宿題:その1 次の文の感想が宿題でした。
「神的なものは人類へ向けての愛から、そのいのちについて教え、その救いをもたらすようなことを啓示された。神的なものを啓示したものは、私たちのもとのみことばである」(天界の秘義10320)
まず啓示した内容が簡単に書いてあります。「いのち」これはこの「いのち」を現実場面で「生かす」とすれば「生活」でもあるわけです。すなわち、「いのち」とは何であり、「生きる」とは何か、を教えたのですね。そして、いのちを滅ぼしてしまわないように、その「救い」も教えた、ということです。
で、そうした教えはどこにあるのかといえば、みことば、キリスト教でいえば、いわゆる「聖書」ですね。
(簡単な感想) なるほど、もっともだ。スヴェーデンボリの教えは簡潔、明瞭だな。
(私の感想、上記の感想をもう少し補足して) 「いのち」はこの世だけでなく、肉体を離れた後も、永遠に続くものであること。このことを知れば、現世利益だけを求めようといった気はなくなり、永遠のいのちのために何をすべきか、何を目指すべきか、簡単に言って、主に目を向け、隣人を愛そう、という気持ちになってくる。そして、そうすることが「救い」だよ、と教えられている。聖書をよく読むと、そうしたことがわかる。
ま、読者のみなさま、これに近い感想を持たれたのではありませんか?(こうした宿題は必ずやってください(ラテン語なら「未来完了形」にするところでしょうね)。自分自身で答えを出すことが、「生きる」ことですから)
宿題:その2 次の文のだいたいの内容の把握です。(前回出典個所を間違えました。正しくは1775)
quod necessum fuerit ut aliqua revelatio, ex Divina Domini Providentia, exstiterit, nam revelatio seu Verbum est commune vas recipiens spiritualium et caelestium, ita conjungens caelum et terram, alioquin disjuncta fuissent, et periisset humanum genus; (AC1775)
「何らかの啓示が必要だった?」「神の摂理から存在した?」「みことばが霊的なものと天的なものの受け皿?」「天と地との結合が、どうした? alioquin の意味を確認すれば解決だな」「人類が滅びる」
と、こんなことが書いてありそうだ、と見当つけば、あなたのラテン語はこの講座(?)では中級程度かな?
では単語の勉強。
形容詞「neccesum」:neccesum est で「必要である」。fuerit は sum の未来完了(前回学習した)。
名詞「providentia」:「摂理」。pro(先)+video(見る)を名詞化した(-tia)。英語 providence。
動詞「existo」:exs- を引いても見当たらない。英語の exist と同じだろうと見当をつけて、exis- を探すと、この語の四要素部分に -ere exstiti, とある。意味は「存在するようになる、生ずる」。
接続詞「seu」:「別のことばで言えば」「すなわち」。
形容詞「communis」:英語の common ですね。「共通の、共同の、一般の、普通の」。
名詞「vas」:「器、容器」。英語 vase の語源。
動詞「recipio」:「受け入れる」。英語 reception の語源。recipiens はその「現在分詞の単数主格」( -ns の形はこう思ってよい)。意味は「~している」(英語で現在分詞といえば -ing の形、「~ンス」「~ング」で、似てますね)。
副詞「ita」:「このように、したがって」。
動詞「conjungo」:「結合する」。これも -ns の形からわかるように現在分詞。
名詞「terra」:「地」。
副詞「alioquin」:「そうでなければ」。
動詞「disjungo」:「分離する」。ここは sum とで受動態となっている。fuissent は sum の「接続法・過去完了形」。なぜこの形なのか? alioquin に注目すれば、だいたい察しがつくのではないでしょうか。「事実に反する仮定」の話だからです(文法用語は「条件文」)。それで「接続法」を使うし、仮定となる「時」が「過去」だからです。すなわち「過去の事実に反した仮定は接続法過去完了」。
こうしたことは文法書のほとんど最後あたりに出てきます。でもこの「読もう」では文法書の配列などは無視。各自、適宜、適当な文法書で、再確認しておくこと(これが自主的な勉強)。
動詞「pereo」:per(すっかり)+eo(行く)で「滅びる」。変化は不規則動詞「eo」にしたがう。ここも disjungoと同じく「接続法・過去完了形」。
これで訳せるはず。訳してください。でも ut をどうしましょうか? 副詞「~のような」として、「何らかの啓示のようなもの」とすると、変ですね。気分だけ汲んで、訳出は省きましょう。
「主の神的な摂理からの何らかの啓示が存在することが必要であった。なぜなら、啓示、すなわち、みことばは霊的なものと天的なものを受け入れる器、こうして天界と地を結合しているものであるから。そうでなければ(=存在しなかったなら)、(天界と地は)分離されてしまい、人類滅びてしまった(であろう)」
ここでは「啓示」の必要性について、天界と地を結ぶもの、霊的なものと天的なものを盛る器、として、その別な面を説明していますね。そして啓示がなかったとしたら、人類が存在できなかっただろうとしています。
そのとおりですね。「啓示」という明かりがなかったら、真っ暗闇に放り出されたようなものでしょう。手探りで歩いているうち、とんでもない所(どこでしょう?)に行ったり、穴(これは何でしょう?)に落ちたりしちゃいますね。
* * * * *
では宿題(予習)。やや長くなります。「啓示」について「まとめ」ともいえる内容でしょう。出典は『真のキリスト教(Vera Chrustuana Religio)』(11番)です。
quod cognitio de Deo, et inde agnitio Dei, non dabilis sit absque revelatione; et non cognitio de Domino et inde agnitio quod in Ipso omnis plenitudo Divinitatis habitet corporaliter, quam ex Verbo, quod est revelationum corona; nam homo ex data revelatione pottest obviam ire Deo, et influxum recipere, et sic a naturali fieri spiritualis; (TCR11:1)
カテゴリー: 原典を学ぶ(選集『神のみことば』)
原典を読もう(『神のみことば』) No.17
宿題:どうでしたか? 次の前半だけを学びましょう。
quod cognitio de Deo, et inde agnitio Dei, non dabilis sit absque revelatione; et non cognitio de Domino et inde agnitio quod in Ipso omnis plenitudo Divinitatis habitet corporaliter, quam ex Verbo, quod est revelationum corona;
全体を知るために、先に単語を調べます(個々の単語の意味から全体を把握することもあります)。
名詞「cognitio」:知識、認識。この動詞は cognosco(知る)。
副詞「inde」:ここから、そこで、それゆえに。
名詞「agnitio」:認知、承認。単に知る(cognitio)だけでなく、「認める」わけですね。
形容詞「dabilis」:存在可能な、ありうる。
ここで一区切り、訳してみましょう。「神についての知識、ここから神の承認、〔このことは〕啓示なしにありえない」となりますね。(感想)「そのとおりですね」
形容詞「omnis」:すべての。ここは次の聖句の引用となっています――「In Christo Jesu habitat omnis plenitudo Divinitatis corporaliter」(Coloss. ii. 9)「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形を取って宿っています(新改訳聖書)」(ずいぶんな意訳ですね)。
名詞「plenitudo」:満ちていること、充満性、完全性。英語なら plenitude。
名詞「divinitas」:「神性」。
動詞「habito」:住む、居住する。ここから転じて「宿る」。
副詞「corpolaliter」:肉体の形で。
ここでいったん区切ります。ここの文は non の後に「dabilis sit」が省略されていると見なします。直訳すれば「主についての知識、ここからその方の中に“神性が肉体の形をとってすべて充満して宿っている”ことの承認も〔ありえ〕ない」となりますね。(それでも完全な直訳はむずかしくて、「すべて充満して」と副詞かのように訳しました)
さて最後、
副詞「quam」:否定の後で「~でなく、~を除いて、~のほかは」。(この訳語は『羅和』にありません)
名詞「corona」:冠、英語も corona。太陽の周囲の炎はコロナ。
で、最後の部分の訳は「みことばからでなくては、それは啓示の冠である」となります。これではなんだかわかりませんが、わざとこうしたのは→
←では以上の三つをうまくつなぎ合わせてください。【宿題】とします。やり残しの後半である次の部分も【宿題】とします。
nam homo ex data revelatione pottest obviam ire Deo, et influxum recipere, et sic a naturali fieri spiritualis;
* * * * *
「啓示の冠」とは、古代からいろいろな啓示があったけれども、現在の「みことば」(新教会のおしえでは「聖書」と「スヴェーデンボリの神学著作」を意味します)がその頂点(=冠)であることです。
現在の私たちには「みことば」からの啓示がなかったら、神、主について何もわからない、ということですね。なお、「コロサイ人への手紙」第2章9節はよく引用されます。おもな箇所は、結婚愛82、真のキリスト教101,137,188,294,379,638,655,698,798です。
ここで補足として「学び方」の一例を述べます。
画面を眺めるだけでなく、原文を紙に書き下してください。その文字を眺めてください。そして各単語の下にその訳語を書いてください(こうしたものを「逐語訳」と言います)。そうすると、文の「構成」がよくわかります。時間がかかって回り道なようでも、結局よく理解できます(「急がば回れ」)。その後「訳文」を考えます。
原典を読もう(『神のみことば』) No.18
宿題は次の文を通して訳すことでした。
quod cognitio de Deo, et inde agnitio Dei, non dabilis sit absque revelatione; et non cognitio de Domino et inde agnitio quod in Ipso omnis plenitudo Divinitatis habitet corporaliter, quam ex Verbo, quod est revelationum corona;
次のようなものになりますね。
「神についての知識、ここから神の承認、このことは啓示なしにありえないし、主についての知識、ここからその方の中に神性が満ち満ちて肉体の形をとって宿っていることの承認も、啓示の冠である、みことばからでなくてはありえない」
では、後半を勉強(答え合わせ)しましょう。(pottestはpotestのミスプリ、ごめん)
nam homo ex data revelatione potest obviam ire Deo, et influxum recipere, et sic a naturali fieri spiritualis;
pottest これは? と疑問に思いましたか? 「きっと potest の間違いだろう」と気づくのも実力のうちです。人間のすること、どうしてもミスが入り込みます。そうしたこともある程度、念頭に置かなくてはなりません。さて単語は――
副詞「obviam」:向かい合って、会いに。
動詞「eo」:初心者の方はここの「ire」をどうされたでしょうか? これは果たして何なのか? と途方に暮れている姿が浮かびます。私もそんな時がありました。
アルカナ訳は「神にむかい」と訳してあって「ire」らしきものがない。英訳には(参考にしている人はいますか?)「approach God」とあり、これもよくわからない。どうしたものか?
最初はこうなんですよね。すこし勉強すればわかってくるんですが、それまで辛抱できるかどうか(そこが岐路)。
これが重要な不規則動詞「eo」。なぜ重要かといえばここに接頭辞をつけた動詞が多くあるから。たとえば「exeo」(=ex+eo)は「外に+行く」で「出る」は eo と同じ変化をするから。
この不定法が「ire」、意味は「行くこと」。初心者泣かせですね。
名詞「influxus」:流入。よく出てくるのですぐ覚えてしまう単語。
副詞「sic」:こうして、このように。これもよく出てくる。
これで訳せます。文法的な補足事項としては possum は「不定法」をとって「~できる」という意味になります。ここで potest の対象は ire, recipere(受け入れること), fieri(~となること)です。
「なぜなら、人間は与えられた啓示から、神に会いに行くこと、流入を受け入れること、こうして自然的なものから霊的なものになることができるから」
ここからの感想は各自にまかせます。ここでアルカナ訳に言及したので、それについて私の批評を述べます。『真のキリスト教』は柳瀬訳がありますが、訳が古いので読みづらく、多くの方はアルカナ出版の長島訳を読んでいるかと思います。
この個所の訳は――「人は啓示が与えられると、神に向かい、その流入をうけ、自然的人間から霊的人間になっていきます」。
「そうとうな意訳」というよりもこれでは「自由訳」に近いです(自由訳とは原文の意を汲んで、新たに文を構成すること)。まず「与えられると」と ex を「と」としています。原文のpossum「可能となる」が訳出してありません。次は意訳の範囲でしょうが「自然的人間から霊的人間」としています。
ここから私は長島訳を「読みやすいけれども、長島さん独自の表現法も織り交ぜた、かなり思い切った(個人的な解釈も反映させた)意訳をしている」と感じます。
私は、著者の意図を生かすにはできるかぎり直訳が望ましい、と思っている(それでも、翻訳者の解釈がどうしても入り込む、翻訳の宿命)。
* * * * *
ではやはり宿題。「信仰」はどのようにして生まれるのでしょうか?
insinuatio fidei per viam internam fit per lectionem Verbi, et tunc per illustrationem a Domino, quae datur secundum affectionis quale, hoc est, secundum finem sciendi verum.(AC8078:4)
原典を読もう(『神のみことば』) No.19
insinuatio fidei per viam internam fit per lectionem Verbi, et tunc
per illustrationem a Domino, quae datur secundum affectionis quale, hoc est, secundum finem sciendi verum.(AC8078:4)
この宿題の文は、ある程度学力がつくと次のように読み取るようになれます(第一段階)。
「insinuatio fidei」は「viam internam」によって「lectionem Verbi」によって、そしてその時(tunc)「illustrationem a Domino」によって「fio」する、それは(quae)「affectionis quale」にしたがって、すなわち(hoc est)、「finem sciendi verum」にしたがって「datur」する。
ということは、どれが動詞か(fitとdatur)見極めがつき、perやsecundumがどこまでをさすか、これがわかれば文の構成が読み取れるということですね。
そして次の過程も重要です。このまましばらく眺めます。そしてわからない単語の意味を推定します。
たとえば「insinuatio」がわからないとします。単語を引かずに(ここでも「急いてはことを仕損じる」)、文脈からどのような意味か考えます。そしてそれが的中するようになれば(最初はもちろんはずれます、見当もつきません)、でも結局、このことが実力アップに結びつきます(第二段階)。
形からは名詞、信仰(fides)の「何か?」、それは「内なる道(via)」によるものであり、みことばのlectio(これもわからない)によって、主からの照らし(illusttatio)によって生ずる(fio)んだな、quae、これは女性だな、するとこれはふつうillustratio をさすが、insinuatioもlectioも女性だから(-tioの形は女性名詞)これら可能性もあるな、文脈から判断しないといけないな。secundumが二つあって、hoc estで結ばれているから「affectionis quale」を説明したものが「finem sciendi verum」だな。よくわかんないが、こんなもんだろう。と、これでいいんです。
このくらい見当つけてinsinuatioを引けば、訳語がいろいろあっても、この文にぴったりしたものを特定できます。
それで、単語は(第三段階)。
名詞「insinuatio」:『羅和』にうまい訳語がみつからなくても、insuo(しみ込む)からできた名詞なので「(思想など)しみ込むこと、(静かに、徐々に)入り込むこと」であると、上記の考察からもわかります。
名詞「via」:道。viaは英語で「~経由」「via dolorosa」は「悲しみの道」転じて「苦難の道」。
形容詞「internus」:内部の、内なる。
名詞「lectio」:読むこと、朗読。英語のlectureなどlect-の言葉はラテン語legoを語源とする。
名詞「illusutratio」:照らし。証明。実例で明らかにすることから英語のillustraion(実例)。
名詞「affectio」:情愛。
名詞「quale」:質、性質。
文法的にはsciendi(知ることの)は動名詞の属格。
これで訳せます。quaeのさすものは(普通)直前にあるので、illustratioですね。直訳「信仰のしみ込みは・・・生じる」もありますが(過激な直訳派の私は時にこのように訳す)、さすがに直訳過ぎる(日本語を知らないんじゃないのと思われる?)ので、「信仰は・・・しみ込む」としましょう。
「内なる道による信仰は、みことばを読むことによって、またその時、主からの照らしによってしみ込んでくる。その照らしは情愛の性質にしたがって、すなわち、真理を知ることの目的にしたがって与えられる」
こんなところでしょうね。この文の前には信仰の「外なる道」と「内なる道」が論じてあるのでこの文の頭部は「内なる道による信仰」となります。
外なる道による信仰とは「自然的な信仰」「感覚的な信仰」です。(奇跡などを)見たから信じる、権威者が言うので信じる、といったものです。
信仰が「内なる道」から入ってくるとき、その「導管、道」となるものが「みことば」です。そしてし読むときの情愛が問われます。そこに「心」がなければ「見れども見えず、聞けども聞こえず」は何事とも共通です。
心を込めて読む一つの方法を紹介します(ご存知でしょうね)。ときどき読書をとめて、軽く「祈る」のです。真理を知ったときには「感謝を込めて」。さらに没頭したいとき「照らしを求めて」。
* * * * *
ではやはり宿題。みことばは何のために(ut)与えられたのか? 天使と人間の関係は?
Verbum est datum ut uniat caelum et terram, seu angelos cum hominibus, quapropter ita scriptum est ut ab angelis spiritualiter capiatur cum ab homine naturaliter, et sic sanctum per angelos influat, per quod fit unio; (AC6333:3)
原典を読もう(『神のみことば』) No.20
Verbum est datum ut uniat caelum et terram, seu angelos cum
hominibus, quapropter ita scriptum est ut ab angelis spiritualiter capiatur cum ab homine naturaliter, et sic sanctum per angelos influat, per quod fit unio; (AC6333:3)
個々の文章自体はむずかしそうではありませんね。問題は文章どうしの間の関係、つながりでしょう。それで「接続詞」と「副詞」に注目してみます。
まず接続詞「seu」:「すなわち」。「あるいは」の訳語も可能。前後を見れば、caelum et terramをangelos cum hominibusと言い換えていますね。
接続詞ではありませんが副詞「quapropter」:「そのために、その理由で」。続く文を見れば、直前のangelusとhomoを受けて、説明を加えています。
やはり副詞「sic」:「こうして、このように」。後ろを眺めると結論的な説明を加えています。
もう一つ、文の関係、つながりには「ita ~ ut ・・・」のような「相関」に注目すべきです。こうした相関文はスヴェーデンボリの文章によく出てきます。これを直訳すれば「・・・のように、そのように~」となり、「・・・のように~」という意味です。
文の関係はこれでわかりました。後は単語を確認し、論理のつながりに気をつければ訳せます。
動詞「unio」:結合させる。英語uniteの語源。その名詞がunion。これじゃ、英語から見ればラテン語は江戸時代の人々が使っていた言葉みたいなもんですね。
動詞「scribo」:書き記す。b → p の変化は発音上、よくある。ここから思いつく英語は「scribe」「script」「scripture」、deがついて「describe」。いずれも「書くこと」に縁のある言葉。
動詞「capio」:つかむ、つかまえる、把握する、理解する。英語はcapture。
形容詞「sanctus」:神聖な、聖なる。中性で実詞扱い「神聖なこと、聖性」。
動詞「influo」:流入する。英語のinfluenceはここから。
名詞「unio」:結合。
訳してみてください。
「みことばは、天界と地を、すなわち、天使たちを人間と結合するために与えられた。そのために、人間により自然的に〔把握される〕とき、天使たちにより霊的に把握されるように、こうして天使たちを通して聖なるものが流入し、そのことによって結合が生じるように書き記された」(「天界の秘義」6333:3)
みことばを、天使たちと人間の関係から論じています。人間と天使たちとの結びつきにはいろいろあるでしょう。その大いなる手段がみことばであるとわかります。私たちがみことばを読むとき、〔知らないうちに〕心に聖性が流入しています。そのとき、天使たちが介在しています。
みことばを読むとき、主に向かって「照らし」を祈りますが、ときどきは「天使さん、ご協力ありがとう。今日もよろしくね」と挨拶すれば、すこし多めの流入があるかもしれません。
* * * * *
そろそろ気になって「質問」する人いるでしょう。Q「いつまで、こうしたことをするんですか?」
A「先のことなど考えませんでした。とりあえず、始めてみよう。やっているうちに方向も見えてくるんだろう」。よい意味で「いい加減」ですね。
A「20回まで来ました。あと10回ぐらいどうでしょうか?」 スヴェーデンボリの文体について、いろいろと「概観」が得られれば、それでよし、と思っています。
そしてその後について、すこし休憩してから、あちこちやるのでなく、「一つの著作を読みきりたい」と思います。薄いものが適当と思うので「新しいエルサレムの教え」のうち『信仰について(De Fide)』がよいかなと思っています。1番~70番あるので、こんな調子で50回分ぐらいの連載になりそうです。
宿題。本日とほぼ同趣旨の内容です。出典は「De Caelo et de Inferno (天界と地獄)」254番。
quia verba ex Dominus immediate proveniebant, ideo singula impleta sunt Divino, et in se continent sensum internum, qui talis est, ut angeli caeli percipiant illa in caelesti et spirituali sensu, cum homines in naturali; sic conjunxit Dominus caelum et mundum per Verbum.(HH254)