玉城徹(たまき・てつ)さんの思い出

「いずこにも貧しき道がよこたわり神の遊びのごとく白梅」


 


714日の朝刊に訃報が載っていた。


「玉城徹さん死去」歌人、読売文学賞


歌人の玉城徹さんが13日午前11時、肺炎のため死亡した。86歳。…(中略)…仙台市生まれ。北原白秋に師事し、東大卒業後、教員生活のかたわら、正岡子規や白秋を研究した。…(後略)


そして、代表歌として掲載されていたのが上記の歌である。


 


さて、私との接点であるが「教員生活のかたわら…」の部分である。やや複雑な経緯の後、大学を出て都立高校教員として最初に赴任したのが青梅の「多摩高等学校」。そこの国語の教師が玉城さん。


教員の中では異色であった(同じく私も?)。私の教員生活で範とした先生の一人である。学校の帰り路、喫茶店に誘ってもらい話し、かわいがってもらった。酒が好き(同じく私も)なので、同僚と一本ぶら下げて自宅を訪問したこともあった。その時、新聞社から原稿料が届いていて、教員生活以外に活躍されていると知った。出会ったのは40代後半だった。


大学を出ただけで社会常識のなかった(今でもない)私に、いろいろ教えてくれた。その一つをここで紹介しよう、これはよく覚えている:「お礼は二度言うものである」


何かお世話になったとき、もっとくだけて「もらいもの」でもよい。そのとき当然「お例を言う」。その場で言うのが1回目(これすら言わない人もいるようだ、論外)。後日、またあった時「この前は…」ともう一度言う。これが2回目。一回こっきりでなく、このことは何を意味するか、すなわち「ご恩を忘れていませんよ」、ということ。この言葉で私は人の行動というものを見直すようになった。よい教えだと思う。


 


語れば、つきなくなりそう、というよりもこれ以上は当人を知らなければつまらないであろう、それで「歌の解釈」にはいる。東大では「美学」を学んだようだ。理屈っぽいし、むずかしい。この歌も一見しただけではなんだか全然わからない。投げ出そうと思った、しかし、私は翻訳をしているので、ある程度「解釈」できなければ翻訳業から撤退すべきであろう。実は「文字の通りの意味」だけからで「内意」は汲めない。背景、また精神的なものに踏み込むことが必要となって来る。ここに逸話がある。玉城さんは「長い直線を描くことができない」。すなわち、短い線を重ね、継ぎ足して長い線とする。ある日、私の似顔絵を箸の袋に描いてくれたことがあった。そのときの筆運びはまさにその通りであった。これを歌でいえば「言葉の重ね合わせ」であろう。


「貧しき道」「神の遊び」「白梅」といった言葉を重ね合わせて、そこから何かを浮かび上がらせるのである。でもこれだけでは無理だ。玉城さんの作風は徹底的に「われ」が視点となっている、という。すると、この歌も「われ」すなわち、自分を歌っている、とみなそう。


さて、「白梅」である。最後に唐突な付けたしとも思える「白梅」に悩み、女房に尋ねてみた。女房は多摩校出身、玉城さんのファンである。別の言い方をすれば「私は教え子と結婚した」。


「白梅ってなんだろう?」、すると女房は近くにある「白梅学園」の「いわれ」を持ちだした。どうも「清い生徒に育ってほしいらしい」と。そこで「清さの象徴」ではないかと思い至った。


 すなわち、ここには「清貧」が詠われている。


玉城さん自身が「貧しい道」を歩んでいる(歌を詠んでも、金にはならないネ)、そうした生活の中でもちゃんと「白梅」が咲いている。これはちょっとした「神の遊び」心なのか。(こんな解釈で内意としてはよろしいんでしょうか?)


 さて、私も「清貧」にあこがれる、「貧」は大丈夫、ほぼ退職金はなくなった。「清」はちょっとキビシイ。それでこれに一つ付け足して私の標語とする「清く、貧しく、いやらしく」。


 

原典講読『聖書』 104, 105

 

QUOD PER VERBUM ETIAM SIT LUX ILLIS


QUI EXTRA ECCLESIAM SUNT, ET NON HABENT VERBUM.


みことばによって彼らにもまた光があること、


教会の外にいる者、またみことばを持っていない。


 


(1) 原文


104.  Non potest, dari conjunctio cum caelo, nisi alicubi in tellure sit ecclesia, ubi est Verbum, et per id Dominus notus; quia Dominus est Deus caeli et terrae, et absque Domino nulla salus. Satis est, ut ecclesia sit, ubi Verbum, tametsi illa consistit ex paucis respective: per id usque Dominus praesens est ubivis in universo terrarum orbe, nam per id caelum conjunctum est humano generi; quod conjunctio sit per Verbum, videatur supra (n. 62-69).


 


(2) 直訳〔ここは『真のキリスト教』267番に引用されている〕


Non potest, dari conjunctio cum caelo, nisi alicubi in tellure sit ecclesia, ubi est Verbum, et per id Dominus notus; 天界との結合は存在することができない、地球の中のどこかで教会が存在しないなら、そこにみことばがある、またそれによって主が知られる。


quia Dominus est Deus caeli et terrae, et absque Domino nulla salus. 主は天と地の神であるから、また主なしに救いはない。


Satis est, ut ecclesia sit, ubi Verbum, tametsi illa consistit ex paucis respective: 十分である、教会があること、そこにみことばが〔ある〕、たとえそれが比較的少しの者から成り立っていても。


per id usque Dominus praesens est ubivis in universo terrarum orbe, nam per id caelum conjunctum est humano generi; それによってそれでも主は地球全体の中のどこにも現在される、なぜなら、それによって天界は人類に結合されるから。


quod conjunctio sit per Verbum, videatur supra (n. 62-69). みことばによって結合があることは、上に(62-69)見られる。


 


(3) 訳文


104. 地球上のどこかにみことばがあり、またそれによって主が知られる教会が存在しないなら、天界との結合は存在することができない。主は天と地の神であられ、また主なしに救いはないからである。みことばのある教会があれば、たとえそれが比較的少しの者から成り立っていても十分である。それでも、それによって主は地球全体の中のどこにも現在される、なぜなら、それによって天界は人類に結合されるから。みことばによって結合があることは、前に(62-69)見られる。


 


(1) 原文


105.  Quomodo autem praesentia et conjunctio Domini et caeli datur in omnibus terris per Verbum, dicetur. Universum caelum coram Domino est sicut unus homo, similiter ecclesia; quod etiam actualiter appareant ut homo, videatur in opere De Caelo et Inferno (n. {1}59-86). In illo homine est ecclesia, ubi Verbum legitur, et per id Dominus notus est, sicut cor et sicut pulmo; regnum caeleste ut cor, et regnum spirituale ut pulmo. [2] Sicut ex his binis fontibus vitae in humano corpore omnia reliqua membra et viscera subsistunt et vivunt, ita quoque omnes illi in terrarum orbe, apud quos religiosum est, et Deus unus colitur, et bene vivitur, et per id in homine illo sunt, et referunt membra et viscera ejus extra thoracem, ubi sunt cor et pulmo, ex conjunctione Domini et caeli per Verbum cum ecclesia, subsistunt et vivunt. Nam Verbum in ecclesia, tametsi est apud paucos respective, est vita reliquis a Domino per caelum, sicut membrorum et viscerum totius corporis est vita ex corde et pulmone; est quoque communicatio similis. Quae etiam causa est, quod Christiani apud quos Verbum legitur, constituant pectus illius hominis: sunt etiam in medio omnium, et circum illos sunt Pontificii, circum hos sunt Mahumedani qui agnoscunt Dominum ut Maximum Prophetam ac ut Filium Dei; post hos autem sunt Africani; ac ultimam circumferentiam constituunt gentes et populi in Asia et in Indiis: de qua illorum ordinatione videantur aliqua in opusculo De Ultimo Judicio (n. 48). Spectant etiam omnes, qui in homine illo sunt, versus meditullium, ubi sunt Christiani.


@1 86 pro “87”


 


(2) 直訳〔ここは『真のキリスト教』268番に引用されている〕


Quomodo autem praesentia et conjunctio Domini et caeli datur in omnibus terris per Verbum, dicetur. しかしながら、どのように主と天界の現在と結合が、みことばによってすべての地の中に存在するか、言われる(未来)


Universum caelum coram Domino est sicut unus homo, similiter ecclesia; 天界全体は主の前に一人の人間のようである、同様に教会は。


quod etiam actualiter appareant ut homo, videatur in opere De Caelo et Inferno (n. {1}59-86). 人間として実際に見られることもまた、著作『天界と地獄』の中に(59-86)見られる。


In illo homine est ecclesia, ubi Verbum legitur, et per id Dominus notus est, sicut cor et sicut pulmo; その人間の中で教会である、そこにみことばが読まれる、またそれによって主が知られる、心臓のよう、また肺のよう〔である〕。


regnum caeleste ut cor, et regnum spirituale ut pulmo. 天的な王国は心臓として、また霊的な王国は肺として。


[2] Sicut ex his binis fontibus vitae in humano corpore omnia reliqua membra et viscera subsistunt et vivunt, ita quoque omnes illi in terrarum orbe, apud quos religiosum est, et Deus unus colitur, et bene vivitur, et per id in homine illo sunt, et referunt membra et viscera ejus extra thoracem, ubi sunt cor et pulmo, ex conjunctione Domini et caeli per Verbum cum ecclesia, subsistunt et vivunt. [2] 人間の身体の中の二つのいのちの泉から、すべての残りの四肢や内臓は存続し、生きるように、このようにまたすべての者は、それは地球の中のもの、その者のもとに宗教がある、またひとりの神を礼拝する、またよく生きる、またそのことよってその人間の中にいる、また胸部の外のその四肢と内臓に対応する☆、そこに心臓と肺がある、みことばを通して教会との主と天界の結合から、存続し、生きる。


referoには「対応によって結びつく、対応する」という意味があります。


Nam Verbum in ecclesia, tametsi est apud paucos respective, est vita reliquis a Domino per caelum, sicut membrorum et viscerum totius corporis est vita ex corde et pulmone; なぜなら、教会の中のみことばは、たとえ比較的少ない者のもとに存在しても、主により天界を通して残りの者にいのちがあるから、全身の四肢と内臓にいのちがあるように、心臓と肺から。


est quoque communicatio similis. 同様に結合もまた存在する。


Quae etiam causa est, quod Christiani apud quos Verbum legitur, constituant pectus illius hominis: さらにまたそれが理由である、キリスト教徒たちが、彼らのもとでみことばが読まれる、その人間の胸を構成すること。


sunt etiam in medio omnium, et circum illos sunt Pontificii, circum hos sunt Mahumedani qui agnoscunt Dominum ut Maximum Prophetam ac ut Filium Dei; さらにまたすべての者の真ん中にいる、またその周囲にローマカトリック教徒がいる、この周囲にイスラム教徒がいる、主を最大の預言者として、そして神の子として認める者。


post hos autem sunt Africani; しかしながら、これらの後ろに(続いて)、アフリカ人がいる。


ac ultimam circumferentiam constituunt gentes et populi in Asia et in Indiis: そして周辺の最外部はアジアの中とインドの中の国民と人民が構成する。


de qua illorum ordinatione videantur aliqua in opusculo De Ultimo Judicio (n. 48). それらの配列、それについて、何らかのものが小著『最期の審判』(48)に見られる。


Spectant etiam omnes, qui in homine illo sunt, versus meditullium, ubi sunt Christiani. さらにまたすべての者は眺める、その人間の中にいる者たち、中央に向かって、そこにキリスト教徒たちがいる。


@1 86 pro “87” 注1 87」の代わりに86


 


(3) 訳文


105.  しかしながら、みことばによって、すべての地上にどのように主と天界の現在と結合が存在するか、述べよう。天界全体は主の前に一人の人間のようであり、教会も同様である。また、人間として実際に見られることは、著作『天界と地獄』の中に見られる(59-86)。みことばが読まれ、またそれによって主が知られる教会は、その人間の中で、心臓と肺のようである。天的な王国は心臓のよう、また霊的な王国は肺のようである。


[2] 人間の身体の中の二つのいのちの泉から、すべての残りの四肢や内臓は存続し、生きるように、このようにまた地球上の、その者のもとに宗教があり、またひとりの神を礼拝し、またよく生き、またそのことよってその、また心臓と肺がある胸部の外の四肢と内臓に対応する人間の中にいるすべての者は、みことばを通して教会との主と天界の結合から、存続し、生きる。なぜなら、教会の中のみことばは、たとえ比較的少ない者のもとに存在しても、全身の四肢と内臓に心臓と肺から、いのちがあるように、主により天界を通して残りの者に、いのちがあるから。同様に結合もまた存在する。さらにまたそれが、みことばを読むキリスト教徒たちが、その人間の胸を構成し、さらにまたすべての者の真ん中にいて、その周囲にローマカトリック教徒がいる、この周囲に主を最大の預言者として、そして神の子として認めるイスラム教徒がいる理由である。しかしながら、これらの続いて、アフリカ人がいる。そして周辺の最外部はアジアの中とインドの中の国と民が構成する。それらの配列について、何らかのものが小著『最期の審判』(48)に見られる。さらにまた、その人間の中にいるすべての者は、キリスト教徒たちがいる中央に向かって眺めている。

青い梅いつのまにやら老梅酒

 

 玉城徹さんをしのぶ記事を書いてから、やや考えていた。そして、ふと思った。私も詠んでみようと。ただし短歌をやったことはない。俳句もしくは川柳である。



 青梅の多摩高時代は私の
20代だった。未熟で恥ずかしいこともしょっちゅうだった。しかもこれは今も変わらない。なんだかんだ過ごしながらも、いまや60代。いやゆる「老境」である。


 それで、表題の句となった。「青い梅」は季語なのか? ならば、愚作ながら俳句。



 前後関係を何も言わずに、ある人に「こんな句をつくったけど、どう?」と感想を聞いてみた。しばらくじっと考えていて、「人生ですね、人生を感じます」と言った。大正解。


 


 青梅で教員を始めた(社会人となった)あの頃は「青かったな」、いろいろあったけれど、今や「老人」、少しは、「老成」しただろうか、味わってもらえる「梅酒」となっただろうか。


そうなりたいものだ……しかし、普通の人から見れば、駄作ですね。



 また別の人は「梅酒の形容が『老』以外にないの?」と感想を述べた。私としては、私自身が日々、酒びたりの老人だし、字面から『老酒』の雰囲気もあって、これでよいと思っている。

原典講読『聖書』 106, 107

 

(1) 原文


106.  In meditullio, ubi sunt Christiani quibus est Verbum, est maxima lux; lux enim in caelis est Divinum Verum procedens a Domino ut Sole ibi; et quia Verbum est illud, est maxima lux ubi sunt illi quibus est Verbum. Lux inde ut a suo centro se propagat circum in omnes peripherias usque ad ultimam; inde est illustratio gentium et populorum extra ecclesiam etiam per Verbum. Quod lux in caelis sit Divinum Verum procedens a Domino, et quod illa lux det intelligentiam non modo angelis, sed etiam hominibus, videatur in opere De Caelo et Inferno (n. 126-140).


 


(2) 直訳


In meditullio, ubi sunt Christiani quibus est Verbum, est maxima lux; 中央に、そこにキリスト教徒がいる、彼らにみことばがある、最大の光がある。


lux enim in caelis est Divinum Verum procedens a Domino ut Sole ibi; というのは、天界の光は、そこに太陽としての主から発出する神的な真理であるから。


et quia Verbum est illud, est maxima lux ubi sunt illi quibus est Verbum. また、みことばはそれ〔神的な真理〕であるので、最大の光がある、そこに彼らがいる、彼らにみことばがある。


Lux inde ut a suo centro se propagat circum in omnes peripherias usque ad ultimam; 光はここからその中心からのようにそれ自体を周囲に放散する(広める)、すべての周辺に、最後のものまで。


inde est illustratio gentium et populorum extra ecclesiam etiam per Verbum. ここから国民と人民の照らしがある、教会の外の〔者に〕もまた、みことばによって。


Quod lux in caelis sit Divinum Verum procedens a Domino, et quod illa lux det intelligentiam non modo angelis, sed etiam hominibus, videatur in opere De Caelo et Inferno (n. 126-140). 天界の中の光が主からの神的な真理であることは、またその光が天使たちにだけでなく、しかしまた人間にも理解力(知性)与えることは、著作『天界と地(について)(126-140)の中に見られる。


 


(3) 訳文


106.  中央に最大の光があり、そこにみことばをもつキリスト教徒がいる。というのは、天界の光は、そこの太陽としての主から発出する神的な真理であるから。また、みことばはその真理であるので、みことばをもつ彼らがいるところに最大の光がある。光は、ここからその中心からのようにまわりに、最後のものまですべての周辺に広まる。ここから教会の外の国と民にもまた、みことばによって照らしがある。天界の中の光が主からの神的な真理であること、またその光が天使たちにだけでなく、人間にもまた理解力(知性)与えることは、著作『天界と地(について)』の中に見られる(126-140)


 


(1) 原文


107.  Quod tale sit in universo caelo, concludi potest a simili in unaquavis societate ibi; nam unaquaevis societas caeli est caelum in minore forma, et quoque est sicut homo: quod ita sit, videatur in opere De Caelo et Inferno (n. 41-87). In omni societate caeli, illi qui in medio ejus sunt, similiter referunt cor et pulmonem; et apud illos est maxima lux. Ipsa lux, et inde perceptio veri, a medio illo se propagat versus peripherias quaquaversum, ita ad omnes qui in societate sunt, et facit vitam illorum spiritualem. Ostensum est, quod quando illi qui in medio erant, qui provinciam cordis et pulmonum constituebant, et apud quos maxima lux erat, auferrentur, illi qui circum erant, in umbra essent, et tunc in tam exili perceptione veri, ut vix in aliqua; sed mox ut redierunt, visa est lux et fuit illis perceptio veri sicut prius.


 


(2) 直訳


Quod tale sit in universo caelo, concludi potest a simili in unaquavis societate ibi; 天界全体の中でこのようであることは、そこのそれぞれの社会の中の類似のものから結論することができる。


nam unaquaevis societas caeli est caelum in minore forma, et quoque est sicut homo: なぜなら、天界のそれぞれの社会は小さい形の天界であるから、そしてまた人間のようであるから。


quod ita sit, videatur in opere De Caelo et Inferno (n. 41-87). このようであることは、著作『天界と地獄』(41-87)の中に見られる。


In omni societate caeli, illi qui in medio ejus sunt, similiter referunt cor et pulmonem; 天界のすべての社会の中で、その真ん中にいる者は、同様に、心臓と肺に対応する。


et apud illos est maxima lux. また彼らのもとに最大の光がある。


Ipsa lux, et inde perceptio veri, a medio illo se propagat versus peripherias quaquaversum, ita ad omnes qui in societate sunt, et facit vitam illorum spiritualem. 光そのものは、またここから真理の知覚は、その真ん中からそれ自体を放散する(広める)、周辺に向けて、あらゆる方向へ、このようにすべての者へ、社会の中にいる者、また、彼らの霊的ないのち(生活)をつくる。


Ostensum est, quod quando illi qui in medio erant, qui provinciam cordis et pulmonum constituebant, et apud quos maxima lux erat, auferrentur, illi qui circum erant, in umbra essent, et tunc in tam exili perceptione veri, ut vix in aliqua; 示された、彼らが、真ん中にいた者、心臓と肺の領域を構成した者、また彼らのもとに最大の光があった、取り去られた時、彼らは、周囲にいた者、陰(やみ)の中にいた(接続法未完了)☆、またその時、これほどに真理の知覚はかすかなものの中に〔いた〕、〔知覚の〕何らかのものの中にほとんどないように。


ここに接続法essentが使われています。その前が直接法なので条件文ではありません。ラテン語の接続法は「本来的には、動作、状態を実体としてではなく、話し手の心理に知覚されたものを述べるためにある」(『独習者のための楽しく学ぶラテン語』211ページ、なお本書は私にとって最良の教科書です)ので、現実に「やみ」の中にいたかどうかはわかりせん、「やみ」を知覚したのです。英訳書にここをexperiencedとしたものがあります。


sed mox ut redierunt, visa est lux et fuit illis perceptio veri sicut prius. しかし、戻るとすぐに、光が見られ、彼らに真理の知覚が生じた、以前のように。


 


(3) 訳文


107. 天界全体でこのようであることは、そこのそれぞれの社会の中の類似のものから結論することができる。なぜなら、天界のそれぞれの社会は小さい形の天界であり、また人間のようであるから。このようであることは、著作『天界と地獄』の中に見られる(41-87)。天界のすべての社会の中で、その真ん中にいる者は、同様に、心臓と肺に対応し、また彼らのもとに最大の光がある。光そのものは、またここから真理の知覚は、その真ん中から周辺に向けて、あらゆる方向へ、したがって社会の中にいるすべての者へ広めまり、彼らの霊的ないのち(生活)をつくる。真ん中にいて、心臓と肺の領域を構成し、彼らのもとに最大の光があった者たちが取り去られらた時、周囲にいた者は、やみの中にて、またその時、知覚の何らかのものの中にほとんどないようにもかすかな真理の知覚の中にいた。しかし、〔取り去られた者たちが〕戻るとすぐに、光が見られ、以前のように彼らに真理の知覚が生じたことが示された。

原典講読『聖書』 108, 109

 

(1) 原文


108.  Idem etiam illustrari potest ab hac experientia. Erant apud me spiritus Africani ex Abyssinia. Illis quondam aperiebantur aures, ut audirent cantum in aliquo templo in mundo ex Psalmo Davidis; ex quo afficiebantur tali jucunditate, {1}ut una cum illis canerent. Sed mox claudebantur aures, ut non audirent inde aliquid; at tunc adhuc majore jucunditate afficiebantur, quia spirituali; et simul implebantur intelligentia, quia Psalmus ille agebat de Domino, et de Redemptione: causa crescentis jucunditatis erat, quod illis data sit communicatio cum illa societate in caelo quae in conjunctione erat cum illis qui in mundo Psalmum illum canebant. Ex hac et plure alia experientia, patuit quod communicatio cum universo caelo detur per Verbum. Propter illam causam, ex Divina Domini providentia, commercium universale regnorum Europae, principaliter illorum ubi Verbum legitur, est cum gentibus extra ecclesiam.


@1 ut pro “et”


 


(2) 直訳


Idem etiam illustrari potest ab hac experientia. 同じことがさらにまたこの経験から説明されることができる。


Erant apud me spiritus Africani ex Abyssinia. 私のもとにアビシニア〔エティオピアの旧名〕からのアフリカ人がいた。


Illis quondam aperiebantur aures, ut audirent cantum in aliquo templo in mundo ex Psalmo Davidis; かつて、彼らに耳が開かれた、歌うことを聞くために、世の中のある神殿(教会)の中の、ダビデの詩篇から。


ex quo afficiebantur tali jucunditate, {1}ut una cum illis canerent. そこから感動した、このように愉快に(快さで、歓喜で)、彼らと一緒に歌うように☆。


ここはetでもよいと思いますが、talisと相関させてutとしたほうがおさまりがよくなります。


Sed mox claudebantur aures, ut non audirent inde aliquid; しかし、間もなく耳が閉ざされた、ここから何も聞かないように〔なった〕。


at tunc adhuc majore jucunditate afficiebantur, quia spirituali; しかし、その時、依然として大きな愉快に(快さで、歓喜で)感動した、霊的なもの〔だった〕ので。


et simul implebantur intelligentia, quia Psalmus ille agebat de Domino, et de Redemptione: また、同時に知性に満たされた、その詩篇は主について、またあがないについて扱った☆〔ものだった〕ので。


多義語agoで雑談します。(4) アジェンダとはナンダ、参照。そこでの意味は「する、行なう、実行する」です。


causa crescentis jucunditatis erat, quod illis data sit communicatio cum illa societate in caelo quae in conjunctione erat cum illis qui in mundo Psalmum illum canebant. 愉快さ(快さ、歓喜)の増大の理由は、彼らに天界の中のその社会との伝達が与えられたこと、それを〔社会〕は彼らと結合していた、世でその詩篇を歌っていた者。


Ex hac et plure alia experientia, patuit quod communicatio cum universo caelo detur per Verbum. この、また他の多くの経験から、天界全体との伝達がみことばによって存在することが明らかである。


Propter illam causam, ex Divina Domini providentia, commercium universale regnorum Europae, principaliter illorum ubi Verbum legitur, est cum gentibus extra ecclesiam. その理由のために、主の神的な摂理から、ヨーロッパの国々の広く行なわれる交流(交際)が、特にそこにみことばが読まれるそれら〔国々〕の、教会の外の異教徒とある。


ここでは「交易」を意味していますね。


@1 ut pro “et” 注1 et」の代わりにut


 


(3) 訳文


108.  同じことがさらにまた次の経験から説明されることができる。私のもとにエティオピアからのアフリカ人がいた。かつて、この世のある教会でダビデの詩篇からの歌を聞くために、彼らの耳が開かれた。そこから、彼らと一緒に歌うようにも歓喜をもって感動した。しかし、間もなく耳が閉ざされ、何も聞かないようになった。それでも、その時、霊的なものだったので、依然として大いなる歓喜をもって感動していた。また、同時に、その詩篇は主について、またあがないについて扱ったものだったので、知性に満たされた。歓喜が増大した理由は、世でその詩篇を歌っていた者たちに結合していた天界の中の社会と彼らの社会との伝達が与えられたことである。この経験、また他の多くの経験から、天界全体との伝達がみことばによって存在することが明らかである。その理由のために、主の神的な摂理から、ヨーロッパの国々、特にそこにみことばが読まれる国々と教会の外の異教徒との広く行なわれる交流(交易)ある。


 


(4) アジェンダとはナンダ(ラテン語→英語)


 このごろ「アジェンダ」のことばをよく聞く。いわく「みんなの党はアジェンダの党である」。


 恥ずかしながら、この歳までアジェンダの言葉を知らなかった。英語のような気がしないが、調べたらあったagenda「予定表、計画表…会議事項など」、また宗教用語として「儀式,祭典、その定式書」そして語源はラテン語。それでラテン語agendaの意味は「行なわれるべきもの」、これがもともとの意味である。派生して「儀式規定書」この意味は英語にも伝わっている。


 スヴェーデンボリが使っていれば、私にもわかったと思う。スヴェーデンボリは同族語のagens(agoの現在分詞)「働きかける力、動因、作用因」とagentia「活動、行動」を用いている。


 さて形は動詞agoの動形容詞(未来受動分詞とも言う)の中性単数agendumの複数であろう。それで意味は上記の「行なわれるべきもの」である。


 渡辺氏がどのような意味でこの言葉を使っているか、本人の解説がないのでわからないが、この本来の意味で使っているのだろうか?


なおついでに超有名な英語actagoの分詞actumに由来する。(英語actはラテン語agoの一部の意味と同じ、agoのほうがもっと広い意味をもっている)


 


(1) 原文


109.  Comparatio fieri potest cum calore et luce ex sole mundi, quaeであうおtationem dat arboribus et virgultis, etiam illis quae ad latera, et quae sub nube, stant, modo sol ortus sit, et in mundo appareat. Ita lux et calor caeli a Domino ut sole, quae lux est Divinum Verum, ex quo omnis intelligentia et sapientia est angelis et hominibus. Quare dicitur de Verbo,


 


Quod erat apud Deum, et erat Deus; quod illuminet omnem hominem venientem in mundum (Joh. i. 1, 9): et quod Lux illa etiam in tenebris appareat (vers. 5).


 


 


(2) 直訳


Comparatio fieri potest cum calore et luce ex sole mundi, quae vegetationem dat arboribus et virgultis, etiam illis quae ad latera, et quae sub nube, stant, modo sol ortus sit, et in mundo appareat. 世の太陽からの熱と光に比較がされることができる、それは植物の生長を与える、木と灌木に、さらにまたそれら〔木や灌木〕にそれら〔熱と光〕がもたらされて☆、またそれは雲の下に、位置する、太陽が出ているかぎり、また世に現われている。


laterafero「もたらす、与える」の分詞latumの変化形です。


Ita lux et calor caeli a Domino ut sole, quae lux est Divinum Verum, ex quo omnis intelligentia et sapientia est angelis et hominibus. このよう〔である〕太陽としての主から天界の光と熱は、その光は神的な真理である、それからすべての知性と知恵が天使たちと人間にある。


Quare dicitur de Verbo, それゆえ、みことばについて言われている、


Quod erat apud Deum, et erat Deus; 神のもとにあったこと、また神であった。


quod illuminet omnem hominem venientem in mundum (Joh. i. 1, 9): それは世に来てすべての人間を照らす(ヨハネ1:1, 9)


et quod Lux illa etiam in tenebris appareat (vers. 5). また、その光は暗やみの中に現われている(5)


 


(3) 訳文


109.  木や灌木を生長させる世の太陽からの熱と光と比較することができる。さらにまた熱と光は雲に隠れていても、太陽が出て、世に現われているかぎり、それら木や灌木に生長をもたらすのである。太陽としての主からの天界の光と熱はこのようであり、その光は神的な真理であって、それからすべての知性と知恵が天使たちと人間にある。それゆえ、みことばについて言われている、


 


 神のもとにあったこと、また神であった。それは世に来てすべての人間を照らす(ヨハネ1:1, 9)


 また、その光は暗やみの中に現われている(5)