた、聞き取った。
et dixerunt inter se, "Percipimus quod non aliquis in Christianismo sciat quid conscientia; また自分たちの間で言った、「私たちは知覚する、キリスト教界の中のだれかが何が良心か知らないこと。
quare demittemus ex nobis unum qui instruet." それゆえ、私たちは私たちからある者を降ろす、その者が教える」。
Et actutum tunc in medio illorum adstitit angelus in veste alba, circum cujus caput apparuit cinctura lucida, in qua minutae stellae erant. また直ちに、その時、彼らの真ん中に天使が(そばに)立った、白い衣服で、その頭の周りに輝く帯が見られた、その中に小さな星があった。
Et hic allocutus quatuor coetus dixit. またこの者は四つの集団に話しかけて言った。
"Audivimus in caelo quod in ordine protuleritis sententias de conscientia, ac autumaveritis omnes quod sit aliquis dolor mentis, qui gravedine infestat caput et inde corpus, aut corpus et inde caput. 「私たちは天界の中で聞いた、順序の中であなたがたが表明した(profero)こと、良心について、そしてあなたがたがすべてのもの思った、何らかの心の苦痛であること、それは重苦しさで頭とここから身体を攻撃する(悩ます)、または身体とここから頭を。
Sed conscientia in se spectata non est aliquis dolor, sed est spiritualis volentia faciendi secundum illa quae religionis et fidei sunt. しかし、本質的に見られた良心は何らかの苦痛ではない、しかしそれらにしたがって行なおうとする霊的な意志である、それらは宗教と信仰のものである。
Inde est, quod illi qui conscientia gaudent, in tranquillitate pacis et in beatitudine interna sint cum faciunt secundum conscientiam, et in quadam intranquilitate dum faciunt contra illam; ここからである、彼らは、その者は良心を授けられている、良心にしたがって行なうとき、平和の静けさと内なる幸福(の状態)の中にいる、またそれに反して行なうとき、ある種の安らぎの欠如の中に。
dolor autem mentis, quem vos credidistis esse [1]conscientiam, non est conscientia, sed est tentatio, quae est pugna spiritus et carnis; けれども、心の苦痛は、それをあなたがたは良心であると信じている、良心ではない、しかし試練である、それは霊と肉の戦いである。
et haec dum spiritualis est, venam trahit ex conscientia; またこれが霊的である時、流れ(水脈)を良心から引き寄せる(得る)
at si modo est naturalis, originem trahit ex morbis, quos medici nuper recensuerunt." しかし、もし単にし全的であるなら、起源を病気から引き寄せる(得る)、それらを医師たちは近ごろ列挙した。
[2.] "Quid autem conscientia, illustrari potest per exampla: [2] 「けれども、何が良心か、例によって説明されることができる――
sacerdos, cui est spiritualis volentia docendi vera propter finem ut grex ejus salvetur, ille conscientiam habet; 聖職者は、その者に教えようとする霊的な意志がある、彼の群れが救われるようにとの目的のために真理を、彼は良心を持っている。
at qui [docet] propter quamcunque aliam causam ut finem, ille conscientiam non habet. しかし、目的としてどんなものでも他の理由のために(教える)者は、彼は良心を持っていない。
Judex, qui unice spectat justitiam, et hanc cum judicio facit, ille conscientiam habet; 裁判官は、その者はひとえに公正(正義)を眺める、またこれを思慮分別をもって行なう、彼は良心を持っている。
at qui primario spectat munus, amicitiam et favorem, ille conscientiam non habet. しかし、最初に(おもに)贈り物(わいろ)友情また好意(えこひいき)を眺める者は、彼は良心を持っていない。
Adhuc, omnis homo qui alterius bona apud se habet, nesciente altero, et sic absque timore legis, ac jacturae honoris et famae, potest lucrari illa, si usque alteri reddit, quia sua non sunt, ille conscientiam habet, nam facit justum propter justum. さらに、すべての人間は、その者は他の者の財産を自分自身のもとに持っている、他の者に知られないで、またこのように法律〔からの罰〕の恐れなしに、そして名誉と名声の損失、それをもうけることができる、もしそれでも他の者に戻すなら、自分のものでないので、彼は良心を持っている、なぜなら、公正のために公正をおこなうからである。
[2]Sic quoque, qui potest venire ad functionem, sed scit, quod alter, qui etiam ambit, societati utilior sit, ille si cedit alteri locum propter bonum societatis, is bonam conscientiam habet; このようにまた、その者は役目の中にやって来ることができる、しかし知っている、他の者が、その者もまた得ようとする、社会にさらに役立つ、彼がもし社会の善のために他の者に場所を譲るなら、彼は良心の善を持っている。
similiter in reliquis. 他のものの中で同様〔である〕。
 
◎『真のキリスト教(上巻)(スヴェーデンボリ出版)の刊行について
 3月より取り組んでいた本書(1章~第6)は現在、その原稿を印刷会社に送ってあります。今後、校正を3度してから、印刷・整本となります。その出版予定日は1015日です(または18日となるかもしれません、この日に出版記念講演を予定しているからです)。記念講演(私がします)などについてその詳細は会員の皆様にSPSC会報でお知らせします。
 なお下巻にも取り組み始め、これは来年3月の刊行を予定しています(この『真のキリスト教』の原典講読は本年度中に終わります)

原典講読『真のキリスト教』666(直訳[3],[4]と訳文)

[3.] Omnes illi qui conscientiam habent, ex corde loquuntur quae loquuntur, et ex corde faciunt quae faciunt; [3] すべての、彼らは、その良心っている、心から、それを話す、また心から行なう、それを行なう。
habent enim illi mentem non divisam, nam secundum id quod intelligunt et credunt verum et bonum esse, loquuntur et faciunt. というのは、彼らは分割された心を持たないから、なぜなら、それにしたがって、それを真理と善を理解し、信じる、話し、行なうからである。
Exinde sequitur quod conscientia perfectior possit dari apud illos, qui in veris fidei sunt prae aliis, et qui in clara perceptione prae aliis, quam apud illos qui minus illustrati sunt, et in obscura perceptione. このゆえにいえる、彼らのもとにさらに完全な良心が存在することができる、その者は他の者よりも信仰の真理の中にいる、またその者は他の者よりも明るい知覚の中に、彼らのもとよりも、その者はより少なく照らされている、また暗い(不明瞭な)覚の中に〔いる〕。
In vera conscientia est ipsa vita spiritualis hominis, est enim ibi ejus fides conjuncta charitati; 真良心にある、人間霊的ないのちそのものはというのはそこに信仰仁愛結合しているから
quapropter facere ex conscientia est illis facere ex vita sua spirituali; そのために、良心から行なうことは、〔良心を持つ〕彼らに〔とって〕自分の霊的ないのちから行なうことである。
et facere contra conscientiam, est illis facere contra illam suam vitam. また良心に反して行なうことは、彼らに自分のそのいのちに反して行なうことである。
Praeterea, quis non ex communi sermone scit quid conscientia? さらに、だれが通常の会話から知らないか、何が良心か?
ut cum dicitur de aliquot, "Hic conscientiam habet," nonne etiam tunc intelligitur, hic justus homo est?  例えば、いくつかのことについて言われるとき、「この者は良心を持っている」、その時、さらにまた意味されないか、この者が正しい(公正な)人間である?
ac vicissim cum dicitur de aliquot, "Hic non conscientiam habet," nonne tunc etiam intelligitur, hic injustus est?" そして逆に、いくつかのことについて言われるとき、「この者は良心を持っていない」、その時、さらにまた意味されないか、この者が不正な(不公平な)人間である?
[4.] Angelus dum haec edixerat, subito sublatus est in suum caelum, et quatuor coetus coiverunt in unum, et postquam aliquantum inter se collocuti sunt de effatus angeli, ecce interum divisi sunt in quatuor coetus, sed in alios quam prius; [4] 天使は、これらを言い表わした時、急に、自分の天界の中に上げられた、また四つの集団は一つの中にいっしょになった、またいくらか後に、自分たちの間で天使の発言について話した、見よ、再び☆四つの集団に分かれた、しかし前のものよりも他のものの中に。
ここに誤植があります、interumでなくiterumです。初版は正しいです。interumが何だかわからないで、おかしいな、と思って英訳書を見ているうちに、気づきました。
なお、長島訳はこれを「内部で分離が始まり……」と訳しています。「始まる」は余計ですし、なによりもinterumなどという言葉は存在しないのに勝手に「内部で」としています。でたらめです。
in unum ubi illi qui comprehenderunt verba angeli, et assenserunt; 一つの場所の中に、彼らは、その者は天使の言葉を把握した、また同意した。
in alterum ubi illi, qui non comprehenderunt, sed usque faverunt; もう一つの場所の中に、彼らは、その者は把握しなかった、しかしそれでも好感をもった(賛同した)
in tertium ubi illi, qui non voluerunt comprehendere, dicentes "Quid nobis cum conscientia?" 第三の場所の中に、彼らは、その者は把握することを欲しなかった、言って、「何が私たちに〔関係あるのか〕良心に?」
et in quartum ubi illi qui irridebant, dicentes, "Quid conscientia nisi flatus?" また第四の場所の中に、彼らは、その者はあざけった、言って、「何が良心か? 吹くこと(息)☆でないなら」。
ここではこれは胃腸内にたまったガスを意味します、それで「げっぷ」または「おなら」です。
Et vidi illos secedentes a se invicem, et tunc duos coetus priores abeuntes ad dextrum, et duos coetus posteriores ad sinistrum; また私は彼らを見た、自分たちからお互いに去っている(離れている)、またその時、前の二つの集団が右へ去っている、また後の二つの集団は左へ。
et hos descendentes, illos autem ascendentes. またこれらの者(後者)は降っている者たち、それらの者(前者)はのぼっている者たち。
 
@1 conscientiam (cum Doctore Tafel,) pro “conscientia” 注1 conscientia」の代わりにconscientiam(ターフェル博士にしたがって)
@2 Sic pro “Sit” 注2 Sit」の代わりにSic
 
(3) 訳文
666. 四つの集団から言い表わされたこれらすべてを、彼らの上にいた天使たちは聞き取った。また自分たちの間で言った、「私たちは、キリスト教界の中のだれも何が良心か知らないことを知覚する。それゆえ、私たちは私たちからある者を降ろす、その者が教える」。
 また直ちに、その時、彼らの真ん中に天使、白い衣服でった、その頭の周りに輝く帯が見られ、その中に小さな星があった。
 またこの者は四つの集団に話しかけて言った。
「私たちは天界の中で聞いた、あなたがたが順に良心について表明したこと、そしてあなたがたがすべてのものを、何らかの心の苦痛であること、それは重苦しさで頭とここから身体を、または身体とここから頭を悩ますものであると思ったことを。
 しかし、本質的に見られた良心は何らかの苦痛ではなく、宗教と信仰のものであるそれらにしたがって行なおうとする霊的な意志である。
 ここから、良心を授けられている者は、良心にしたがって行なうとき、平和の静けさと内なる幸福(の状態)の中に、またそれに反して行なうとき、ある種の安らぎの欠如の中にいる。けれども、あなたがたは良心であると信じている心の苦痛は、良心ではなく、試練であり、それは霊と肉の戦いである。またこれが霊的である時、水脈を良心から引き寄せる(得る)。しかし、もし単に自然的であるなら、起源を医師たちがここで列挙した病気から引き寄せる(得る)」。
 [2] 「けれども、何が良心か、例によって説明されることができる――
自分の群れが救われるようにとの目的のために真理を教えようとする霊的な意志がある聖職者は、良心を持っている。しかし、目的としてどんなものでも他の理由のために(教える)者は、良心を持っていない。
 ひとえに公正(正義)を眺め、またこれを思慮分別をもって行なう裁判官は、良心を持っている。しかし、最初にわいろ、友情また好意を眺める者は、彼は良心を持っていない。
 さらに、他の者に知られないで、またこのように法律〔からの罰〕、そして名誉と名声の損失の恐れなしに、他の者の財産を自分自身のもとに持っていて、それをもうけることができるすべての人間は、もしそれでも、自分のものでないからと他の者に戻すなら、彼は良心を持っている、なぜなら、公正のために公正を行なうからである。
 このようにまた、役目の中にやって来ることができ、しかし、他の者が、その者もまた得ようとする、社会にさらに役立つことを知っている者は、もし社会の善のために他の者に場所を譲るなら、彼は良心の善を持っている。他のものも同様〔である〕。
 [3] 良心っているすべての、話すものを心から、また行なうものを心から行なう。というのは、彼らは分割された心を持たないから、なぜなら、真理と善を理解し、それを信じ、それにしたがって、話し、行なうからである。
 このゆえに、他の者よりも信仰の真理の中にいる者は、また他の者よりも明るい知覚の中にいる者は、より少なく照らされている、また暗い(不明瞭な)覚の中に〔いる〕者よりも、さらに完全な良心が存在することができる、といえる
 人間霊的ないのちそのものは良心にあるというのはそこに信仰仁愛結合しているからそのために、良心からなうことは、〔良心〕彼らにとって〕自分霊的ないのちからなうことであるまた良心してなうことは、彼らに自分のそのいのちにしてなうことである
 さらにだれが通常会話から良心らないか? 例えば、いくつかのことについて、「この者は良心を持っている」と言われるとき、その時、さらにまた、この者が正しい人間であることが意味されないか? そして逆に、いくつかのことについて、「この者は良心を持っていない」と言われるとき、その時、さらにまた、この者が不正な人間であることが意味されないか?
 [4] 天使は、これらを言い表わした時、急に、自分の天界の中に上げられた、また四つの集団は一つの中にいっしょになった、またいくらか後に、自分たちの間で天使の発言について話した、見よ、再び四つの集団に、しかし前のものから他のものに分かれた。一つの場所の中に、天使の言葉を把握し、また同意した者。もう一つの場所の中に、把握しなかった、しかしそれでも好感をもった者。第三の場所の中に、「何が私たちに良心と〔関係あるのか〕?」と言って把握することを欲しなかった者。また第四の場所の中に、「屁のようなものでないなら、何が良心か?」と言って、あざけった者。
 また私は、自分たちからお互いに去っている、またその時、前の二つの集団が右へ、また後の二つの集団は左へ去っている彼らを見た。また後者は降っている者たち、前者はのぼっている者たちであった。
 
◎これで第11章は終わりです。
続いて第12章「洗礼」第13章「聖餐」第14章「新教会」、それと「追加」であり、これらはどれも1カ月以内に終えることのできる内容です。それで長かった『真のキリスト教』も今年中に終わるでしょう。