現在『神の摂理』を見直し、この出版に向けて取り組んでいます。これは『神の愛と知恵』(3月に出版)の次に取り組んでいたのですが、途中で『叙事詩』が入って中断していました。その『叙事詩』ここで出版となったので、その見直しを再開しました。
その第3章「無限と永遠」を主題とするところで、私なりに大発見をしました。
原典講読『神の摂理』55番の直訳で次のことを書きました:
Infinitum
ac Aeternum in se est ipsum Divinum seu Dominus in Se; 本質的に無限(であるもの☆)そして永遠(であるもの☆)は、神性そのもの、すなわち、ご自分の中の主である。
☆ これまで「もの」としてきていますが、大文字で表わされていることもあって「者」の訳も十分可能です。すなわち「無限である者」、「無限者」、また「永遠である者」、「永遠者」です。
同じく56番の直訳部分のコメントでは:
☆ 直前の55番の直訳部分で、「無限である者」、「無限者」、また「永遠である者」、「永遠者」の訳が可能、と述べましたが、それどころでなく、「そう訳すべき」でした。これまでの訳を「訂正します」(こうしたことは、やっているうちにわかることでもあります)。
なぜかといえば、ここには小文字infinitum ac aeternumと大文字Infinitus ac Aeternusが同時に述べてあります。そして、これは「意識的に使い分けている」と気づいたからです。そしてこれは編集者がそうしているのではなく、初版でも、すなわち、スヴェーデンボリがそうしています。
それでinfinitum ac aeternumを「無限と永遠」と訳し、Infinitus ac Aeternusを「無限なる者」そして「永遠なる者」と訳すことにします。これはもちろん神の代名詞です。同じくPrimumも「最初なる者」とすべきです。このことは私にとって、うすうす気づいていたけれども、明確となった新しい発見であって、こうしたことが学ぶことの楽しみ(gaudium)です。
これが2010年9月14日と15日でした(2年3か月前)。まだ気づいていませんでした。
それが「InfinitusとInfinitumの違い」です。見直すことによってこのことに気づきました。おおげさながら、このことは日本のスヴェーデンボリ神学著作の翻訳上の大発見かと思います(柳瀬訳は英訳なので気づきようがありません、長島訳はいい加減にしています、これまでの私もいい加減でした)。
『真のキリスト教』の原文なども調べてみて、この二語は厳密に使い分けてある、すなわち、きちっと区別して訳すべきである、と気づいたのです。たった一文字ですが違いが、その違いがおわかりでしょうか? 今度の『神の摂理』には次の注釈を付けることにしました(本文46番の文中に★印をつけて)。
(★)四六 「無限なもの」と「無限なる者」の原語での違いについて
この二語が原語ではどのように異なっているのか興味を持たれる方もいるかもしれません。
「無限なもの」がInfinitumで「無限なる者」がInfinitusです。違いは最後の一文字mとsだけです。
もとは「限定されない、無限の」を意味する形容詞infinitusです。文法の話となりますが男性形(主格)がinfinitus、中性形(主格)がinfinitum、そしてこれを実詞(名詞)と見なし、また語頭を大文字としています。
このような場合、原則的に男性は「人」すなわち、その属性(ここでは無限性)をもつ者を意味します。それで「無限なる者」となります。また中性の場合、抽象名詞または「物」を意味します、それで「無限なもの」となります。(ついでに女性の場合は抽象名詞です。すなわち、「美しい」を例とすれば、男性なら「美しい人」、女性なら「美」、中性なら「美しいもの」です)
(なお、原文で語頭を大文字としないinfinitumは、無限なもの、として「 」を付けないで区別して訳してあります)