スヴェーデンボリやラテン語に関係ない「雑談」をしてきた。このように雑談が私の授業の特徴だった。そもそも学校に何をしに来るのか? 「勉強・その他」ですね。その「勉強・学び」であるが、私は便宜上「国語、数学etc.」の教科に分かれ、たまたまその数学を分担したんだと思うことにしている。すなわち、広い意味での勉強をすればよい、教科にこだわる必要はない。学校に来るときよりも、帰るときに、少しばかり利口になっていればよい、と思う。雑談を自分の「こやし」とするか、聞き流すかは本人次第。
さて、試験についてもう少し語ろう。生徒はよく「○×式にしてくれ」と注文する。「そうか、いいよ」ってんで、数学ではあまりみかけない○×式の試験をする。数式や命題を述べ、それが正しい内容なら○、間違っていれば×をつける(この変形に、「間違っているものはその個所を正しく直せ」というのもあります)。
なぜ、このような要求をするのかといえば、「適当に」○×つけておけば、確率50パーセントで得点が期待できるからであろう。私は「適当な人間」であるが、この類の「適当に」は断固排除する、それでは数学ではないから。すると、「その主張とこうした試験を実施することは矛盾しませんか?」となる。矛盾しない、そこが鈴木「大先生」たるゆえんである。以下のことを述べる。
「それじゃ、○×式の試験をするけど、まちがえたら減点するよ」と生徒に言う。生徒はこの意味をよく理解できないで「やって、やって」となる。減点とは零点でなく、マイナス点である。配点5点の問題を正解なら5点、間違えたら「-5点」とするのである。○×なら、逆に回答したらマイナス点。
このような採点法をとると、でたらめの解答はだいたい零点に近い。運が悪ければマイナスとなる。生徒は一回でこりる。また「やってくれ」とは言わなくなる。
試験後、生徒が不満を言う、そこで「この採点法が正しい」ことを説明する。
世の中で、自分がよくわからないことに対して、また不正確な知識しかなくて、真偽の判定に自信が持てないとき、どうするのが正しいか。手をつけない、パスする、ペンデングする、または他人に任せる、などなどありえる。このとき、よくわからないからとって、でたらめに○や×をつけない、つけてはいけない。
その例として、たとえば、あなたが製品検査係だとする。合格品か不良品かのチェックをする。このときでたらめな検査をし、合格品を不良品とすると、せっかくの製品が水の泡。もっと悪いのが不良品を合格とすること。その品が市場に出て、消費者に渡る。不良品をつかんだ者へのアフター・ケアが生じる(これだけで損害)、そしてその会社の評判・信用は落ちる(大損害)。この損害を○×試験に反映させれば「減点」がふさわしい。
「わからなければ、手をつけない」これが正しい態度。すると○×試験では回答しないのが正しい。そして無回答なら零点。「わからないものは零点」これは正当な評価法ですね。さすが大先生。
投稿者: yasubee
原典を読もう(『神のみことば』) No.13
宿題はむずかしかったでしょうか? 主語は Homo「人間は」、動詞は potest「~できる」と見定めることができればO.K.です。(potest 以外に動詞らしいものは見当たりませんね)
文法知識の基本を知っている人なら、potest が動詞の不定法を取ることから、それが scire「知ること」であり、その前に non があるから「知ることができない」、そしてその後に de「~について」があることから、ほとんど中身が捕えられたのではないでしょうか?
では学びましょう。上記のように動詞は一つで文の構造は簡単なので、単語がわかれば、訳せるでしょう。
前置詞「absque」:奪格支配「~なしに」
前置詞「ex」:「e」の形も用いられます。奪格支配「~から」
名詞「Divinum」:神的なもの。
否定辞「non」:「~でない」、英語の not ですね。
動詞「scio」:「知る」。動詞 scio を引くと、その後に -re -ivi -itum. tr., intr. となっています(田中『羅和』は最後の部分が違っています)。それぞれ(能動態・現在)不定法、(直説法・能動態)完了(一人称・単数)、(目的)分詞(スピーヌムとも言う)です。私は簡略して「不定法・完了・分詞」としています。ここはこの不定法。これを「不定詞」とする文法もあります(英語はこれですね)。そしてやはり英語が苦手だった私は「不定詞」とは何のことかわからなかった。これもネーミングがよくないのか? 何が「不定」なのか? ずっと後でわかったが、動詞の原形とも呼ばれるように、動詞の(活用などの)形が定まっていないのですね。だったら「未定」としてくれたらわかったかもしれない。
不定法について詳しいことは省きます。簡単に言えば「動詞的名詞」(動詞を名詞として扱う時の形)です。それで scire は「知ること」となります。
代名詞(形容詞でもある):「aliquis」:詳しくは「レキシコン」を見てください。ここでは「あるもの、何か」ですね。
動詞「possum」:頭に pos- がつくだけで変化は「sum」と同じ。意味は「~できる」なので「何ができるの?」となるとそこに動詞の不定法を持ってくる。それで「scire と potest」で「知ることができる」、それが non で打ち消される。
前置詞「de」:奪格支配「~について」、「~から」の意味もある。「著作」の題名によく使われる。「De Caelo…et de Inferno」(天界と地獄)、「De Amore Conjugiali」(結婚愛)、「De Ultimo Judicio」(最後の審判)などなど、いくらでもある。
名詞「vita」:「いのち、生活」。この語で思いつくのが森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」。ラテン語でVita Sexualis (性欲的生活)と言われるが、sexualis の意味(を私)は確認できない。私は鴎外が好きで、この本も読んでいる。「性」は人生の大問題だ、として自分の「性」を振り返ってる。おもしろいよ。
形容詞「aeternus」:「永遠の」a を取れば英語の eternal ですね。ラテン語 ae- の単語は e- とすると、それに近い英語がいっぱい見つかります。
単語の勉強が長くなったのでここらでやめよう。ここまでを訳してみてください。簡単です。
「人間は神的なものからの啓示なしで、永遠のいのちについて何らかのものを知ることができない」
またはやや意訳して「神的なものからの啓示がないなら、人間は永遠のいのちについて何も知ることができない」
「死んだらどうなるの?」「いのちって永遠なの?」とは、だれもが抱く疑問ではないだろうか。考えて答えの出せる問題ではない。だれに聞いたらよいのか、聞いてもまともな返事がもらえそうもない。そのうち世事にかまけて、こんなこと考えていてもなんの腹の足しにならないので、やがて考えることをやめてしまう。しかし、疑問を持ち続ければ、いつかは答えが与えられる。スヴェーデンボリの著作の中に、聖書の中に答えを見いだした(少なくとも私は)。
それらの書物が「啓示」だからである。
* * * * *
では残り半分を宿題とします。「de」が二つあるように、「知ることのできないもの」があと二つ述べられています。
原典を読もう(『神のみことば』) No.14
宿題は ne quidem aliquid de Deo, et adhuc minus de amore et fide in Ipsum; でした。
「de(~について)」の前に、何か述べているだけで、文章構成は簡単になっています。内容はだいたいつかめていたと思います。後は単語がうまく引ければO.K.
ではやってみます。
副詞「ne」:「~すらない」。レキシコンには quidem を続けて「決して~ない」「さえ~ない」
小辞「quidem」:「確かに」「なるほど~だが」。ne quidem で「決して~でない」と覚えておく。
aliquis:ここは代名詞ですね「だれか、何か」。←前回やっていた。
副詞「adhuc」:比較級を続けて「さらに、いっそう、なおさら」。
minus これは parvus「少ない」の比較級。不規則変化なので辞書に載っている。
名詞「fides」:「信頼、信念、信仰」。よく出てくるのですぐ覚えてしまう。
Ipse:初回のNo.1で「その方=主」と述べた。ここは in があるので対格 Ipsum。
これで訳せます。滑らかな日本語でお願いします。
「神について決して何も、ましてやその方への愛や信仰について」
adhuc minus を「ましてや」としました。直訳すれば「なおさらさらに少ない」ですが、意訳でよいでしょう。
amore et fide in Ipsum は直訳すれば「その方における愛と信仰」。これだとちょっとわかりづらい。これも意訳でしょう。
では全文 Homo absque revelatione ex Divino non scire aliquid potest de vita aeterna, ne quidem aliquid de Deo, et adhuc minus de amore et fide in Ipsum;(AC10,318) を通してみます。
「神的なものからの啓示がないなら、人間は永遠のいのちについて何も、神について決して何も、ましてやその方への愛や信仰について、知ることができない」(『天界の秘義』10,318)
人はどうやって神を知るのでしょうか?
目の前に見えない死後の世界や永遠のいのちはまた別の問題として、私たちは「この世」に生きています。なぜ「この世」が存在するのだろう(あの世ではありません、現実、目の前にある世界です)。なんのために生きるのだろう。生きることって何だろう。などなど、すぐに答えが出ません。やはり、「どう生きたらよいか(how to ~ ですね)」もっと現世的に「もっと利益を上げるには、もっと名誉を得るには」という方向に流れ、このとき視線は神と反対方向に向きます。そして困ったときだけ「神頼み」。
どういう時に今までとは別方向を見ようとするのでしょうか、「神や宗教」について何も聞いていなければ、何も知らなければ、振り向いても、そこには何も見えないでしょう。それでまた目を表面的な現実世界に向けてしまいます。目の前の世界が、同じものでしかありません。
しかし、神の存在をある程度意識して、この世を見れば、そこには(目に見えない)「愛」が満ち溢れているのが見えてきます(悪もあります)。そしてその先に、あるとき「神」が見えてくるのではないでしょうか。
気づかせるもの、意識させるきっかけがなければ、何も見えない。その具体的なものが「みことば」。
* * * * *
では宿題。やはり啓示について述べています。①どのようなものを啓示したか? ②啓示したもの(中身ではありません)とは何か?
quod Divinum ex amore erga genus humanam revelaverit talia quae ducunt ad illam vitam ac conducent saluti ejus. Quod Divinum revelavit est apud nos Verbum.(AC10,320)
原典を読もう(『神のみことば』) No.15
宿題にとりかかります。
すぐに単語を引こうとしないで、まずはゆっくり何度か音読して(この間に思考が働いています)、その後「頭などこかな、しっぽはどこかな?」と見ながら、文を繰り返し見ます(「急いては事を仕損ずる」)。
quod Divinum ex amore erga genus humanam revelaverit talia quae ducunt ad illam vitam ac conducent saluti ejus. Quod Divinum revelavit est apud nos Verbum.
二つの文から成り立っています。一番目は Divinum が頭(主語)らしい(このようなとき「格」についての知識が役立つ。主格の名詞を探せばよいから)。-um の語尾は(第二変化の)中性名詞の主格か対格、対格の可能性もあるが、後ろを見ていくと主格らしいがものが genusぐらいしかない。やはり Divinum は主格だ(もう十分おわかりと思うが、大文字だからではありませんよ)。
次、動詞らしいものを探します。あるある、-rit -unt -ent (二番目の文は evelavit と est )、とどれも動詞の活用語尾ですね。quae があるから docunt と conducent が従属節の動詞で、メインは revelaverit だな。と、ここまでわかれば、下調べ(予習)としてはO.K.
では単語。
前置詞「erga」:対格支配「~に向けて、~に向かって」。
名詞「genus」:「種類」、genus humanum で「人類」。
形容詞「talius」:「このような(性質の)~」、この talius の中身が続く quod 以下(内容が複数の実詞とされ、それぞれ talia quae と複数・対格に変化している)。
動詞「doceo」:「教える」。英語 doctor はここから(ラテン語で -or は「~する者」)。
前置詞「ad」:対格支配、いろいろな意味があります。このようなときは文脈から適切な意味を決定しなければなりません。「教える」のであり、教える中身が「いのち・生活」、ここから illam は 女性・単数・対格とわかります(vita は女性名詞 -a の形は女性名詞)。
ここから ad はたいてい「~へ、~の方へ」とすれば間に合うので、「その生活の方へ(向けて)教える」とすると、意味は汲めるが、やや直訳過ぎる、も少し適当な訳語がないかと探すと「~について」がある。これだね。
接続詞「ac」:「そして」、et が名詞結びつけることが多いのに比べて、これは文を結び付けることが多いように見える。
動詞「conduco」:「導く、もたらす」。
名詞「salus」:「安全、健康、福祉、(特に魂の)救い」。動詞は salvo で英語 salvation の語源。
ここまでが最初の文、続いて
人称代名詞「nos」:「私たち」対格も同形。
これで全部訳せます。訳してください。
「神的なものは人類へ向けての愛から、そのいのちについて教え、その救いをもたらすようなことを啓示された。神的なものを啓示したものは、私たちのもとのみことばである」
(後半の文は「神的なもの」が啓示された「もの(quod)」であるが、やや、滑らかな日本語となるよう、神的なもの「を」と文かえた。意味は同じこと)
これで終わりにしてよいのですが、あなたが賢明な、もしくは注意深い読者なら、何か説明が抜けている気がしませんか? そうです「revelaverit」と「revelavit」の違いです。
そして、訳文からではわからないこうした違いを知ることをできるのが「原典を読むことのありがたみ」なのです! 私に、初心者も念頭にあったので細かい文法事項は省こうと思いましたが、ここ素通りしては「何のための原典の学びか」、その精神がないがしろになってしまうので、やりましょう。そのかわり、長くなるので、この原典についての感想を「宿題」とします。
文法的に「revelavit」は直説法「完了」(の三人称単数)、「revelaverit」は同じく直説法「未来完了」です。完了については説明不要ですね。
「未来完了(形)」なんて、未来なのに完了では変ですね、矛盾しているようにも感じます。その基本的な意味は「未来のある時までに完了している」ことです。「明日までにこの宿題を終える」。この「終える」がそうですね。なので「命令」のニュアンスをおびることもあります、「終えてしまいなさい」。
私の持っている文法書にはこれ以上の説明はありませんが、「完了」とすることに、「終えたい」「当然終わっているはずだ」などの意味があると思います。
私はこの「未来完了」から、啓示が、単なる過去の出来事(完了)でなく、今後も(未来)、「~ということがあるはずだ」、「~が必ず起こる」、という意味合いを感じる。神の側からすれば「これからも啓示を必ず与えよう」となる。
こうしたことはとうてい訳しきれない。これを直に味わえるのが原典。それで「原典を読もう」。
では宿題、ここでの「感想」と次の文(長いけれど、文の構造は簡単でしょう)。
quod necessum fuerit ut aliqua revelatio, ex Divina Domini Providentia, exstiterit, nam revelatio seu Verbum est commune vas recipiens spiritualium et caelestium, ita conjungens caelum et terram, alioquin disjuncta fuissent, et periisset humanum genus;(AC1175)
原典を読もう(『神のみことば』) No.16
宿題:その1 次の文の感想が宿題でした。
「神的なものは人類へ向けての愛から、そのいのちについて教え、その救いをもたらすようなことを啓示された。神的なものを啓示したものは、私たちのもとのみことばである」(天界の秘義10320)
まず啓示した内容が簡単に書いてあります。「いのち」これはこの「いのち」を現実場面で「生かす」とすれば「生活」でもあるわけです。すなわち、「いのち」とは何であり、「生きる」とは何か、を教えたのですね。そして、いのちを滅ぼしてしまわないように、その「救い」も教えた、ということです。
で、そうした教えはどこにあるのかといえば、みことば、キリスト教でいえば、いわゆる「聖書」ですね。
(簡単な感想) なるほど、もっともだ。スヴェーデンボリの教えは簡潔、明瞭だな。
(私の感想、上記の感想をもう少し補足して) 「いのち」はこの世だけでなく、肉体を離れた後も、永遠に続くものであること。このことを知れば、現世利益だけを求めようといった気はなくなり、永遠のいのちのために何をすべきか、何を目指すべきか、簡単に言って、主に目を向け、隣人を愛そう、という気持ちになってくる。そして、そうすることが「救い」だよ、と教えられている。聖書をよく読むと、そうしたことがわかる。
ま、読者のみなさま、これに近い感想を持たれたのではありませんか?(こうした宿題は必ずやってください(ラテン語なら「未来完了形」にするところでしょうね)。自分自身で答えを出すことが、「生きる」ことですから)
宿題:その2 次の文のだいたいの内容の把握です。(前回出典個所を間違えました。正しくは1775)
quod necessum fuerit ut aliqua revelatio, ex Divina Domini Providentia, exstiterit, nam revelatio seu Verbum est commune vas recipiens spiritualium et caelestium, ita conjungens caelum et terram, alioquin disjuncta fuissent, et periisset humanum genus; (AC1775)
「何らかの啓示が必要だった?」「神の摂理から存在した?」「みことばが霊的なものと天的なものの受け皿?」「天と地との結合が、どうした? alioquin の意味を確認すれば解決だな」「人類が滅びる」
と、こんなことが書いてありそうだ、と見当つけば、あなたのラテン語はこの講座(?)では中級程度かな?
では単語の勉強。
形容詞「neccesum」:neccesum est で「必要である」。fuerit は sum の未来完了(前回学習した)。
名詞「providentia」:「摂理」。pro(先)+video(見る)を名詞化した(-tia)。英語 providence。
動詞「existo」:exs- を引いても見当たらない。英語の exist と同じだろうと見当をつけて、exis- を探すと、この語の四要素部分に -ere exstiti, とある。意味は「存在するようになる、生ずる」。
接続詞「seu」:「別のことばで言えば」「すなわち」。
形容詞「communis」:英語の common ですね。「共通の、共同の、一般の、普通の」。
名詞「vas」:「器、容器」。英語 vase の語源。
動詞「recipio」:「受け入れる」。英語 reception の語源。recipiens はその「現在分詞の単数主格」( -ns の形はこう思ってよい)。意味は「~している」(英語で現在分詞といえば -ing の形、「~ンス」「~ング」で、似てますね)。
副詞「ita」:「このように、したがって」。
動詞「conjungo」:「結合する」。これも -ns の形からわかるように現在分詞。
名詞「terra」:「地」。
副詞「alioquin」:「そうでなければ」。
動詞「disjungo」:「分離する」。ここは sum とで受動態となっている。fuissent は sum の「接続法・過去完了形」。なぜこの形なのか? alioquin に注目すれば、だいたい察しがつくのではないでしょうか。「事実に反する仮定」の話だからです(文法用語は「条件文」)。それで「接続法」を使うし、仮定となる「時」が「過去」だからです。すなわち「過去の事実に反した仮定は接続法過去完了」。
こうしたことは文法書のほとんど最後あたりに出てきます。でもこの「読もう」では文法書の配列などは無視。各自、適宜、適当な文法書で、再確認しておくこと(これが自主的な勉強)。
動詞「pereo」:per(すっかり)+eo(行く)で「滅びる」。変化は不規則動詞「eo」にしたがう。ここも disjungoと同じく「接続法・過去完了形」。
これで訳せるはず。訳してください。でも ut をどうしましょうか? 副詞「~のような」として、「何らかの啓示のようなもの」とすると、変ですね。気分だけ汲んで、訳出は省きましょう。
「主の神的な摂理からの何らかの啓示が存在することが必要であった。なぜなら、啓示、すなわち、みことばは霊的なものと天的なものを受け入れる器、こうして天界と地を結合しているものであるから。そうでなければ(=存在しなかったなら)、(天界と地は)分離されてしまい、人類滅びてしまった(であろう)」
ここでは「啓示」の必要性について、天界と地を結ぶもの、霊的なものと天的なものを盛る器、として、その別な面を説明していますね。そして啓示がなかったとしたら、人類が存在できなかっただろうとしています。
そのとおりですね。「啓示」という明かりがなかったら、真っ暗闇に放り出されたようなものでしょう。手探りで歩いているうち、とんでもない所(どこでしょう?)に行ったり、穴(これは何でしょう?)に落ちたりしちゃいますね。
* * * * *
では宿題(予習)。やや長くなります。「啓示」について「まとめ」ともいえる内容でしょう。出典は『真のキリスト教(Vera Chrustuana Religio)』(11番)です。
quod cognitio de Deo, et inde agnitio Dei, non dabilis sit absque revelatione; et non cognitio de Domino et inde agnitio quod in Ipso omnis plenitudo Divinitatis habitet corporaliter, quam ex Verbo, quod est revelationum corona; nam homo ex data revelatione pottest obviam ire Deo, et influxum recipere, et sic a naturali fieri spiritualis; (TCR11:1)