DE BINIS REQUISITIS, UT OPERA SINT BONA.
働き(業)が善であるために、二つの必要なものについて
(1) 原文「934番」
3 De operibus in superiori articulo dictum est quod opera ab homine non sint bona, sed solum quae fiunt a Domino apud hominem. Sed ut opera fiant a Domino et non ab homine, sunt duo necessaria; primum, ut agnoscatur Divinum Domini, et quoque pro Deo caeli et terrae, etiam quoad Humanum, et quod ab Ipso sit omne bonum quod bonum est: alterum, ut homo secundum praecepta decalogi vivat, abstinendo ab illis malis quae ibi praescripta sunt; ut a cultu aliorum deorum, a profanatione nominis Dei, a furtis, ab adulteriis, ab homicidiis, a falsis testimoniis, a concupiscentia possessionum et proprietatum quae sunt aliis. Haec duo requisita sunt, ut opera quae fiunt ab homine sint bona. Causa est, quia omne bonum a solo Domino venit, et quia Dominus non potest intrare apud hominem ac ducere illum quamdiu illa mala ut peccata non remota sunt; sunt enim infernalia, immo sunt infernum apud hominem; et nisi infernum remotum sit, non potest Dominus intrare et aperire caelum. Haec quoque intelliguntur per Domini verba ad divitem,
Qui interrogavit Ipsum de vita aeterna, et dixit quod a juventute sua custodiverit praecepta decalogi; quem dicitur Dominus amavisse, et docuisse quod unum ei deesset, ut venderet omnia quae haberet, tollens crucem (Matth. xix. 16-22; Marc. x. 17-22; Luc. xviii, 18-23):
per “vendere omnia quae haberet,” significatur quod relinqueret religiosa sua, quae erant traditiones, erat enim Judaeus, et quoque ut relinqueret propria sua, quae sunt se et mundum amare prae Deo, ita semet ducere; et per “sequi Dominum” significatur agnoscere Ipsum solum, et duci ab Illo; quare etiam dixit Dominus, “Quid Me vocas bonum? Nemo est bonus nisi solus Deus;” per “tollere crucem suam,” significatur pugnare contra mala et falsa, quae ex proprio sunt.
(2) 直訳
De operibus in superiori articulo dictum est quod opera ab homine non sint bona, sed solum quae fiunt a Domino apud hominem. 働きについて前の節の中で言われた、人間によ〔り行なわれ〕る働きは善ではないこと、しかし〔それ〕だけ〔あること〕、人間のもとで主により行なわれるもの。
Sed ut opera fiant a Domino et non ab homine, sunt duo necessaria; しかし、主により行なわれて、また人間により〔行なわれ〕ない働きであるためには、二つの必要なものがある。
primum, ut agnoscatur Divinum Domini, et quoque pro Deo caeli et terrae, etiam quoad Humanum, et quod ab Ipso sit omne bonum quod bonum est: 最初に(第一に)、主の神性が、そしてまた天地の神として、さらにまた人間性に関して認められること、またその方からすべての善が存在すること、それは善である。
alterum, ut homo secundum praecepta decalogi vivat, abstinendo ab illis malis quae ibi praescripta sunt; 第二に、人間は十戒の戒めにしたがって生きること、それらの悪を断って(慎んで)☆、それらはそこ〔十戒〕に定められている。
☆ abstineoはab, aをともなって「断つ、やめる」の意味があります。
ut a cultu aliorum deorum, a profanatione nominis Dei, a furtis, ab adulteriis, ab homicidiis, a falsis testimoniis, a concupiscentia possessionum et proprietatum quae sunt aliis. 例えば(~のように)、他の神々の礼拝を、神の名前の冒涜を、盗みを、姦淫を、殺人を、偽りの証言を、財産と所有物の欲望を〔断って、慎んで〕それらは他の者のものである。
Haec duo requisita sunt, ut opera quae fiunt ab homine sint bona. これらの二つ☆が必要である、人間により行なわれる働きが善であるために。
☆ 少し余計かもしれません。この表題のbinus(二重の)もここのduo(二つの)も同じ「二つの」という意味です(その違いが気になった方はいるでしょうか? 私は気になります、それで余計なことを言います)。意味としてはbinusには「対(組)になった二つ」の意味が濃厚であり(英語の例としてbicycle「二つの輪」)、duoは数として一般的な「二つ」です。では「スヴェーデンボリがなぜ使わけのか」、これは疑問として成立しません。というのはこの表題は原著になく、ラテン語版を出版した編集者(サミュル・ウスター)が見出しとしてつけたものだからです。ついでに述べますが他の標題もみなそうです。本文中のduoとの整合性からはbinisでなくduobusとすればよかったかもしれません。
Causa est, quia omne bonum a solo Domino venit, et quia Dominus non potest intrare apud hominem ac ducere illum quamdiu illa mala ut peccata non remota sunt; 理由がある、すべての善は主だけからやって来るから、また主は,それらの悪が罪として遠ざけられていないかぎり、人間のもとに入ること、そして彼を導くことができないからである。
sunt enim infernalia, immo sunt infernum apud hominem; というのは、〔それらの悪は〕地獄のものである、それどころか、人間のもとで地獄であるから。
et nisi infernum remotum sit, non potest Dominus intrare et aperire caelum. また、もし地獄が遠ざけられていないなら、主は入ること、また天界を開くことができない。
Haec quoque intelliguntur per Domini verba ad divitem, このことが、富んだ者への主のことばによってもまた意味される、
Qui interrogavit Ipsum de vita aeterna, et dixit quod a juventute sua custodiverit praecepta decalogi; その者はその方に永遠のいのちについて質問した、また言った、自分の青年期から十戒の戒めを守ってきたこと。
quem dicitur Dominus amavisse, et docuisse quod unum ei deesset, ut venderet omnia quae haberet, tollens crucem (Matth. xix. 16-22; Marc. x. 17-22; Luc. xviii, 18-23) その者に主は言われた、愛したこと、また教えたこと、彼に一つのことが欠けていること、持っているすべてのものを売り、十字架を取る(持ち上げる)ように(マタイ 19:16-22、マルコ 10:17-22 、ルカ 18:18-23)。
per “vendere omnia quae haberet,” significatur quod relinqueret religiosa sua, quae erant traditiones, erat enim Judaeus, et quoque ut relinqueret propria sua, quae sunt se et mundum amare prae Deo, ita semet ducere; 「持っているすべてのものを売ること」によって、自分の宗教を残す(捨てる)ことが意味される、それは伝統(伝承)のものであった、というのは、ユダヤ人であったから、そしてまた、自分のプロプリウム☆を残す(捨てる)こと、それは自分自身と世を神よりも愛すること、そのように自分自身を導くこと〔が意味される〕。
☆ 英訳書(チャドウイック訳)の注に「ラテン語の“プロプリウム”は「自己のもの」を意味する。スヴェーデンボリは「自己に属するもの」を含めた特別な意味で用いている」とあります。
参考までに“プロプリウム”についてスヴェーデンボリの言葉を以下に紹介します。
○一般的にプロプリウムについて、これは二面性があり、一つは地獄的、もう一つは天界的である。人間は地獄的なものを地獄から、天界的なものを天界から、すなわち,天界を通して主から受けている(「秘義」3812番)。
○人間のプロプリウムは自己愛であり、そこからの自己知性へのうぬぼれである(「聖書の教え」60番)。
○人間のプロプリウムは……悪とそこからの虚偽以外の何ものでもない……意志のプロプリウムが悪であり、そこからの理解力のプロプリウムが虚偽であり……(「講解」585a番)。
et per “sequi Dominum” significatur agnoscere Ipsum solum, et duci ab Illo; また「主に従うこと」によって、その方だけを認めること、またその方により導かれることが意味される。
quare etiam dixit Dominus, “Quid Me vocas bonum? それゆえ、さらにまた主は言われた、「あなたはわたしを善と呼ぶ、〔それが〕何か☆?」
☆ quisは「何か、だれか」という意味です。ここではその中性形です。ギリシア原典もやはり「何か、だれか」という言葉であり、やはり中性形ですが、「なせ」という意味もあります。
さて、私が思うに、「善」を問題としたので中性形(もしも善人とするなら、男性形とするはずです)であり、「あなたはわたしを善と呼ぶが」その「善」とは何か、というニュアンスがあるのではないでしょうか。または、呼ぶこと全体を指して、そのことは何か、というニュアンスもあるでしょう、その場合、「なぜ、そのように呼ぶのか」という私から見れば一種の意訳も成り立ちます。
Nemo est bonus nisi solus Deus;” 神だけでないなら(を除いて、以外に)、だれも善ではない」。
per “tollere crucem suam,” significatur pugnare contra mala et falsa, quae ex proprio sunt. 「自分の十字架を取る(持ち上げる)こと」によって、悪と虚偽に対して戦うことが意味される、それらはプロプリウムからのものである。
(3) 訳文(『黙示録講解』934番)
3 働きについて前の節の中で、人間による働きは善ではない、しかし、人間のもとで主により行なわれるものだけ〔が働き〕であることが述べられた。
しかし、主により行なわれて、人間によらない働きであるためには二つの必要なものがある。第一に、主の神性が、そしてまた天地の神として、さらにまた人間性に関して認めること、またその方から善であるすべての善が存在することを認めることである。第二に、人間は十戒の戒めにしたがって、そこ〔十戒〕に定められているそれらの悪を断って生きることである。すなわち、他の神々の礼拝、神の名前の冒涜、盗み、姦淫、殺人、偽りの証言、他の者のものである財産と所有物の欲望を断つことである。
人間により行なわれる働きが善であるために、これらの二つが必要である。その理由は、すべての善は主だけからやって来るから、また主は,それらの悪が罪として遠ざけられていないかぎり、人間のもとに入ること、そして彼を導くことができないからである。というのは、〔それらの悪は〕地獄のものである、それどころか、人間のもとで地獄であるから。また、もし地獄が遠ざけられていないなら、主は入ること、また天界を開くことができない。このことが、富んだ者への主のことばによってもまた意味される、
その者はその方に永遠のいのちについて質問し、また、自分の青年期から十戒の戒めを守ってきた、と言った。その者に主は言われた、愛したこと、また、彼に一つのことが欠けていること、持っているすべてのものを売り、十字架を取るように、と教えたこと(マタイ 19:16-22、マルコ 10:17-22 、ルカ 18:18-23)。
「持っているすべてのものを売ること」によって、伝承)のものであった自分の宗教を捨てることが意味される、というのは、ユダヤ人であったから、そしてまた、自分のプロプリウムを捨てることが意味される、それは自分自身と世を神よりも愛すること、そのように自分自身を導くことである。また「主に従うこと」によって、その方だけを認めること、またその方により導かれることが意味される。それゆえ、さらにまた主は言われた、「あなたはわたしを善と呼ぶが、それは何か? 神だけ以外に、だれも善ではない」。
「自分の十字架を取ること」によって、プロプリウムからのものである悪と虚偽に対して戦うことが意味される。