柳瀬芳意は高沢保の死を契機としてスヴェーデンボリに出会ったが、そこにはスヴェーデンボリ研究の先駆者金井為一郎がいた。金井為一郎はスヴェーデンボリに傾倒して日本キリスト教団からは異端視された。
以下に『金井為一郎著作集第3巻(日記抄)』より、そこからスヴェーデンボリの登場する全箇所(ついでにサンダー・シンについても――シングはシンが正しい読みである)を抜粋し、掲載する。原文は縦書きであるが横書きに改めた(そのさい漢数字を算用数字とした)。〔……〕は日記にない補足事項である。
またついでに,鳥田四郎も取り上げておいた。
ここから、高沢保と柳瀬芳意の当時の事情がやや知れる。★をつけておいた1938年が柳瀬(29歳)の転機であり、すでにスヴェーデンボリを知っていた金井とその神学について語り合ったと思える。
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◎1924年(大正13) 37歳、市ヶ谷教会時代
7月26日(土) 『サンダー・シングの伝』を読み……、しかし今日は実に恵まれている。『サンダー・シングの伝』を読んで、キリストをいよいよ近く知ることが出来るようになり、おぼろであったものが、ハッキリして来た。実に感謝だ。
7月30日(水) 6時頃サンダー・シング伝を読み終わる。この書物位恵まれたものはない。この尊い人物の伝記を読んで、……
11月3日(月) ……小集会を催し、かねてからの依頼によりサンダー・シングの生涯と思想を語る。かかる生涯と思想を知って感ぜぬものがあろうか。
◎1925年(大正14) 38歳、市ヶ谷教会時代
2月10日(火) 青山学院の中等部で、サンダー・シングのことを話し、……
〔同年11月『実在と宗教』翻訳出版〕
◎1927年(昭和2) 40歳、市ヶ谷教会時代
3月1日(火) 9時頃帰るとインドのサンダー・シングから手紙が来ていた。
5月26日(木) この夜,……サンダー・シングの手紙を見せてくれた。サ氏はチベットへの旅行のため、実に多くの困難を前に見つつ、主の霊に満たされて、その困難の道をすすむのである。読みつつ誰か涙なきものにありや。およそその忠実なる僕のために祈らしめよ。願わくは彼を祝福して、そのよき種が彼の地に蒔かれんことを。〔6月28日インドのサンダー・シングに、日本招聘の手紙を出す〕
11月22日(火) 翻訳原稿を書いて「真理の探求者メルキゼデク*」がようやく終わる。願わくはサドー・サンダー・シングの上に祝福あれ。〔*1928年(昭和3)5月出版『死後よりの回顧』の第1章〕
◎1928年(昭和3) 41歳、市ヶ谷教会時代
1月30日(金) 夜、サドー・サンダー・シングからのマヌュスクリプトが届く、はるばるの彼の好意を謝す。願わくは彼の聖き業を我が国においても栄えしめ給え。
2月7日(火) サドー・サンダー・シングに手紙を書き……
〔同年5月『死後よりの回顧』翻訳出版〕
〔7月10日サンダー・シンより返信、近くチベットへ布教に行くとのこと〕
◎1929年(昭和4) 42歳、市ヶ谷教会時代
〔同年7月『基督と共なる生活』翻訳出版〕
8月29日(木) サドー・サンダー・シングから、チベットに行くとの報せが今日到着する。
9月10日(火) サンダー・シング伝を読む。
12月31日(火) 主の恵みによりサンダー・シングの『キリストと偕なる生活』が出て…….サンダー・シングの行方は依然として不明。
◎1930年(昭和5) 43歳、市ヶ谷教会時代
3月27日(木) ……偉大なる真理を教える Divine Providence* を読む〔*おそらく『神の摂理』〕
4月22日(火) 『ディバイン・プロビデンス*』を読みつづけ……祈る.
4月23日(水) 午前中聖書とサンダー・シング著書を読み、祈る。
9月16日(火) 感謝、感謝、サンダー・シングのライフの550頁位なものが出来上がって、新生堂から送られた。
11月30日(日) イマヌエル・スエデンボルグの伝記が3種類来ていた。
◎1934年(昭和9) 47歳、市ヶ谷教会時代
〔高沢保を正式に市ヶ谷教会伝道師に招聘。彼の協力により、教勢は量的にも質的にも上昇した〕
10月22日(月) 転居……鳥田四郎……高沢保のみなさんが、夜おそくまで手伝ってくれる。
11月10日(土) 夜の特別伝道集会……鳥田四郎君と二人で語る。
◎1936年(昭和11) 49歳、市ヶ谷教会時代
2月15日(土) 鳥田四郎……君らと10時頃までいろいろな問題について話し合う。〔翌日は二・二六事件〕
3月28日(土) 今春日本神学校を卒業した鳥田四郎君と河田真澄さんとの結婚式、神田一ツ橋の学士会館で挙行。
◎1937年(昭和12) 50歳、市ヶ谷教会時代
8月9日(月) ……スエーデンボルグの黙示録注解を読む。
◎1938年(昭和13) 51歳、市ヶ谷教会時代
1月7日(金) ★高沢保君召天 ここ2年間、スエーデンボルグの信仰に傾き来世問題について非常な興味と研究を続けて、彼はいよいよ信仰が高くなってきていた。
8月7日(日) ……田中芳意君と自分の二人で講壇を持つ。
9月16日(金) ★田中芳意君が来訪し、2時間位話して、帰る。彼がいよいよスエーデンボルグの信仰に共鳴しそれによって新しい光明を得られたことは、まことに喜ばしい。彼の研究の成果を祈る。
◎1939年(昭和14) 52歳、市ヶ谷教会時代
10月24日(火) ……スエーデンボルグの著作を通して大いなる真理を教えられる。かれは決して自分にとって小さいことではなかった。『黙示録開示』を読み、今まで教えられていたところがいよいよ、たしかめられる。彼において中心が一貫していることが、信頼するに足りるものとなった。カルヴィン、ルーテル、トマス・アクィナスでもオーガスチンでさえも、皆ス氏のごとく、直接な啓示ということは出来ぬであろう。
◎1940年(昭和15) 53歳、市ヶ谷教会時代
1月7日(金) 夜は伝道者高沢保君の追悼記念礼拝に、鳥田四郎君と二人で話す。
◎1941年(昭和16) 54歳、市ヶ谷教会時代
1月1日(水) ……田中芳意君年賀に来訪。
〔6月25日、日本基督教団設立、……金井為一郎は初代伝道局長に就任〕
◎1942年(昭和17) 55歳、市ヶ谷教会時代
1月1日(木) スエーデンボルグを読み……
6月14日(日) 田中芳意、柳瀬まち子両君の結婚式のために青山教会に行く。(注・田中氏は日本神学校卒業,柳瀬さんは東京女子医専卒の女医、現在柳瀬氏はスエーデンボルグ研究家として知られている)
◎1943年(昭和18) 56歳、市ヶ谷教会時代
1月1日(金) ……スエーデンボルグの著書を読み……
◎1945年(昭和20) 58歳、市ヶ谷教会時代
7月8日(日) スエーデンボルグの『神慮論』を読みつづける。
8月30日(木) 祈りと『天界と地獄』と家族のために費やす。…….敗戦後,スエーデンボルグの『天界と地獄』をとくに多く読み、もう4回目か5回目だ。祈りつつ読み、そして教えられる。
◎1949年(昭和24) 62歳、池袋西教会時代
1月2日(日) ……スエーデンボルグ伝を読む。
◎1954年(昭和29) 67歳、池袋西教会時代
1月20日(水) スエーデンボルグの『アルカーナ』(天界の秘義)を読み始めると止めることが出来ず、つい午前中をすごし夜にまで入る。
◎1955年(昭和30) 68歳、池袋西教会時代
8月21日(日) 沖縄伝道 午後3時から糸満の教会。話の前に要求がある。すなわち霊界について話せと。……さらにそれらの問題について対話と質問があり、与名城牧師兼医師は、この点につき既にスエーデンボルグ派の新教会人である。
◎1956年(昭和31) 69歳、池袋西教会時代
1月20日(水) ……黙示録開示を読んで大急ぎで教会へ。
◎1962年(昭和37) 75歳、池袋西教会時代
3月27日(水) ……スエーデンボルグの黙示録を講義のために準備する。
5月17日(木) 午後、神田のキリスト新聞社で、スエーデンボルグ著作集の全訳をはじめている柳瀬芳意君がこのほどトロブリッヂ著『スエーデンボルグ伝』を訳出刊行したので、それを記念して座談会を開く。出席者は柳瀬君をはじめ、……と私の4人。それにキリスト新聞社の鎌田君とで約2時間にわたって、スエーデンボルグの信仰と思想の現代的意義について語り合う。〔柳瀬53歳〕
◎7月12日(木) ニューヨークスエーデンボルグ・ファンデーションを訪問したいが、時間がないのと自分の方角を迷い易いこと等で機会を逸す。
8月20日(月) スエーデンボルグの黙示録を読んで祈る。
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カテゴリー: 雑木林(雑感)
柳瀬芳意の思い出
初めに、敬称をつけずに柳瀬と呼ぶことについてことわっておく。故人であり、有名な人物は敬称をつけずに呼ぶのが慣わしであるであるから、それにしたがった。
静思社の出版物に初めて出会ったのが83年9月、私(鈴木泰之)が36歳のときであった。それ以来、すべての出版物を入手し、独りで学んでいた。翻訳者の柳瀬はずっと以前から訳していることもあり、ご高齢と推察した。いつかわお目にかかりたいと思っていた。
昭和も平成と変わった初日の89年1月10日、静思社を初訪問した(私が42歳,柳瀬が80歳)。教会活動をしていると知って、礼拝には翌2月の第一日曜から参加し、3月には柳瀬から洗礼を授かった(そのとき、清い香りを感じた。この香りはその後ジェネラルチャーチより再受洗したときも感じた)。礼拝以外にも静思社に出向き、89年には36回お邪魔した。当時『黙示録講解』第9巻,第10巻に携わっておられ,私は6月にその第9巻,8月に第10巻の校正を、それぞれ1週間かけてお手伝いした(出版は9月)。
月に1度の礼拝では(気分が高揚されてくると)お歳とは思えぬほど大きな声で元気に話された。身振りも交え、涙ぐむことすらあって、いわゆる“熱演”であった。これを私は(また他の人も)“柳瀬節”と評した。説教は同じことの繰り返しも多かったが、楽しかった。なつかしい。
翌年(90年)の5月の礼拝をもって、ある理由(ここに述べるのはふさわしくない)で、静思社から別れた(勝手に“飛び出した”のである。これを“卒業”と評する人もいる。静思社を“卒業した人”が数多くいることは後から知った)。他の理由としては、同年正月からは(代々木で)「ぶどうの木集会」が開始され、新教会の礼拝なら、これに参加すればよかった。著作については英訳書を入手し、それを読み始めていた。すなわち、もう静思社から学ぶものはなかった(これが本来の“卒業”であろう)。前年の11月からはマリタ・ロジャースさんによる月2回の「勉強会」が始まり、また鳥田恵さんの「小平新教会」へも3月から参加していた。
たった1年と数か月の短い期間であったが、静思社でいろいろと学べたこと(英訳書を知る、校正の手伝い、など)、新教会の人々と出会えたことに感謝している。
その後、五~六年して、箱根集会(芦ノ湖・アカデミーハウスで、これが最後の集会となった)に参加し、柳瀬と再会したが、先生(ここはこう呼ぶ)は私のことをすっかり忘れていた。そばに付き添われていた佐藤氏が、懸命に思い出させようとされたが、思い出すことはなかった。柳瀬を捨て去ったかのような私であった。これでよかった。
「原典を読もう」の連載を終えて
いつもながら青砥の「シンフォニーヒルズ」での日曜礼拝を終えての帰り道、駅のサイゼリアで、林さんと安ワインを飲みながらの四方山話。ブログに私の「雑感」を掲載し始めた頃。
「雑談だけじゃ、よくないね。すこしゃ勉強になるものも載せたいね」、「じゃ、原典読解みたいなものをやろうか」、「ちょうどいいのがあるから、やってみようか」てんで、たいした考えもなく、ほんの思い付きで連載し始めたのがこの「原典を読もう」。
「ちょうどいいのがある」とは、そのときちょっと目を通していたスヴェーデンボリ協会の小冊子「The Word of God」。神のみことばについて著作からあれこれ抜粋した手の平サイズの50ページに満たない本。もちろん英語。その抜粋個所を原典で学べばよいかな、と思った。
その小冊子に、解説は一切なし。そして今回取り上げた分量はその半分に満たない。どこを学ぼうか、とあちこち探す手間は、この小冊子のおかげで省けた。(掲載順ももちろん異なる)
始めるとき、先をどうするかの構想はまったくなかった。「まず行動してから、考える」の典型だったかもしれない。それでも、始めれば「どうにかなる」もんだった。無事に終了できたのは、主の助けが、ほんのわずかながらも働いたのであろう、と思う。
さて、話題の向きをちょっと変える。私自身がこの講座を続け、学ぶ機会を与えられたことに感謝している。何かを学ぶとき、「教えてしまう」という、学習法がある。よくある話だが、何かわからないことがあったら、そのことについて「講演会を開く」「本を書いてしまう」というやり方がある。
講演会に向け、著述について、よく調べ、準備しなければならないからである。
私自身、この講座を楽しんで続けた(自分が楽しくなくっちゃ、人様はつまらないに決まってるだろ)。私は教員であった。授業もしかり。「教えることは学ぶこと」、講座中の私の説明がよかったかどうかわからない。それでも、「わかるように」また「正確な知識を」と私自身、いろいろな事柄を確認して進めた。それで「学べたことに感謝」する。
「書くこと」と「しゃべること」の違いは何か。他人との会話は「頭の回転をよする」、相手の言うことの内容を汲み取り、話を続けるために、あまり間をおかずに考え組み立る。一方、「書くこと」に時間の制約はない。でも、文字として残るので、正確を要求される。
すなわち、「ものを書くと、正確に、筋道だったものなる」。前述の「何かわからないことがあったら、そのことについて本を書いてしまえ」とはこのことでもある。
今の私にとって勉強とは(ほとんど英語の文献なので)それを「翻訳してしまう」ことである。意味を汲み取って、自分の言葉にしないといけないから。(翻訳量が自分の勉強量をはかる指標となっている)
元を取るとは楽しむこと
みなさんは「元を取る」ということを考えたことがありますか。あるとすればどのような時ですか。
商売人ではないので、私が問うているのは、「人生で」、どのような「場面で」です。
私は、「教員生活を無事終えた」、(ほぼ同時期の)「還暦を迎えた」とき、その他では「ヘブル語学んで、言語とは何かを自分なりに把握できた」ときなど、「元は取った」気がした。(感謝の念とともに、あとは「恩返し」でもしようか、てな気にもなる)
話をラテン語の勉強・習得にしぼろう。中途半端に学んで、結局、ものにならないで、途中で放棄したら、それにかけた労力と時間(それと多少のお金)は「元が取れず」、むだになってしまう。やるならある程度のところまでやり、得るものを得なければ、なんにもならない。単なる暇つぶし。
そうならないために、また結局、何にもならなくても、それでもよいためにはどうあればよいだろか。私のかつての趣味「山歩き」を考えてみよう。時間と労力をつぎ込み、苦しい思いをして山に登って、降りてくる。それだけのこと。山から下りてきた後、何が残るか。何もないかもしれない。元を取ることとは程遠い。ここだけ見れば、「苦しいだけだ」と言って、もう登らない人もでてくる。
勉強も山歩きも同じだろう。山歩きのどこが楽しいかは別として、楽しまなければ、苦しいだけ。そこでやめてしまう。勉強が楽しければ(途中でやめることがあっても、でも楽しければやめないだろう)、それだけでもう半分は元を取っている。その勉強が役立ったら、それは余禄であり、ご褒美。
私は「元を取ろう」という思いなどこれっぽっちもなく、しかたなしにラテン語を学んだ。その勉強が楽しかったので、それだけで「元は取れている」と思う。今ではなんとか原典が読めるので、元以上のもの得ており、このことにもやはり感謝している。
翻訳に要求される資質とは
私が関わっているので、どうしてもこうした話題になることが多い、ご寛恕ください。
翻訳(英文➭和文を想定してください)とは大ざっぱに言えば、(a)内容を把握して、(b)日本語に置き換える。
このうち、(a)の「内容把握」には、(1)語学力(そのうちの読解力)、(2)その内容に関する知識、となろう。それで大きく次の三つの資質が必要とされると思える。
(1)語学力(そのうちの読解力)、(2) (一般的知識も含めて)その内容に関する知識、(3)日本語の文章力(表現力・作文力ともいえる)。
さて、問題:「この三つで、大切・重要と思うもの順に並べよ」
よくある勘違いが「語学が得意だから翻訳(通訳も)できるだろう」というもの。この問題で言えば、「英語ができなくできなくっちゃ訳せないな。まずは英語の語学力でしょ。だいから一番は(1)、ある程度の知識がなくっちゃ無理だし、次は(2)、最後は残りの(3)だな」。この答えは、(1)、(2)、(3)の順。
みごと不正解。そのことをこれから話そう(他の人ならこれを正解とする人がいるかもしれない、しかし大いに疑問。採点者は私である)。
正解は(2)と(3)が大切・重要であり、(1)は二の次、三の次。(2)と(3)では、内容によって高度な知識を必要とされれば(2)、普通でよいなら(3)となる。は(2)になれば、(3)にもなる。「どちらかに決めろ」と言われれば(3)である。すなわち私は正解を、(3)-(2)-(1)の順とする。
翻訳で最重要な資質は日本語の文章力。これは何も「小説」を書くような力ではなく(小説では構想力が要求されるし、それが非常に重要)、「達意」の文章を書く力である。達意とは「述べたいことがわかりやすく正確に伝えられる」こと、それもすっきりした形ならなおさらよい。何を言っているんだかわからない文章は論外、読みづらい文章も失格、読みやすくても「言語明瞭、意味不明」ということもあるので要注意。
翻訳し始めたころ、対象は新教会の説教や論文だった。正確に読み取るにはある程度の英文法の知識が必要と感じた(文章は文法に基づいて構成されている)。それで英文法を勉強し直した。しかしそれ以上に、聖書の知識(一般的な知識を含む)や新教会の教義を知っていることが読解の大いなる助けとなった。この知識なしに、ちゃんと読み取れたかあやしい。思わぬ間違い(そしてそれに気づかない)をしてしまったかもしれない。
そして、せっかく読み取れても、それを正確に、よくわかる文で表現しなかったらなんにもならない。この「表現」について、私と長島達也とでは方向が異なる。そのことを別の機会に述べよう。
ある翻訳教室では、まず日本語の作文をしてもらうとのこと、そして訳のわからないような文を書く人にはお引取り願うという。翻訳の仕方を教える以前の問題だからだ。
私の文章力について昔話。中学1年生のとき、作文が課題となった。提出したが戻されない。国語の先生に問うたら、「おもしろかったから、雑誌に投稿した」とのこと(本人に無断)。没になった。何を書いたか思い出せないが、ある程度の文章力があったのだろう。