以前に連載した「原典を読もう」の整理がここで終わりました(いずれ「ラテン語学習」の欄に掲載されます)。念願だった原典の訳出に入ります。ただ訳すだけでなく、「講読」の形でこのブログに掲載することで、最新訳をお知らせするとともに、いっしょに原典を学べたら、と願っています。
「(2)直訳」の部分から、原文と(直訳の)訳文を見比べることでラテン語については学べると思います。それで注釈等は最小限にしました。
完成した形の「(3)訳文」からでは汲み取れないものが「(2)直訳」から知ることができると思います。
できましたら、これまでの訳である静思社「柳瀬訳」とアルカナ出版「長島訳」と比較してみてください。いろいろなことがわかると思います。簡単に言って、前者からは英訳からの重訳の限界、後者からは(異常にも感じられる)意訳です。
比較することで、私の「翻訳に対する姿勢」がわかると思います。
カテゴリー: 原典講読 『信仰』
原典講読『信仰』1,2
◎ DOCTRINA NOVAE HIEROSOLYMAE DE FIDE.と題された本書は1763年(著者73歳)にアムステルダムで出版されたものです。
◎ 70歳のとき『天界と地獄』を含む「ロンドン五部作」の後、やや間があって、他書『主について』『聖書について』『生活について』とともに出版した「新しいエルサレムの教え」四部作の一つです。同年には『神の愛と知恵』も出版しています。
◎ 「講読」といっても、ほとんど「対訳」の形になると思います。次の形式とします。
(1) 原文の提示。 (2)なるべく短く区切って、これもなるべく「直訳」。そのさい、単語や文法事項の説明が入る場合があるかと思います。 (3)やや意訳した訳文の提示。 (あったっら(4)感想。)
DOCTRINA NOVAE HIEROSOLYMAE DE FIDE.
信仰についての新しいエルサレムの教え
(I.)
QUOD FIDES SIT AGNITIO INTERNA VERI.
信仰は真理の内なる承認であること
(1) 原文
1. Per Fidem hodie non aliud intelligitur, quam cogitatio quod ita sit quia ecclesia docet, et quia non patet coram intellectu; dicitur enim, “Crede et non dubita.” Si respondetur, “Hoc non comprehendo,” dicitur quod ideo credendum sit. Quare hodierna fides est fides ignoti, et vocari potest fides caeca: et quia est dictamen alterius in altero, est fides historica. Quod haec non fides spiritualis sit, videbitur in sequentibus.
(2) 直訳
Per Fidem hodie non aliud intelligitur, 今日の信仰によって他のものが意味されない、
☆蛇足ながら「今日」は「こんにち」と読んでください。「現今」の意味です。
quam cogitatio quod ita sit quia ecclesia docet, そのようであることと〔する〕考え以外の、(なぜなら)教会が教えるから、
et quia non patet coram intellectu; また(なぜなら)理解力の前で明らかでないから、
dicitur enim, “Crede et non dubita.” なぜなら、「信じよ、疑うな」と言われる。
Si respondetur, “Hoc non comprehendo,” もし、「このことを私は理解しない」と答えるなら、
☆ここのrespondeo「答える」は受動態でまさに直訳なら「答えられる」。非人称動詞と見なします。
dicitur quod ideo credendum sit. それゆえ、信じられなければならないこと、を言われる。
☆credendumはcredo「信じる」の動形容詞。sumを伴って「必要性を示す」ために述語的に使われる。
Quare hodierna fides est fides ignoti, それゆえ、今日の信仰は知らないことの信仰である、
et vocari potest fides caeca: また、盲目の信仰と呼ぶことができる。
et quia est dictamen alterius in altero, est fides historica. また、別の者が別の者に言った〔ことな〕ので、史実に基づく信仰である。
Quod haec non fides spiritualis sit, videbitur in sequentibus. これが霊的な信仰でないことは、続く事柄の中に見られる。
☆videbiturはvideo「見る」の未来形、動形容詞と同じく「必要性を示して」います。「(必要なので)これから示します」といったニュアンスです。
(3) 訳文
1. 今日の信仰によって、教会が教えるから、明らかに理解できないから、「信じよ、疑うな」と言われるから、そのようであると考えること以外の(他の)ものは意味されない。もし、「私はこのことがわからない」と答えるなら、それだからこそ、信じられなければならない、と言われる。それゆえ、今日の信仰は知らないことの信仰であり、盲目の信仰と呼ぶことができる。また、ある者がある者に語ったことなので、歴史に基づく信仰である。これは霊的な信仰でないことを、続く事柄の中で示そう。
(1) 原文
2. Ipsa fides non aliud est, quam agnitio quod ita sit, quia est verum; ita enim cogitat et loquitur qui in ipsa fide est, “Hoc verum est, ideo credo;” fides enim est veri, et verum est fidei. Is etiam, si non comprehendit quod verum sit, dicit, “Non scio num verum sit, ideo nondum credo: quomodo credam quod non comprehendo? forte potest falsum esse.”
(2) 直訳
Ipsa fides non aliud est, 信仰そのものは他のものではない、
quam agnitio quod ita sit, quia est verum; そうであることの承認以外の、(なぜなら)真理であるから。
ita enim cogitat et loquitur qui in ipsa fide est, なぜなら、信仰そのものの中にいる者は、このように考え、語る、
“Hoc verum est, ideo credo;” 「これは真理である、それゆえ、私は信じる」。
fides enim est veri, et verum est fidei. (なぜなら)信仰は真理のものであり、真理は信仰のものであるから。
☆veriとfideiは属格、それで「信仰は真理に属し、真理は信仰に属する」とも訳せる。
Is etiam, si non comprehendit quod verum sit, さらにまた彼は、もし真理であることを理解しないなら、
dicit, “Non scio num verum sit, ideo nondum credo: 言う、「私は真理であるかどうか知らない、それゆえ、私は信じない」。
quomodo credam quod non comprehendo? どのように私は信じるのか、理解しないことを?
forte potest falsum esse.” ことによると、虚偽である可能性がある。
☆possumは通常「~できる」ですが、このように「~の可能性がある」の訳もあります。
(3) 訳文
2. 信仰そのものは、真理であるからそうであると承認する以外の(他の)ものではない。なぜなら、信仰そのものの中にいる者は、「これは真理である、それゆえ、私は信じる」と、このように考え、語るからである。なぜなら、信仰は真理のものであり、真理は信仰のものであるから。さらにまた、もし真理であることを理解しないなら、彼は、「私は真理であるかどうか知らない、それゆえ、私は信じない。理解しないことを、ことによると、虚偽かもしれないことを、どのようにして、私は信じるのか?」と言う。
原典講読『信仰』3
(1) 原文
3. Sed communis sermo est, quod non aliquis possit comprehendere spiritualia seu theologica, quia sunt supernaturalia. Sed vera spiritualia aeque comprehendi possunt, quemadmodum vera naturalia; et si non clare, usque, dum audiuntur, cadunt in perceptionem num vera sint vel non;hoc maxime apud illos qui afficiuntur veris. Hoc datum est mihi scire ex multa experientia. Datum est loqui cum ignaris, cum obscuris, cum stupidis, et quoque cum illis qui in falsis fuerunt, et qui in malis, qui intra ecclesiam nati sunt, et audiverunt aliquid de Domino, de fide et charitate; et loqui datum est cum illis arcana sapientiae; et illi comprehenderunt omnia, et agnoverunt: sed erant tunc in luce intellectus quae est cuivis homini, et simul in gloria quod essent intelligentes. Sed haec in commercio cum spiritibus. Ex his convicti sunt plures mecum, quod spiritualia aeque ac naturalia possint comprehendi, sed tunc quando audiuntur aut leguntur; sed aegre ab ipso homine cum ex se cogitat. Causa quod spiritualia comprehendantur, est quia homo quoad intellectum potest elevari in lucem caeli, in qua luce non alia apparent quam spiritualia, quae sunt vera fidei: lux enim caeli est lux spiritualis.
(2) 直訳
Sed communis sermo est, quod non aliquis possit comprehendere spiritualia seu theologica, quia sunt supernaturalia. しかし、普通の話である、だれかが霊的なものまたは神学的なものを理解できないこと、超自然的であるから。
Sed vera spiritualia aeque comprehendi possunt, quemadmodum vera naturalia; しかし霊的な真理は同程度に(等しく)理解されることができる、自然的な真理のように。
et si non clare, usque, dum audiuntur, cadunt in perceptionem num vera sint vel non; もし明らかにでないなら、それでも、聞かれる時、把握の中に真理かあるいは〔真理で〕ないかどうか落ち込む。
☆perceptioは「知覚・認知・把握」、cado「倒れる」には「服従する・従属する」の意味もある。
hoc maxime apud illos qui afficiuntur veris. このことは、真理に情愛を感じる者のもとで最も〔大である〕
Hoc datum est mihi scire ex multa experientia. このことを知ることが私に多くの経験から与えられた。
Datum est loqui cum ignaris, cum obscuris, cum stupidis, 私は無知な者と語ることが与えられた、不明瞭な者と、愚鈍な者と、
et quoque cum illis qui in falsis fuerunt, et qui in malis, qui intra ecclesiam nati sunt, et audiverunt aliquid de Domino, de fide et charitate; それと、虚偽の中にいた者、悪の中にいた者、教会の中に生まれて、神について、信仰と仁愛について何らかのことを聞いた者ともまた〔語ることが与えられた〕。
et loqui datum est cum illis arcana sapientiae; また、彼らと知恵の秘義(奥義)を語ることが与えられた。
et illi comprehenderunt omnia, et agnoverunt: 彼らはすべてを理解し、認めた。
sed erant tunc in luce intellectus quae est cuivis homini, しかし、その時、〔彼らは〕理解力の光の中にいた、それは人間のだれにもあるものである、
et simul in gloria quod essent intelligentes. 同時に栄光の中に〔いた〕、それは知性のある者であった〔という欲〕。
☆gloriaは「栄光」だと文意が成り立ちませんね。「名声・称賛・栄誉」がよい。「欲」といった言葉を補って意訳しないと読みづらいでしょう。
Sed haec in commercio cum spiritibus. しかし、これらことは霊たちとの交わりの中で〔私に起こったことである〕。
Ex his convicti sunt plures mecum, このことから私にとって多くのことが確信された、
☆convinco「確信する・納得する」
quod spiritualia aeque ac naturalia possint comprehendi, sed tunc quando audiuntur aut leguntur; 霊的なものは自然的なものと等しく、理解されることができること、しかしその時、聞かれ、または読まれるその時。
☆ac「~と比べて、~のように」☆tunc quandoと「その時」を強調するのは「ある特別な“その時に”に限って」ということでしょうか? たとえば霊的な流入がある時。または単純に「その場だけのこと」と言いたいのか?
sed aegre ab ipso homine cum ex se cogitat. しかし、ほとんど人間自身によるのではない、自分自身から考えているときに。
Causa quod spiritualia comprehendantur, est quia homo quoad intellectum potest elevari in lucem caeli, 霊的なことが把握されることの理由は、人間は知性に関して、天界の光の中に揚げられることができ〔るからである〕、
☆causa, est quia…はスヴェーデンボリの文章によく出てきます。簡潔に「~であるから」と訳せます。
in qua luce non alia apparent quam spiritualia, quae sunt vera fidei: その光の中では、信仰の真理である、霊的なもの以外に他のもの現われない〔からである〕。
lux enim caeli est lux spiritualis. なぜなら、天界の光は霊的な光であるから。
(3) 訳文
霊的なものまたは神学的なものは、超自然的であるから、理解できないことは普通の話であるけれども、しかし霊的な真理は自然的な真理と同じように理解されることができる。明らかにでないにしても、それでも、聞かれる時、真理かどうかは把握される。これは、真理に情愛を感じる者のもとで特にそうである。このことを、私は多くの経験から知った。私は無知な者と、不明瞭な者と、愚鈍な者と、それとまた、虚偽の中にいた者、悪の中にいた者、教会の中に生まれて、神について、信仰と仁愛について何らかことを聞いた者と語った。また、彼らと知恵の奥義を語った。彼らはすべてを理解し、認めた。それでも、その時、彼らは人間のだれにもある理解力の光の中に、同時に、知性のある者であるという名誉欲の中にいた。しかし、これらことは霊たちとの交わりの中で私に起こったことである。
このことから私は多くのことを確信した。霊的なものは、聞かれ、読まれる時に、自然的なものと等しく、理解されることができること、しかし、ほとんど人間が自分自身から考えている時ではないことである。霊的なことが把握されるのは、人間は知性に関して、天界の光の中に揚げられることができ、その光の中では、信仰の真理である霊的なもの以外には現われないからである。なぜなら、天界の光は霊的な光であるから。
原典講読『信仰』4,5
(1) 原文
4. Inde nunc est, quod agnitio interna veri sit illis qui in spirituali affectione veri sunt. Quia angeli in illa affectione sunt, prorsus respuunt illud dogma, quod intellectus erit sub obedientia fidei; dicunt enim, “Quid est credere et non videre num verum sit?” Et si aliquis dicit, quod usque credendum sit, respondent, “Num putas te Deum esse, cui credam? aut me insanum, quod credam dicto in quo non video verum? fac itaque ut videam.” Ita dogmaticus ille recedit. Sapientia angelica in eo unice consistit, ut videant et comprehendant quae cogitant.
(2) 直訳
Inde nunc est, quod agnitio interna veri sit illis qui in spirituali affectione veri sunt. そこで今やである、真理の内なる(内的な)承認は、真理への霊的な情愛の中にいる者にあること。
☆「そこで今やある」はまったくの直訳。indeはこれまで述べたこと受けて、ちょっとした結論を述べるつもりです。さて(nunc)それは次の「quod以下のこと」です。
Quia angeli in illa affectione sunt, prorsus respuunt illud dogma, quod intellectus erit sub obedientia fidei; なぜなら、天使たちはその情愛の中にいて、完全にその教義を、理解力は信仰の下に従順であることを、蹴飛ばすからである。
dicunt enim, “Quid est credere et non videre num verum sit?” なぜなら言う、「信じることとは何か? そして、真理であるかどうか見ることがない」
☆ここのetは「しかも」と訳すとよいですね。例文:nemo possit videre Deum et vivere「だれも神を見て、しかも生きることはできない」(真教6:1)。
Et si aliquis dicit, quod usque credendum sit, そしてもし、だれかが言う、それでも信じなくてはならないこと、
respondent, “Num putas te Deum esse, cui credam? 彼ら(=天使たち)は答える、「あなたは自分を私が信じなくてはらない神であると考えているのか? その方を、
aut me insanum, quod credam dicto in quo non video verum? または私を狂っていると〔考えるのか〕? 言われたことを私が信じる、その中に私が真理を見ないこと、
☆直訳過ぎますね。内容を説明すれば、「私にとって真理と見えない(思えない)ことを、言われたからといって、私が信じるといった、そんなことをするような狂人と、私のことを思うのか?」ですね。
fac itaque ut videam.” それでは、私が信じるようにしなさい」
Ita dogmaticus ille recedit. そこで、その教条主義者は退いた。
Sapientia angelica in eo unice consistit, ut videant et comprehendant quae cogitant. 天使の知恵は唯一つのその中に存する、考えることを見て、理解すること。
(3) 訳文
さてそれで、真理への霊的な情愛の中にいる者に、真理の内なる承認がある。なぜなら、天使たちはその情愛の中にいて、理解力は信仰の下に従順でなければならないというその教義を完全に拒むからである。なぜなら、〔天使たちは〕「真理であるかどうか知らないのに、信じることとは何か?」と言うから。そしてもし、だれかが、「それでも信じなくてはならない」と言うなら、彼らは、「あなたは自分を、私が信じなくてはならない神であると考えているのか? または、私が真理かわからなくても、言われたことを私が信じるような狂人と考えるのか? では、私が信じるようにしてみなさい」と答える。そこで、その教条主義者は退いた。天使の知恵は、考えることを見てとり、理解することの中にだけある。
(1) 原文
5. Est idea spiritualis, de qua pauci aliquid norunt, quae influit apud illos qui in affectione veri sunt, et interius dictat quod hoc, quod auditur aut legitur, verum sit vel non. In hac idea sunt illi, qui in illustratione a Domino legunt Verbum. In illustratione esse non aliud est quam in perceptione esse, et inde in agnitione interna, quod hoc et illud verum sit. Hi sunt qui vocantur “docti a Jehovah” (Esai. liv. 13; Joh. vi. 45): et de quibus dicitur apud Jeremiam,
“Ecce dies venientes,… quibus pangam… novum foedus… Foedus hoc erit; … dabo legem meam in medio eorum, et super cor eorum scribam illam:… et non docebunt vir amplius socium suum, aut vir fratrem suum, dicendo, Cognoscite Jehovam; omnes enim cognoscent Me” (xxxi. 31, 33, 34).
(2) 直訳
Est idea spiritualis, de qua pauci aliquid norunt, quae influit apud illos qui in affectione veri sunt, 霊的な考えである、それについてほとんどの者が何らかのことを知らない〔が〕、それが真理への情愛の中にいる者に流入する、
et interius dictat quod hoc, quod auditur aut legitur, verum sit vel non. そして内的にこのことを語る、聞かれまたは読まれること、〔それが〕真理であるかまたはない〔か〕。
☆hocは直後のquod以下をさしています。
In hac idea sunt illi, qui in illustratione a Domino legunt Verbum. 主からの照らしの中でみことばを読む者は、この考えの中にいる。
In illustratione esse non aliud est quam in perceptione esse, et inde in agnitione interna, quod hoc et illud verum sit. 照らしの中にいることは、知覚の中にいること、ここから内なる承認の中に〔いること〕以外の何ものでもない、これやそれが真理であること。
Hi sunt qui vocantur “docti a Jehovah” (Esai. liv. 13; Joh. vi. 45): これらが「主により教えられた」(イザヤ54:13、ヨハネ6:45)と呼ばれる者である
et de quibus dicitur apud Jeremiam, またその者たちについて、「エレミヤ(書)」で言われている、
“Ecce dies venientes,… quibus pangam… novum foedus… Foedus hoc erit;「見よ、日がやって来る・・・それについてわたしは約束する・・・新しい契約・・・これが約束である。
… dabo legem meam in medio eorum, et super cor eorum scribam illam:… ・・・わたしはわたしの律法を彼らの真ん中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。・・・
☆単なる一人称の場合「私」、主や神の場合「わたし」と表記します(新改訳聖書)。
et non docebunt vir amplius socium suum, aut vir fratrem suum, dicendo, Cognoscite Jehovam; 男はもはや自分の仲間に教えない、または男は自分の兄弟に〔教えない〕、エホバを認めよ(知れ)と言って。
omnes enim cognoscent Me” (xxxi. 31, 33, 34). なぜなら、すべての者はわたしを認める(知る)から」(31:31,33,34)
(3) 訳文
霊的な考えついて、ほとんどの者が何も知らないが、その霊的な考えが真理への情愛の中にいる者に流入し、聞かれ、また読まれることが、真理であるか、ないかを、内的に語りかける。みことばを主からの照らしの中で読む者はこの考えの中にいる。照らしの中にいることは、あれこれが真理であるという知覚の中にいること、そこから内なる承認の中にいること以外の何ものでもない。これらが「主により教えられた」(イザヤ54:13、ヨハネ6:45)と呼ばれる者である、またその者たちについて、「エレミヤ書」で〔次のように〕言われている、
「見よ、日がやって来る・・・それについてわたしは約束する・・・新しい契約・・・これが約束である。・・・わたしはわたしの律法を彼らの真ん中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。・・・男はもはや自分の仲間に、また自分の兄弟に、エホバを知れ、と言って、教えない。なぜなら、すべての者はわたしを知るから」(31:31,33,34)
原典講読『信仰』6,7,8,9
(1) 原文
6. Ex his patet quod fides et veritas unum sint. Quare etiam antiqui, qui ex affectione in cogitatione de veris prae nostratibus fuerunt, loco fidei dixerunt veritatem. Inde quoque est, quod in Hebraea lingua veritas et fides una vox sint, quae vocatur Amuna seu Amen.
(2) 直訳
Ex his patet quod fides et veritas unum sint. このことから信仰と「真理」は一つであることが明らかである。
Quare etiam antiqui, qui ex affectione in cogitatione de veris prae nostratibus fuerunt, loco fidei dixerunt veritatem. それゆえさらにまた古代人は、彼らは、私たちよりも真理について、情愛からの思考の中にいた〔が〕、信仰の代わりに「真理」と言った。
Inde quoque est, quod in Hebraea lingua veritas et fides una vox sint, quae vocatur Amuna seu Amen. それゆえ、もまたである、ヘブル語で「真理」と信仰は同一の言葉であり、それは「アムナー」または「アーメン」と呼ばれる。
☆ここ箇所については、(4) 解説を参照。重大な事実がある。
(3) 訳文
このことから信仰と「真理」は一つであることが明らかである。それゆえまた、私たちよりも真理について情愛からの思考の中にいた古代人は、信仰の代わりに「真理」と言った。それでまた、ヘブル語で真理と信仰は、「アムナー」または「アーメン」と呼ばれる同一の言葉である。
(4) 解説。私には非常に重要に思える事実。
ヘブル語のAMN(アーメーン、意味は「(副詞)ほんとうに、アーメン」)も同じくAMNH(アムナー、意味は「(名詞)真理、(副詞)ほんとうに」も同じ語根AMN(アーマン、意味は「しっかりした、信頼できる」)から派生した語である。
ヘブル語で「語根」といえば、そのまま動詞であり、その動詞としての意味に「信頼する・信じる」という意味がある。もう少し述べれば、アムナーまたはアーメンは「真理」という意味であるが、それがそのまま「信仰」を意味してはいない。すなわちヘブル語に信仰という言葉はない。ただ次の二箇所に「信仰」らしき言葉がある。①「申命記」32:20「彼らは真実のない子である」これを「信仰のない子」と訳すことがあるかもしれない。②もうひとつ、「ハバクク書」2:4「正しい人は信仰によって生きる」これは新改訳聖書の欄外注にあるように「真実によって生きる」が原意である。
ここのスヴェーデンボリの叙述「同一の言葉」とは、正確には「ヘブル語には信仰という言葉がなく、それを真理を意味する言葉で代用」している。ここからは、さすがにヘブル語は「天的な言語である」と思う。
(1) 原文
7. Quod fides dicatur a Domino apud Evangelistas et in Apocalypsi, erat quia Judaei non crediderunt verum esse, quod Dominus esset Messias a prophetis praedictus; et ubi veritas non creditur, ibi fides dicitur. At usque aliud est fidem habere et credere in Dominum, et aliud fidem habere et credere alicui: de differentia dicetur infra.
(2) 直訳
Quod fides dicatur a Domino apud Evangelistas et in Apocalypsi, erat quia Judaei non crediderunt verum esse, quod Dominus esset Messias a prophetis praedictus; 主により「福音書」と「黙示録」に信仰と言われていることは、ユダヤ人たちが真理(真実)であると信じなかったからである、主が預言者たちにより預言されたメシアであることを。
et ubi veritas non creditur, ibi fides dicitur. 「真理」が信じられないところに、そこに信仰と言われる。
☆ここで「真理」と訳したveritasについては、(4) 解説を参照。
At usque aliud est fidem habere et credere in Dominum, et aliud fidem habere et credere alicui: しかしそれでも、信仰を持ち、主を信じることはあるものであり、信仰を持ち、だれかを信じることは別のものである。
☆alius~et alius・・・「あるものは~別のものは・・・」、「一つは~他は・・・」、「~と・・・は別もの」。
de differentia dicetur infra. 相違について下に述べよう。
(3) 訳文
「福音書」と「黙示録」に、主により信仰と言われているのは、ユダヤ人たちが、主が預言者たちにより預言されたメシアであることを真理(真実)であると信じなかったからである。「真理」が信じられないところでは、信仰と言われる。しかしそれでも、信仰を持って、主を信じることと、信仰を持って、だれかを信じることは別のものである。その相違について以下に述べよう。
(4) 解説「VerumとVeritas」
原文と訳語を見比べればverumとveritasが同じ真理と訳されています(ここではveritasを「」をつけて区別しました)。これについて詳しくはこのサイト「ラテン語学習者のために」の「ラテン語を学ぼう――ついでに」を見てください。その第3課に研究「VerumとVeritas」があります(もう見た方もいらっしゃるかな?)。ある時期、違いが気になって「研究」したものです。
結論的にスヴェーデンボリは使い分けていますね。verumが一般的な真理、veritasは特に主からの真理です(ヨハネ14:6)。こうした違いがわかるのが原典、それ原典を読む。
(1) 原文
8. Fides separata a veritate intravit et invasit ecclesiam cum dominio Papali, quoniam praecipuum tutamen religionis istius fuit ignorantia veri; quare lectio Verbi etiam vetabatur: alioquin non potuissent coli ut numina, ac sancti eorum invocari, ac in tantum introduci idololatriae, ut cadavera, ossa et sepulcra illorum sancta crederentur, et inde lucrarentur. Ex quo patet quam enormes falsitates fides caeca potest producere.
(2) 直訳
Fides separata a veritate intravit et invasit ecclesiam cum dominio Papali, 「真理」から分離した信仰は法王の支配のときに教会に入り、押し入った、
quoniam praecipuum tutamen religionis istius fuit ignorantia veri; その宗教の主要な保護するものは、真理への無知であったからである。
quare lectio Verbi etiam vetabatur: それゆえ、みことばを読むこともまた禁じられた。
alioquin non potuissent coli ut numina, ac sancti eorum invocari, ac in tantum introduci idololatriae, そうでなければ、神として礼拝されること、また彼らの聖徒が祈られること、またそれほどの偶像崇拝を導き入れることはできなかった、
☆invoco「(聖人などに加護を)祈る」
ut cadavera, ossa et sepulcra illorum sancta crederentur, et inde lucrarentur. 彼らの死体や骨や墓が聖なるものとして信じられ、ここから利益を得るように(ほどに)
☆utは単独なら「~のために」との訳も可能ですが、ここでは前にtantumがあるのでそれに呼応して「~のように(ut)それほどに(tanntum)~」と見るのがよいですね。
Ex quo patet quam enormes falsitates fides caeca potest producere. ここから、どれほどひどい虚偽を、盲目の信仰は生み出すことができるか明らかである。
(3) 訳文
「真理」から分離した信仰は、法王の支配のときに教会に入り込んだ、その宗教の主要な保護するものは、真理への無知であったからである。それゆえ、みことばを読むこともまた禁じられた。そうでなければ、〔法王が〕神として礼拝され、また聖徒たちが祈られ、また彼らの死体や骨や墓が聖なるものとして信じられ、ここから利益を得るほどの、それほどの偶像崇拝を導き入れることはできなかった。ここから、盲目の信仰は、どれほどひどい虚偽を生み出すことができるか明らかである。
(1) 原文
9. Fides caeca etiam permansit postea apud plures Reformatos, ex causa quia separaverunt fidem a charitate; et qui separant illas non possunt non in ignorantia veri esse, et cogitationem quod ita sit separatam ab agnitione interna quod ita sit, nominare fidem, Apud hos ignorantia est tutamen dogmatum; nam quamdiu ignorantia regnat, et persuasio quod theologica transcendant, possunt loqui et non contradici, et credi quod vera sint, et quod ii intelligant illa.
(2) 直訳
Fides caeca etiam permansit postea apud plures Reformatos, 盲目の信仰はまた、その後、改革主義の教会の多くの者のもとにも継続した。
ex causa quia separaverunt fidem a charitate; その理由は彼らが信仰を仁愛から分離してしまったからである。
et qui separant illas non possunt non in ignorantia veri esse, それらを分離する者らは真理への無知の中にいないでいることはできない、〔二重否定〕
et cogitationem quod ita sit separatam ab agnitione interna quod ita sit, nominare fidem, そして思考は内なる承認から分離したそのようなものであり、信仰と名づけるものはそのようなものである。
☆直訳です。これでわかってもらいたのですが、そうもいかないでしょうね。「彼らが信仰と名づけるものは(真理の)内なる承認から分離した思考のようなものである」ことです。
Apud hos ignorantia est tutamen dogmatum; これらの者に(とって)無知は教義を保護するものである。
nam quamdiu ignorantia regnat, et persuasio quod theologica transcendant, なぜなら、無知が、また神学上の事柄は〔理解力を〕超えていることの〔誤った〕信念が支配する間は、
possunt loqui et non contradici, et credi quod vera sint, et quod ii intelligant illa. 話すこと、反駁されないこと、〔信徒たちが〕真理であること、彼らがそれらを理解すると信じることができる(からである)。
(3) 訳文
盲目の信仰はまた、その後、改革主義の教会の多くの者のもとにも継続した。その理由は彼らが信仰を仁愛から分離してしまったからである。そして分離する者らはどうしても真理への無知の中にいないではおれず、彼らが信仰と名づけるものは(真理の)内なる承認から分離した思考のようなものである。彼らにとって、無知は教義を保護するものである。なぜなら、無知や神学上の事柄は〔理解力を〕超えているという信念が支配している間は、反駁させずに話すことができ、〔信徒たちが〕真理であると信じ、自分たちはそれらを理解すると信じるようにさせることができるからである。