原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (14)(直訳と訳文)

(2) 直訳(3義認と善い働き[3])

[3] Haec est fides hodierna in summario, verum confirmationes ejus et traditiones de illa sunt plures et multiplices, ex quibus aliquae etiam adducentur, quae sunt, [3] これ(女性)が要約した今日の信仰である、けれども、その確証(証拠)とそれらについての伝承は数多くまた多種多様である、それらから何らかのものもまた提示される(未来)、それらである、

Quod homines non possint justificari coram Deo propriis viribus, meritis et operibus, sed gratis propter Christum, per fidem, per hanc quod credant se in gratiam recipi et peccata remitti propter Ipsum, Qui Sua morte pro nobis satisfecit, et quod Deus Pater hoc credentibus imputet propter justitiam coram Ipso: 人間は固有の(それ自身の)ものの力で、功績と働きで、神の前に義とされることができないこと、しかし、無料でキリストのために、信仰によって、これ〔信仰〕によって、自分たち自身が恵みの中へ受け入られること、また罪が赦されることを信じている、その方のために、その方は、ご自分の死で私たちのためにあがなった(満足させた)、また父なる神はこれを信じる者たちに転嫁すること、ご自分(神)の前の義のために。

quod fides haec non tantum sit notitia historica quod Christus pro nobis passus et mortuus sit, sed etiam assensus corde, confidentia et fiducia, quod gratis propter Christum remittantur peccata et justificentur; この信仰はこんな程度に歴史の(史実に基づく)知識ではない、キリストが私たちのために苦しまれ、また死んだこと、しかしさらにまた心での同意、信任と信頼〔である〕、無料でキリストのために罪が赦される、また義とされること。

et quod tunc haec tria concurrant, Promissio gratuita, Meritum Christi tanquam pretium, et Propitiatio: またその時、これら三つのものが一緒に走る(群がり集まる)こと、無料の約束、いわば代価〔としての〕キリストの功績、また贖罪(和解)。

quod fides sit justitia, qua coram Deo justi reputamur propter promissionem: 信仰は義(公正)であること、それによって神の前に正しい者が私たちは評価される(見なされる)、約束のために。

et quod justificari sit absolvi a peccatis, et quod etiam quodam modo dici possit vivificari et regenerari: また義とされることは罪から赦免されることであること、またある種の方法(様式)でもまた言われることができること、生かされることまた再生されること。

quod fides nobis ad justitiam reputetur, non quia illa tam bonum opus est, sed quia meritum Christi apprehendit: 信仰は私たちに義に(向けて)評価される(見なされる)こと、それ〔信仰〕がこれほどに善の働きであるからではない、しかし、キリストの功績をつかまえるからである。

quod meritum Christi sit Ipsius Obedientia, Passio, Mors et Resurrectio: キリストの功績は、その方の服従、受難、死と復活であること。

quod necessum sit, ut aliquid sit per quod Deus adiri potest, et quod id non aliud sit quam fides per quam fit receptio. 必要であること、何らかのものが存在すること、それによって神に近づくことができる、またそれは信仰以外の何らかのものでないこと、それによって受け入れが生じる。

 

(3) 訳文

 [3] これが要約した今日の信仰である、けれども、その確証とそれらについての伝承は数多くまた多種多様である、それらからの何らかのものもまた提示しよう、これらである、

 

 人間は自分自身の力、功績、働きで、神の前に義とされることができない、しかし、キリストのために無償で、信仰によって、この信仰によって、自分たち自身が恵みの中へ受け入られ、その方のために罪が赦されることを信じている、その方は、ご自分の死で私たちのためにあがない、父なる神はご自分(神)の前の義のために、これを信じる者たちに転嫁される。

この信仰は、キリストが私たちのために苦しまれ、死なれたといった史実に基づく知識ではない、しかしさらにまた、キリストゆえに無償で罪が赦され、また義とされることの心からの同意、信任と信頼である。またその時、これら三つのもの、無償の約束、いわば代価〔としての〕キリストの功績、また贖罪(和解)が群がり集まる。

 信仰は義であり、それによって約束ゆえに神の前に正しい者として私たちが見なされる。また義とされることは罪から赦免されることであり、生かされることち再生されることであるとも言われることができる。私たちに信仰は義と見なされるのは、その信仰がこれほどに善の働きであるからではなく、しかし、キリストの功績をつかまえるからである。

キリストの功績は、その方の服従、受難、死と復活である。

 それによって神に近づくことができる何らかのものが存在することが必要であり、それは信仰以外の何らかのものでなく、それによって受け入れが生じる。

原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (15)(直訳と訳文)

(2) 直訳(3義認と善い働き[?])

[4] Quod fides in actu justificationis intret per Verbum et auditum, et quod non sit actus hominis, sed quod sit operatio Spiritus Sancti, et quod tunc homo non cooperetur plus quam statua salis, truncus aut lapis, nihil ex se agens, et de eo nihil sciens, sed quod post actum cooperetur, verum non cum aliqua voluntate propria in spiritualibus; [4] 信仰は義認の活動の中で、みことばと聴覚を通して入ること、また人間の活動ではないこと、しかし、聖霊の働きであること、またその時、人間は塩の柱☆、幹(丸太)または石以外にさらに協力しないこと、それ自体からは何も行なわない、そのことについて何も知らない、しかし、活動の後、協力すること、けれども、霊的なものの中で〔人間に〕固有のものの何らかの意志とともにでなく。

☆ 「塩の柱」については創世記19:26参照。

aliter in naturalibus, civilibus et moralibus; 異なって〔いる〕、霊的なもの、市民的なもの、道徳的なものの中で。

attamen quod tunc in spiritualibus eo usque possint progredi, ut bonum velint, eoque delectentur, sed hoc ipsum non a sua voluntate, sed a Spiritu Sancto, et quod sic cooperentur non a suis viribus, sed a novis viribus et donis, quae Spiritus Sanctus in conversione inchoavit; しかしながら、その時、霊的なものの中でそれだけ(eo usuque)進むことができる、善を欲するように、そしてそれだけ(eo)楽しむ(満足する)、しかし、このことそのものは自分の意志からではない、しかし、聖霊から、またこのように自分の力からでなく協力する、しかし新しい力と賜物から、それらを聖霊が回心の中で始めた。

quodque in vera conversione immutatio, renovatio et motus fiant in hominis intellectu et corde: そして真の回心の中で、人間の理解力と心の中に、変化、更新また運動(衝動・感動)が生じること。

quod charitas, bona opera et paenitentia non ingrediantur actum justificationis, sed quod in statu justificationis necessaria sint, imprimis propter mandatum Dei, et quod per illa mereantur praemia hujus vitae corporalia, sed non remissionem peccatorum et vitae aeternae gloriam, quia sola fides absque operibus legis justificat et salvat: 仁愛、善い働きまた悔い改めは義認の活動に入らないこと、しかし、義認の状態の中で必要であること、特に神の命令のために、またそれらによってこのいのち(生活)の身体的な報酬に値すること、しかし、罪の赦しと永遠のいのちの栄光に〔値し〕ない、信仰のみが律法の働きなしに義とする、また救うからである。

quod fides actu hominem justificet, sed fides statu renovet: 活動での信仰は人間を義とする、しかし状態での信仰は更新する(新しくする)こと。

 

(3) 訳文

 [4] 信仰は義認の活動の中で、みことばと聴覚を通して入り、人間の活動ではなく、しかし、聖霊の働きである、またその時、人間は、それ自体からは何も行なわない、そのことについて何も知らない塩の柱☆、丸太または石以上にさらに協力しない、しかし、活動の後、協力する、けれども、霊的なものの中で〔人間に〕固有のものの何らかの意志とともにではない。霊的なもの、市民的なもの、道徳的なものでは異なっている。しかしながら、その時、霊的なものの中で、善を欲し、そしてそれだけ楽しむように、それだけ進むことができる、しかし、このこと自体は自分の意志からではなく、しかし、聖霊から、またこのように自分の力からでなく、しかし聖霊が回心の中で始めた新しい力と賜物から協力する。そして真の回心の中で、人間の理解力と心の中に、変化、更新、衝動が生じること。仁愛、善い働きまた悔い改めは、義認の活動に入らない、しかし、義認の状態の中で、特に神の命令のために、必要であり、またそれらによってこのいのち(生活)の身体的な報酬に値す、しかし、罪の赦しと永遠のいのちの栄光に値しない、信仰のみが律法の働きなしに義とし、救うからである。活動での信仰は人間を義とする、しかし状態での信仰は更新する。

 

☆ 「塩の柱」については創世記19:26参照。

原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (16)(直訳と訳文)

(2) 直訳(3義認と善い働き[5], [6])

[5] quod in renovatione propter mandatum Dei, necessario facienda sint honesta opera, quae Decalogus praecipit, quia vult Deus ut carnales cupiditates coerceantur civili disciplina; [5] 神の命令のために更新の中で、立派な(似つかわしい)働きが行なわれべきである必要性、それを「十戒」が命じている、神が欲するからである、肉の欲望が市民の(公民的な)矯正(懲戒)で抑制されるように。

quare dedit doctrinam, leges, magistratus et poenas: それゆえ、〔神は〕教え、律法、行政長官や罰を与えた。

quod ideo sequatur falsum esse, quod per opera mereamur remissionem peccatorum et salutem, tum quod opera aliquid faciant ad fidem conservandam; それゆえ、虚偽であることがいえる、働きによって私たちが罪の赦しと救いに値すること、なおまた働きは信仰を保つ(守る)ために何らかのものを行なうこと。

et quoque falsum esse, quod homo reputetur justus propter justitiam rationis suae, et quod ratio possit propriis viribus Deum super omnia amare, ac legem Ipsius facere: そしてまた虚偽であること、人間は自分の理性の公正(義)のために正しいと見なされること、また理性はプロプリウム(固有なもの)の力ですべてのものにまさって神を愛すること、そしてその方の律法を行なうことができること。

verbo, quod fides et salus in hominibus conserventur et retineantur non per bona opera, sed tantum per Spiritum Dei et per Fidem; 一言でいえば、人間の中の信仰と救いは善の働きによってでなく保たれる(守られる)また保有される、しかし、それだけ神の霊によってまた信仰によって。

sed usque quod bona opera testimonia sint, quod Spiritus Sanctus praesens sit, et in illis habitet: しかしそれでも、善の働きは証拠である、聖霊が現在すること、また彼らの中に住んでいる。

damnatur, ut perniciosa, phrasis, quod bona opera noxia sint ad salutem, quia intelligenda sunt opera Spiritus Sancti interiora, quae bona sunt, non exteriora procedentia a propria voluntate hominis, quae non bona sunt sed mala, quia meritoria. 断罪される(批難される)、破滅的な(有害な)ものとして、言いまわしは、善の働きは救いに有害であること、聖霊の内的な働きが理解されなければならないからである、それは善である、人間の意志のプロプリウム(固有なもの)から発出する外的なものが〔理解されてはなら〕ない、

それは善ではない、しかし悪、功績を求めるもの〔である〕からである☆。

☆ ここのquiaが原文ではquaとなってしまいました。訂正します。

 

[6] Tradunt praeterea, quod Christus Ultimo Judicio laturus sit sententiam de operibus bonis et malis tanquam effectis propriis et non propriis fidei hominis. [6] さらに伝えられている(述べられている)、キリストは最後の審判で善のまた悪の働きについて判断(判決)をほえるであろうこと、いわば結果に、人間の信仰のプロプリウム(固有なもの)とプロプリウム(固有なもの)でない。

Haec fides hodie regnat in toto Christiano Reformato Orbe apud Clericos, sed non apud Laicos nisi perpaucos; この信仰は今日、改革派のキリスト教界全体を支配している、聖職者のもとで、しかし、平信徒のもとでない、非常に数少ない〔者のもので〕ないなら。

Laici enim non aliud intelligunt per fidem, quam credere in Deum Patrem, Filium et Spiritum Sanctum, et quod qui bene vivit et bene credit, salvetur; というのは、平信徒は信仰によって何らかのものを理解しないから、父なる神と、子と聖霊を信じること以外に、また善く生き、善く信じる者は、救われること。

et de Domino quod sit Salvator; また、主について、救い主であること。

ignorant enim arcana justificationis Praedicatorum suorum, qui tametsi illa praedicant, usque apud auditores Laicos intrant per unam aurem et exeunt per alteram; というのは、自分たちの説教者の義認の秘義を知らない(無知である)から、その者はたとえそれらを説教しても、それでも聞き手の平信徒のもとで一方の耳に入り、またもう一方〔の耳〕から出る。

imo ipsi Doctores se reputant eruditos ex scientia illorum, ac in Gymnasiis et Lyceis multum laborant ut illa capiant; それどころか(実に)、教える者(教師)自身が自分自身を、それらの知識から学問のある者と見なしている、そしてギムナジウム(単科大学)や高等学校の中で多く苦労する(骨を折る)、それらを捕える(会得する)ために。

quare supra dictum est, quod illa fides sit fides Clericorum. それゆえ、上に言われた、その信仰は聖職者の信仰であること。

 

(3) 訳文

 [5] 神の命令のために更新の中で、似つかわしい働きが行なわれべきである必要性があり、それを「十戒」が命じている、肉の欲望が公民的な懲戒で抑制されるように神が欲するからである。それゆえ、〔神は〕教え、律法、行政長官、罰を与えられた。それゆえ、働きによって私たちが罪の赦しと救いに値すること、なおまた働きは信仰を守るために何らかのものを行なうことは虚偽であることがいえる。そしてまた、人間は自分の理性の公正(義)のために正しいと見なされること、また理性はプロプリウム(固有なもの)の力ですべてのものにまさって神を愛し、そしてその方の律法を行なうことができることは虚偽であること。一言でいえば、人間の中の信仰と救いは、善の働きによってでなく、しかし、神の霊によってまた信仰によってそれだけ守られ、保有される。しかしそれでも、善の働きは、聖霊が現在し、彼らの中に住んでいる証拠である。善の働きは救いに有害であることの言いまわしは、破滅的なものとして断罪される、善である聖霊の内的な働きが理解され、人間の意志のプロプリウム(固有なもの)から発出する外的なものが理解されてはならないからである。それは善ではなく悪である、功績を求めるものであるからである。

 

 [6] さらに、キリストは最後の審判で善のまた悪の働きについての判決を、いわば結果である人間の信仰のプロプリウム(固有なもの)とプロプリウム(固有なもの)でないことを、ほえる〔声高に叫ぶ〕であろうことが伝えられている。

今日、この信仰は改革派のキリスト教界全体を、聖職者のもとで支配している、しかし、非常に数少ない者でないなら平信徒のもとではない。

 というのは、平信徒は信仰によって、父なる神と子と聖霊を信じること、また善く生き、善く信じる者は、救われること、また、主について、救い主であること以外に何らかのものを理解しないから。というのは、自分たちの説教者の義認の秘義を知らず、その説教者がたとえそれらを説教しても、それでも聞き手の平信徒のもとで一方の耳に入り、もう一方の耳から出るから。それどころか、教える者自身が、自分自身を、れらの知識から学問のある者と見なしている、そして大学や高等学校の中で、それらを会得するために多くの苦労をしている。それゆえ、前にその信仰は聖職者の信仰であることが言われた。

原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (17)(直訳と訳文)

(2) 直訳(3義認と善い働き[7, 8, 9])

[7] Sed usque Doctores eandem hanc fidem in Regnis ubi Reformati sunt, diversimode docent. [7] しかし、教える者はこの同じ信仰をそこに改革派教会の者がいる王国の中で、異なって教えている。

In Germania, Suecia et Dania, ドイツ、スウェーデンとデンマークの中で、

Quod Spiritus Sanctus per illam fidem operetur, ac homines justificet et sanctificet, ac postea successive renovet et regeneret, sed absque operibus legis; 聖霊は、それによって信仰が働く、そして人間を義とする、また聖別する、そしてその後、しだいに更新する、また再生させる、しかし、律法の働きなしに。

et qui in illa fide ex fiducia et confidentia sunt, in gratia apud Deum Patrem sint; また信頼と信任からその信仰の中にいるので、父なる神の恩恵の中にいる。

et quod tunc mala quae faciunt quidem appareant, sed jugiter remittantur. またその時、行なう悪は確かに(なるほど)見られるが、しかし常に赦される。

[8] In Anglia, [8] イギリスの中で、

Quod illa fides operetur charitatem inscio homine, et quod id etiam bonum charitatis sit, quod homo interius sentit Spiritum Sanctum apud se operari: その信仰は人間が知らないで仁愛を働くこと、またそれは仁愛の善でもある、人間が内部に自分のもとに働く聖霊を感じること。

et si non sentit, et usque propter salutem facit bonum, quod id possit dici bonum, sed quod usque trahat ex homine quod in eo sit meritum: またもし感じないなら、またそれでも救いのために善を行なう〔なら〕、それは善と言われることができる、しかし、人間から得ていない、その中に功績があること。

tum quod illa fides id possit in ultima mortis hora operari, tamen non scitur quomodo. なおまたその信仰はそれを死の最期の時に働くことができること、それでもなおどのように〔働く〕か知らない。

[9] In Hollandia, [9] オランダの中で、

Quod Deus Pater propter Filium per Spiritum Sanctum justificet et purificet hominem interius per illam fidem, sed usque ad propriam voluntatem ejus, a qua se deflectit, nec illam tangit (quidem quod leviter tangat), et quod sic mala voluntatis hominis non appareant coram Deo. 父なる神は子のために聖霊を通して内的な人間を義とする、また清める、その信仰を通して、しかしそれでも彼の意志のプロプリウム(固有のもの)へでない、それからご自分を逸らせる、それを触れもしない(ある者を、〔神は〕わずかに触れる)、またこのように人間の意志の悪は神の前に見られないこと。

 

Sed de his illorum arcanis pauci ex Laicis norunt, nec volunt illa, sicut sunt, propalare, quia sciunt quod illa non sapiant. しかし、それらのこれらの秘義について平信徒からのわずかな者が知っている、それらを欲しもしない、例えば、公けにすることである、 知っているからである、それらが味がしないことを。

 

(3) 訳文

 [7] しかし、教える者はこの同じ信仰をそこに改革派教会の者がいる王国の中で、異なって教えている。

 ドイツ、スウェーデン、デンマークでは、

 

 聖霊は、それによって信仰が働き、そして人間を義とし、また聖別する、そしてその後、しだいに更新し、再生させる、しかし、律法の働きなしに。また信頼と信任からその信仰の中にいるので、父なる神の恩恵の中にいる。またその時、行なう悪は確かに見られるが、しかし常に赦される。

 

 [8] イギリスでは、

 

 その信仰は人間が知らないで仁愛を働く、またそれは仁愛の善でもあり、人間が内部に自分のもとに働く聖霊を感じる。またもし感じないで、それでも救いのために善を行なうなら、それは善と言われることができる、しかし、その中に功績がある人間から得ている。なおまたその信仰はそれを死の最期の時に働くことができる、それでもなおどのように働くか知らない。

 

 [9] オランダでは、

 

父なる神は子のために聖霊を通して内的な人間を義とし、清め、その信仰を通して、しかしそれでも彼の意志のプロプリウム(固有のもの)へでなく、それからご自分を逸らせる、それを触れもしない(ある者を、〔神は〕わずかに触れる)、またこのように人間の意志の悪は神の前に見られない。

 

 しかし、それらのこれらの秘義について平信徒からのほとんどの者が知らず、それらを欲しもしない、例えば、公けにすることである、それらに味がないことを知っているからである。

原典講読『啓示された黙示録』 教えの事柄 (18)(直訳と訳文)

(2) 直訳(4律法と福音)

4{1}. DE LEGE ET EVANGELIO.― 4 律法と福音について――

Quod Lex a Deo data sit, ut sciatur quid peccatum, et sic ut id comminatione et metu, et dein promissione et annuntiatione gratiae, arceatur; 律法が神により与えられたこと、何が罪か知られるために、またこのようにそれが脅しと恐れのために、またその後、恩恵の約束と告知〔のために〕、抑制される。

quare praecipuum officium Legis est, ut peccatum originale et omnes fructus ejus revelentur, ac sciatur quam horrendum in modum natura hominis lapsa et funditus depravata est; それゆえ、律法の主要な役割は、原罪とそのすべての果実(産物・成果)が現わされる(示される)ために、そして知られる、人間の性質の様式(制限)の中でどれほど恐ろしい堕落、また根本から腐敗したか。

hac ratione hominem perterrefacit, humiliat, prosternit, usque ut desperet de se ipso, et anxie desideret auxilium; この論拠で人間を脅す、卑しめる、ひれ伏す(=ひれ伏せさせる)、自分自身そのものについて絶望するようにまでも、また心配(不安)で助けを願う。

hic effectus Legis vocatur Contritio, quae non est activa seu factitia, sed passiva, et conscientiae cruciatus. 律法のこの効果(結果)は痛悔と呼ばれる、それは活動的または人造のものではない、しかし、受動的、また良心の責め苦である。

Evangelium autem est tota Doctrina de Christo et de fide, et sic de remissione peccatorum, ita laetissimus nuntius non arguens et terrens, sed consolans: けれども、福音は教えの全体である、キリストについてまた信仰について、またこうして罪の赦しについて、そのように最も喜ばしい使者〔である〕、責め〔ない〕、また怖がらせない、しかし、慰める。

per Legem ira Dei revelatur super omnem impietatem, et homo damnatur, quare facit ut homo ad Christum respiciat, et ad Evangelium; 律法によって、神の怒りはすべて不敬な者の上に現わされる(啓示される)、また人間は断罪される、それゆえ、人間はキリストへ向く(留意する)ようにする(=される)、また福音へ。

praedicatio de utraque erit, quia conjuncta sunt: 両方のものについて伝道(説教)がなくてならない、結合しているからである。

Evangelium docet, quod Christus in Se susceperit omnem maledictionem Legis, et omnia peccata expiaverit, et quod remissionem per fidem consequamur. 福音は教える、キリストはご自分の中に律法のすべての呪いを、またすべての罪をあがなった(償った)こと、また赦しを信仰によって私たちは達成すること。

Quod Spiritus Sanctus non per Legis sed per Evangelii praedicationem detur et accipiatur, et cor hominis renovetur, et quod Spiritus dein ministerio Legis utatur, ut doceat et in Decalogo monstret, quae sit voluntas Dei bona et placens; 聖霊は、律法によってではなく福音の伝道によって、与えられる、また受け入られること、また人間の心を更新する、また〔聖〕霊はその後、律法の仕えること(機能)を用いる、教え、また十戒の中で示すために、それは神の善と喜ぶ意志(みこころ)である。

sic Spiritus mortificat et vivificat. このように〔聖〕霊は死なす、また生かす。

Quod discrimen faciendum sit inter opera Legis et inter opera Spiritus; 相違を行なわなければならないこと、律法の働きの間と〔聖〕霊の働きの間の。

quare fideles non sunt sub Lege sed sub Gratia, nempe illa ratione. それゆえ、忠実な者は律法の下にいない、しかし恩恵の下に、すなわち、その論拠で。

Quod justitia Legis non justificet, hoc est, non reconciliet, neque regeneret, neque per se faciat acceptos Deo, sed donato Spiritu Sancto sequitur Legis impletio: 律法の義(公正)は義としないこと、すなわち、和解させない、再生もさせない、それ自体によって神の受け入れもしない、しかし聖霊の贈り物で律法の成就が生ずる。

quod opera secundae tabulae Decalogi non justificent, quia per illam agimus cum hominibus, et non proprie cum Deo, et tamen in justificatione agendum est cum Deo. 十戒の第二の板の働きは義としないこと、それら〔十戒の働き〕によって私たちは人間とともに行なうからである、また正しく神とともにでなく、またそれでも義認の中で神とともに行なわなくてはならない。

Quod Christus, quia sine peccato subiit poenam peccati, et victima pro nobis factus est, sustulerit illud jus Legis, ne damnet credentes, quia Ille est propitiatio pro illis, propter quam justi reputantur. キリストは、罪なしに罪の罰を受けたので、また私たちのためにいけにえとなった、そのことは律法の権利を手に持った、信じる者が断罪されないように、それは彼らのための贖罪(和解)である、そのために正しい者と見なされる。

@1 4 pro “III.” 注1 「III.」の代わりに4

 

(3)訳文

4 律法と福音について――

 何が罪か知られに、またこのようにそれが脅しと恐れのために抑制され、またその後、恩恵の約束と告知のために、。律法が神により与えられた。それゆえ、律法の主要な役割は、原罪とそのすべての果実が現わされ、そして、人間の性質の様式の中でどれほど恐ろしい堕落また根本から腐敗したことが知られることである。この論拠で人間を、自分自身そのものについて絶望し、また不安で助けを願うようにまでも、脅し、卑しめ、ひれ伏せさせる。律法のこの効果は痛悔と呼ばれ、それは活動的なものまたは人造のものではない、しかし、受動的であり、良心の責め苦である。

 けれども、福音は、キリストについてまた信仰について、またこうして罪の赦しについて教えの全体であり、そのように、責めない、怖がらせない、しかし、慰める最も喜ばしい使者である。律法によって、神の怒りはすべて不敬な者に現わされ、また人間は断罪され、それゆえ、人間はキリストへ、また福音へ向くようにされる。両方のものについて伝道がなくてならない、結合しているからである。

 福音は、キリストがご自分の中で律法のすべての呪いを、またすべての罪をあがなった(償った)ことを、また信仰によって私たちが赦しを成することを教えている。

 聖霊は、律法によってではなく福音の伝道によって、与えられ、受け入られ、また人間の心を更新する、またその後、聖霊は、律法の機能を、また十戒の中で示し、教えるために用いる、それは神の善と喜ぶ意志(みこころ)である。このように聖霊は死なし、また生かす。

 律法の働きと聖霊の働きの間の相違が行なわなければならない。それゆえ、すなわち、その論拠で、忠実な者は律法の下にいない、しかし恩恵の下にいる。

 律法の義は義としない、すなわち、和解させない、再生もさせない、それ自体によって神を受け入れもしない、しかし聖霊の賜物によって律法が成就される。十戒の第二の板の働きは義としない、それら〔十戒の働き〕によって私たちは人間とともに、また正しく神とともにでなく行なうからである、またそれでも義認の中で神とともに行なわなくてはならない。

 キリストは、罪なしに罪の罰を受けた、また私たちのためにいけにえとなったので、そのことは、信じる者が断罪されないように律法の権利を手に持たれた、それは正しい者と見なされるための彼らのための贖罪(和解)である。