ここで「原典を読もう」を掲載し始めた。(1)原典を読みながら、(2)ラテン語のあらましを知ってもらおう、(3)さらにスヴェーデンボリの神学思想についても考えてもらおう、と思った。
(1)原典については、「直截明快に書かれているな、原典って意外とわかりやすいな」と感じてもらえればよい。口で言うより、それを実感してもらいたい。
(2)ラテン語については、初心者でもついてこれるように述べているつもりである。しかし、英文法などの初歩的な知識は仮定している。ある程度のラテン語の知識を持っている人でも、基本事項の復習のようなつもりになってもらえればよい。
(3)神学思想については、いっしょに学んでいきたい。ここで述べていることは「私の把握したもの・感想など」であり、新教会の本流となる教義からずれるかもしれない(すなわち、私の言うことが「規範」ではありません。各自、学んでください)。いっしょに学ぶとは、いっしょに「考えること」である。
さて、「宿題を出す先生は嫌われる」。なぜか、生徒は基本的に「考えたくない」からである。
数学の授業でいろいろ説明する。すると、そこそこ聞いている。 (理解したかどうか)「では、問題をやってみましょう」となると、ぼけっと「息抜き」。ここからが本番であり、ほんとうに力がつくときなのに、勝手に休憩時間と決め込み、解いてみようとしないで、正解が出てくるまで待っている。
(同じことを、「原典を読もう」の読者はしていませんか?)
「宿題」は聞きっぱなしでは、忘れてしまうだろうから、家でもう一度「考えてもらいたい」から出す。考えるのが嫌な生徒はやってこないで「忘れました」となる。忘れたのは宿題ではなく、教わったことの中身。
ここのブログで私が「宿題を出す(前代未聞?)」のは、少しでも「考える」きっかけとなれば、の老婆心から。(つづいて「雑感その2」では「ネットサーフィン」の危険性を語ろう)
投稿者: yasubee
原典を読もう(『神のみことば』) No.7
【宿題】の答え合わせ
Quod in Antiquissima Ecclesia fuerit revelatio immediata, in Antiqua Ecclesia per correspondentias, in Ecclesia Judaica viva voce, et in Ecclesia Christiana per Verbum.
「最古代教会には直接の(啓示が)、古代教会には対応によって(啓示が)、ユダヤ教会には生きた声で(啓示が)、キリスト教会にはみことばによって啓示があった(こと)」
みなさん、このような答えでしたよね。ここからいろいろ学びましょう。
まずは①形が変わっても、啓示があたえつづけられたこと、②そのときの教会の特質に応じて啓示の性質が異なること、③現在も続くキリスト教会では「みことばを通して(per のもう一つの意味)」刑事が与えられること、がわかります。
そして、ここからは新教会の教えになりますが、現在はここに述べられた四つの教会に続く、再臨の主による「第五の教会」の時代に入っています。マタイ福音書第24章に預言された「人の子」は「天の雲に乗ってきます」(同章第30節)。新教会の教義に深入りしませんが、ここの雲の霊的な意味は「スヴェーデンボリの神学著作」です。すなわち、「みことばの霊的な意味を明らかにすること」が「新しい時代の啓示」なのです。再臨といえば、「イエスが肉体をとられて再びこの世に現われること」と思っている人には驚きの宣言であり、受け容れがたいかもしれません。
啓示の形は時代とともに変わってきています。そして、スヴェーデンボリがこの世に生きながら霊界に入り、死後の世界の実相を明らかにし、みことばに深く隠されていた霊的な意味を主から教えられたこと、これらのことは新たな「奇跡」だと思います。(奇跡を見せられても、信じない人は信じませんが)あとは理性を用いて、ご自分で判断してください。「今は信仰の秘義に知的に入ることが許されている(quod nunc liceat intelectualiter intrare in arcana fidei)」(真のキリスト教508:3)のですから。
* * * * *
では【宿題】。出典は『天界の秘義(Arcana Caelestia)』10355:6番から。よく読んで、どのような内容か考えてみてください。 後半の sed 以下に apud illos qui が二度出てきます。「~の者のもとに」の意味であり、二種類の人間に対する revelatio を比べています。
quod hodie detur revelatio solum per Verbum, sed genuina revelatio apud illos qui in amore veri sunt propter verum, et non apud illos qui in amore veri sunt propter honores et lucra ut fines;(AC10355:6)
原典を読もう(『神のみことば』) No.8
【宿題】ちょっとだけ長い文でしたね。「知らない単語がいっぱいあるからやめた」と放り出さずに、何とならないかとしがみつくのも何かの勉強になります。何も知らないところにポンと投げ出されても、何か手がかりとなるものはないかと探すうちに、いわゆる「勘」が養われます。
私のヘブル語学習がそうでした。動詞も名詞も区別がつかず、どこからどう手をつけたらよいかわからない文章でしたが、文全体の意味は聖書の文句だったのでわかっていました。でも目の前にはへんてこな文字が並んでいるだけでした。これじゃあ暗号、未読文字の解読だな、といった気がしました。「膠着語」といって、ひとつの単語の「前・後」にくっつく前置詞や人称代名詞があります(分かち書きがされていない)。「前」もですよ! そのまま辞書を引いても出てきっこありません。ひとつにくっついた文字の羅列から前後の文字を引き剥がさなくては、辞書すら引くことができません。突然、密林に迷い込んだ気がしました。手探りで、道を求めてさ迷ったことも今では楽しい思い出です。しかも、どんな言語でもやっているうちに何とかなるもんだ、という変な自信もつきました。
このようについ前置き(雑談)が長くなるのが私の授業の特徴でした(というよりも教員時代の最後のほうは雑談を楽しみました)。閑話休題、文の区切りはコンマや接続詞が有力な手がかりとなります。
まずは接続詞「sed(しかし)」で切れますね。そこまでの文で、主語が「revelatio」動詞が「detur」とわかれば、予習としてはまあまあ。「sed」以後は長くなりますが、どこが頭でどこがしっぽか? やはり「revelatio」が主語らしい、そして動詞の「sunt」が二つあるな、とわかればこれで予習は上出来、終了です。
長くなりそうなので短い前半だけにしましょう。
副詞「hodie」:日にちの今日(きょう)の意味もありますが、ほとんどの場合、現在の時を意味する今日(こんにち)。
動詞「do」:detur をひいても出てこない「-tur」は動詞の受動態の形だからと「de-」全部をみてもそれらしい動詞が見つからない。不規則動詞とまでは言いきれない、こうした単語が初心者泣かせなんですよね。仕方なしに項目「D」を全部あたる。確かに能率悪い。でも、しぶとく、ねばり強く、何度かこんなことをしたほうが効率よく勉強するよりもよいのかもしれない。意味はいろいろあってここでは「与える」。
副詞「solum」:ただ、だけ。(英語の solo はこの語と関連あり)
これで「hodei ~ Verbum」が訳せます。訳してみてください。
「今日、啓示はただみことばによってだけ与えられる」ですね。
* * * * *
この言葉をすこし味わってみましょう。前回(No.7)と関連します。
「啓示」とは何でしょう。宗教は「啓示」を特徴とします。アメリカに行ったことのない人がアメリカをどう考えたらよいでしょうか。自分が知らないから、そんな国ないだろう、とは思いませんね。自分がアメリカに行くか、それができなければ、行って、見てきた人の話を聞くしかありません。
ここでアメリカを「霊界」に置き換えてください。霊界を見てきた人がスヴェーデンボリです。あとはその人を信用するかどうかです。
自分の頭で考えてどうなるものでもないもの、これは「啓示」によるしかありません。昔の預言者たちは啓示された。スヴェーデンボリは霊界を啓示された。そのことを信じるのが宗教です。
スヴェーデンボリ自身は、なぜ啓示を受けたのか。ここの文からは、彼自身が心を尽くして聖書を読んだことがその基盤となっているのがわかります。
では、だれでも、聖書(みことば)を読めば、何らかの啓示を受けるのか? となると、それに答えたものが後半部分になります。ほんとうの啓示(genuina revelatio)はどういった人に与えられるか?
* * * * *
では、後半 sed 以下の文を【宿題】として予習してください。ヒントとしては名詞に限れば「愛(amor)」「真理(verum)」「名誉(honor)」「利得(lucrum)」「目的(finis)」といった言葉ですね。
「老」について(桜を見て)
みなさんは、「老」というものについてどのように感じておられるのか? 老人呼ばわり、老人あつかいされて気分を悪くする人がいる。
私はずっと若い時分から「老」に悪いイメージは少しも持っていなかった。そして、日本古来にも「老」を尊ぶ風潮があった。若者は未熟とされた。わざと老け込むこともしていた。頭をそって髷を結った(月代)。これなどは老人になると頭が薄くなったり、はげたりすることの先取りであろう。老人志向である。
老成、そして家老や老中といった役職名、はたまた老酒(らおちゅう)、これらの言葉には「老」のよさが認められる。私自身「おじいちゃん」と呼ばれることはうれしいかぎりである(まだみなさん、そのように呼んでくれない。頭は白くなってきたが、まだまだ私に貫禄がないから)。
おじいちゃんの中に人間の完成品がある、とずっと思ってきた。
ここで自然界の中に、その例証に気づいた。今を盛りの桜の花、美しい。私の机の前の窓からも咲いている桜が見下ろせる。住んでいるマンションの8階から、ほんの少し離れたところに「東大和南公園」がある。そこの公園に桜があり、特に二本の大木はみごとである。
大木とは老木である。「桜は老木に限る」
なぜかといえば、幹などぼろぼろではあっても、枝が太くてゴツゴツしており、その曲がり方が独特の味わいを見せる。若木もなるほど花を咲かせる。しかし、長い風雪を耐えて、毎年花を咲かせる老木の味わいはない。どこの桜であっても鑑賞に堪えるのは老木である。ここに老成というものの典型を見出した。
できれば、私も桜の老木のような風格を持ちたい。
原典を読もう(『神のみことば』) No.9
【宿題】後半は次の文でした。
sed genuina revelatio apud illos qui in amore veri sunt propter verum, et non apud illos qui in amore veri sunt propter honores et lucra ut fines;
「真理」を「愛」する者と「名誉」や「利得」を「目的」とする者が対比されているな、と気づけばそれで予習はO.K.
ではまだ学んでいない単語
形容詞「genuinus」:本物の、正しい。英語 genuine の語源。revelatio が女性名詞(-tio の形は女性)なのでgenuina は女性・主格。
前置詞「apud」:対格支配、~に、~のもとに、~の場合、といった意味。
指示詞「illi」:それ、あれ。illos は複数・対格。
関係代名詞「qui」。ここでは「illi (それ)」とは「qui 以下である」と説明に用いている。そこで「apud illos qui ~」で「~の者のもとに」という意味になる。
名詞「verum」:真理。なぜ、この名詞を取り上げたか。veri はその属格であり、「属格」について話題としたいから。よろしかったら、このサイトにあるドール著『スヴェーデンボリのラテン語』第2章を見てください。そこの「属格の一般的用法」の部分。「目的格属格」の例として amor veri が取り上げられている(ここでは in があるので amore と属格なっています)。属格だからといって「真理の愛」では、なんのことかよくわからない。「真理への愛」であり、内容的には真理が愛の目的であって「真理を愛する」ことを意味する。in amore veri で「真理への愛の中に」。
前置詞「propter」:対格支配、~のために、~のゆえに。
「ut」:いろいろな意味を持つ、副詞であり、接続詞でもある。ここでは「として」であろう。
では、訳せますね。訳してみてください。(この文の後半部分は滑らかな日本語にするのに苦労します)
「しかし、本物の啓示は、真理ゆえに、真理への愛の中にいる者に〔与えられ〕、目的として名誉や利得ゆえに、真理への愛の中にいる者に〔与えられ〕ない」(これは私流の直訳です)
このように訳した人はいるでしょうか? ちょっと日本語ではありませんよね。でも原文に忠実に訳すとこんな風になってしまいます。(最初の 動詞「detur」(が省略されているとみて)これを補って訳した)
意を汲んで、「真理への中にいる者に」を「真理を愛する者に」とすれば、滑らかな日本語でしょう。
では全文を通して、意訳して、もう一度訳してみてください。
quod hodie detur revelatio solum per Verbum, sed genuina revelatio apud illos qui in amore veri sunt propter verum, et non apud illos qui in amore veri sunt propter honores et lucra ut fines;(AC10355:6)
「今日では、啓示はみことばを通してのみ〔与えられるが〕、しかしほんとうの啓示は、真理を真理ゆえに愛する者に与えられ、名誉や利得を目的として、〔それゆえ〕真理を愛する者には与えられない」(秘義10355:6)
訳としてはこんなところでしょうね。ここの教えは私にとって痛切である。
私は何のために真理を愛するのか? このままでは私にほんとうの啓示はいつまでも与えられないだろう。名誉心が消えないからだ。も少し述べよう。今、「レキシコン」の翻訳をしている。需要などほとんど見込めない。時間ばかりかかり、一銭にもならないことに懸命だ。だから貧乏街道一直線(昔から、「辞書作り」した人はたいてい貧乏、私もその仲間入り?)。
それで、「利得」は目的にしていない。それでも「すごいね」「よくやったね」と誉められたい。「ここまで、こんな仕事をするのか」と認められたい。誉められて気を悪くする人はいない。前にも述べたが私は「その道の権威」になりたい。でも、この名誉欲が今やっていることの「原動力」でもある。純粋でありたいが、常に「欲」がついてくる。これが人間なんですね。
* * * * *
では宿題。ヒントを語っておきます。死んだ文字でも読むとき生かされます。何にしたがって(secundum)生かされるのでしょうか?
quod Verbum Domini sit littera mortua, sed quod in legente vivificetur a Domino secundum cujusvis facultatem; et quod vivum fiat secundum ejus charitatis vitam et innocentiae statum,(AC1776)